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"Kiss/kiss"

(第6回)


       #

 通い慣れた道は特に考えるまでもなく足が勝手にルートを選んでくれる。やけに雑誌の品揃いのいいコンビニの前には自転車が乱雑に止められている。以前酔っ払いが自転車で突っ込んだ信号は、今でも凹みが残ったままだ。交差点を渡り、スーパーと郵便局の前を通り過ぎる。いつだったかプレゼントの応募ハガキを出しにきた郵便ポスト。賞品は何だったっけ。
 「怒ってますか?」
 静かだった。人通りは絶え、まるで時間の流れから取り残されたかのように、辺りには動くものの影とてもない。自分が生きて歩いていることすら忘れてしまいそうだ。
 「何も。怒ってなんかないよ。ただ、良く分らなくて。ちょっと整理したいだけ」
 美憂里は明の手を取った。
 「何が知りたいですか?言葉なんかいらない――良くそう言いますけど、でもやっぱり言葉は大事だと思います。特にわたし達の間では」
 明は頷いた。まあそうだろうな、と思う。何が「特に」なのかは分らなかったが。
 「わたしはここにいます。明様の一番近く、言葉を重ねることのできる場所に。偶然か必然かは分りません。良い事なのか悪い事なのかも。でも、幸福なことであるのは確かです。少なくとも」
 美憂里は足を止めた。どこまでも深い夜の海の色の瞳。まるで、そうまるで、黄泉の国にまで通じているような。
 「――わたしにとって。本当は、もう少しこのまま続けたかったんです。初めてのことで色々と楽しかったですし、明様のことを大切に想う人達がいることも知りましたから。でもやっぱり力が足りないみたいで……ごめんなさい」
 明は戸惑う。美憂里の言っていることがまるで理解できなかった。彼の困惑を押し包むかのように。
 美憂里は、明の手を自分の胸に導いた。ふうわりとやわらかい。
 「み、美憂……」
 「わたしは、あなたなくしては存在しえないもの。あなたのしもべ。受け入れてくれますね、だんな様?」
 「……ああ」
 「ではあなたも。言葉をください。証を。誓いを。あなたがわたしのものであることを」
 黒瞳が直ぐに明をみつめる。吸い寄せられるように。明は美憂里の身体を抱き締めた。自分が自分でなくなるような、宙に浮かんで溶けていくような、かつてない快感。思考が空白になり、感情が埋め尽くされて、たった一つの言葉だけが。

 「俺は君のものだ」

 「はい、だんな様」
 美憂里が答えるのを耳にとめたかどうか。
 明の意識はこの世界から消えた。


 これでやっと、一人。
 美憂里は深く息を吐き出した。傍には明が死んだように横たわっている。目は開いたまま、だが瞳にはもはや何も映していない。美憂里はしゃがみ込み、目蓋を閉じてやった。……意味がない行為であることは十分に承知していたが。
 人目につかないうちに早く立ち去らないと。頭ではそう思うのだが、どうにも億劫だった。仮に誰かに見られたところで、意識に干渉してごまかすことはできる。さっきまでは難しかったかもしれないが、今ならば大丈夫。とりあえずこの世界で形を維持するための核は手に入れた。後は身に馴染ませるために暫く休んでから、次の相手を……?
 美憂里は首を傾げた。自転車が一台、ミサイルみたいな勢いでこちらに突っ込んでくる。乗っている人の意識を探ろうとして、軽い平手打ちにも似た衝撃を感じる。向こうはかなり昂ぶった精神状態にあるようだ。美憂里は気を逸らしたが、しかし自転車自体にぶち当られれば、もっとひどいことになる。
 が、まだ理性の一片は残していたらしく、強烈なブレーキ音でタイヤを横滑りさせながら、間一髪、停止した。アスファルトにタイヤの跡が黒く筋を曳いている。
 乗っていたのはセーラー服の少女が二人、運転していた方はショートカットにはっきりとした顔立ち、不美人ではないのにいまいちセーラー服が似合わない。かたや荷台に横座りしていた方の少女は小柄で可憐、小学生といっても通りそうな幼な顔。
 未来と絵梨花である。
 美憂里は咄嗟に対応に迷ったが、未来は構っちゃいなかった。
 「アキラ!!ちょっとどうしたのよ、ねえ、目開けてよ、ねえってば!」
 路上に倒れている明の横に膝をついて襟首を掴んでがくがくと揺する。健康な人でも目を回して失神しそうな激しさだった。見かねて絵梨花が押さえにかかる。
 「未来、それ以上やったら明さん死ぬから」
 あながち大袈裟でもなかっただろう。顔が紫色になっている。
 「エリカ、どうしよう、息してないよ?やだやだ、嘘だよね、そんなのっ」
 「あんたが首締めてるからでしょ。ちょっと貸してみ」
 未来の手から明を解放すると、仰向けに寝かせて顎を上げ、絵梨花は大きく息を吸い、明の口に吹き込んだ。一回、二回。明はすぐに呼吸を再開する。目は閉じられたままだが。
 「はい、完了。ん、なに?」
 「エリカ、今の、ちゅー……」
 「あんたにもしたげよーか?」
 「ばっ」
 未来は我に返ったようにかぶりを振った。顔が赤い。
 「美憂里さんですね?」
 明のことは再び未来に任せ、絵梨花は立ち上がった。
 「あなたは?」
 「桐野って言います。未来の友達。明さん、どうしちゃったの?一緒にいたんですよね」
 「…………。どうしたんでしょう。たぶん貧血かなにかじゃないかと」
 「へえ。だんな様とかいってるわりには、あんまり心配そうじゃないですね」
 「いえ、そんなことは」
 「っていうか、あんたが何かしたんでしょっ!アキラを返してよっ」
 明の首を抱いたまま、未来が怒鳴りつける。美憂里は困り果てたように首を振った。
 「返して、と言われても……。明様ならここにいるじゃないですか」
 「いないもん。いるけどいない。あんたがどっかにやったんだ!」
 美憂里に向けて。未来は指を突き付けた。

 明は目を覚まさない。高山教諭(絵梨花に携帯で呼び付けられた)は医者に連れて行くことを提案したが、未来は家に連れて帰ると言い張った。美憂里は黙し、絵梨花は肩を竦めて「未来の言う通りにしてやって」と言った。
 未来の自転車を漕いで北久保家の前に辿り着くと、高山が赤いクーペに寄り掛かり、だるそうに煙草を吸っていた。絵梨花は自転車を止める。
 「どう?」
 「良く寝てるさ。数学の授業の夢でも見てるんじゃねえか」
 「高山先生の?」
 「高山先生の。ガキ共にはかなりの催眠効果があるらしいからな」
 高山は煙草の箱を振って一本を振り出すと、絵梨花に向けた。
 「なあにこれ」
 「さっき一本貰っただろ」
 「ばっか。こんなとこで吸えるわけないじゃん」
 「なぜ」
 「先生、あたし中学生」
 「……ああ」
 高山は前髪をかき上げた。
 「何をいまさら」
 「だって」
 「ん?」
 近所の人にでも見られたら、未来に迷惑かけちゃうかもしれないし。
 「なんでもない。先生、来てくれてありがとね、助かった」
 気にするな、というように高山は片手を挙げた。

 部屋に入ると、登場人物が一人増えていた。高等部の制服だ。会釈をすると、にっと笑い返してくる。この人が倫子さんだろう。未来に電話をしてきた人だ。
 明はベッドに、その枕元にかぶりつくようにして未来。
 「お帰り。座んなよ」
 と倫子。
 頷いて、絵梨花は腰を下ろした。美憂里がポットから急須にお湯を注ぎ、緑茶を淹れてくれた。
 「どうぞ」
 「どうも」
 ずずっと一口。
 美味しい。色も香りも薄目だが、ほのかな甘味が爽やかだ。
 「おいしいでしょ、美憂里ちゃんの淹れたお茶」
 あえて同意しなかったのは、未来が涙目で睨みつけてきたからだ。
 湯呑みを置いて、未来の隣へ移動する。未来は駄々をこねるようにそっぽを向いた。
 「だからやめた方がいいって言ったんだよねぇ」
 「はい?」
 唐突な倫子の言葉に、絵梨花は振り向いた。
 「美憂里ちゃんと関わるの。良くない感じがしたのよ」
 「…………」
 そういうこと本人の前で言いますか、普通。
 美憂里はといえば、曖昧な微笑を浮かべてうつむいた。
 絵梨花は未来の手を握った。すぐに引き戻そうとする力が働いたが、離さない。やがて力が抜け、逆に弱く握り返してくる。絵梨花は両手で包み込むようにして握った。ぐすっ。未来は啜り泣きを始める寸前。敵(美憂里)の前ということで根性でこらえているのだろう。抱き締めて頬摺りしたい。
 「いちおう確認しときますけど」
 肩を抱き寄せることで妥協して、絵梨花は言った。
 「美憂里さん、明さんがこうなった原因に心当りは」
 あるわけないだろうけど。
 「…………」
 あるのかよ。
 あっと思う間もなかった。
 「馬鹿、未来!」
 止めようとした時には既に遅く。
 アンティークっぽい真鍮製の目覚し時計(未来が誕生日プレゼントに明にあげたやつだ)が床に転がった。
 「……痛」
 美憂里の顔面を、直撃したその後で。
 左眼の上の辺り、溢れ出るというほどではないが、鮮やかな紅色が流れ落ちている。
 「やっぱり、あんたのせいなのね……。お兄ちゃんを返してよ」
 「できません」
 「どうしてよ」
 「もう言葉を交わしてしまいましたから。わたしは明様のもので、明様はわたしのもの。あなた方と違って、わたし達にとって言葉による誓約は絶対です。覆すことはできません」
 「そんなことよりかさ」
 美憂里の傷口の周辺をティッシュで拭いながら、倫子が言った。
 「美憂里ちゃん、病院行かないと。傷痕残っちゃうよ。話なら後でもできるでしょ」
 「ありがとうございます、倫子さん。でも大丈夫です。基本的にわたしは不死身ですから。一晩も経てば治ります」
 大丈夫かよ、このひと。
 絵梨花は思った。ちらりと横を見る。未来もなんだか目が据わってるし。
 「なんなのよあんた。人間?」
 余りにもな問いだったが、美憂里はさらにその上を行った。大真面目にこう言った。

 「いいえ。悪魔です」

 目覚し時計の秒針がゆっくりと部屋の空気を震わせる。
 美憂里はあくまで穏やかだ。冗談を言っているようではないし、その場しのぎのでたらめをほざいているようでもない。事実を事実として告げた。そんな確かな重みがあった。
 明は健やかに眠っている。それとも死んだように。
 未来は口もきけない様子だ。
 絵梨花は態度を決めかねている。煙草が吸いたい。
 ああ、と倫子が手を打った。
 「なるほどね、流木笛だからか。ルキフェルとの引っ掛けだね」
 「なんですか、それ」
 「ルシファー、て言った方が分るかな。サタンよ。悪魔の親玉の名前」
 「はあ」
 「そんなことどうだっていいっ。あんたがお兄ちゃんに何かしたんでしょっ。元に戻せっ、それであたし達の前から消えて二度と現れるな!そしたら、そうし…たら、許してあげ……る、から」
 未来の背中をなだめながら、絵梨花は口を開いた。電波な話は別にどうでもいい。大切なのは未来のこと。
 「えっと、美憂里さん?何だか良く分りませんけど、未来を泣かせた人はあたしの敵です。っていっても霊能力も武道の心得もないですから、お願いするしかないんですけど。もしあなたが原因だっていうなら、何とかしてくれませんか」
 美憂里は首を振った。
 「無理なんです。さっきも言った通りに」
 「明さんはどうなるんですか?」
 「器……身体の方は、そのままです。生き物としての摂理に従うでしょう。明様を明様たらしめているもの、あなた方の言うところの魂はわたしの中に。ずっと」
 「へえ、そうなんだ。じゃあ、もし仮に美憂里ちゃんが死んだらどうなるのかな」
 いつの間にか。倫子は手の中でカッターを遊ばせていた。チキチキと刃を出したり引っ込めたり。怖。
 「わたしは死にませんから、普通の意味では。でもそうですね、もしもわたしの存在が消滅したとしたら、その時には明様も消えるでしょう。その逆も同じです。明様はわたしの初めての人だから」
 「信じないもん、そんなの」
 未来がぐすっと鼻を啜る。絵梨花はその頭を撫でてやる。
 「一つ訊いてもいいかな」
 カッターをくるくると回しながら倫子が言った。
 「どうぞ」
 「言葉による誓約は絶対、そう言ったよね」
 「はい」
 「それって、魂の遣り取りをする場合にのみ有効?あとは嘘ついてもオッケー?」
 「そんなことはありません。言葉はわたし達にとって何よりも重いものです。命そのものと言ってもいいぐらい」
 「じゃ、あたしのいうことも聞いてくれるよね?席取り替える時に約束したんだから」
 明の隣の席を譲る代わりにお礼をする。美憂里は確かにそう約束した。
 「ええ、はい。もちろん有効です。わたしにできることなら、ですけど」
 「明君は美憂里ちゃんのもので、美憂里ちゃんは明君のもの、それは変えられないってことね。たとえ美憂里ちゃん自身がそう望んだとしても」
 「そうです。幸いなことに……あ、いえ、残念ながら、です」
 未来が再び凶器を物色しだしたのを見て、美憂里は言い換えた。不死身とはいっても痛覚がないわけではない。
 「そっか。はい、ちょっと持って」
 「? はい」
 倫子は制服のジャケットを脱いで美憂里に手渡した。
 「それは誰のもの?」
 「倫子さんのです」
 「うん、それはあたしのもの。でも今あたしの手元にはないし、そうやって美憂里ちゃんが触れることだってできる。……ってことで、あたしからのお願いね」

     #

 たまにはこんなこともある、か。いやいや、滅多にないだろう。
 「お兄…ちゃん?」
 目を覚ました北久保明が最初に目にしたものは、自分の首っ玉にすがりついて瞳をうるうるさせている妹だった。
 「わーん、お兄ちゃーん」
 えんえんと泣き出した妹の背中をとりあえずぽんぽんと叩いてやりながら、アキラと呼び捨てるのはまだましな方、バカ呼ばわりも日常茶飯の妹のこの状態に、明は暫し途方に暮れる。
 なんだ、夢か、これは?
 そう思ったが、たとえ夢だとしても妹に手を出す趣味はなかったので、未来を抱き支えやりながらも、明はベッドの上に身を起こした。
 途端、突き刺さる三対の視線。
 「うわっ、何!?」
 「良かったね、明君。また未来ちゃんとあんなことやこんなことができるね」
 「…………。未来がいいなら。あたしはそれで」
 「でも、明様がわたしのものだという事実は変わりませんよ。ね、だんな様?」

 明の受難はまだまだ続く。
(了)
2005/ 7/23
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