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"Kiss/kiss"

(第1回)

 たまにはそんなこともある、か。いやいや、滅多にないだろう。
 「おはようございます、だんな様」
 目を覚ました北久保明が最初に目にしたものは、自分の身体に馬乗りにまたがってにっこりと笑う美少女だった。
 「それでは目覚めのキスを」
 言葉に違わず、美少女は明にくちづけた。ほんのりと触れただけの軽いキスだったが、頬にではない。
 「えーっと」
 明は記憶をまさぐる。昨晩俺は女の子をお持ち帰りしたか→No。昨晩俺はアルコールなりドラッグなりを摂取したか→No。結論、これは夢だ。だったら、楽しまなければ損というもの。
 明はごそごそと布団から手を抜き出した。
 「なんですか?」
 美少女が小首を傾げる。サラサラの髪が流れる。明は少女の手を探り、指を絡ませて、握った。
 「あは」
 嬉しそうに、キュッと握り返してくる。温かくも柔らかく、それでいてちゃんとした手応えがあった。気持ち良い。
 「君は、誰?」
 途端、形の良い眉がハの字に下がった。綺麗な瞳にはうっすらと涙が盛り上がる。
 「え、ちょっと、何……」
 「ひどいです、だんな様……」
 ポタリ。冷たい滴が明の頬の上に垂れる。
 「なんでそんな意地悪するんですか。わたしのことが嫌いになったんなら、そう言ってください。じゃないと、わたし、どうしたらいいか……」
 ポタリポタリ。しゃくり上げ、すすり泣きが大泣きへと発展しそうな気配。ヤバい。危ない人かもしれない。
 「よし。まずは落ち着こう、ね」
 半ばは自分に言い聞かせるつもりで、明は言った。美少女はこっくりと頷く。ヤバい。やっぱり超可愛い。
 「気に障ったんならごめん。でも俺は君を傷付けるつもりなんか全然なくて……だからさ、教えてくれないかな。何がいけなかったの?」
 できるだけ優しい声で。小さい子供をあやすみたいに。
 「だってだって、だんな様、ひどいです」
 「うん、その通り。俺はひどい奴だ。君を泣かせるなんて男の風上にもおけないよね。だからさ、教えてよ。なんで泣いてるのかな」
 「いえそんな、だんな様がひどい人だなんて、そんなこと全然ないですよ?」
 どっちだよ。
 「でもでも、やっぱり悲しいです。君は誰、だなんて」
 「は」
 どこがいけないんでございましょう。人に名前を尋ねる時はまず自分から名乗れってことだろうか。でもここは俺の部屋で、訪ねてきてるのはそっちだし。
 うーん、ま、いっか。
 明は現在の状況を思い出す。朝起きたら見知らぬ美少女が自分の上に跨っている。そもそも普通じゃない。夢だ。そして夢に不条理は付き物だ。
 「失礼だったかな」
 「ううん、そうじゃなくて。だってまるで知らない人みたいじゃないですか?これからずっと一緒にいる最愛の人から、そんなふうに他人扱いされたら、誰だって傷つくと思います」
 「それは、そうだ」
 「でしょ?」
 うんうん。上と下とで見つめ合いながら、二人は頷く。心が通い合ったみたいなほんわかした空気が流れる。
 だがそれはそれとして。
 根本的には何一つ解決していない。
 だって知らない人だし。
 明はあやうくその一言を飲み込んだ。知らないならこれから分かり合えばいい。少女を引き寄せる。
 「あ……」
 少女はほんのわずか抗ったが、すぐに身を任せてくる。温かくて柔らかい重みを、明は強く抱き締める。甘い花のような香がゆらめき、微かに熱い吐息が耳にかかる。
 「大好きです、だんな様」
 「俺もだよ」
 「わたしはあなたのものです」
 「俺も」
 「嬉しい。誓ってくださいますか?身も心も魂も、わたしのものだって」
 「誓うよ。俺の身も心も魂も、君の」

 「アキラー、いつまで寝て……あ」

 北久保未来は停止した。いつもであれば、散らかされたそこいらの物をあるいは踏み付けあるいは蹴ちらしながら、ずかずかと部屋の中に入り込み、寝起きの悪い兄の布団を引っぺがして目覚まし代わりのビンタを二三発、それで駄目なら台所に取って返して氷水を用意してきて顔の上にどぼどぼと。さすがに最近はこのバカ兄貴も学習したらしくそこまでせずとも起きるのだが、いやいや問題はそんなことではなく。
 「あら?」
 美少女の不思議そうな声につられるように明も顔をドアへ向け、そのままフリーズ。立ち尽くしているのはセーラー服があまり似合わない彼の妹。
 「どなたですか?部屋に入る時はノックをしましょうね」
 控え目な、それでいて動揺の気振りもない受け答え。まず大抵の人は謝ってドアを閉めてしまいそうだ。たとえここが自分の家で、相手が見知らぬ存在だったとしても。
 だが未来は踏み止まった。
 「――あんた、誰」
 あ、それ禁句、と明は思ったが、少女は特に気にした様子もなく、明の上に乗ったまま、それでもさすがに覆い被さるような姿勢はやめて、未来の方に向き直った。少女の着ている服がさらりと衣擦れの音を立てる。新雪みたいに真っ白なワンピース。すごく軽くて薄くて滑らかな素材だ。天使の羽で織り上げたのかもしれない。
 「初めまして。美憂里と申します。アキラ様のしもべです。これからよろしくお願いしますね」
 「しもべ……?」
 「はい」
 朗らかに元気良くお返事。
 「それはそれは」
 未来には幾つかの美点があるが、裏表のない素直な性格、というのもその一つに数えられるだろう。直情径行、とも言う。未来は腰を屈め、床に落ちている漫画雑誌(月刊。とても厚い)を拾い上げた。
 「未来、ちょっと待て。おまえ何か誤解してるだろっ」
 慌てるように言ったのは、長年のつきあいでこの後の行動の予測がついたからである。
 だが未来は当然のごとく明の言葉を無視した。
 「最っ低ぇぇーー!!」
 唸りを上げて飛んできた漫画誌(月刊)は、見事明の額を割った。

       #

 ズキズキと額が疼く。とりあえず絆創膏を貼っ付けてあるが、傷口はたぶんまだ塞がっていない。
 「とってもおいしいです、おばさま」
 「そ、そう?良かった。遠慮しないで沢山食べてちょうだいね」
 「はい、ありがとうございます。でも用心しないと食べ過ぎてしまいそうですわ。太ってしまわないかしら」
 「あら大丈夫よ、そんなにスリムなんだもの。ほんと、羨ましいわ」
 「おばさまこそ、とってもお綺麗です。大人になってさらに美しくなっていくなんて、すごく素敵ですよね。憧れてしまいます」
 「な、何言ってるのよ、もう。冗談ばっかり」
 母の玲子は大袈裟に手を振って否定したが、満更でもないのは瞭然だ。
 「アキラ、醤油」
 「ん」
 未来は二杯目のご飯に目玉焼きをのせ、醤油をかけてがしがしとかき混ぜはじめた。彼女の好物だが、箸の持ち方にやけに力が入っているのは多分気のせいではない。
 「ところで美憂里さんは」
 「はい、なんでしょうか」
 美憂里はきちんと箸を置き、背筋を伸ばして玲子に顔を向ける。折り目正しく聞く姿勢。北久保家の二人の子供には望むべくもない美しき振舞いに、母のガードはますます下がる。もはや落城寸前だ。
 「ごちそうさま」
 だんっ、と茶碗を叩き付けるように置いたのは未来。
 「行こう、アキラ」
 「俺は後から行くから。そもそもまだ食い終わってないし」
 じろり。未来は一瞥をくれたが、何も言わずに立ち上がった。美憂里の方にははなもひっかけない。というより、意地でも視界に入れまいと努めているようだ。
 「あら、お出掛けですか。どちらに?」
 「学校」
 無視を決め込む未来に代わって、明が答える。
 「明様も?」
 「未来は中学、俺は高校。っても、敷地は一緒だけどね」
 いわゆる中高一貫である。
 「じゃあ、わたしは高校の方へ行きます。明様と一緒に。いいですよね?」
 未来がキレた。
 「良くないわよっ!!なんなのよあんた、なんで当り前みたいな顔してあたしん家で朝ごはん食べてるわけ?とっとと自分の家に帰りなさいよっ」
 「ちょっと未来、お客様なんだから……でも、おばさんもさっき訊こうと思ったんだけどね、美憂里さんは、その、明とはどういうご関係、なのかしら」
 明は口の中に入っていた食べ物を急いで飲み下した。この少女はいささか意味不明だ。しもべです、などとまた言い出したら即座にフォローしないと。
 美憂里は頬を染めた。もとが色白なだけに、とても可憐に映る。花がそっと開いたかのようなその様に、明はもちろん、玲子や未来までが目を奪われた。

 「明様は、わたしが初めての契りを結ぶひとです」

 うーん、やっぱり、これは夢だ。
 明は思った。
(続く)
2005/ 6/19
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