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"SKIP!!"

(第3回)

 ――ハイヒール。
 脚をすらりと長く見せるため、といった実用よりは装飾上の理由により、主に成人女性が着用に及ぶ靴であり、読んで字の如く踵部が高くなっているのが特長である。
 接地面積が小さいために安定性に欠けており、飛んだり跳ねたりするのには向いていない。ましてやそれを履いた状態で格闘に及ぶなど、論の外である。
 鶴が首を折るように、中野先生は優雅に上体を屈め、足首を固定していたストラップに指をかけた。スナップが外れ、するりと足が引き抜かれる。

 ――ピンヒール。
 ハイヒールの中でもとりわけ踵が高く、そしてその先端部がピン=針のように細く尖っているもののことだ。当然、運動性はひどく低い。だが実用性という観点からすると、また別の側面を有していたりもする。
 いわゆる女王様の必須アイテム。
 踏みにじられたりすると大変に気持ち良……もとい、痛い。手に持って踵で殴られでもした日には流血必至。

 しずしずしず、と。
 まるで茶会の席ででもあるかのように、ストッキングに包まれた足の裏がひそやかに床を踏む。
 だが手にしているのは扇子でもなければ茶器でもない。
 紅のピンヒールが、ゆらゆらと、揺れて。
 止まった。
 窓際の列の一番後ろ、正方形からはみ出した、そこは藍響の指定席。
 響は、相も変わらず。シクサーズの帽子を目深にかぶったまま、顔を上げることもせず。
 ふふ。
 中野先生は含み笑った。右手のヒールを高々と掲げる。位置エネルギーは最大限、あとは振り下ろすだけ。

 果たして幾人が気付いていたか。
 さっきまでゆるりと投げ出されていた響の足が、バネを引き絞るみたいに、身体の方へと引き付けられていたことに。

 紅の残像を引いて、ピンヒールが風を切った。

 「あら?」
 頓狂な声を上げたのは、中野先生。
 響は、前腕を上げて、凶器と化したヒールが額に叩っ込まれるのを防いでいた。踵の先端と帽子との間隙は、指一本分もない。
 「藍さん、何してるのかしら」
 「……それはこっちの台詞」
 ぎりぐりと体重を掛け押し込まれるのに抵抗しつつ、響は言った。体勢は圧倒的にこちらが不利、身長体重ともに中野先生の方がずっと上、それでも持ち堪えていられるのには、何かコツでもあるものか。
 中野先生は目を細めた。愛しい我が子を見つめるかのように。
 「……ほんとうに、いけない子。いいですか、藍さん、目上の人の御指導にはね、謙虚に従わなければいけません、よっ!!」
 「ひゃんっ?」
 忘れていたわけではない。靴というものは二つで一足、右の他に左があるのだ。
 だが一方に集中しているさなかでの真後ろからの不意打ちには、さすがに一瞬反応が遅れた。咄嗟に頭を下げたものの躱し切れず、鋭鋒は帽子を掠め、掠められた帽子は、UFOみたいに回転しながら宙を舞った。
 それが幸いした。
 ほんのわずか、中野先生の注意がそちらに逸れた隙に、響は椅子ごと倒れ込むようにして後方転回、すかさず距離を取る、追い掛けても間に合わじと見たか中野先生は振り向きざまバックハンドでヒールを投擲、響はそれをゴミ箱を楯にして弾き返した。
 ゴイン、という心臓に悪そうな音を立てヒールは転がった。
 五×五に並ぶ座席のど真ん中、宮居みさおの座る椅子の足元に。
 宙にあった帽子が力を失いふわりと落ちた。
 五×五に並ぶ座席のど真ん中、宮居みさおの使う机の上に。

 「……………………」

 ぎっぎっぎっと首を軋ませみさおは左を振り向いた。
 中野先生の夜叉の如き微笑にぶつかり即行で正面に向き直る。
 ぎっぎっぎっと首を軋ませみさおは右を振り向いた。
 響の、オットコマエな寄らば斬るぞの視線に撃たれ、電光石火で正面に向き直る。

 「……はは。あはは……」

 ――もしも、この状況が、あと五秒間続いていたら。
 彼女の中の何かが切れて、優等生の美少女みさおは小六にして、小便垂れの汚名を冠されることとなっていたやもしれぬ。
 しかし天はみさおに味方した。
 それはまるで楽園へといざなう鐘の音のように。
 授業の終了を告げるチャイムが、鳴った。
(続く)
2005/ 2/15
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