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"光明"
鍵は掛かっていなかった。所々に錆が浮き、ペンキの剥げた扉とは対照的に、滑らかに光るノブは何の抵抗もなく開いた。
曇天。雨が近いと感じさせるほどに重くはなく、といってレースのように軽いわけでもない、半端な厚さの雲が空を覆っている。風は微温く、昨日までの、空気が刺さるような寒さが、別世界の出来事のように遠い。
貴史はゆったりと息を吸うと、息を止め、屋上へと踏み出してから、また息を吐いた。
自分がこれからしようとしていることは正しいのだろうか?
自問する。
下らない。
行為は行為だ。
ただ為すべきことを為す。それだけのこと。
黒ずんだコンクリートの床面に、縦横に走る継ぎ目だけが、死んだ魚の腹のように奇妙に白い。
屋上を囲む柵に両腕を乗せて凭れかかる。軋むこともなく、預けた体重をしっかりと支えてくれる。相撲取りでもない限り、間違って転落する心配は不要だろう。
三つ向こうのビルで、同じように柵に凭れ、煙草を吸っている人の姿が見えた。細い煙が蜘蛛の糸のように天へと昇っていく。煙草も、煙草を吸っている人間も、貴史には嫌悪の対象だったが、だが情景としては悪くない。少しだけそう思う。
腕の時計を見る。昼休みは既に終わっている。幾つかのやり掛けの仕事と、掛かってくる筈の幾つかの電話のことが頭に浮かぶ。
床面を蹴り、腕に力を込める。
向う側。今はこちら側。
柵と外との間には、立つのに十分の幅があったが、とはいえ用も無しに気まぐれに立ちたいような場所でもない。柵を掴んだ掌に汗が滲むのを意識する。手が滑り、足を踏み外せば終わりだ。助かる見込みは万に一つもない。
下を見る。垂直に続くビルの壁面。そのさらに下。通行人。自動車。
誰もこちらに気付いていない。
誰もこちらを気にしていない。
タイミングを測る。自分の内なる声に耳を澄ます。誰も合図など出してはくれない。時刻表もない。今と直感した時が、その時。
雲が切れた。太陽が姿を見せる。世界が光に包まれる。
今がその時。貴史は微笑んだ。大丈夫だ。
全て、うまくいく。
柵から手を離すと、貴史は、虚空へと足を踏み出した。
生まれて初めて、彼は満ち足りていた。
2004/12/22
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