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"Flower"

3

 暗い部屋の天井はディスプレイの光が映り込んでかびの生えた空みたいに汚らしく見えた。それはきっと自己憐憫と責任転嫁と現実逃避とに首まで浸かり、ひたすら繰り言を垂れ流すだけの失格者達の念が電子の向こうから空気を伝って天井まで染み入っているからだ。
 もう死にたい生きていくのが嫌になったどうせ僕なんか生きてたって仕方ない誰も彼も嫌いだみんな死んじゃえ一緒に死にませんか。
 よくもこんな下らない書き込みを人目に晒す気になるものだ。こいつらには気概というものがないのだろうか。自分で努力することをせず、本気で誰かに助けを求めることすらしないで、ただ胎児みたいに身体を丸めて暗がりに閉じこもっているだけ。虫みたいに下らない奴ら。これじゃまるで。
 俺だ。
 大学には半年以上行っていない。バイトももちろんしていない。外に出るのはコンビニにジャンクフードを買いにいく時だけで、それだって五日に一度ぐらいのものだ。
 正真正銘、どこから見ても立派なヒキコモリである。
 だが幸い心配してくれるような友人も恋人もおらず(両親は海外在中)、そのおかげで誰にも邪魔されることなく日がな一日ネットの自殺系サイトなどを眺めながら毒を吐く。
 駄目な連中。
 駄目な自分。
 駄目な世界。
 全部、なくなってしまえばいい。
 ベッドに寝転んでとろとろとくゆらせていた直光の濁った思考が中断された。隣の部屋のドアの開け閉てされる音。
 うるさいなこんな時間にと時計を見て初めて今が昼間であることに気付く。いつの間に夜が明けたのだろう、どころではなく、もう午後も半ばを過ぎていた。そういえばひどく腹が減っていた。昨夜チョコレートバーの最後の一本をかじったきりだ。この部屋に食料はもうカップラーメンさえ残っていない。
 いいか。このまま餓死しよう。
 頭ではそう思うのだが、だがしかし空腹を押し殺せるほど直光の精神はタフにできてはいなかった。あるいは、精神に比べれば肉体はまだしも前向きにできていた、というべきかもしれない。
 転がり落ちるようにしてベッドから下りて、床の上の財布を拾い上げる。スウェットのポケットに突っ込んで玄関へ。ドアノブを掴んだ。
 チャイムの音。
 思わず身を竦ませる。
 だが今度も隣の部屋だ。やり過ごせばいい。自分が応対する必要はない。気配を殺し、気配を探る。再び扉が開け閉めされる音。直光はほっと息を吐く。これで外には誰もいなくなった。
 ドアに耳を当て、物音がないことを確かめてから、靴に足を押し込んだ。
 彼は別に犯罪を犯して隠れているわけでも借金取りに追われているわけでもない。従って誰かに顔を見られて困る理由もない。このマンションで行き会う相手は全くの赤の他人であり、無視して行き過ぎればそれで済む。もし仮に愛想良く挨拶したりすればかえって変に思われるだろう。
 それでも他の人間に会わずに済むのならその方がいい。
 温もりも触れ合いも要らない。彼が他人に望むのは、ただ放っておいてほしいということだけだ。
 どうか誰も傍に来ませんように。
 いつまでも一人でいられますように。
 直光は祈った。
 何に対して祈っているのかは、自分でもさっぱり分らなかった。


 ふう、疲れた。
 玄関口で踵の磨り減ったローファーに足を入れたまま麻巳子はため息をついた。シャワーで汗を流し、歯磨きで口の中に残る苦い味をすすいだが、身体の奥に温度を持った鉛の芯が残っているみたいにだるくて、いっそベッドに戻って寝てしまいたかった。
 今日はヒロが部屋に来た。
 ヒロは無言のままに麻巳子を抱きすくめ、ベッドに押し倒された麻巳子は、スカートをまくられ下着を下ろされ指でまさぐられた。
 乱暴なのには慣れていない。
 危なそうな人は最初から貴世がはじいてしまうし、部屋に招くにあたってはきちんと身元を確認する。ヒロの場合は写真入りの社員証だ。麻巳子もコピーを見せてもらっていた。経済や株に興味のない女子中学生でも知っているような有名企業。
 戸惑いは大きかった。
 肩書きのゆえではなく会った時の印象のゆえに。不器用でも優しくしてくれると思っていたのに。
 けれどヒロは確かに強引で性急だったが、同時に鋭敏で巧妙だった。麻巳子が苦痛を覚えた次の瞬間にはもうヒロは引いていた。ほっとして身体を緩めればすかさず奥まで入られた。
 いつしか、麻巳子は声を上げていた。
 そしてどこか頭の上の方で、そんな自分のことを物珍しげに眺めていた。
 貴世に誘われるままにこのことを始めてから、痛かったこそあれ気持ち良いと感じたことなどない。みんながなぜこんなことをしたがるのか不思議だった。
 それとも、本当に好きな人が相手ならまた違うんだろうか。
 だけどあたしはこの人のことを好きなわけじゃない。他の男の人達と同じ――お客さん。
 じゃあこの人は?お金を払ってあたしを抱くことで何を得るんだろう。
 そんなことを考えているうちに。頭の中が白くなって。
 終わっていた。
 身体はぐったりと疲れ、立ち上がる元気がなかった。いちはやく服を着たヒロは、ベッドの上の麻巳子を見下ろすと、口の中で何かを呟いてからひそやかに帰っていった。ごめん、と言っていたようにも思う。
 喉がひりひりする。喘ぎ声を通り越して、ほとんど叫び声に近かっただろう。声が掠れてしまっているかもしれない。
 「あーー……」
 ドアを開けて、麻巳子はそのまま固まった。
 隣の部屋の前、鍵を差し込んだ姿勢で、やっぱり固まっている人がいた。
 麻巳子よりは年上だろう。
 伸ばしているというより切りそこねているといった感じの頭、その前髪の下から覗く目が不安げに瞬きを繰り返している。頬がこけていていかにも不健康な印象だが、髭は綺麗に剃られていた。
 初めて会う人だ。少なくとも麻巳子の方には覚えはない。しかし、ほぼ確実に隣人だろう。
 どうしよう。「あー」なんて言いながらドアを開ける奇癖の持ち主として認知されてしまったら。
 「あ、いや、俺、そ、そんなつもりじゃなくて」
 麻巳子は驚いて彼を見た。
 「ほんと、聞くつもりとか全然なくて、でもここ壁薄いし、っていうか今もコンビニ行こうとしてただけで、ただの偶然で、その、顔が見たいとか別にそんなことは」
 彼は突然押し黙りうつむいた。額をドアにくっつけ、この世の一切を締め出そうとでもいうように固く目をつぶり、握った拳を小刻みにドアに打ち付けている。
 麻巳子は廊下に出て鍵を締めた。
 耳たぶが熱くなってくるのを意識する。
 つまりこの人には丸聞こえだったわけだ。
 さっきの声が。
 中学生女子としては、ちょっとその、体裁が悪い。
 麻巳子はそそくさと男の脇を通り抜けてエレベーターの方へ向かった。それにしても他人がエッチしてるとこを洩れ聞いたからってそんなに狼狽しなくてもいいのに。あ、ひょっとしてあれかな。何か疚しい行為にでも耽っていたとか。
 ケージが来るのを待ちながら、横目で様子を窺うと、彼は頭を抱えて廊下にへたり込んでいた。まるでこの世の終わりでも迎えたみたいな苦悩ぶりだった。
 なんていうか。
 変わってる。


 本当にそんなつもりではなかった。外に出る直前、鍵を持つのを忘れたのに気付いて引き返した。鍵を取るよりも先に視界に入ったベッドに半ば反射的に寝転んでしまい、そうするともう面倒臭くなった。
 だから決して盗み聞きをするつもりなんかじゃなかった。
 基本的に隣室に人の気配があることは少なく、たまにいる時にはたいていその後に別の誰かが来て、コトを行う。そのことには気付いてた。だがそれが?自分には関係ない。他人のすることに興味はない。自分自身のことだって、別にどうだっていいんだから。
 だが何かが彼の気を引いた。蝶の羽搏きにも満たないような、ごく微かな揺らぎ。誘われるように、直光は壁に耳を押し付けた。
 間違いない。声だ。今までにはなかったこと。
 しだいに高まりゆくその声は、甘く、激しく、切なげに、儚げに、震えるように、求めるように、そして、哀しむように――歌っていた。
 興奮とは違う。欲情でもない。ただ、自分とは異なる存在がそこにいるという実感。
 それが激しくなった時には直光も共に声を上げ、押し殺した苦鳴となった時には奥歯を噛みしめて堪えた。ひどく倒錯的な矛盾に満ちた交合。直光は顔も知らぬその相手と交わりながら、同時にその相手自身でもありながら。
 一人だった。誰も訪れることのない、誰を招くこともない、自分だけの暗い部屋の中に。湿った布団の敷かれたベッドの上に茫然と、壁に身を張りつけて。
 最悪の気分で逃げるように部屋を出た。
 そして。
 外廊下の壁に手を付きながら、直光はよろよろと立ち上がった。足元が水泥になってしまったみたいに頼りなかった。ともすればずぶずぶと沈んでいきそうだ。いっそ、そうなってほしかった。
 少女の姿は既に廊下から消えていたが、ドアを開けて現れた時の驚いたような表情が、直光の頭の中ではいつまでも繰り返し再生され続けていた。
 もう逃れることはできないのだ。忘れることもできない。何をしていても、何をしていなくても、あの少女は彼の存在を脅かし続けるだろう。あたかも死そのものであるかのごとく。
 ああ、そうか。と直光は思った。つまりあれは死神なんだ。生きる価値もない人生にだらだらとしがみつく俺を終わらせるために現れたんだ。ならば俺はその運命に従おう。死を、この手に掴み取ろう。
 宗教的な啓示にも等しい絶対的な確信だった。
 だが直光は気付かなかった。
 初めて会った相手のことが頭から離れない。
 それは、世間の常識では一目惚れと呼ばれるのだということに。
(続く)
2005/11/12
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