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"いってらっしゃいませ、ご主人様!!"

"Not one fine day"


 夢を見ているな、と感じている時の意識はどこにあるのだろう。
 夢を見ている以上、やっぱり夢の中だろうか。でもその夢を見ている自分は現実にいるわけで、ということは夢を見ていると意識している自分は、やっぱり現実にいるんじゃないだろうか。
 だけどそうやって夢を見ていると意識しているわたしは夢の中にいるわけで、そうすると、つまり……ああ、もう、わけわかんないや。
 ともあれその時、七瀬遙奈は自分が夢を見ていることに気付いていた。なぜ気付いたかといえば、今いるはずのない人達がいたからだ。
 「いいかい、遙奈、よく聞いてね」
 母は、いつも通りのおっとりした声で言った。家を出た時に着ていた明るい小花模様を散らしたツーピースではなく、黒一色のシックなワンピース、いわゆる喪服だ。旅行中のはずの人が喪服を着て夢の中に現れるなんて不吉だと、普通の人なら思うところだが、遙奈にとってはいたって見慣れた姿に過ぎない。四月になれば彼女自身ごく日常的に身にまとうことになるだろう。仕事をする時の正装として。
 ──なあに、お母さん、また忘れ物でもしたの
 それが一番初めに浮かんだ言葉で、自分では自然と口を衝いて出たようなつもりだったのだが、実際には上手く喋ることができなかった。まあ夢の中だしね。仕方ないでしょ。ひとり納得した遙奈に、母は言った。
 「忘れ物っていうか伝言ね。私達はもういかなくちゃいけないんだけど」
 私達、というのは母と父のことだろうか。
 と思ったら案の定、母の後ろに気難しげな顔をした父がいた。やはり仕事用の黒の礼服を着ている。ちなみに、気難しげなのはデフォルトで、本当に機嫌が悪い時の父は石に彫った面みたいな無表情になる。
 それはともかく、もう行かなくちゃ、というのは妙な表現だった。二人とももうとっくに出発しているのだ。どころか明日はもう家に帰ってくる予定である。もっとも母の言動が少々ピントがずれているのはいつものことだから、遙奈はさして気に留めなかった。そのくせ妙に鋭いところもあったりするのだけれど。
 「私達はね、いいのよ。何も難しいことはないの。普通に歩いていけば自然と到着できる。私もお父さんもね。だけどそうじゃない人もいる」
 ──何の話?
 「だから、そういう人達のお手伝いをするのがあなたの役目。分るわね?」
 ──全然分んない
 遙奈は首を振ったが、母は構わず話を続ける。まったく、夢の中ででもマイペースな人だ。
 「誰にでもできることじゃない。ううん、本当はね、誰にだってできるんだけど。たとえばお父さんにだって。ね」
 話を振られた父は、しかし咳払いでごまかした。しょうがないわね、と母は苦笑する。
 「だけどこの頃は自分にそれができるということが分らない人が多いの。むしろほとんどの人がそうね。だけど、だからこそかもしれないけれど、助けが必要な人は増えている。誰かがやらなくちゃ駄目なの。放っておくとそういう人達はとっても苦しむことになるし、場合によっては周りの人達までも巻き込むことになってしまうから」
 つまりそれがどうだというのか、全く要領を得ない。毎度のこととはいえ、さすがに少し苛立ちを覚えた。いつも通りの口調でありながら、母はどこかいつもと違っていた。
 「遙奈、あなたにならできる。そうすることは義務ではなくて権利。神様に与えられた、ね。楽しみなさい。そしてたくさんの喜びを分かち合いなさい。それじゃ」
 そして、母はいってしまった。振り返ることもなく(父は気難しげな顔でちょっとだけ振り向いた)。

    * * *

 畳の目の間に詰まった黒いカスを伸び過ぎた爪で掘り返してみると、どうやらゴマらしかった。何かの料理か、それともお茶うけのお菓子からでもこぼれたものだろうか。遙奈はもちろんそれを口に運ぶことはなく、しかしきちんと席を立ってゴミ箱に捨てることもなく、あろうことか指で弾いて部屋の隅へ飛ばすという暴挙に出た。花の乙女にあるまじき行儀の悪い仕種に、三橋は哀しそうに額に皺を寄せたが口に出しては何も言わない。姉の桜子は口元をほころばせ、妹の実咲にいたっては完全にシカトだ。
 わずかに開いたガラス引き戸から忍び入る空気はぬるく、春というよりできそこないの夏みたいな陽気だった。
 「それで」
 客用の底の浅い湯飲み茶碗からずずずと茶を啜り、口の中で転がしてから飲み下し、三橋はおもむろに本題へ入った。
 「店のことなんだが」
 「続けます」
 西部劇のガンマンのような反応の速さで遙奈は即答する。
 「晴君さん、手伝ってくれますよね。っていうか晴君さんが社長になってくれれば、他の皆さんも安心して働けると思うんです。お姉ちゃんは、あんまり経営とかには向いてないだろうし」
 桜子はうんうんと頷く。
 「あたしはまだ右も左も分らないですから。でもその代わり、頑張って一日でも早く仕事を覚えます。だからどうか、これからも七瀬葬儀店をよろしくお願いします」
 座卓に額をぶつけるようにして遙奈は頭を下げた。人様に正式に物を頼むのであれば、本来は座布団を外して畳に頭を付けるべきなのだが、そこまでは気が回らない。
 なにぶんこの前まで女子高生をやっていた身である。
 そして、今はニート。自ら望んでのことではない。
 「しかしねぇ、遙奈ちゃんの気持ちは分るし、そんなふうに言ってもらえるのはおじさんだって嬉しいよ。幸成も美遊里さんもきっと草葉の陰で喜んでるだろう。だけど、分ってもらえると思うけど、私らにとって店はあの二人と一心同体なんだよ。正直、気が進まないし、それ以前に私なんかじゃ役者不足だ。店のおもだった連中もみんなそう思ってる。二人抜きでやってくなんて考えられないってねえ」
 予想された言葉だった。むしろ、「ほい来た任せとけ」なんて二つ返事で引き受けられたら遙奈はひどく驚いただろう。
 「それでいいんじゃないの。晴君さんも他の人達も意見は一致してるんでしょ?」
 「うむ」
 三橋が重々しく頷いた。実咲は言葉を続ける。
 「だったら考えるまでもないよ。嫌だっていう人達を無理に引き留める権利なんてうちらにはないし、仮に残ってもらったとしたって上手くいきっこないもん」
 「確かに実咲ちゃんの言うことにも一理あるわよねぇ」
 名は体を表すかのごとく、ピンク色の艶々とした肌の持ち主である桜子は、実は二十歳をとっくに過ぎている。一応肩書きは(株)七瀬葬儀店の取締役であり、両親の死去に伴って株式の全てを相続した今となっては、経営の全権を握る身である。書類の上では彼女にこそ最終かつ絶対的な決定権がある。
 「無理に続けてもねぇ、どうしても無理が出るわよねぇ」
 母に似たおっとりとした口調で廃業に同意するようなことを言う桜子に、遙奈は強く抗議する。
 「お姉ちゃん、お店がなくなってもいの!?お母さん達が頑張って続けてきたお店を、わたし達の代で勝手に終わりにしちゃうなんて、そんな権利がわたし達にあるの?」
 「そりゃあるでしょ。遙姉にはないかもだけど、桜子姉にはちゃんとあるわよ」
 「実咲、子供は黙ってなさい」
 「どっちが子供なんだか」
 声を荒げる遙奈に、実咲はうそぶいて横を向く。激昂しそうになった遙奈だが、そこはさすがに大人の三橋が落ち着いてとりなした。年齢のわりに黒々ふさふさとした髪を軽く手櫛で整えながら言う。
 「遙奈ちゃんの気持ちは十分に分ったよ。だけどね、気持ちだけじゃどうにもならないことってのはあるし、その気持ちにしたって、十人いれば十人それぞれが違うんだ。厳しいことを言うようだけど、今の遙奈ちゃんは自分ひとりの我が儘を言って駄々をこねてるのと一緒だ。もっと時間を掛けてゆっくりと考えて、自分のしたいこと、できること、すべきことをきちんと整理してみたらどうだい?その上でおじさんに協力できることがあれば、改めて相談に乗ろうじゃないか」
 遙奈は言葉に詰まった。単なる我が儘と言われてしまえば全くその通りだ。遺志を継ぐといえば聞こえはいいが、実際に両親が「どんなことがあっても稼業を続けてくれ」等と口に出して言ったことはない。父などは姉が働くことにもいい顔はしなかったし、遙奈が高校卒業後に働くことを決めた時には、はっきりと反対を表明した。
 「自分とこで経営してるからって安易に決めるんじゃねぇよ。働き口ってのはな、自分で努力して探すもんだ。甘えるのも大概にしとけよ」
 だが父の反対は、母の「いいじゃない」の一言であっけなく覆された。
 「とりあえず手伝ってもらって、向いてなさそうだったら別のとこを探せばいいわ。春からよろしくね、遙奈」
 父は不機嫌に押し黙った。七瀬葬儀店において母の決定は絶対である。
 三橋は、店と二人は一心同体である、と言った。
 だがそれは嘘だ。
 七瀬葬儀店で特別な存在であったのは、母の美遊里の方だ。
 美遊里の仕切る葬儀は人を幸福にする。故人が大往生の末に旅立った老人であれ、事故で去った若者であれ、虐待によって喪われたいとけない幼な子であれ、参列した人々は等しく逝く者を悼み、哀れみ、そして、ことほぐ。彼の者がこの世にあった時に与えてくれた喜びに、心からの感謝を捧げて。
 母が特別変わったことをしていたわけではない。宗教的な儀式にしても、各家の宗派に応じた専門の者が司り、彼女は一切関与しなかった。遺族に感情移入して涙を流すわけでもなければ、ことさらに慰めを口にもしない。
 だからその時限りの参列者は気付かなかっただろう。いいお葬式だったという感想を抱きはしても、たまたまだとしか思うまい。
 だが会葬を共にすることの多い人達、葬祭場の人や、僧侶や、何より、七瀬葬儀店に勤める者達は、否応なしに気付かされるのだ。
 七瀬美遊里と共にある死者には限りない慰藉が与えられることを。
 幸福な死者。それゆえ生者も癒される。
 「で、どうすんだ結局。バイト?」
 「まあ、そうなるのかな。仁は?バイトとかしてるの」
 「いや、今んとこは。意外と勉強大変だったりしてな」
 「嘘ばっか。日本の大学生なんて人類で一番ヒマな連中じゃないの」
 「入る前は俺もそう思ってたけどな。つか、ニートには言われたくねーよ」
 遙奈は黙り込んだ。好きでニートやってるわけじゃない、そう言いたいところだが、店の解散に伴うゴタゴタも全て片付いて(片付けたのは三橋を筆頭とする従業員達で遙奈は何ら貢献していない)、相続や生命保険の手続きも済んで(済ませたのは姉の桜子、というかそのフィアンセの礼二さん=弁護士)、はっきり言ってかなりヒマである。だが遙奈は就職先はもちろんバイト先も捜していなかった。捜そうという意欲すらなかった。
 「ゴメン、言い過ぎた」
 「いいわよ、別に。事実だし」
 ぶっきらぼうに謝罪する仁に、つっけんどんに遙奈は返す。
 「煙草、吸っていい?」
 「ここで?歩き煙草は感心しないよ」
 「だから止まってさ」
 仁は歩道橋の手すりにもたれかかった。シャツの胸ポケットから箱を取り出す。
 「あたしも一本」
 「ん」
 火を貰う。結構きついやつで、もともと吸う習慣のない遙奈の眉間をキックする。けれどむせるのはどうにか堪えられた。
 「すっげぇ久し振りだよな」
 曇った空を見上げて目を細め、仁はすぼめた口から煙を吐き出した。こいつおいしそうに煙草吸うなあ、と遙奈は束の間見惚れたが、何か負けた気がしてすぐに視線を逃がした。派手な赤色のスポーツカー(たぶん外車)が、あめんぼみたいに下の車道を滑っていった。
 「何が久し振りなの?」
 「おまえと二人で煙草吸うのさ。中学ん時以来?」
 「そんなことあったっ……」
 け、と言う前に思い出していた。あれは一年の時だ。初めての定期試験が終わった放課後、屋上で。仁は今ほど背が高くなくて、それどころか遙奈よりも低かったぐらいで、まだまるっきりガキで、やっぱり今と同じように屋上の縁にもたれて空を見上げていた。あの時は何の話をしていたのだったか。
 ああ、そうか。
 「ササ美ちゃんは元気?」
 「……元気だよ。フツーに女子大生してる。コンパとか何とかでけっこ忙しそうだな」
 木佐麻美、通称ササ美は中学時代の同級生で、「俺、あいつのこと好きかも」と、あの日屋上で仁は言ったのだ。まるで独り言みたいに。遙奈は答えなかった。答えられなかったのではない、と思う。答える必要を感じなかったのだ。多分。
 「コンパなんて口実で、実は他にいい人でもできたんじゃないの?彼女の中では、もう仁とっくに過去の人になってたりして」
 「まさか」
 「…………」
 間髪容れずに否定かよ。
 軽くむかついた遙奈をよそに、仁は携帯用の灰皿に長くなった煙草の灰を落とす(吸い殻を捨てないのは良いことだと思うがビミョーにおっさんくさいアイテムのような気もする)。
 「でも別にそうなったらそうなったでいいけどな」
 「え……。うまくいってないの?」
 ならば今の即答はなんだったのか。強がり?見栄?今さらそんな間柄でもないのに。
 だけど。
 灰皿を借りて三口しか吸っていない吸い殻を落とし込み、遙奈は思い直した。確かに仁とのつき合いは長い(年月だけでいえば妹の実咲よりも)。だけど長いだけだ。気の置けない相手ではあっても、心の奥にある事柄まで曝しているかといえば決してそんなことはなかった。友達以上の関係になったことは一度もない。言葉を通じてだけの繋がり。
 「ちっさい喧嘩ぐらいならするけどな。このまま結婚しちまったっていいぐらい円満」
 「何それ。意味分んないし」
 「だからさ、どっちでも同じだってことだよ。このままつき合っても別れても大して違わない」
 「彼女とつき合うことに意味がないってこと?それってひどくない。彼女に対して余りにも。鉄拳制裁に値するね」
 「いや、そういうことじゃなくてな。たとえばさ、俺が今ここから落ちて死んだとする。やりかけてたこととか、やりたかったこととか、全部途中のままで俺の人生は終わる。反対に、このまま事故に遭うこともなく平穏無事に生き続けて、夢や目標なんかも叶えた末に大往生する。普通に考えればそっちの方がずっと幸福な人生だったってことになるんだろう。でも、それなら中途半端で終わった方の俺はみじめで不幸で何の意味もない存在だったってことになるのか?違うだろ」
 「…………」
 「だからさ、同じことなんだよ。良い事も悪い事も嬉しいのも悲しいのも全部、な」
 「ははは、変な奴がいる」
 「笑うところじゃねえ」
 「ごめん、あんまり似合わない台詞だったから、何とち狂ってんだろうって思っちゃって」
 「悪かったな、似合わなくて」
 憤然として言うと、仁は先に立って歩き出した。その背中に向けて。
 「……ありがとう」
 遙奈は小さく呟いた。
(続く)
2006/ 6/16
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