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"Flower"

6

 標高はほんの百メートルほど、登山道(というより散策路)も整備され、土日ともなれば手軽なハイキングを楽しもうという人でそれなりに賑わう柿ノ木山自然公園だが、平日である今は、だいぶ前に老夫婦とすれ違ったきり、深山幽谷でもあるかのごとく静まり返っていた。
 湿り気を帯びた土に足を取られそうになって、慌てて丸太を渡した手すりを掴む。木のささくれが肌に痛い。
 足を止めて一息つくと、直光は額の汗を拭った。空は灰色の雲に覆われ、地面にできる影も薄かったが、九月も半ばを過ぎてなお暑さは去らず、屋内生活に適応した直光にとって、この道行はまさしく死出の旅路だった。
 そう。文字通りの意味において。
 「休みます?」
 先を歩いていた麻巳子が振り返った。直光がへばっているのを察したらしい。ジーンズにパーカという男の子っぽい格好が存外に似合っている。
 「大丈夫。歩ける」
 というその声からして既に息も絶え絶えだ。説得力皆無。
 麻巳子もうっすらと汗をかいてはいるが、比べればずっと元気そうだ。小柄で運動も得意ではないが、ひきこもり大学生よりは現役女子中学生の方が持久力に優れていた。
 「でも展望台までまだ結構ありますよ。途中で動けなくなったりとかしたらあたしではどうにもならないし。……でも、そしたらやめにすればいいのか」
 「平気だって言ってるだろう。自分の面倒ぐらい自分で見られる」
 これ以上間抜けな台詞もなかっただろう。面倒が見切れなくなったからここに来たというのに。
 麻巳子は珍しくむっとしたような表情を見せて先に行こうとしたが、またすぐに立ち止まった。前方、道が大きく右に曲がる箇所に、外側に張り出すようにして木のベンチが設えられていた。
 「じゃあ、あたしが休みたいからって理由なら?」
 「分ったよ」
 微妙に不貞腐れた口調になったが、内心ではほっとしていた。
 麻巳子は丸太で作ったベンチに腰を下ろした。木々の間からこれまで登ってきた道を見下ろすことができる。遥か遠くの世界から旅してきたような錯覚を覚える。吹き過ぎる風は湿気っていてぬるかった。麻巳子はパーカの袖を肘の辺りまで捲り上げた。
 「座らないんですか?」
 木のベンチの脇で、膝に手を付いた直光はまだ荒い息をついている。
 「……ずいぶん親切だよな。これから死のうって人間に」
 「だって、寝覚めが悪いから。せめて最後ぐらいは安らかでいてほしいじゃないですか。恨まれたりするの苦手なんです」
 「死ねって言ったのはそっちだろ」
 「死にたいって言ったのはそっちです。嫌ならやめたらいいじゃないですか。強制はしませんよ。したくてもできないけど」
 「――座る」
 「どうぞ」
 麻巳子は身体を横にずらして脇を空けた。別にそんなことをせずとも、直光が座れるぐらいのスペースはあったのだが。気持ちの問題だ。
 麻巳子がこの場所のことを教えた。
 公園の山頂付近に見晴らしの良い展望台があって、簡素な落下防止用の柵さえ乗り越えれば、あとは崖下の岩場まで遮るものはない。飛び降りれば確実に死ねるだろう、と。
 「どうして一緒に来た?俺がちゃんと死ぬかどうか見届けるためか?」
 「誰かが死ぬとこなんて別に見たくないです」
 そんなの当り前じゃないですか、と麻巳子は言った。
 「そっか。つまり信用してないわけだ。本当に自殺するわけないって、俺みたいなクズにそんな度胸あるわけないって思ってる。当然だよな。俺だって信じられない。もしこれが自分の決めたことだったんなら。でも、そうじゃない。俺が死ぬのは、俺には生きる価値がないからで、それはこの世界の決めたことなんだ。だったらそうなるしかない」
 「なんですかそれ。全然意味分んないです」
 麻巳子は立ち上がると手を頭の上で組んで伸びをした。くっと背中を反らせる。元に直ると、振り向いて直光の正面に立った。
 「三万五千円です」
 手を差し出す。
 「あたしとエッチしたいんですよね。いいですよ。でも無理矢理は駄目です。ちゃんと払ってください。口でもするし、追加料金を払えばお尻でもいいです。昨日は、結局すっぽかしちゃったけど」
 韮崎さん怒ってるかな、と直光には理解不能のことを呟くと、麻巳子は直光の前に膝を付いた。股間へ手を伸ばし、ジッパーをつまみ、引き下ろす。
 指が触れ、先端に柔らかく湿ったものを感じた。
 直光は飛び跳ねるみたいにしてベンチから立ち上がった。勢いで跳ね飛ばされた麻巳子が後ろに倒れ込み、だがその後ろにはもう平らな地面はなくて、間一髪、直光は麻巳子の手をひっ掴んだが、しかし前屈みの非常に不安定な姿勢では自分と少女との体重を支えることができなかった。
 二人は折り重なるようにして急勾配を転がり落ちていった。
 潅木に足を払われ、落ち葉に顔をはたかれ、土の匂いを嗅いだ。身を守ってくれるものではないと知りながら、それでも全てが流れ移ろっていく中で、たった一つ確かにそこにある、互いの手を握り合って。
 奈落へと落ちずに済んだのは、二人が死力を振りしぼったからでも、万に一つの奇跡が起きたからでもなく。
 もともと大した高さではなかったという、単なる物理的必然の結果だった。
 一回り下の登山道の脇の茂みに、彼らは倒れていた。身体のそこら中が痛みで悲鳴を上げていたが、どれも打ち身や擦り傷程度のもので、動かせなかったり痺れたりしているような箇所はなかった。――直光には。
 麻巳子は目を開いていた。しかし様子がおかしかった。動かない。痛がるような素振りすら見せず、直光にも何の関心も払わず、見開いた目をじっと一点に向けている。それはまるで、まるで……。
 不吉な連想を直光は頭を振って追い払った。少女が生きているのは確かなのだ。呼吸もはっきりとして穏やかで、肉体的異常を示す兆候は何もない。
 「おい、平気か」
 そっと肩を揺する。麻巳子は反応せず、瞬きをすら忘れたようだ。心配になった直光が再び声をかけようとした時。
 「……星が」
 ぽつりと、呟いた。
 「星?」
 直光は上向いたが白昼の曇り空に星など見えるわけもなく。うそ寒さすら覚えて、掌に滲んだ汗を拭おうとしたが、その片手はまだ少女の手の中にあった。
 刹那、その手が強く握られる。
 「ね、見て」
 「あ……」
 直光も気付いた。彼らが落ちてきた上の道の陰となっている場所に、薄紫色の花が咲いていた。下向きに開いた五ひらの花弁が、暗がりの中でまるで星のように。
 「きれいだね」
 麻巳子は言った。
 「……ああ」
 直光は頷いた。
(続く)
2005/11/19
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