Back to
Main
"Kiss/kiss"
(第5回)
#
美憂里はあっという間にクラスの中に溶け込んでいた。
みんなが気軽に話し掛ける、というのではない。改めて話をする必要がないぐらい、ごく当り前にそこにいた。
誰も美憂里の素性を尋ねようとはしなかった。前はどこの学校にいたのかとか、どこに住んでいるのかとか、星座は何であるかとか、好きな芸能人は誰かとか。美憂里という存在を構成する諸々のパーツは、ガラスのように透明で、誰の目にも映らなかった。
そして明との関係も。
教室を移動する際は必ず隣に寄り添い、授業中は五分おきぐらいに視線を交す。その都度、美憂里は本当に幸せそうに微笑んだ。やっとめぐり逢えた恋人の傍にいられることが嬉しくてならない、とでもいうように。
そして誰もそれを疑問に思わなかった。
「じゃあね、流木笛さん」「またね」「美憂里ちゃんバイバイ」
いつものような、さよならの挨拶。美憂里はきちんと一人一人に礼を返す。これまでもそうであったように。これからも、そうであるように。
「わたし達も帰りましょう、明様」
「うん」
明はほとんど中身の入っていない鞄を肩に掛けた。美憂里は手ぶらだ。ちなみに足元はスリッパで、薄れた金色の文字で「来客用」と書かれている。
「ちょっといい?」
「はい、なんでしょう倫子さん」
倫子は苦笑した。口元の下の黒子がくすぐったそうに揺れる。
「もう、美憂里ちゃんはかたいなぁ。もっとフランクでいこうよ。明君みたいに無礼なのは論外だけどさ」
「倫子ちゃん、『それはこっちの台詞だ』、てことわざ知ってる?」
「それことわざ違う。カラオケ行かない?四名様一時間無料の券あるんだよね」
「わあ、ありがとうございます。明様?」
どうしましょう、と問い掛ける。
「どこ、〈シングリング〉?」
「ぶー、外れ。〈瑠璃歌屋〉。明君ちだと反対方向になっちゃうかな。でもいいよね、よし、決まりっ」
一方的に宣言すると、倫子はパチンと指を鳴らした。
倫子に捕まった村雨を加え、総勢四名となった彼らは揃って学校を出た。背の高さでいえば村雨、明、美憂里、倫子、の順になる。
倫子が受付を済ませ、薄汚れた壁紙に肩を擦るようにしながら四人は狭い階段を上った。
〈B─3〉とプレートの掛かった部屋は通路の一番どん詰まりにあった。最初から部屋として設計されていたのではなく、余ったスペースを扉を作って塞いだだけではないか、という感じだ。タダ券利用者はもれなくここに押し込まれるのかもしれない。
「なんか頼もうか?」
部屋に入るやいなや倫子が言った。
「金が無い」
「わたし有りますけど」
「オッケー。じゃ明君の奢りってことで」
「なしてさ」
「とりあえず美憂里ちゃんに立て替えてもらって、家に帰ってから明君が返せばいいじゃん。うん、ナイスアイデア」
「しょーがねーなあ。美憂里、悪いけど貸して。村雨は自分で払えよ」
アイスコーヒーが二つに、オレンジジュースとクリームソーダ。「ピザも頼もう」という倫子の提案は明が却下。
さて最初に誰が歌おう、などと思う暇もあらばこそ。マイクを握った(むしろ奪い取った)村雨がアナーキー・イン・ザ・UKを爆唱、シャウトシャウトシャウト、エンディングでマイクに向かって唾を吐きかけるパフォーマンスを披露しようとした時。
そのささやかな異変は起こった。
「あ」
その声は誰の口から洩れたものだったか。
「なに、停電?」
狭い室内から一瞬にして光が絶えていた。照明はもちろんのこと、カラオケの機器類やディスプレイの映像まで消えている。
真の闇だ。
何も見えない。
「ったく、しょーがないわねー。金返せって後で文句言ってやる」
「いや元々払ってないから……どうした美憂里?」
返事はなかった。代わりに聞こえてきたのは、喘ぐような息の音。まるで喉を締められているかのような、それとも密閉された空間で徐々に空気を抜かれているみたいな、ひどく苦しげなものだった。耳にしているだけで背筋の毛がぞわりと逆立っていく。
「どうしたの美憂里ちゃん。大丈夫?」
倫子は美憂里に手を伸ばしたが、そこには何も触れない。ただなぜか、そこだけ温度が低くなっているような気がした。
何かが起こっている。日常からはみ出してしまっているような何かが。
明は唾を飲み込んだ。とにかく状況を確認したかった。明かりになるようなものはないか。ライターとか、懐中電灯とか。
「そうだ、携帯。倫子ちゃん持ってるよね?」
「待って」
倫子はすぐに明の意を察したが、だがその必要は無かった。携帯のパネルがささやかな光を発するのとほとんど同時。
「あ、点いた……」
闇は払われていた。スピーカーからはセットされていた次の曲のイントロが流れ出していた。切ないようなピアノの音が、ゆったりとしたワルツを刻む。
“Kiss/Kiss”
美憂里が入れた曲だ。
あなたのいない夜
わたしは 歌を口ずさみながら
星の落ちた 暗い空に そっと
Kiss/Kiss
だが歌声は流れなかった。
美憂里はいなくなっていた。
幽霊みたいに、消えていた。
「だーめ。見付かんない」
倫子が両手でペケマークを作る。外で待っていた明は頷いた。なんとなく、そんな気がしていた。
「びっくり魔術ショーみたいだね」
倫子の口調は冗談めかしていたが、顔色が悪い。
美憂里はカラオケボックスのどこにもいなかった。部屋を全て見て廻り(店の構造が複雑なのでかなり時間が掛かった)、倫子は女子トイレの個室をチェックしてきたところだ。用事がある、ということで村雨は一足先に帰っている。済まなそうにしていたが、別に責めるつもりもない。
「どうする、明君」
「探す」
「どこを?」
「取りあえずその辺をざっと。倫子ちゃんももういいよ。つき合ってくれてありがとね」
走り出そうとした明を、倫子は手を掴んで止めた。
「えっとね、怒らないで聞いて欲しいんだけど……」
「なに?」
つい苛立った声になってしまう。小さな刺のついた固まりが胸の奥に巣くっているみたいだった。心配であるという以上に、不安や焦りの方が強かった。自分の身体を、先端から少しずつ削られていくような気分。
倫子は、明の手を握り締める。言葉以上の何かを伝えようとするみたいに。
「やめた方がいいと思うな。とりあえず今日はこのまま帰ろうよ」
「はは、何言ってんのさ。だから倫子ちゃんはもう帰っていいって。俺一人で探すから」
振り払おうとしたが、倫子は離さなかった。熱く汗ばんでいるのは、どっちの手だろうか。
「明君、あのコのこと好きなの?」
「そんなんじゃないって。俺と美憂里はただの」
「ただの?」
「ただの……あれ、えっと、なんだろ、変だな」
愕然とする。今の今まで忘れていた。美憂里とは今日の朝に初めて会ったばかりだったのだ。それがいつの間にか、彼女の存在が当り前のものとなっている。当然、家にも一緒に帰るつもりでいたし、そして夜には、その、契りというやつを、ですね。
「うわ、なんかやらしい顔しちゃってるし」
「べべべ別に俺はそんなつもりじゃなくて」
「いいんだよ、明君だって男の子だもんね。美憂里ちゃん可愛いし、エッチしたくなるのも当り前だと思うよ。でもここは一つぐっとこらえてさ。どうしても、獣の血を抑えられないっていうんなら、しょうがない、倫子ちゃんがお相手してあげる」
「獣の血って……っていうか、倫子ちゃん、お相手って、冗談だよ、ね?」
「うん」
そうですか。
「正直、明君にならいいかなって気もしないでもない、こともないけど、今は美憂里ちゃんのこと」
「わたしがどうかしましたか?」
明は心臓が一拍余分に打つ心地を味わった。倫子も同様だったらしく、目と口を真ん丸に開けている。美憂里は二人のすぐ傍らに立っていた。さっきからずっとそこにいたとしか思えないほどの近さ。
「美憂里……」
「はい。何でしょうか、だんな様」
透き通りそうなぐらいに肌の色は薄く、反対に夜の海のように瞳は深く濃い。美憂里は、名人が特別な技芸を凝らして作った精巧な生き人形を思わせた。――美しいという意味においても、また無機的という意味においても。
「どこに行ってたの?心配したんだよ」
「ごめんなさい。少し気分が悪くて、外の空気を吸っていました。それで申し訳ないんですけど、今日はこのまま帰らせていただけませんか?」
「それは……いいけど」
「ありがとうございます。明様、最初に思っていたより時間が無いようです。一緒に」
「あ、ああ」
美憂里は明の腕に手を掛け、促すように歩き出した。
時間が無いって、何のことだろう?
二人の背中を見送りながら、倫子は思った。
まあいいか。明日また聞いてみれば。
家に帰りかけた倫子だが、ふと思い立ち、取り出した携帯のボタンを押した。
(続く)
2005/ 7/16
Go to
Next
Back to
Main