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"うたかた"(後編)

 泉の水はどこまでも澄んでいて、なのに決して底を見透すことができない。
 まるで私みたいだ。
 生まれた時から、否、生まれる前から、自分の歩む道も行く先も完全に決められていた。自分でも、それに疑いを持ったことなどなかった。誰に言われるまでもなく、知っていた。今日この日、自分が神となることを。
 ……でも、何をすればいいんだろう?
 風もないのにゆらゆらと揺れる水の面は、一切の像を結ぶことなく、透明な闇となっている。
 足を進める。体が沈む。また一歩。少しずつ。遠くなる。里が。世界が。今まで自分が生きてきた場所が。
 楽を奏でる人がいる。その音は聞こえない。祝詞をあげる人がいる。その声は聞こえない。ナユタは?いた。後ろの方で一団となっている人達の左隅。じっとこちらを見つめている。その息遣いは届かない。
 瞳を閉じる。全てが遠ざかっていく。音も、光も、闇すらも。水がひどく冷たい。身体が痺れていく。だけど一ヶ所だけ、胸の辺りが、ほんのりと温かい。
 なんだっけ、これ?
 最後に残った。わずかな意識のかけら。そのさらに片隅で、思う。
 ああ、そうだ、これは。
 約束した。ずっと持ってるって。だから私も。……まっててね。きっといつか……また……還るから……

 そしてカホは神に召された。

    #

 いつのことになるのか、それは誰にも分らない。その日がいつか来るという証もない。
 姫神は里を守りたまう。里人は姫神を祀り奉る。
 姫神となるのは、里人より選ばれし祀子(みこ)。
 初代の祀子は、十八年の月日の後、人の世に還ったという。先代の祀子は、五十年を経てなお還らなかった。
 当代の――いや本当は既に先代という呼び方が正しいのだが――祀子が入神してより、今日で五年。
 半分に割れた勾玉を握り締めたその青年は、静まりかえった泉に背を向けた。声もなく。

    #

 空は晴れていた。どこまでも澄み渡った青色が眼に痛い。
 涯がないというのは、とても恐ろしいことだ。うたかたなる人の心は、無限なるものの現前に耐えられない。容易に連れ去られ、その形を失う。
 ――だからこうして。
 どこまでも続く青から、意識を逸らす。頬を風が撫でていく。水滴をさらっていき、その後に冷やりとした感覚を残す。
 久しく忘れていた。風がこんなにも気持ちが良いものだと。
 久しく?
 でも、一体いつから?
 思い出せなかった。いつからこうしてここに立っているのか、どうしてここにいるのか。
 泉のほとりだ。綺麗に澄んでいて、そのくせ底が見透せない。
 ならばせめて鏡の代わりにと、覗き込んでみたものの、無駄だった。絶え間なく揺らめく面は、自分の姿を映してはくれない。
 腹が立った。どうして誰もいないのだろう。せっかく、こうして戻ってきたというのに。
 「あ……」
 声に振り向く。まだ小さな子供だ。びっくりしたような表情で、こちらを見つめている。知らない顔だ。それとも覚えていないだけだろうか?
 「こんにちは」
 微笑んでみる。
 「良い天気だね。一人で遊んでるの?」
 子供は何か言いたそうに口をぱくぱくさせて、だがふいに背中を向けた。二の句を継げる間も与えずに駆け去ってしまう。
 ……なによ、もう。
 ふと力が抜けてしまい、その場に座り込んだ。ひどく疲れていた。腕や足といった、どこか特定の筋肉が痛むとか、そういうことはなかった。たぶん、気持ちの問題だろう。少し休んで気分を入れ替えれば大丈夫。また立ち上がれる。自分に言い聞かせた。そうしないと、泣いてしまいそうだったから。
 膝を抱え、組んだ腕に顔を埋める。どのくらいそうしていただろう。新たな足音が近付いてきて、自分の前で止まった。
 「お帰りなさいませ」
 男の人の声が、そう言った。
 落ち着いた、深みのある声。
 胸が高鳴る。
 知っている。記憶にあるのとは少し違う。前はもう少し、乱暴で、素気なくて、子供っぽくて、突き放すみたいな言い方で、だけど……。
 これだけは変わらない、自分だけが知っている、優しい響き。
 ゆっくりと、顔を上げた。
 膝を付いたその姿はもはや少年のものではない。だけど見違える筈もない。この世界で、最も懐かしい人。
 「これを」
 青年が取り出したのは、碧い石の欠片だった。滴のように、一方の先端は尖っていて、もう片側は割れたぎざぎざの縁をしている。
 思い出すより先に身体が動いていた。胸の奥深く、肌身離さず身に付けていたもの。
 青年が差し出した石と反対の、だけど同じ形の、ぎざぎざの割れた縁。
 試すまでもなく分っている。二つの縁は綺麗に重なり、割れた欠片は元の形を取り戻す。まるで初めから一つのものだったみたいに。
 「持ってて、くれたんだ」
 「もちろん」
 青年が微笑んだ。
 「片時も離したことはありませんよ。里を守りたまう人がいるという証です」
 「やめてよ、そんな改まった言い方。私はもう姫神様なんかじゃないんだからさ」
 やっと、思い出した。自分が誰なのか。この人が、誰なのか。
 「ナユタ」
 「はい」
 青年は頷いた。
 「祖父の名です。カホ様のことはよく話してくれました。懐かしそうに、幾度も幾度も、繰り返し繰り返し……」
2005/ 1/22
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