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"アシタのツヅキ"

 無駄なことであるのは分っていた。敵の戦力は余りに強大であり、対するこちらには武器弾薬はおろかナイフの一本すらもない。勝てるわけがない――という以前に勝負にすらならない。
 それでも。
 僕らの誰一人として降伏するつもりはなかった。これは戦いなのだ。僕らの存在と尊厳とを賭けた。たとえ奴らにとっては退屈しのぎのゲームであるとしても。
 「どうだ、奴らの様子は?」
 「変わりないよ。楽しく談笑中。やる気あるのかね」
 「それは」
 克也は銀縁眼鏡を押し上げた。そして僕の方に――正確にいえば僕の隣に座る少女に――氷河みたいな視線を投げる。
 「大切なお姫様だ。絶対に取り戻したいだろうさ。無理攻めしてこないのは万が一にも傷つけたくないからだ。もちろん、俺達じゃなくて、お姫様をな」
 「はは、そりゃそうだ」
 久良は気楽に笑った。どんな深刻な事柄も冗談ごととして処理する特技の持ち主だ。僕らがこうして冷静さを保っていられるのは、彼のおかげだといっていい。
 「すいません、わたしのせいで……」
 「大丈夫。直のせいじゃないよ」
 僕は直の肩に手を置いた。
 「僕達は好きでやってるんだから。気にしないでいいよ」
 「ああ、あんたのせいじゃない」
 克也が珍しくフォローするような台詞を吐いた。僕も驚いたが、直はもっと驚いたようだ。無理もない。克也は事の始まりからずっと、皮肉な調子で通していたのだ。
 直が顔を上げる。黒い瞳に不安と期待が入り混じって揺れている。普通だったらこうして親しく言葉を交わすことなどあり得ない、遠い世界の住人。僕らからすれば月や星みたいなものだ。姿を見ることはできても、決して手が届かない。だけど今はこうして。
 「そうだ、あんたのせいじゃない。全部、饗太のせいだ。饗太があんたなんかと関わりさえしなければ、俺は今頃家でポテチでも食いながらTVでも眺めてられたんだ。それがどうだ。こんなところで兵隊どもに囲まれて、下手すりゃ問答無用で射殺だ。誘拐犯かテロリストとしてな。もしも奇跡が起こって、この場を切り抜けられたとしても、追われる身であることは変わらない。かといって投降すれば犯罪者だ。どっちにしろ俺の一生は終わりだよ。全く、よくもまあこんな素敵なシチュエーションに巻き込んでくれたもんだ。饗太とつるんでて良かったさ、もしも人生やり直せるなら、絶対近付かないって思えるぐらいにな」
 「そんな言い方……!」
 我慢できずに言い返そうとした僕を止めたのは直だった。小さく首を横に振る。美しくて哀しい瞳。
 何を見てきたのだろう。何不自由ない、間違っても食べる物や着る物に困ったりすることなどない暮らし。宏壮な屋敷の奥に守られ、多くの人達にかしずかれ、僕らには想像すら許されないような天上での生活。その筈なのに。
 直はドレスの裾を捌いて立ち上がった。
 「直?」
 大丈夫、とでもいうように直は僕に微笑んで。
 「克也さん、久良さん、ご迷惑をお掛けして本当にごめんなさい」
 深々と、頭を下げた。
 「わたしの命に代えても、あなた達が今回のことで罪に問われるような事はないようにします。そして饗太さん、本当に……ありがとう」
 震えを帯びた声が古びたコンクリートの壁に染み入っていく。
 ああそうか、と僕は思った。
 直は僕らから離れようとしている。たった独りで出て行こうとしている。でもそれは逃げるためではなくて。
 克也に対して怒りはなかった。ただ哀しかった。自分の無力さが。
 直は頭を上げ、たった一つきりあるドアへと足を向けた。その時。
 「なに勘違いしてんだ?」
 投げつけるような口調で、克也が言った。
 「あんた人の話聞いてなかったのかよ?俺は『全部饗太のせいだ』って言ったんだ。誰もあんたのせいだなんて言ってないだろうが」
 「うん、確かに」
 久良が頷いた。
 「『あんたのせいじゃない』とは言ってたけどな」
 「え……」
 直はポカンと口を開けた。だがそれも束の間。黒い瞳にすぐに理解の色が閃く。
 僕は振り向いた彼女に見つめられ。それでようやく、克也が言おうとしている意味に気付いた。
 ふん、と克也は鼻を鳴らす。
 「何を喜んでんだか知らないけどな、このままここにいても状況は悪くなるだけだ。向こうはいつまでだって待ってられる。人は幾らだって取り替えがきくし、食い物だって飲み物だってあり余ってる。だけどこっちはどう頑張っても三日が限度だ。奴らにすればただ待ってればいい。餓えと渇きでへろへろになった所に踏み込めばそれで片が付く」
 「でもそれだとさ、やけになった俺らが大事なお姫様に乱暴するかもしれないぜ?」
 久良は直に向けてにやっと笑う。
 「直ちゃん美人だし」
 「えっ、あの……」
 「久良、よせよ」
 たわいもない軽口とはいえ、直には楽しい話題ではない。……と思ったのだが。
 「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです。それに、その、みなさんが望むのなら、わたしは別に……」
 僕は息を呑み。克也と久良も、まじまじと直を見つめた。それに気付いて。
 直は真っ赤になって、ぱたぱたと両手を振った。
 「あの、冗談、ですよ?嘘です嘘です忘れてください」
 久良が噴き出した。克也ですら肩を震わせ笑いを噛み殺している様子だ。朱に交われば何とやら。多分、奴らにしてみれば即行で洗い落としたくなるような染まり方だろうな。
 「そっちは饗太に任せるよ。でも始める前には言ってくれよな、俺と克也は後ろ向いてるからさ」
 「ば、馬鹿、何言ってんだよ」
 久良に文句を言いながら。僕はちらりと直の様子を窺った。
 直はもはや言葉を発することもできず。熟れたトマトの色になって、顔をうつむかせていた。

 「……確認する。俺達はむざむざと直を引き渡すつもりはない。直」
 「はい」
 直は背筋を伸ばし、克也を見返した。傲慢なところは少しもない。むしろ教師に対する従順な生徒のように、控え目で謙虚な態度だ。だが直は、戦いに臨む戦士のように凛としていた。相手を威圧するのではない。他者を見下すのでもない。
 力などなくても。
 誰の上にも立たなくても。
 侵すべからざるものを、自分の内に持ってさえいれば。
 人はどこまでも強くなれる。
 「あんたの意思はどうだ。大人しく家に帰るか?今なら多分、怪我をする心配はない。だがこっから先、俺達と行動をともにすればどうなるか分らない。いくら連中に傷つけるつもりがなくても、な。流れ弾に当るかもしれない。転んで頭を打ってそれっきりってこともある。ひょっとすると、俺達があんたを楯にするかもしれない。饗太はともかく、俺はあんたより自分の命の方が大切だ。いざとなれば見捨てるし、利用もする。それでも、来るか」
 お世辞にも、温かみに溢れたとは言えない台詞だった。こういう時の克也は本当に冷たく見える。
 直はしっかりと受け止めた。
 「はい。わたしはわたしの意志において。あなた方と――克也さん、久良さん、そして饗太さんと一緒に行きます」
 直は笑った。
 「饗太さん、これからもよろしくお願いしますね。ずっと」
 僕は頷いた。
 「こちらこそ」
 「よし、決まりっと。で、克也、具体的にはどうするんだ?饗太に女装でもさせて囮にするか」
 「そうだな」
 克也は腕を組み銀縁の奥の目を閉じる。
 「正攻法でいくか」
 そして続けられた単語に、僕らは耳を疑った。ほとんど正気を疑ったといっていい。
 ――正面突破。
 克也はそう言った。
  「……驚いた。まさか克也がバトルサイボーグだったなんてな。知らなかったよ」
 久良がゆっくりと首を振る。
 「だけどこの際はありがたい。よし、克也、連中を蹴散らしてこい!多勢に無勢なんて関係ない、圧倒的な兵器としての威力を見せつけてやるんだっ!!」
 だが克也は、少なくとも表面上は、しごく冷静だった。やけくそになっているふうでも、プレッシャーのあまり変なふうにスイッチが入っているようでもない。
 「真面目な話だ」
 「俺だって真面目さ。論理的な帰結ってやつだな」
 「久良の言う通りだよ。僕らの力でそんなことができるわけない」
 それこそ、SFに出てくるようなサイボーグでもない限りは。
 「なぜだ?」
 克也が問う。
 「なぜって……当り前じゃないか。武装した兵隊が何百人といるっていうのに、どうやったらそんなことができるのさ?」
 「歩いてだ」
 「…………え?」
 「普通に歩いていけばいい。簡単なことだろう」
 「簡単だな。連中が黙って通してくれるんなら」
 久良が言った。
 「だけど俺達は通行証なんか持っちゃいないんだ。それともどっかで調達するのか?自動券売機か何かでよ」
 「券ならあるさ。フリーパスが」
 そして克也は説明した。意表を突いた、どころではない
 「おいおいおいおい、そんなんアリかよ?」
 「無茶だ……いくらなんでも」
 克也は僕らを無視して直に尋ねた。
 「あんたはどうだ?同じ意見か」
 当り前だ。僕は半ば絶望的な気分で直を見た。からかわれている。そう感じて傷ついていることだろう。直にとっては一番触れてほしくない領域の筈だ。克也だって分っているだろうに、何だってこんな――。
 「できると、思います」
 直は言った。


 僕らがこの廃ビルに潜り込んでからわずかに半日。ずっと隠れていられると思っていたわけではないにしろ、こんなにも早く見付かって囲まれてしまうとはさすがに予想していなかった。見通しが甘かったというより、僕らはやっぱり、直の存在を過小評価していたんだと思う。
 おかしなものだ。こうして傍にいる直は、ただの当り前の女の子でしかないのに。
 ……正面玄関のガラス扉はすっかり汚れて茶色にくもっていた。差し込む光は陰りを帯びて暗い。
 「誰から出る?」
 「直だ。いきなり銃撃されても困るしな」
 理屈の上では、その通りだ。奴らからすれば直は〈救出〉すべき対象で僕らは誘拐犯。直は絶対に殺せない。僕らの方は殺してもいい。
 「でも女の子の後ろに隠れるってのはなあ。格好悪くないか?」
 「撃たれれば死ぬのは男だって同じだ。だったら、一番撃たれそうにないのを前にするべきだろう。連中は余裕なんだ。間違って撃ち殺される可能性は無いさ」
 「……ってことらしいけど。直ちゃん、頼める?」
 「はい。わたしもそれがいいと思います」
 直は頷いて扉の前に立った。黒いドレスのスカートの裾が波のように揺れた。靴が床を踏む音。世界からはみ出してしまった僕ら。世界の真ん中に閉じ込められていた直。決して交わる筈のなかった軌跡が交じりあい、今こうしてここにいる。奇跡?違う。そうじゃない。
 扉に手を掛けた直の隣に。僕は。当り前のことのように。立った。
 「饗太さん……お気持ちは嬉しいです。でも、これはわたしの役目だから」
 「うん、直の役目だから、僕も一緒に行く。いいよな、克也?」
 「好きにしろ」
 「久良は?」
 「饗太にしちゃ上出来だね。直ちゃんにとっては迷惑かもだけどな」
 奇跡なんかじゃない。ましてや偶然なんかじゃない。
 君がここにいて。僕がここにいる。
 これは、運命をすら超えた必然だ。
 「行こう、直」
 僕は直の手を取った。
 わずかのためらいの後に、直は、僕の手を握り返した。
 そして。
 新しい鼓動が、時を刻み始める。

 扉を開ける。

 暗い緑色の装甲車両が、扇状に建物を取巻いていた。車列の前には、銃を持った兵士達が、将棋の駒を散らしたようにばらばらと立っている。整然と、とは言い難い。鍛えられた精鋭部隊ならば、容易に突破できてしまえそうな穴だらけの包囲網だ。
 だが彼らの相手は軍隊ではない。いきり立ったチンピラの集団ですらない。ただの、四人の子供だ。
 軍用車のドアが開き、降り立つ影があった。軍人にはそぐわない長髪、だが目付きは鋭い。まるで斬りつけてくるようだ。軍人というより剣客といった方が似合っている。
 直が微かに息を呑んだ。
 「……久我さん」
 信じられない、いや、信じたくない。そんな心情が込められているような気がした。
 「誰?」
 「久我中尉。大丈夫、信用できる人です」
 むしろ自分に言い聞かせるように、直は言った。
 信用できるというのには二通りある。人柄に対するものと、能力に対するものとだ。久我中尉がどのような人間であれ、後者について当て嵌まるのは確実だろう。
 久我が姿を現しただけで、兵士達の雰囲気が一変していた。最前までの弛んだ様子は演技だったのではないかとすら思わせた。
 繋いだ手を離さないように。だけどいざとなったらいつでも離して直の前に立てるように。
 兵士達が銃口を向ける中を、僕らは歩き出した。鉄球でもくくり付けられているみたいに、一歩一歩がとてつもなく重い。
 克也は言った、全部僕のせいだって。その通りだ。僕が直を連れ出して、克也と久良を巻き込んだ。百回謝ったって埋め合わせはできない。いつかこの日を懐かしく思い出せる時が来たとしても、僕の負債が消えることはない。みんなの人生を変えてしまう権利なんて、僕にはなかった。
 僕と直のすぐ後ろに、克也と久良の足音が続く。
 こんなことを言えば、克也は怒るだろうし、久良は笑うだろう。
 それでも、僕は胸を張って言おう。
 僕らは最高だ。
 「そこで止まれ」
 低い、厳しい声音だった。久我は鉄を断つような視線を僕らに向ける。
 「直様から離れろ。手を頭の後ろで組んで膝を付け」
 「冗談」
 と、久良。
 「断る」
 と、克也。
 「いやだ」
 と、僕。
 そして直が矢を放つ。

 「下がりなさい。――皇院の名において命じます」

 生じた波紋は音もなく。
 兵士達は直と久我との間で視線をさまよわせている。
 普通ではあり得ない。兵から畏敬されている指揮官と軍籍にすらない少女と、どちらの言葉を重しとするかなど、選択以前の問題だ。
 だが直の姓は皇院。地上でただ一人にだけ許される名だ。
 対すれば軍の位階など太陽の下のろうそくに明かりにも等しい。初めから意味をなさない。
 だが久我だけはただ一人、眉をひそめながらも動じた気ぶりを見せなかった。
 「直様?成程、脅されて言っているのですね。ですがご心配には及びません。直様には髪の毛一筋すら傷つけさせません」
 傍らの兵士に合図を送る。兵士はぎこちないながらも上官の命に従って僕らに向かってこようとした。だがその一歩目すら踏み出さないうちに、凛とした声がその動きを止めさせる。
 「聞こえなかったのですか?下がりなさい。従わない者は逆徒と見做します。久我中尉、あなたもです」
 兵士達から先程までの戸惑いが消え去り、当然のこととして直の言葉に従い退いていく。
 馬鹿かこいつら、と克也が独りごちた。同感。だけど作戦を考えた当人の台詞じゃない。
 薄暗い廃ビルの一室で克也は言った。
 「直が『どけ』って、言えばそれで済む。連中は這いつくばって道を開けるだろうよ。他ならぬ皇院の命令なんだからな」
 正直、僕には信じられなかった。克也だって本当にうまくいくとは思っていなかったのだろう。だがこれは現実だった。力弱い一人の少女が、武力を持った大人達を支配している。
 僕は直の手を離した。
 「あ……」
 直が何か言い掛けたが、僕は黙って後ろに下がった。
 「誘拐犯どもの味方をなさると?」
 久我だけは、なおも踏み止まっていた。いやむしろ立ちはだかっていた。
 「――いいえ、久我中尉、それは違います。わたしは誘拐などされていません。……逃げ出しはしましたが。ですが、それももう終わりです」
 「分りました、いいでしょう。直様さえお戻りになられるのなら、あとの者のことなどどうでも良い」
 野良犬にするように、久我は僕らに顎をしゃくった。
 「消えろ。二度と直様の周りに顔を出すな。それで今度のことは無かったことにしてやる。では、直様、お父上…宰輔様が心配しておられます。まずはご帰宅を」
 これで終わりか。僕は空に向かって息を吐いた。良かったな、直。これで君は自由だ。もはや皇院の名は君を縛り付ける鉄の鎖ではない。全てを斬り従える黄金の剣だ。
 そして多分これから最も忠実なる楯となるであろう久我に、直は言った。
 「久我中尉。わたしは『下がりなさい』と言ったのですよ。あなたに」
 「…………」
 久我の顔色が変わった。厳しかった表情がさらに険しさを増して危険な気配を漂わせ始める。
 「どういう、意味でしょうか。皇院猊下」
 「わたしはお父様の元には戻りません。この人達と一緒に」
 「ではこの者共を消しましょう」
 瞬間だった。僕は一歩たりとも動けなかった。気付いた時には久我は銃を抜き放ち、僕に狙いを定めていた。やるだろう。この男にとって僕の命など何の価値も持たない。直のために、いや皇院直のために利用できるか邪魔になるか、それが全てだ。
 僕は直のために命を張る覚悟でいた。そして直も同じ気持ちであることを、どこかで願っていた。
 だけど僕と直の命とではまるっきり釣り合わないのだ。
 そんなの、考えるまでもないことなのに。
 直は僕を庇って立ったりはしなかった。こう言った。
 「おやりなさい。それでわたしを支配できると思うなら。ですがわたしは絶対にあなたを、あなた方を許しません。わたしの大切な人達を奪った世界を、我が命と引き換えにしてでも潰えさせてみせましょう。このわたし、皇院直の全てを以って。その覚悟があるのなら止めはしません。やりなさい」
 久我は引き金を引いた。

     * * *

 世界はきっといろんな断面からできていて。それぞれには、みんなそれなりの理由があって。どれが絶対に正しいとか、誰かが一方的に間違っているとか、決めることはできなくて。
 「あ、すいません、痛かったですか?」
 思わず顔をしかめた僕に、直は慌てて濡らしたハンカチを引っ込めた。心配そうに傷口をあらためる。看護の心得はないらしく、指先は不器用だ。
 「やっぱりきちんと病院に行った方が」
 「へーきへーき、、そんなん唾つけとけば治るって。直ちゃんがちょっと舐めてやればあっという間だよ。なあ、克也」
 「知るか」
 まるっきり他人事という口ぶりの久良に、克也は一顧だにせずそっぽを向いた。薄情な。だけど実際たいした傷ではない。銃弾は頬のすぐ傍を過ぎていっただけで、掠ってすらいなかった。風圧で皮一枚が切れただけだ。銃声に思わず目を瞑り、頬に感じた熱さに再び開けた時には、久我はもう踵を返していた。わざと外したことは確実だ。
 ……どういう理由かは分らないけど。
 だがいずれにしろ兵士達は撤収し、直を連れてやって来た時と同じく、裏街はひっそりと静かだ。
 「どこ行くんだ?」
 「ざっと見廻ってくる。今さら罠があるとも思えないけどな。念のためだ」
 「そっか、じゃ俺も」
 久良は石段から腰を上げた。そのまま克也の後を追うかと思いきや。にやっと笑い。
 「ごゆっくり」
 僕と直に向かってそう言うと、のんびりと歩いていった。
 そういえば、初めてだ。直と二人きりになるのは。
 「良かったのかな、これで……」
 吹き抜ける風に乗せるように、直が呟いた。
 僕には答えを返すことができない。もっとうまいやり方があったのかもしれないし、ベストの選択だったのかもしれない。誰にとって良かったのかでも答えは変わる。
 僕は直に尋ねた。
 「後悔してる?」
 「……一歩間違えたら饗太さんが大変なことになっていたかもしれないって思うと。今でも震えます。多くの人に迷惑をかけてしまったし、多分これからも。皇院の子として生まれたということは、そういうことなんです。たとえわたしが捨てたつもりでも、他の人はそうは見ない。軽率でした」
 直は頭を下げた。誰もいない空間に向かって。
 「後悔はずっと続くと思います。だけどわたしは」
 曇りがちな空に光は弱く。黒いドレスに身を包んだ直はともすれば影のようで。
 「幸せです」
 それでも見失いはしないだろう。
 「好きだよ、直。僕は君のことが、とてもとても好きだ」
 明日に、続きがある限り。

(了)
2005/ 8/ 5
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