Back to Main  /  Novels

"SKIP!!"

(第7回)

 遠くから、とても遠くからその一撃は飛んできた。元よりリーチは向こうがずっと上、間合いは十分に取っていた筈だった。だが気付いた時には距離はゼロにまで縮められ、躱すことができたのは、ほどんど単なる偶然だった。
 首を捻ったすぐ脇を拳が掠めていく。
 耳元で唸る凶悪なまでの風切り音を聞きながら、響はよろめくように後ろに下がった。壁に背中が当って止まる。追い討ちが来れば、今度こそ、やられる。
 「くっ」
 覚悟を決めた響だが、相手の様子に、殴られた以上のショックを受けた。
 相良は、案山子みたいに道場の真ん中に突っ立っているだけだった。構えを取ることもなければ、つい今しがたKO必至の攻撃を放ったという気ぶりすらもない。幻でも見たのだろうか。そう錯覚してしまいそうだった。
 身を切るような冷気の中、ひとすじの汗が響の頬を伝い流れる。
 「終わりにするか?」
 相良が口を開く。息の乱れは全くない。それどころか、そもそも息をしていないのではないかとすら思える。
 「冗談」
 まだ一本も入れていない、どころか触れることさえできていないのだ。
 響は板の間に足を滑らせた。黒い袴に白い道着姿。相良も同じ格好だ。
 広くはない。せいぜいが二十畳ぐらいの、黒っぽい板張りの空間である。響の住む屋敷に設けられた、小さな道場。
 響は大きく前に踏み出した。カウンターを来るなら来い、貰ってもいいから絶対に一発喰らわせてやる、そんな気迫がこもっていた。
 相良の身体がゆらりと揺れる。まるで影か霞を相手にしているよう。
 「せいやっ!」
 ほとんど勘で左後方に回転蹴りを放つ。空振り。どこだ?と考えている間に膝を抜いて上体を沈める、バットでも振り回しているみたいな気配が頭上を行き過ぎる、身体を丸めて床を転がり、立ち上がりざま壁を蹴るようにして跳躍、居たっ、反対を向いている相良の後頭部目がけ、些かの加減なく足刀を叩っ込む。そこは急所中の急所、人体で最も脆い部分の一つ。転んで頭を打って死亡、というケースは例外なくこの部位への衝撃によるものだ。そこへ。少女の身とはいえ縫いぐるみなどとは違う本物の重みを備えた蹴りがぶち当たれば。――十分に殺傷可能。
 掴まれた。
 全身が総毛立つ。
 いったい、どこからどのようにして手が伸びてきたものか。ほとんど空中からいきなり出現したとしか思えない唐突さで、響の素足に相良の指が絡まっている。強い力を感じさせない代わりにまるで吸いついてくるようで、少しばかり足をばたつかせた程度では離れそうもない。
 だがそれ以前に。
 響は自分の身体のコントロールが全くできなくなっていた。単に不安定な体勢だからというのではない。相良に掴まれた部分からまるで体内に操り糸でも通されたみたいに、響は文字通り、相良の手の内にあった。
 棒のように固まった響の身体から、袴の裾だけが重力に引かれるままにだらりと垂れる。
 は、離せ……。
 という言葉も声にはならない。
 だが相良には聞こえたかのごとく。
 空中での拘束が解かれ、響は身を捻って着地す……できなかった。
 相良がしたのは撫でるように響の顎を押したこと。ただそれだけで。響は、落下した。頭から。

 ……力が入らない。全身が泥を詰められたように重い。
 どうしちゃったんだろう、あたし?
 起きなくちゃ、と思う。起きて学校に行かなくちゃ。学校は嫌いだけれど、約束したから。"術"を教えて貰う代わりに、きちんと行くって。
 でも今日はなんだか体の調子が悪い。無理はいけない、お父さんの口癖。いいか、響、体はいたわらなければいけない。体ときちんとつき合って、いつも良い状態にあるように心掛けなさい。"術"なんて大袈裟に言っているけれど、それだけ出来ればいいんだ。体と心が一つであることを知りなさい。
 そうだ、無理はいけない。学校には行く、でももう少しだけ休んでから。頭も痛いし。風邪かな?でもちょっと違うみたい。どっちかっていうと、どこかにぶつけたみたいな。どこでぶつけたんだっけ。確かサガラと遊んでて、それで……そうだ、相良は!?
 響は跳ね起きた。相良の姿を捜す。いない。どれくらい意識を飛ばしていたんだろう?すぐに立って反撃して、今度こそあの鉄面皮に泡を吹かせ……て。
 あれ?
 ここはどこだ。薄暗い道場の空気は取り払われて、変哲のない蛍光灯の光が白く室内を照らしている。響は目を瞬かせた。
 何のことはない、自分の部屋だ。ベッドに上体を起こした姿勢で、しばし茫然とする。
 やわらかい橙色のカバーの上掛け。その上に濡れタオルが落ちている。響は手を伸ばし、その湿った冷たい感触に、ようやく状況を理解した。
 つまり。
 相良の邪悪で卑劣な姦計にかかり、あえなく失神とあいなった挙句に、道場からここまで運び込まれて来たわけだ。後頭部にそっと手をやってみる。
 うわ、でか。
 瘤だ。当分は仰向けには寝られないかもしれない。
 深く息を吐いて、ベッドから出るべきか、もう少し寝ているべきか思案する。頭を打った後だ。常識的に考えれば、安静にしているべきだが、いつまでも寝ているのも癪に障る。
 起きよ。
 思ったところで、ドアが開いた。
 「相良……。何、そのカッコ」
 思わず、目が点になる。
 「見りゃ分るだろう。飯作った。食べられそうか」
 長身にピンク色のエプロンは寸詰まりでかなり格好悪い。あの西崎とかいう女の人が見たら何と言うだろう。だけど相良のこんな姿を目にする機会があるのは、多分、自分だけだ。
 「うん、お腹空いた」
 真鍮のアンティークなデザインの目覚まし時計は七時半を指している。二時間以上も寝ていたわけだ。
 ベッドから出ようとして、自分がパジャマ姿でいることに気が付いた。相良はドアの付近に身を寄せたままこちらを眺めている。響は上掛けを身体の前に引き寄せた。
 「着替えたらすぐ行くよ」
 「着替える?」
 相良は意外そうな声を上げた。
 「うん。だから出てて」
 「なぜわざわざそんな手間を掛ける。適当に上に羽織ってくればいいだろう」
 「そんなの……」
 恥ずかしい、じゃんか。
 「武士として当然のたしなみだよ。起きている時はきちんとした格好をしなきゃ駄目だって、お父さんだって言ってた」
 「そりゃ嘘だろ」
 相良は言下に否定した。別に響の動揺を見抜いたわけではない。単に事実を知っているだけだ。自宅にいる時の藍拓人は、稽古中を別とすれば、よれよれのシャツにしわだらけのコットンパンツが定番だった。
 「うっさいな。いいから出てけっ!」
 呆れたような吐息を残し、相良がいなくなった部屋の中、パジャマのボタンを外そうとして響は、ふと、手を止めた。
 あたし、いつの間にパジャマなんか着たんだっけ。
 稽古中は、もちろん道着だ。その最中に失神して、目が覚めたらもうこの格好だった。朦朧とした状態で自分で着替え、だがその記憶がなくなっているという可能性もないではない。ないではないが。
 相当に、低い。
 それよりは。
 誰かが着替えさせてくれた、と考える方が自然だろう。そして今現在この家の住人は響一人だけ。また、この家を訪れるのは相良一人だけ。
 2、引くことの1は、1。

 ……マジ?

 ちなみに、道着は素肌の上に着るのが本来だ。下着は一切身につけない。Tシャツの類は当然として、下にも穿かない。父はそうしていたし、相良もそうしているだろう(確かめたことはないが)。そして、響も、もちろんそうしている。
 太陽にでも漬け込んだみたいに、響の顔が一気に赤くなった。
 ま、い、いっか、相良だし。家族みたいなもんだし、これが初めてってわけでもないし。相良になら、さ。今さら、だもん、ね。はは、あはは。
 乾いた笑いを洩らしながら。
 もう一回失神したい。
 心の底から、響はそう願った。
2005/04/29
Back to Main  /  Novels