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"SKIP!!"
(第2回)
残るは一つ。あるいはたどたどしく、あるいはきっちりと、あるいは豪快に、それぞれの流儀で黒板には解答が記され、ただ問いのかっこ3番の下だけがぽっかりと空いている。
「どうしたのかしら、仲安君。宿題やってきてあるんでしょう?」
ソフトな口調に優雅な笑顔。普通、誰が見ても、声を荒げることなど絶対にありそうもないような、若くて美人の先生だ。
仲安君麻呂は答えない。チョークを握ったまま、癇の強そうな面には、不貞腐れた気配がありありと浮かんでいる。
中野先生は君麻呂の細っこい肩に手を置いた。
「仲安君。間違えることは少しも恥ずかしいことじゃないわ。頑張ることが大切なの。頑張った結果なら、価値は平等よ。だから、間違ってもいいから、やってきた通りに書いてごらんなさい。ね?」
君麻呂は手を振り払った。
現政権の閣僚にして私立啓明学院の理事である父を持つ君麻呂だ。校長ですら彼の前では卑屈に笑って世辞を言う。ましてや大学を出て二年にも満たない新米教師など、物の数ではない……筈だ。
中野先生は困ったように首を傾げる。耳に下げたシルバーのアクセサリーがちゃらりと鳴った。
「仲安君、確か先生、最初に確認したわよね。宿題を忘れた人はいませんかって。そしたら誰も返事をしなかった。三島君、そうだったわね?」
「うははい」
突然の指名に反射的に立ち上がった三島だが、君麻呂の無言の恫喝に思わず首を竦めた。
クラス内での三島のポジションは微妙だ。どちらかといえば周縁のグループに属しているのだが、主流派ともそこそこに付き合いがある。かたや君麻呂は主流ど真ん中、クラスどころか学校全体を締めているといっても過言ではない。睨まれたら生きていけない。
そんな心境を知ってか知らずか。中野先生はにこやかに続けた。
「ということは、仲安君は宿題を、やってきている/やってきていない、さてどっち?」
悪魔のような設問だった。
「どっち?」
答えられるわけがない。
三島は脂汗を流し、中野先生は笑顔を崩さず、君麻呂はやってられないとばかりに自分の席へと戻りかけ、そしてその襟首を、中野先生のほっそりと長い指ががっきりと捉えた。
「ほら、早く答えてあげないと、仲安君だって困るんだよ?」
中野先生の右手がゆっくりと上に持ち上がっていく。
吊り下げられる格好になった君麻呂の顔が紫色に染まっていく。
教室後方の戸が、開いた。
何の遠慮も会釈もなく、今が授業中であるとか児童が一人縊り殺される寸前であるとか、とにかく状況をとことん徹底的にこれでもかとばかりに無視した開き方だった。
教室に座席は全部で二十六、五×五に並んだ正方形に、一つだけはみ出した窓際最後部のその場所へと藍響は歩く。
机が逆さまに置かれていた。元に戻す。椅子の上に腐ったミカンが放置されていた。指で摘んで隅のゴミ箱に放り込む。ティッシュで軽く拭って腰を下ろし、バッグパックを机の脇の金具に引っ掛けると、かぶったままの帽子を引き下げ頭の後ろで手を組んで、それではおやすみなさいとでもいった風情。
中野先生は笑顔のままだ。しかしその性質が微妙に変わった。
教室に不穏な気配が満ち満ちる。生唾を呑み下す音がそちこちで上がった。
「宮居さん?」
「は、はいぃ?」
明らかに怯えの混じった声で、それでも気丈に返事をする宮居みさおはクラス委員である。三つ編みを両側に垂らしたノスタルジックな髪型が良く似合い、古いモノクロの映画に出てくるような、今では貴重なタイプの美少女だ。
「なんでしょう、先生?」
自分にできる精一杯の愛想を浮かべてみさおは応じる。
絞首刑を免れた君麻呂は呼吸を再開するのに忙しげだ。
三島は誰にも気付かれないようにと願いながらそっとそっと着席する。
響は完全無視を決め込んでいる。
そして中野先生は言った。
「先生ね、体罰って大嫌いなの。言葉で分りあおうとする努力を払わないで暴力に訴えるなんて、教師として以前に人として失格だわ。そう思わない?」
「そ、そうですねっ」
「だから先生はこれまで一度も体罰を行ったことはありません。それはこれからも同じです」
「…………」
中野先生は教室内をぐるりと見渡す。麦畑に一陣の風が吹き渡ったみたいに、児童達の面が一斉に伏せられる。
「けどね」
中野先生は、世にこれ以上楽しいことはない、といった笑みを浮かべた。
「愛の鞭を振るうのはね、少しだけ得意なの。意外でしょう?」
(続く)
2005/ 2/10
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