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1巻 様々なる意匠(20〜28歳)

・断片十二
「魂で書くなんと言う金ピカの言葉は、中学生に呉れてやる」と芥川氏が言った。確かにもっともな事に相違ない。だが、これが、文学青年に対する皮肉なら、氏も、薬が利き過ぎたのに苦笑しているだろう。何故なら、書こうにも魂の持ち合わせがなく、金ピカの技巧で、テカテカ手際よく磨きたてて得意になっている連中がウヨウヨしているではないか。
・性格の奇蹟
電車に乗って前に腰掛けた人間達の顔を見渡してみたまえ。如何に壮大なる愚劣を発見する事か。兵隊も紳士も番頭も、神様から戴いた顔をどうしようもなく肩の上で動かしている光景は、如何にすばらしく無惨な事か。
・測船T
懐疑派とは器用に、感受性のカタログを作れる男だ。それだけだ。
・測船U
何故君は口から出ようとする溜息をじっとこらえてみないのか? 君の愛と情熱との不足が探求の誠実を奪うのだ。もし君が君が前にした天才の情熱の百分の一でも所有していたなら、君は彼の魂の理論を了解するのである。何故って君の前にある作品を創ったものは鬼でもなければ魔でもないからである。この時君に溜息する暇があるだろうか?
・様々なる意匠
すぐれた芸術は、常に或る人の眸が心を貫くが如き現実性を持っているものだ。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧に過ぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教える事は出来る。しかし、座った人間を立たせる事は出来ない。人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。
・志賀直哉
今日、神経の多岐多彩のプログラムを所有する作家は夥しい。だが神経の鋭敏な作家は寥々たるものである。恐らく我々の神経組織を破壊するものは不健康な生理ではなく過剰なる観念である。大脳の膨張は小脳の場所を侵害したのだ。つまり我々の神経は古代人の生理的鋭敏から観念的複雑に移動したのである。
・ナンセンス文学
人を笑う人は得意であろうが、笑われた人は惨めだ。笑わそうと思って笑わした時には得意だろうが、笑わそうと思わないで笑わした時には惨めだ。笑いの裡には常に防衛と不安とがある。微笑は何んの武器をももっていない。微笑する人には、何んの不安もない。そこではただ生命の花が開くだけだ。子供は大人より笑う事が拙劣で、微笑する事が上手である。子供が美しい所以である。そして又すべての人間の美しさは子供の微笑に胚胎している。
・新興芸術派運動
無益なものに背をむけるという事は無益なものから害を蒙らない為に生物学的に最も賢明な方法だ。
・アシルと亀の子W
人は言葉を与えられて以来、できるだけこれを利用した、電車を利用するように。電車を利用する人達に心配な事は、電車がうまく走ってくれるか、くれないかという事だが、そういう不安を己の言葉の表現能力の不足に帰してみた処で始まらぬ。考えると語るとは飽くまで同一事実だからである。人間精神は言葉によってのみ壮大に発展出来るのだが、この事実は精神が永遠に言葉の桎梏の下にあることも語るものだ。
・アシルと亀の子X
およそ作品というものの唯一の興味はその出来栄えにある。世の中を眺めて遥かに愉快で有益な事象が無限にある時、世人はヘッポコ小説を読む寛度を持たぬ。


2巻 ランボオ詩集(28歳)

・文学と風潮
およそ今日の文学程、熱烈に適確を求めて、適確を失っている文学はない。健康を求めて頽廃を得、明朗を求めて感傷に堕している。私は、あらゆる新興の文学作品に、この頽廃的影を読む。翩々たる享楽文学には勿論の事、堂々と見える相当暴露の作品でも、その蹌踉とした、徒に扇情的な諧調は決して作者の健康な心を語ってはいない。こういう問題を、ただ表現技巧の巧拙に帰するのは、作家の遁辞に過ぎぬ。作家にとって技巧とは心である。例えば、一流頽廃詩人の作品から、作者の毅然とした健康な心を感得出来ないものに、文学を語る資格はありはせぬ。
・新しい文学と新しい文壇
文学の大衆化という事も、新しい文学の運動といえば言われましょうが、私は、沢山売れる本は読みません。沢山売れる本を決して軽蔑しているわけではないのでして、私は本は勉強以外には読まぬ覚悟をしているだけです。遊びたい時には外の事をして遊びます。およそ、本を読むなどというとぼけた、愚劣な遊びは御免なのであります。
・近頃感想
嘘をつくからいけないのだ。己れを語ろうとしないからいけないのだ。借りもので喋っているから種切れになるのである。身についた言葉だけ喋っていれば、喋る事がなくなるなんて馬鹿々々しい目には決して会わぬ。借りもので喋るとは言葉への冒涜である。
・感想
人を誉めても、くさしてもあと口はよくないものである。批評は己れを語るものだ、創作だ、などと言ってみるが、所詮得心のいくものじゃない。あと口をよくしようなどと思わぬ、今によくなるだろうとも思わぬ。人の事をとやかく言う事がそもそもつまらん事なのだ。
どうなる事やら。


3巻 おふえりや遺文(29歳)

・マルクスの悟達
天才というものも、この世に生まれている限り、凡人と同じ構造の頭脳を持つ外はなく、この自然の恩恵により凡人は天才の口真似が造作なく出来る、つけ上がった挙句天才なんぞいないなどという寝言を言う。馬鹿を見るのは天才で、天才は寛大だから腹を立てないのではない、奇体な真理を探り当てるのは愚かであり、真理とはもともと凡人に造作なく口真似が出来る態のものしかない、という事を悟る事が天才なる所以であるからこそ、虫をこらえているのである。
・文芸時評
感傷というものは感情の豊富を言うのではなく感情の衰弱をいうのである。感情の豊富は野性的であって感傷的ではない。感情が生理的に弱る事を人は見逃さないが、感情の固定化によって衰弱する事はしばしば見逃す。心が傷つくという事はなかなか大した事であって、傷付き易い心を最後まで失わぬ人は決してざらにいるものではない。ほんと言えば作家としてほんものであるか、いかものであるかという事は、こういう心の一種の誠実のみにかかるといっても過言ではないと私は思う。大概の心は傷付くまでにふて腐れちまうか、泣き出すかどちらかである。
・批評家失格U
先日銭湯に行った時の話である。
私は、爺さんのうしろからすぐついて中にはいった。客は一人もいなかった。番台にも人がいなかった。爺さんは五銭玉を番台の上に置いた。私はならべて十銭玉を置き、爺さんの五銭玉をひろって袂に入れたとたん、爺さんの顔をまじまじとながめながら、
「や、失礼しました。流しをお取んなさるんですか」と言った。爺さんは驚いたような顔をしたが、
「いえ、よろしいんです」と答えた。
私は帯を解きながら、とんでもないことになっちまったと思った。もっとも、私は考えごとをしてる時には、しょっちゅうとんちんかんなことはしでかしているのだが。
二人は湯槽につかった。爺さんも、裸体になって湯槽につかる間に、じつに奇妙なことを聞かれたと思ったが、何ゆえに奇妙なんだかたどれないらしい。たとえたどれたにしても、あんなまちがいをする男は気が確かだとはどうしても思えないらしい。そんな顔をしている。私が話しかけようとすると気味悪そうに、横を向く。私が前を向くと気味悪そうに、ちろちろ私を盗み見る。私はしかたがないからニヤニヤした。爺さんは、いよいよこいつほんものだという顔をした。
思い出すとなんとなく恐縮な気がする、爺さんに何も恐縮なんぞする気はないが、だれかしらんに恐縮しているような気がして、どうも情けないような気持ちになる。
・谷川徹三「生活・哲学・芸術」
誰でもまあそうかも知れないが、私が高等学校にいた時分は、本を読むのに大抵五冊か六冊位は同時にスタートを切って読んでたものだ。それで、どれもお互に邪魔にはならず、きれいに解った気でいたから大した心掛けである。作者の持つ気質だとか、人間的真実だとかいうものがまるで気に掛からなかったのだからきれいに解った筈である。
近頃は、どんな論理的表現にでも、こいつが気に掛かるんで、きれいに解ったためしがない。その代わり、まことに身勝手な話だが、どんなに精密に書かれた書物でも、陰で作者の気質が光って居るのが覗けないものは平気で愚書だと断ずる覚悟が出来た。
・正岡子規
私には、自信をもって言う事は出来ぬのですが、日本の歌人、俳人で子規の様に、強靭な、飽くまでも実証的な精神を持った人はあまりあるまいと存じます。その歌論などをみても、不自然、装飾、特に曖昧というものを極端に嫌っている事が解ります。又、これを論難する方法も頑固執拗に理づめです。ある処では笑止と思われる程理づめです。だが、決して理論家という感じを与えられません。リアリストだからこそこんな頑固な理屈を強く言いきれるのだという風に私は感じます。理論家なら、もっと巧な理屈をいうだろう、感傷家ならもっと弱々しい理屈になるだろう、という風に感じます。私は、うまく説明する事が出来ないのです。
・批評に就いて
文学ぐらい、その狂気や絶望や陶酔を人々にわかつ事をおしむ遊戯はない。文学というものは人々に何ら実質ある感動を与えず、しかも人々を酔わせることが出来る。偏に文字という漠然たる記号のしわざである。当人一っぱし文学に凝ったつもりでいて、何んの生ま生ましい糧もみつけることが出来ず、しかも空腹を感じない。いっそ悲惨というべきではないか。


4巻 Xへの手紙(30〜31歳)

・現代文学の不安
私たちは古人の夢を笑うが、誰もそんな権利はない。夢みるような余裕などないというが、誰も目を覚ましてはいない。人間が今日ほど悪夢に悩まされている時代はかつてなかっただろう。と言えば悪夢とはこれまた古風な比喩であると嘲笑うほど私達の悪夢は深い。たとえば一番簡明な例をとってみたまえ。私たちが無感覚になっている事実がどれほど深刻であるかがわかるだろう。
・小説の問題T
映画を見に出かける人々には、酒場や踊場に行く人々と全く同じ基本的な念願がある。自分では織れなくなった夢を織って貰いに行くのだ。この念願を土台石としている映画というものを、私はあんまり信用する気にはなれない。好きで見に行くんだから、何も信用不信用の話ではない様なものの、あんまり映画芸術がどうのこうの喚かれると、つい大概にしやがれと言いたくなる。
・小説の問題U
現実の苦がい経験を嘗めた人に、小説が軽薄に見えても仕方がない。ただ問題は次の一事だ。生ま生しい経験を、生ま生しいままに貯えるには一種の術が要る、というよりも一種の稀有の資質が要る。
重ねてきた実際経験を頼みに若い者を虐待する。その実、経験などはとうの昔に忘れているのだ。虎の子にしているものが、経験から創り出した、従って経験とは似ても似つかぬ哲学乃至は処世法に過ぎぬとは気がつかない。少なくとも気がつきたくない。
「世の中は小説の様には参りません」などと言っているうちに、息子が成長して同人雑誌なんかを始めている。
・逆説というものについて
意地悪くものを見て意地悪く表現するより、率直にものを見て率直に表現する方が遥かに難しいが、率直にものを見て必然的にその表現が逆説的になるという事には、もっと大きな困難がある。例えば「心の貧しき者は幸なり」というキリストの言葉は、驚くべき率直が、極端な逆説となって現れた典型であり、また真の逆説の困難を語るお手本みたいなものだ。
真の逆説の源には、つねに烈しい率直な観察がなければならぬ。割り切れない現実を直覚する鋭敏な知性がなければならぬ。逆説とは弄するものではない、生まれるものだ。動いている現実を動いているがままに誠実に辿る分析家の率直な表現である。
・同人雑誌小感
文字は人間の顔の様なものである。眼の動き一つで顔は晴れたり曇ったりする様に、テニヲハ一つで文章は死んだり生きたりするものだ。ほんの僅かの歪みで見事な言葉が虚言に聞えたり、ほんのささやかな影で真面目な顔が仮面に見えたりする、そういう感受性の精妙な作用は、多かれ少かれ誰でも身につけている。この作用を馳駆して拾い読みする事は、ある人々にとっては容易であるばかりでなく又極めて自然だ、という意味は、大変な傑作は格別、およその作品は、これを精読しようが拾い読みしようが、理解する所に大差はないという意味である。
・Xへの手紙
俺は自分の感受性の独特な動きだけに誠実でありさえすればと希っていた。希っていたというより寧ろそう強いられていたのだ。文字通り強いられていたのだ。強いられているだけで俺には充分だった。誠実という言葉にそれ以上の意味をなすりつける事は思いもよらなかった。誠実という言葉だけではない、愛とか、正義だとか、およそ発音する度に奇態な音をたてたがる種類の言葉を、なんの羞恥もなく使う人々を、俺は今もなお理解しない。
・手帖T
読んでいてまるで詩の様だと私は思った。感傷的だと思ったのではない。こういう文章を感傷的だと思う心は、感傷的な心だと私は考える。
他の学生たちの手紙もみんなそれぞれ美しかった。美しいと形容しては少々のん気過ぎるが、張り切った感情の流れに乗って、活き活きと考え活き活きと感じている。常日頃は碌な手紙一つ書けなかった連中だったのではあるまいかと思えば、一つの大きな事件がどの位人間の頭を掻き廻してくれるものかと今更の様に考えられて来る。
・年末感想
「人間が理想を掴むのじゃない。理想が人間を掴むのだ」とシラアがいったそうだ。この逆説は正しいのである。全く同じ事をドストエフスキイがいっている。「確かに理想を捕えるのは人間だが、理想は常に人間よりも現実的だ」と。
この理想という言葉に指導原理という言葉を置き代えてみると良い。同じ事だ。
何故に人間の捕えた理想は空しいのか。それは単なる人間精神上の戯れだからだ。何故に人間を捕えた理想は現実的なのか。自然の理法は常に人間精神より沈著だからだ。
だが、誰が知ろう、お前の理想は捕えた理想か、捕えられた理想か。
・作家志願者への助言
考えてみれば、ちっとも不思議なことはない。ある助言が見事か詰らぬかは、ひとえにその実践的意義にかかっている。極言すれば助言を実行した上でなければ、助言の真価はわからぬ。この逆説的性格はあらゆる名助言に共通した性格である。実行をはなれて助言はない。そこで実行となれば、人間にとって元来洒落た実行もひねくれた実行もない、ことごとく実行とは平凡なものだ。平凡こそ実行の持つ最大の性格なのだ。だからこそ名助言はすべて平凡に見えるのだ。
・文芸批評について
人はしばしば、彼(サント・ブウヴ)のディレッタンティスムを非難するが、私は間違っていると思う。恐らくそれは彼の豊富過ぎた才能の、豊富過ぎた理解の演じた悲劇に過ぎぬ。
他人を理解するとは、他人の身になってみる事だ。彼はあらゆる他人の身になってみた、そして自分を見失った。彼には自分というものが理解出来なくなる程、他人が、種々様々な他人の身の上がよく解ったのだ。凡庸批評家の想いも及ばない境地である。
・故郷を失った文学
故郷のない精神というものものに気がつき出すと、事ごとにその現れが見つかる。極端な場合を考えると特に妙である。歩くのが好きだからよく山へ行く。深い処へ危険な処へと行きたがる。これなんかずい分おかしい、とこの頃合点しはじめた。自然の美しさに感動しに行くのは健全なことだと当人考えているが、実はそれは日常観念的な焦燥の一種の現れに過ぎないのではないかと思えばまさにそう思われて来る。どうも自然を愛するなどという現実的なおだやかな筋合いのものではないらしい。自然美に対する私の感動に、一体どんな確たる現実的な根拠があるか、いよいよ疑わしい。注意してみると山の美しさに酔う事と抽象的な観念の美に酔う事と実によく似ている。故郷を失った精神の両面を眺めるような想いである。そう思うと近頃の登山の流行などには容易に信用が置けない。年々病人の数が増える、そんな気がする。
・批評について
人間の生活を一番よく知っている人が一番立派な文学作家なのだ。私はもう、それを信じて疑わない。他はみんな附けたりだ。それでなくて何が文学というものが面白かろう。文学だと思って読まなければ面白くないような文学は私はもういらない。文学の害毒を知りぬいた上書かれたものでなくては信用する気にはなれない。
・「ハムレット」に就いて
シェクスピアが描き出しているハムレットは厭世家でもあるし、また同時に楽天家でもある。懐疑派でもあるが、また正義を確信する一本気な男でもある。知的な臆病者でもあるし、復讐の念に燃える剛毅果断な勇者でもある。要するに形容に苦しむ豊富複雑な人間の姿があるだけで、私は今更のように驚くのである。
天才の創る処万事かくの如し。
・手帖W
孔子の言葉は、あの当時は充分に鋭敏な批評であり、弟子達にとっては、彼の言葉そのものの持つ意味、ただ観念上の意味すら理解し難かったに相違ない。だが私達にとっては、彼の言葉は大へんやさしく映る。批評というよりも寧ろ事実のありのままを語った言葉にみえる、逆説はあっても単純な逆説に過ぎぬ、しかも依然として何故難解なのだろうか。顔淵が孔子を評して、之を鑽ればいよいよ堅し、と言っているが、彼の言葉には何故そういう風格があるのだろうか。
おもうに彼の言葉の真義は実行の世界に没しているがためである。彼の言葉の意味する最も難解な部分は、彼が実行によって、実行によってのみ解決したそういう言葉だからだ。そういう言葉を聞く機会も、そういう言葉を吐く人も稀れである。私達は自ら省みて、どれほど実行から遊離した言葉の世界に溺れているかを知って不安となり、理論と実践との、あるいは存在と価値との弁証法的統一などという最後の空論をあみ出しているではないか。
・文芸批評と作品
大ざっぱないい方ではあるが、若い作家もうまく書く人があり過ぎるのではないかと思う。もっともうまいという言葉は奥行のしれない言葉だが。しかしこうはいえる、うまく書けるがいいたいことが溢れては来ない人はもうあり過ぎる、と。


5巻 「罪と罰」について(32歳)

・新年号創作読後感
林房雄は自信家で、きつい事を言うが、根は実に素直だ。もっとも浅い交際だから深い事は勿論わからぬのだけど。林の人物は実に魅力に富んでいて、僕は彼の作品なぞ読むのがつまらない。いかん、いかん、読め、読めと言われるといよいよ読みたくなくなる。いつか「青い花束」という長編を貸してくれたが、三十頁でよした。あんな恋愛みたいな恋愛は読めぬ、と言うと、彼は、どこまで読んだ、何、三十頁、いかん、いかん、あとがいいんじゃ、と言った。
・文芸時評
今日の新作家で、青春というものを大切にして、充分にその秘密を生きて、はっきりとした里程標を建てて置こうと努力している作家が少いのは厭な傾向だ。梶井基次郎などは正直に腹一杯に青春を食べた。「檸檬」は、その陰鬱、孱弱(せんじゃく)な外貌にかかわらず、遅疑のない張りつめた青春の歌だ。その他の新人で、ほんとうに青春の書を持っているのは堀辰雄ぐらいのものではないかしらん。しかし彼には梶井氏の様な野生が欠けていて、青春は労われて、愛玩され、楽しまれている。よくも飽きずにやっていると思うくらいだ。
・レオ・シェストフの「悲劇の哲学」
イヴァン・カラマゾフが弟に聞く。「さあお前を名ざして訊くから、率直に返事してくれ――いいかい。かりにだね、お前が最後において人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとして、このためにはただ一つちっぽけな生物――例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った女の子でもいい――是が非でも苦しめなければならない、この子どもの償わざれざる涙の上でなければ、その塔を建てることが出来ないと仮定したら、 お前は果たしてこんな条件で、その建物の技師となることを承諾するかね。さあ、偽らずに言ってみな!」(米川正夫氏訳)
「喜んで承諾する、僕は感傷はきらいだ」と人が答えるとしても、それはイヴァンが感傷家にみえる奇妙な現実家も世にはいるものだという証明にはなっても、イヴァンの言葉の答えにはならぬ。イヴァンのこの子供らしい質問の謎は深い。
・断想
よく人を騙すのが大好きな奴がある。嘘をつくのがたまらなく面白いという奴がある。普通人を騙したり、嘘をついたりするには、ある目的なり趣味なりが伴わなければならぬ筈だが、そんなものを乗り越して嘘の為の嘘をつく狂気まで進んでいる人々がある。
こういう人達は見え透いた嘘を平気で言うが、必ずしも馬鹿ではない。当人だって自分の嘘を見抜かれている事をちゃんと承知している。承知していて、平然と嘘をつく。奇妙な事だがこの種の半狂人を観察した事のある人はこの事実を知っている筈である。惟うに彼等は自分の嘘に、他人を騙して得をしようとする現実的な意味を明らかに認めていないばかりではなく、他人を騙すのがただ楽しいから嘘をつくという様な生やさしい気持ちはないのである。彼等はただ他人を騙していなければ、不安で不安でたまらぬのだ。他人を騙す事が即ち失われそうになる自己を発見する事になっているのだ。
こういう狂人を笑うのはよくない。むしろ彼等の心理構造の難解について想いを致すべきだ。そうすれば彼等とヘッポコ文士との類似に気がつくであろう。ヘッポコ文士にとって文学とは、かかる狂気を育てる具に過ぎぬ。
・文章鑑賞の精神と方法
よく同人雑誌などで若い人がやたらに他人を批評したがる様な傾向を見受けますが、ああいう事は、自分の心を貧しくする事です、批評しよう批評しようとして自分の心を頑なにしてしまうのです。一定の意見を持たずどんなものでも素直に味わおうと心掛けて、心を豊富にして行く修行は、批評なぞをする事よりも難しい事だと知らねば知らねばなりません。


6巻 私小説論(32歳〜33歳)

・文芸時評に就いて
一体作家は批評家によって生きるのか。批評家なぞは甘いものだ。ただ誉めたりけなしたりしてるだけである。恐ろしいのは世間に沢山いる書かない批評家である。楽屋話なぞしたって耳に入れてはくれない人達だ。そういう人達のそっけ無さにくらべれば、おおよその文芸批評家の如き、作家の親友みたようなものである。
・文芸月評Y
諦観は悪い事かもしれないが、諦観に生きる人々は厳存する。宿命観はいけないかも知れないが、宿命観を強いられる精神の苦痛は厳存する。恐らく「癩」や「盲目」は作者の体験を土台に書かれたものであろう。冷酷な現実の強制によって、自分の心が絶望的諦観の外観を呈するほど傷ついた事実を、率直に語った作品に反動的要素で捜索するのは、進歩的な考えにしても、相当のん気な心掛けだ。ああいう経験の死んでも忘れられないような思い出が作者の心に生きている以上(死ぬことは考えられぬ)、また作者がその思い出を自ら尊敬せざるを得ない以上、作品の傾向性に関する細かい議論は、元来消極的なものである。その消極性を自覚した上でも結構ものはいえる筈だ。
・中原中也の「山羊の歌」
これも沢山読んだわけではないから強く主張しないが、僕の眼にふれた限り、新しい詩人の書くものには歌というもの、本来の歌の面目というものが非常に薄弱になっている。歌っているのじゃない、書いているのだ。描写しているのだ。心を微妙に心理的に描写する、物を感覚的に絵画的に描写する、そういう描写が微妙になると一見歌の様に見える。また書いている当人も歌っている様な気持ちになる。そういう傾向がかなりあるのではないかと思う。そういう事ではとても堂々たる抒情を盛った短歌や俳句と戦えまい。
・再び文芸時評に就いて
無論己れの教養のほども省みず、こういう仕事に取付く事の無謀さはよく分かっているが、僕らに円熟した仕事を許す社会の条件や批評の伝統が周囲に無い事を思う時、僕は自分の成長にとって露骨に利益を齎すと信じる冒険を喜んで敢えてするのだ。駄目かも知れぬがやってみる。どんな人間を描き出すか自分にもわからないが、どんな顔をでっち上げたとしても、僕が現代人である限り、人々に理解出来ぬものが出来上る気づかいはない。それで僕には沢山だ、果して乱暴な批評家か。それとも何かもっとうまい理窟でもあるというのか。うまい理窟には飽き飽きした。僕は今はじめて批評文において、ものを創り出す喜びを感じているのである。
・文芸月評Z
作者の気に入ろうが入るまいが、ともかく出来るだけ作者の心に分け入ってこれを理解しようとする心掛けは、評家には無くてはかなわぬのだが、随分気の疲れる事で、これが一流の作家の場合だと、その作家を理解しようと努める事が実に面白くまた為になる仕事だが、凡庸作家を理解してみた処で実際何んの足しにもならない。一方他人を理解するという事は凡庸作家の場合だって、容易だとは限らない。大骨折ってある作家の下らなさの構造を理解してやる、これほど間尺に合わぬ仕事はない。
・私小説論
モオパッサンの「女の一生」を、例えば文学的教養に関しては殆どお話にならぬ僕の女房が何故夢中になって読むのか。彼等は作品の見事さ純粋さにひかれるのだ。その通俗さにひかれるのではない。批評家等が作品の人間的真実といいリアリティと呼ぶまさに同じものに彼等はやはりひかれるのである。川端康成氏が「今日の純文学の敵は通俗文学ではない、岩波文庫だ」と或る人に言ったそうだ。洒落だとしても、まず大概の知識階級文学論よりは穿っている。
・芥川賞
一般読者の鑑賞というものは何より小説が面白いか否かという区別を大切にする。小説が面白い面白くないの区別は一般に純文学者が考え勝ちの様に、そんな単純なものでも浮薄なものでもない。実生活が一番大事な社会人というものは、あの男は面白いとか、あの女はつまらんとか、あいつの生活のしぶりには魅力がるとかないとか、そういう現実に対して敏感なものとまさに同様に小説のリアリティに敏感なのだ、その敏感さが小説の面白いつまらないを決める。


7巻 作家の顔(34歳)

・作家の顔
「極度に集約された思想は詩に変ずる」と彼は言っているが、この引用句などは、たしかに詩に変じている。構造は明らかではないが、人の胸に飛び込んでくる。僕は原文を探して大きな声で読んでみる。幾度くり返しても飽きないのである。
人間とは何物でもない、作品がすべてだ。そして書簡を書けば、書簡がすべてだ。僕等は書簡中を探して、どこにも実在のフロオベル氏の姿に出会う事が出来ない。クロワッセの書斎から、ジョルジュ・サンドに手紙を書いたという事実がわかるだけである。渦巻いているものは、文学の夢だけだ。もはや、人間の手で書かれた書簡とは言い難い。何んという強靭な作家の顔か。しかも訓練によって仮構されたこの第二の自我が、鮮血淋漓たるは何故だろう。
・純粋小説について
ドストエフスキイの小説リアリズム上の革命は、ファラデイの物理学上の革命に酷似していると僕には思われるのであります。在来の小説家にとって人間は多かれ少なかれ剛体であったが、ドストエフスキイに至って人間が荷電体となった、バルザックの世界はニュウトンの世界であり、ドストエフスキイの世界はマックスエルの世界である、という比喩が許されると思うのであります。
・初舞台
久しぶりで道頓堀の臭いをかぐ。明るい灯を見ながら、あの臭いをかいでいると、いろんな思い出が湧然とわき上る。どれもこれも碌な思い出はない、喧嘩して交番に引張られた事とか、女を絞め殺したいと思った事とか、ともかく胸は一杯になるのである。滝井さんと奈良に志賀さんを訪れる。ここは何んにも変っていない、鹿も池も松の木も。バスを下りて春日様の森を横切りながら、いかにもおんなじだなあ、と滝井さんと顔を見合わせた。
・文芸月評\
僕の人間全体を批評するのは少しも構わぬ。大いにやってくれ給え。しかし「人間とは何物でもない」とか「確定的な思想は欲しくない」とかいうそのままでは意味をなさん様な言葉を、自分の文章の調子をつける為に利用するのはよくない事である。僕にも覚えがあるからそんな小細工はすぐわかる。だから君の文章は癇高いばかりで弱々しいのだ。あんな文章では人を感動させる事は出来ぬよ。「今度は、小林を見事にやっつけましたねえ、先生」なぞと取巻きに言われたって糞の足しにもならぬのである。もっと沈着になることを切望する。
・井の中の蛙
僕自身を省みてもそうだ。たとえば「N・R・F」に載っている文芸批評で感服するものには、滅多に出会いはしない。あんなのが載っているなら、俺のなんか堂々と巻頭に載って然るべきだなどと思う。ところで実際翻訳されたらどうだろう。想像するだに身の毛がよだつとは、かつてどこかに書いた事がある。僕の使用せざるを得ない、「私小説」とか「行動主義」とかその他支離滅裂なる批評的言語が、翻訳されて一体どこの国に通用するか。頭は異人に負けやしない、使用する材料がヘナチョコなんだ。
・文芸月評]
ゾラもモオパッサンも人間の醜悪さを如実に描いた。しかし読者がこれを如実だと感ずるのは実人生の醜悪さが、作者の思想により、情熱により、あるいは技巧によって再建築されているからである。歪められず飾られず純化されているからである。そういう作家は、作家のリアリズムが深ければ深いほど読者には気付かれずに行われる。裏面に働くこの作家の手に気付かずに読むからこそ、これこそ人生の姿という感を読者は抱くのだ。
・思想と実生活
実生活を離れて思想はない。しかし、実生活に犠牲を要求しないような思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲にほかならぬ。その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する。伝統という言葉が成立するのもそこである。この事情は個人の場合でも同様だ。思想は実生活の不断の犠牲によって育つのである。ただ全人類が協力して、長い年月をかけて行った、社会秩序の実現というこの着実な作業が、思想の実現という形で、個人の手によって行われる場合、それは大変困難な作業となる。真の思想家は稀れなのである。この稀れな人々に出会わない限り、思想は、実生活を分析したり規定したりする道具として、人々に勝手に使われている。つまり抽象性という思想本来の力による。
・文芸時評のヂレンマ
文芸時評に経験のある人はよく承知している事だが、沢山の雑誌を読む苦労などは、決して傍人の考えるほど大きなものではない。苦労は主観的感慨に落ち入る事なく、種々雑多の作品を一括観察し、文章らしい文章を作り上げるのが苦労なのだ。特に深刻な思想性を表現した様な作品に接する事が、近頃稀れになって来ては、作品の雑多を仕末するのに、批評家的手腕の他に小説家的手腕を要する。
・文芸月評XI
匿名批評というものは匿名だから言い易い事を書く場所ではない。匿名でも言い得る事を書く場所なのだ。独創性を示したり、細い論理を表現したりする場所ではないという理由、ただその理由からのみ匿名なのだ。そういう匿名批評の性格をいつも正しく意識して仕事をする事は、なかなか難しい。揚足なんかとってつい独創的になんぞなってしまうのである。
・現代小説の諸問題
純文学者等は、大衆小説が、人々の低級な趣味に迎合しているという点ばかり見たがるし、社会批評家は、最近の大衆文学の繁栄を、頽廃した社会人が不健康な感覚上の刺戟を求めているというところにばかり帰したがるが、最近の大衆文学と純文学との奇怪な対立は、そういう事ばかりからでは決して説明がつかない。大衆はもっと素直に動いたのだ。純文学に欠けている物語の面白さを、大衆文学に求めたに過ぎぬ。そしてそれは不健康な事でも低級な事でもない。
・文芸月評XII
ニヒルがどうのこうのと言ってる人は、不思議にみな人間が甘いのである。虚無は晴着であり会釈であると言ったあんばいで、まず信用しないほうが無事だと僕は思っている。心の底に不気味な虚無を隠しているという様な人は稀れである。
・文学者の思想と実生活
人間の抽象作業とは、読んで字の如く、自然から計量に不便なものを引去る仕事であり、高尚な仕事でも神秘的な仕事でもないが、また決して空想的な仕事でもない。抽象的という言葉はしばしば空想的という言葉と混同され易いが、抽象作業には元来空想的なものは這入り得ないので、抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然な像を得るわけなのだ。何故かというと抽象の仕事は、自然から余計なものを引去る仕事であり、自然に余計なものを附加する仕事ではないからだ。自然の骨組だけを残す仕事だからだ。
・現代の学生層
僕の接する学生諸君に、愛読書は何かと聞いて、はっきりした答えを得た事がありません。愛読書を持つという事が大変困難になって来ています。様々な傾向の本が周囲にあんまり多すぎる。愛読書を持っていて、これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならない事で、広く浅く読書して得られないものが、深く狭い読書から得られるというのが、通則なのであります。そういう得が、今の学生諸君には、容易に出来ない。僕等の学生時代にはさほど心を労せずに、そういう得が出来た。
・小説のリアリティ
僕は小説の面白さという言葉を、小説のリアリティという言葉と同じ意味に使った。リアリティなぞという有難そうな言葉を使っていると騒ぎも起こらないが、面白いという言葉を代用させると、はじめて言葉の曖昧さに気がついて騒ぎ出す。そんな事だからいつまで経っても文芸批評家というものが世間から子供扱いされるのである。
・若き文学者の教養
だから彼等は、教養の不足に苦しむというよりむしろ教養の混乱に苦しんでいる。しかも教養の混乱に苦しんでいる事が、教養の不足に容易に気を付かせないという厄介な状態に陥込んでいる。教養の混乱は当然教養に関する不信を生んでいる。元来作家というものは、伝統的教養のお陰でどれほど現実的な利益を享けているものかという事が忘れられ、教養の混乱の為に作家がどれ位あだ花を咲かせざるを得ないかが忘れられる。
・山
深田は山に行けない時は地図で間に合わせるが、ああいう芸当は出来ない。見ていると、かなり行った気持ちになれるそうだ。等高線を辿って色鉛筆でいろんな色彩を施す。そいつが溜まると、経師屋に頼んで、例えば上越国境という軸物を作らす。深田君、今日は仕事ですか、と奥さんに聞くと、朝から静かだからまた地図ですよ、と奥さんは馬鹿々々しそうに答える。やっぱり惚れ込むと見当は外れる。
・文芸月評XIII
川端氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであって、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思っている。氏は自分ではほとんど生きていない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きている。これが氏の生ま生なしい抒情の生まれるゆえんなのである。作家の虚無感というものは、ここまで来ないうちは、本物とはいえないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。
・林房雄「浪漫主義のために」
彼はロマンチストであるが、決してセンチメンタリストではない。ロマンチストとかセンチメンタリストとかいう言葉は、実に曖昧で、いろいろな意味に使われるが、僕は非常に簡単に考えている。信念のないロマンチストは皆ファンテイジストに過ぎず、信念のないリアリストは皆センチメンタリストに過ぎぬと。この単純な考え方を、どんな事実にぶつかっても信じ通していれば、実際の人間観察で誤る事はまずないのである。林がいろいろ誤解されるのも、信念のないロマンチストとリアリストがいかに多いかという証拠なのだ。
・「罪と罰」を見る
試写室を出て来た人々は語り合う。「あのポリフィイリイを演った役者は実に何んとも素晴しい、いやラスコオリニコフの方が巧い」等々。試写室などに出掛ける人々は、皆教養のある人士だと思う。それが一体何に感心しているのだろう、役者の巧さに感心している。彼等の念頭には罪もなければ罰もない。そんな陳腐な文学的観念は彼等の新式な頭が受付けない、と言えば一応もっともらしくは聞えるが、実は陳腐なのか斬新なのか考えてもみやしないのだ。いよいよ心理的に感覚的にと進んで行く彼等の頭に、人間の罪とは何か、罰とは何かと、考えあぐんだ人の思想など這入り込む余地はないのだ。「ポリフィイリイの巧さはどうだ」という言葉に、現代インテリゲンチャの心理的自慰がいやになる程露骨に顔を出している。
・文学の伝統性と近代性
僕は伝統主義者でも復古主義者でもない。何に還れ、彼に還れといわれてみたところで、僕等の還るところは現在しかないからだ。そして現在において何に還れといわれてみたところで自分自身に還る他ないからだ。こんなに簡単でしかも動かせない事実はないのである。



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