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"Flower"

5

 偶然と必然との間の距離はきっと意外と近い。偶然だと思えることにもそこに至るまでの道筋は確固として存在しているし、必然だと思えることだって本当は幾つか起こり得たうちの一つがたまたま現れただけだ。
 直光の前を夏服のセーラー服を着た少女が歩く。右手には重そうな紺色の鞄、左手にはコンビニのビニール袋を下げていた。
 昨日出会った少女をコンビニで見かける。
 これは一つの偶然。
 昨日出会った少女の後を付ける。
 これは一つの必然。
 緩い坂道が始まる手前で少女が足を止めた。腕が疲れたのか、鞄を下に置いてぷらぷらと手首を揺する。直光も足を止めて少女の後ろ姿を見つめる。打ち捨てられたマネキンのような顔で。
 もしも今少女が振り向いたら自分はどうするだろう。どうすれば、いいのだろう。
 だが少女は振り向かなかった。直光の存在に気付いた様子もなく歩き出す。彼らの部屋のあるマンションが近付く。直光は足を速めた。
 少女がオートロックのガラス扉を通り過ぎたすぐ後に、閉まったばかりの扉の脇のパネルで六桁の暗証番号を押した。モーターの駆動音がして扉が横にスライドする。入ってすぐ左手にあるエレベーター、待ち人は一人だけ。
 「あ……」
 隣に立った直光に、少女が小さく驚きの声を上げた。
 ケージの到着を知らせるチャイムが鳴って、四角く切り取られた空間がぽっかりと口を開ける。直光が先に乗り込み、鈍い足取りで少女が後に続く。直光がいる位置とは対角線上の奥に、磁石の同極みたいに離れて立った。
 エレベーターが上昇を始める。
 沈黙が二人を包み込む。
 だがそれもつかのまのこと。
 箱の中、地上から引き上げられた彼らは宙空に停止した。
 扉が開く。直光はボタンを押さえて待つが、少女は隅から動かない。前へと伸びる廊下の床に窓から差し込む西日が四角い影を作っている。明るい領域と暗い領域。自分にふさわしいのはどっちだろう。
 考えるまでもないことだった。

 麻巳子は思い切って足を踏み出した。なんとなく気まずい感じがして、先に降りてくれるのを待っていたのだが。
 この人は何か特殊な信念でも持っているのだろうか。絶対に女の子を優先しなくちゃいけないとか。
 早足で部屋の前までたどり着き、鞄から鍵を取り出した。たまにしか使わないのに、金属の光沢が薄れて曇ってしまっている。自分のだけがそうなのだろうか。それとも、他の人のものも。
 ドアを開けながら何気なく隣を見やり。
 ぎょっとした。
 「やだっ、ちょっと離して……」
 腕を掴まれ、反対の手で抗ったが男は強引に抱きすくめ、というより麻巳子の身体にしがみつくようにして、共に部屋へとなだれ込んだ。ベッドはほんのすぐそこだ。押し倒され、男の体重を丸ごと受ける破目になって麻巳子は息が詰まる。まるで昨日の再現だ。だけど違う。
 ヒロは、客だ。きちんとお金を払ってくれた。この人はそうじゃない。それにもう少ししたら本物のお客さんが来る。韮崎さん、いやな人。ううん、そんなこと言ったら駄目だ。お金を払ってくれたんだから。五万円。あたしのお尻におちんちんを入れるために。これって安いのかな。高いのかな。どっちでもいいか。どうせ受け取るのは貴世ちゃんだ。あたしが貰えるのはそのうちの一割だけ。それがあたしの価値。貴世ちゃんの十分の一。とても笑える。
 「ぐがっ」
 麻巳子の身体の上で、男は踏み潰された蛙みたいな声を上げた。一回大きく痙攣して、それからぐったりと力を失う。……重い。
 麻巳子は蹴飛ばすようにして男をどけた。ベッドから床に落ちてごちんと痛そうな音を立てる。
 ――おしっこくさい。見ると、男のズボンの股が黒く湿っていた。
 麻巳子は手にしたスタンガンを枕の下に戻した。万が一の時のためにと、貴世から渡されているものだ。使ったのは初めて。
 役には立ったが、使った後のことまで貴世は教えてくれていない。多分、考えてもいないだろう。自分でも実際に使う破目になるとは思わなかった。そのつもりもなかったし。
 「どうしよう、これ」
 肩の辺りを、つま先でつついてみる。生きているのは間違いない。はっきりと胸が上下している。
 気が付くまで待って、帰ってもらう?素直に帰ってくれればいい。だけど自分に電撃をくらわした相手のいうことを、素直に聞いてくれるだろうか。しかも、直前までレイプしようとしていたのに。
 身動きできないように縛り付けておく。警察を呼ぶ。どっちも論外だ。後が大変過ぎる。
 いっか。どうでも。
 麻巳子は男をまたぐようにして床に下り立った。
 放っておく。このまま帰る。韮崎氏はさぞ驚くだろう。チャイムを押しても応答がなく、ノブを回せば鍵は開いていて、入ると部屋には見知らぬ男が倒れている。きっと、いや確実に、その場で回れ右して帰るだろう。介抱しようとか、救急車を呼ぼうとかなんて、頭に浮かびもしないに違いない。
 この人は?たぶん平気。少ししたら目を覚まして、自分の足で隣の部屋に帰る。
 だけど。
 そう、凄い音がした。ごつんって。頭を打って。
 もし、まずいことになっていたとしたら。このまま死んでしまったら。顔が真っ青になって、呼吸が浅く切れ切れになって。容態が急変した時にすぐにお医者さんにみせていれば、助かったかもしれないのに。

 ――関係ないよ。そんなの。

        #

 額にひやりとした感触があり、手を伸ばすと濡らしたハンカチだった。赤と茶色のチェック柄。女の子が持っていそうな可愛げなデザイン。
 記憶はしっかりと揃っていた。どうして自分の部屋とよく似た、だけど別の部屋で寝かされているのかも理解できた。
 分らないのは、理由だ。
 椅子に掛け、机に向かって丸くなった背中。それだけを取り出せば何の変哲もない光景。制服を着た中学生の女の子が勉強している。
 直光はわざと音を立てるようにして身を起こした。
 少女の様子に変化はない。
 今度はそっとベッドから下りた。少女の傍へ。
 眠っていた。
 左手で頬杖をつき、規則正しい寝息を立てていた。その無防備さに直光の鼓動は速くなる。
 このまま襲ってしまえば。しかしそんなことを考えたわけではなかった。
 この子は許してくれた。警察に連れていかれることもなく、少女の仲間に袋叩きにされることもなく、部屋に置いて、ベッドまで使わせてくれていた。許された。その事実が一層胸を締め付ける。
 いや、本当はそんなことはないのだろう。彼は許されてなどいない。そんなことがあるわけもない。これは条件反射のようなものなのだ。テーブルの上から落ちた林檎を拾って戻すのと同じ。直光をではなく、具合の悪くなった人間を介抱しただけのこと。
 だからせめて。
 直光はこのまま消えるべきだった。少女に二度と不快な記憶を呼び覚まさないように。
 「……すいませんでした」
 呟くように囁く。
 謝罪ではなく、自分の後ろ暗さを薄めるための安い言葉。許されなくていい。ただ忘れてほしい。自分の存在を少女の世界から消去してほしかった。最初からいなかったみたいに。彼の罪を殺すことのできる唯一のやり方。
 「帰るんですか」
 振り返ると、少女が顔を上げて直光のことを見つめていた。
 「気分とか悪くないですか。頭打ったみたいだから」
 目元をこすりながら、他人事のような棒読みっぽい口調で少女は言った。その淡白さが寝起きのはっきりしない意識のせいなのか、それとも自分を抑えているためなのかは直光には判断がつかなかった。
 「気分は悪いかな。最悪だ」
 彼は苦く笑った。
 「自分がやったこと考えると。死にたくなる」
 「…………」
 「実際、俺なんかは早く死んだ方がいいんだよね。生きてても誰にも何の役にも立たないし。むしろ有害なだけなんだから」
 「そうかもしれないですね」
 少女は頷いた。
 「あたしもそう思います。あなたみたいな人は死んだ方がいいと思います。っていうか……死ね。バカ」
(続く)
2005/11/16
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