Back to Main

"SKIP!!"

(第1回)

 吐く息も凍りつきそうな冬のさなか、色の褪せたカットオフジーンズから伸びた足はひときわに目立っていた。男なら誰でも惹かれるに違いない……というにはまだ早い。フトモモに肉付きは薄く、ローカットのコンバースへと続くすんなりとした足首は、締まっているというより単に細いだけで、五年後ならともかく、現段階では「フェロモン全開!」というにはほど遠い。

 だが。それゆえにこそ。

 遥か大サバンナを探検してでもいるみたいにアスファルトの上を弾んで歩き、路駐の車のボンネットで丸くなっている猫と朝の挨拶を交わし、昨夜の雨が残した水たまりを一息に跳ね越えて、その勢いのままに走り出す。
 たとえば疾駆する仔狼のような。
 たとえば羽ばたく若隼のような。
 性の呪縛から自由な者の、根源の生命の輝きを、その少女は持っていた。

 「よいっと」
 発車のアナウンスが谺するプラットフォーム。
 階段を駆け上がってきた藍響(あい ひびき)は、軽やかなステップで車内へと滑り込んだ。直後、背後でドアが閉まり、挟まれかけたバッグパックを間一髪救い出す。ぎりぎりのクロス・プレイ。けれどどこか余裕げな印象は、口元に刻んだ笑みのなせる技か。
 ダッシュしたのは駅のだいぶ手前からだったのだが、少女は息を切らせていない。しかし暖房と人いきれとで温められた空気にはさすがにヘキエキしたらしい。シクサーズのロゴの入った帽子を脱ぐと、うちわがわりにパタパタとあおぎはじめた。ショートカットの間からのぞく素直な額には薄く汗が滲んでいる。
 帽子をかぶり直し、扉口付近の手すりを掴んだ。人が多くて窮屈だが、通い先の学校まではたったの三駅だ。どうということはない。
 次の駅が近付き、電車が減速を始める。
 足の裏側に何かが触れた。艶消し黒のアタッシュケース。ダイヤルタイプの鍵が把手の脇に付いている。番号は4989。視線を上に。折り読みされてる経済新聞。銀縁眼鏡が、一心に活字を追っている。
 電車が止まり、響は端に身を寄せた。銀縁眼鏡が身を屈めてアタッシュケースに手を伸ばす。ドアが開いた。降客がわれがちに出口へと押し寄せる。このまま身を縮めてやり過ごすか、流れに乗っていったんホームに降りるか、わずかに迷った、その時。
 「ひゃうっ」
 内股の間を、生温かく湿った感触が下から上へ。
 おぞましさに悲鳴を上げて、一瞬遅れて理解に及ぶ。
 掌で撫で上げられたのだ。さらに全身、さぶいぼが立つ。
 あの銀縁眼鏡の野郎だ。
 アタッシュケースを拾い上げるふりで、どさくさまぎれに触っていきくさりやがったのだ。
 偶然?
 あり得ない。
 ちょっと手が当たるぐらいならともかく、付け根近くまで滑らせて行ったのだから。あともう、ほんの少しで、あそ……。
 響は、大きく息を吸って、吐いた。

 OK,READY――GO!!

 閉まり切る直前のドアから飛び出し、ターゲットをロック。敵はホーム後ろ側のエスカレーターへ。響は右に左にとステップを踏みながら、珊瑚の中を泳ぐ魚みたいに、人の狭間を縫っていく。だが降り口にたどり着いた時には、男はもうエスカレーターの最下端近くにまで達していた。意外と素速い。変態野郎のくせに。
 エスカレーターには順番待ちの列ができている。すぐ隣には階段があったが、得意技の三段飛ばしも、人がこう多くてはさすがに無理だ。
 どうする。あきらめる?
 まさか。


 連日の残業&自腹接待の深酒で身も心も切なくなっていた高橋善蔵(三十九歳独身)は、惰性とあきらめとわずかに残った義務感とで体を引きずるようにして、いつもの出勤ルートをなぞっていた。
 視線は自分の靴の先三センチの位置に固定され、どこをどうやって歩いているのかすら判然としないままに、流れ流れてエスカレーターの昇り口へと漂着した。大した高さでもない筈のその向かう先が、ひどく遠くに感じられる。天国への十三階段。そんな言葉が頭に浮かび、思わず涙ぐみそうになり。
 ……え?

 天使が、舞い降りた。
 いやさ、駆け抜けた。

 上りと下りのエスカレーターの間、手すりに挟まれた銀色の斜面を、直滑降に全力疾走、その天使は、口をあんぐりと開けた善蔵とのすれ違いざま、ジャンプ一番。
 スニーカーの靴底が擦れる「キュッ」という音を置き去りに、高く高く、飛翔した。
 微かな風が、遅れて過ぎる。
 秒速百メートルの突風にあおられでもしたみたいに、善蔵は尻餅をついた。尾てい骨をしたたかに打ちつけたことにさえ気付かぬ様子で、天使の行く末に目を奪われ、白い羽でも落ちていないかと捜しても、あるわけもない。
 「……あの馬鹿たれ」
 その時ちょうどエスカレーターから下り立った長身の青年が、嘆息するように呟いたが、もちろん善蔵の耳には届かなかった。


 着地した反動を三歩で殺し、全方位型レーダーみたいにぐるりと回転、南口を向いた所でストップ。黒いアタッシュケースにコートにスーツ、似たような身なりは他にもいたが、響は見誤らなかった。
 改札に並んでいる幾つかの列のうち、そいつは小柄な女生徒の後ろについており。
 響は即決する。手加減無用。


 藤田直子(十三歳中一)は突如として訪れた重苦しい気分に悩まされていた。ひょっとするとこれがアレの前触れというやつなんだろうか。友人達の話によればひどくユーウツなものらしいが、クラスでも少数派の「まだ」である直子には、当然何の用意もしていない。一度トイレに行った方がいいだろうか?けれど改札はもう目前で、それに重苦しい気配は何だか後ろから迫ってくるみたいな感じがして、反発する磁石みたいに身体は前へと進む。手が滑った。
 取り落とした定期を拾おうとして、身を屈めた直子は、気付いて、しまった。
 後ろに並んでいる男の人が、ミクロン単位の超超至近距離にいたことに。そして触ってしまった。触ってしまったのだ。ズボンの前の、その、出っ張っている、部分に。血の気が引いた。銀縁眼鏡の奥の眼がこちらを向いて、またすぐにそらされる。ごまかすみたいに。うろたえたみたいに。やましいところでも、あるみたいに。……やだ。気持ち、悪い。
 胃の腑が硬く強張り、とにかくこの場から離れたくて、半ばよろめくように足を踏み出した、だがその刹那。

 真空飛び膝蹴り。

 放たれた技の名を、直子は知らない。
 しかし威力の程は十二分に理解することができた。
 男の人の目玉はくるりと白く裏返り、身体はへにゃりとくずおれる。その傍に、着地したのは一人の少女。落ちた帽子を拾ってかぶり直したその瞳が不敵に笑んだ。


 ――会心の一撃、これぞ天誅。
 己の所業の卑劣さを身をもって思い知れ。
 銀縁野郎は大の字に引っ繰り返り、小刻みに震える目蓋の他はぴくりとも動かない。きっと頭の中では脳がぐるんぐるん揺れているだろう。誰にやられたのかも、何が起こったのかすらも理解の外に違いない、って、駄目じゃん。
 響は男の脇にしゃがみこみ、呼吸を確かめ、脈を測り、目蓋を裏返して、当分は目を覚まさないだろうと診断した。トイレにでも引きずっていって水をぶっかけて、それから改めて説教する?犯した罪の深さについて?変態野郎と差し向かいで?ジョーダン、真っ平御免。
 響は立ち上がった。さぞかし盛大な人垣ができたかと思いきや、行き過ぎる人々のほとんどは何の関心も払おうとせず、あるいは少なくともかかわろうとはせずに改札を抜けていく。こちらに向かって来ようとしていた駅員は、黒のロング・コート姿の長身の青年に何やら話し掛けられ引き留められていた。
 その青年は一瞬だけ響の方を顧みて、背中越しにぶらりと手を振って寄越す。早く行け、のジェスチャー。
 ……まずったな。あいつもこの駅使ってるんだっけか。
 帽子を持ち上げ髪の毛をくしゃりとかき混ぜると、一人呆然と立ち尽くしている女生徒に「じゃね」と声を掛け、響は再び走り出した。
 既に遅刻は決定済み。
(続く)
2005/ 1/29
Go to Next
Back to Main