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"相棒"
Act 1
今だって覚えてる。あいつといた時の感覚を。世界が自分達のためにあるような、未来がどこまでも真っ直ぐに続いていくような、コンマ一秒まで満たされた輝きを。
あいつと俺の歴史は桜台幼稚園で三国先生を好きになった時にさかのぼる。三国先生は髪の長い優しい人で、お遊戯の時間には先生と手をつなげるポジションを争って肘を入れたりすねを払ったりした。もちろん勝つのはいつも俺だったが、時には譲ってやったこともある。先生を守る同士でもあったからな。先生のお尻に両手タッチを敢行した不届き者の背中に、あいつが取ってきた十二匹の毛虫を襟元から流し込んだりとかさ。先生はお嫁に行って辞めてしまったけれど、あの時は二人とも本泣きしながらおまえのせいだって罵り合ったっけ。
小学生になった俺達はサッカーに夢中になった。学校にあったチンケな部なんかじゃなくて、れっきとしたクラブ・チームのジュニアに入ったんだ。俺は誰よりも速く走れて、あいつは誰よりもボール捌きが上手かった。あいつが敵からボールを奪い、ディフェンダーをかわしてボールを前に蹴り出す。タイミングぴったり俺は全力で飛び出して、ただ一人ボールに追い付きそのままシュート!
このパターンで何点取ったか知れやしない。ハットトリックだって朝飯前の、俺達は無敵のコンビだった。
いつか俺とあいつのツートップでワールドカップ決勝でゴールを決める。そんな途方もない夢が、夢じゃなく手を伸ばせば届くところにあった。俺が得点王でおまえがアシスト王だぜ!市の大会でぶっちぎりで優勝した帰り、寄り道したコンビニの前に二人で座り込んで祝杯を上げながら、俺は言った。
グラン・ブルーは俺達のチームだ。これからもっと強くしてくし、勝っていく。でもこんなのはただの始まり、初めの一歩ってやつだ。俺達の相手は世界だぜ、なあ。
唾を飛ばしてまくしたてる俺に、あいつは迷惑そうに顔を拭って。
そんなの無理に決まってんだろ。なに考えてんだよ、おまえ?
あきれたように言った。俺は即座に言い返した。
無理なんかじゃねーよ!俺はおまえがパス出す場所なら見なくたって分る。おまえも俺がどこでボール欲しがるか、俺が声出すより先に知ってる。誰も俺達にはついて来れない。だからさ、ずっと一緒にやってこうぜ。俺はおまえがいいんだ。おまえだってそう思うだろ?
そう言うと、あいつは目を丸くして。
ばーか。
って。笑った。
──そしてその日を最後に。
あいつ、水郡琴は、俺の前から姿を消した。
#
空は青く、空気は切れそうに冷えていて、俺、鹿島琴悟は屋上で鳥肌を立てていた。手にはずしりと重い独逸製高精度双眼鏡、丸く切り取られた視界の先で、カーテンは閉められていないから、二─Aの教室の中は丸見えだ。安藤のたて笛を挟めそうな胸の谷間も、秀才で真面目っ子の直江が意外と派手なピンクのブラを着けていることも、陸上部の川瀬のモデルみたいに引き締まったお腹も、全部OK。写真にでも撮れば一枚五十円ぐらいで売れるかもしれない。いや無理か。でも二十円ぐらいならなんとか──ま、そんなことはどうでもいい。
俺は別にすけべ心でこんなことをしてるわけじゃないんだ。佐々木の肌がやたらと白くてエロいとか、野地のやつ細っこいと思ってたけど実は意外とスタイルいいなとか、うわ韮口だすげえ段腹とか、そんなクラスの女子達の下着姿が目当てなのでは断じてないったらない。
大体、俺にはかの子という彼女がいるわけで。あいつは俺にべた惚れだから、その気になれば下着どころかもっと色々と見ることだって触ることだってその先だって、できる。たぶん。
目的は一つだけだ。それさえ果たせればすぐにでも撤収するのだが、角度が悪いせいか、なかなか見付けることができないでいた。
教室の後ろから前へとレンズを流す。まだ体操服姿の奴は一人もいなくて、着替え中か、もう着替え終わってしまっているのもちらほらといた。ダメか。俺は舌打ちする。窓から遠くなると死角になる。目当ての席は廊下から三列目、ぎりぎり行けると思ったのだが。
ひときわ冷たく風が吹いた。かじかんだ手で双眼鏡を支えるのもしんどくなってきている。体を張り付かせている屋上の縁は固く、半端に身を屈めた姿勢の辛さを倍加する。俺はいったん後ろに下がり、軽く伸びをしてから、もう少しだけと思いレンズをのぞいた。
青が、流れた。
どこまでも澄んでいるのに鮮やかに濃い海の色。
見つけた。
学校指定のジャージとは明らかに異なる色彩へ俺は視角を固定する。
スカートをはいているところだ。ウェストのホックを止め、ジッパーを上げると、裾をたくし上げてハーフパンツを脱ぎ始めた。上はまだジャージのままで、他の誰とも違う青色なのは、転校してきたばかりだからだ。窓に背を向けるような格好で、時たま横顔がのぞける程度だが、クラスの男共を色めき立たせた整った面差しははっきりと見分けることができた。
さっさと脱げ。俺は心の声を飛ばす。ジャージの上に手が掛かった。だがこのままでは肝心の部分を見ることができない。背中なんて見えても嬉しくないっての。男でも女でも大して違わないんだから。
確かめたいのは、胸のふくらみがどうなっているか、だ。
脱ぎ終わったジャージを机の上でたたんでいる。長い髪を結んだポニーテールが惑わすように左右に揺れる。あとはシャツを脱いでこっちを向いてくれさえすれば。俺は祈るような思いで身を前に乗り出した。
しかし別の人影が視界を遮る。あれは、川瀬か?どうやら話し掛けているらしい。邪魔だったが、川瀬の肩ごしに顔が見えている。ってことはもしかすると。川瀬はすぐに傍を離れ、すると案の定だった。シャツをめくると、ちらりとわき腹がのぞいた。これなら胸も見える。グッジョブだぞ川瀬、あとでジュースおごってやるからな。
交差させた腕が持ち上がるにつれて肌が露わになっていく。腰からへその高さへ、なだらかになめらかに、そして──。
「琴悟くん?」
え。
脳と心臓を凍りつかせるような冷気が背中を這い上がった。気付けばレンズの中の姿はまた背中を向けていて、下着は薄い水色のスポーツブラだった。しかしそれもすぐにブラウスに隠される。チャンスは潰えた。そして、今ここにある危機。
「保健室行ったらいないからさ、探しちゃったよ。早退したにしては鞄まだあったし、どうしたのかなって心配したんだけど。……何してたの?」
ぎくしゃくと振り返った俺の顔を、かの子、山崎かの子はしげしげと見上げる。制服ではなくジャージ姿だ。着ているのは下から二番目に小さいサイズだが、袖も丈もたっぷりと余っている。シンプルなおかっぱ頭をピンクの輪ゴムで縛っているのも体育仕様のままだった。
薄い眉の下の丸い瞳は瞬きもせず、だがしだいに視線を下げて、俺のみぞおちの辺りで止まった。ストラップで首から吊るした双眼鏡がそこにはある。
「何してたの?」
かの子は繰り返した。あずき色のジャージの袖口からちょこんと出た指先が双眼鏡を突っつく。
「覗き?」
俺は急いで言った。
「いや、かの子、これはな、違うんだ。誤解だって誤解」
「ふーん?」
かの子は曖昧に相槌を打った。信じているともいないとも、その口調からは読み取れない。
正念場だ。もしもしくじれば俺に明日の朝日は訪れない。
「だいたいさ、俺が覗きなんてやるような男だと思うか?おまえの彼氏だぞ?おまえはそんなサイテー野郎とつき合うような見る目のない女じゃないだろ」
俺はかの子の小さな肩に両手を置いた。
「そうだろ?」
「どうだろ」
ドアをノックするみたいにかの子は俺の胸を叩いた。まるで鼓動の合間に滑り込ませるようなタイミングに、俺は息を詰まらせる。
「わたしのことは分んないよ。琴悟くんはそういう人とは違う、違うって思いたいけど。だけどもし、ひょっとしてだけど、琴悟くんが、わたしの着替えてるとこ見たいなとか、そんな気持ちだったんなら……」
かの子は真っ赤になってうつむいた。耳がスライスしたトマトみたいに染まっている。
「言ってくれれば、その、恥ずかしいけど、だってわたしまだ全然だし、見せられるようなものじゃないから、ってそうじゃなくて」
なんだかしどろもどろになっているかの子に、俺は安心させてやるように言った。
「大丈夫だって。心配するな。見たかったのはおまえじゃなくて他のやつだからぶぐほわっ!」
ワイヤーが巻き付いたのかと錯覚するような強靭な力が喉首を締め上げた。軽く視野狭窄を起こしながらも、俺はなんとか絞首刑から逃れようと引きはがしにかかったが、小さな身体に似合いの小さな手はボルトでロックされたみたいにびくともしない。頭の中で次々と花が花弁を開いた。赤、黄色、ピンク、ああなんて綺麗なんだろう。遠くでは川のせせらぎの音がしている。あの向こうに行けばきっと全ての悩みから解放されるよね。俺は幸せ一杯ラララな気分で向こう側へ渡ろうと──。
ふいに。締め付ける力が緩んだ。この隙に振り払って逃げ出そうなんて余裕はまるで無く、俺はずるずると尻をつく。咳き込むと、昔話に出てくる老婆みたいに喉はしわがれていた。
「……かの子?」
荒い息を整えつつ、膝蹴りを警戒して持ち上げた両腕の後ろから、一応俺の彼女であるところの相手を見上げる。風でばらけた前髪の合間に、三日月の形の白い傷跡がのぞく。平たい鼻は少し右に曲がっている。唇の脇にはかさぶたが取れかけていた。はがしたら怒るかな。ちょっとそんなことを考えた。
「やっぱり、可愛くないよね、わたし。分ってはいるんだよ?分ってはいるんだけどさ……」
あはは、と力無く笑う。罠か?これは罠なんだろうか?弱ったように見せかけて油断したところにきっつい一発をぶち込むとか。
だが圧倒的に自分が有利な状況でそんなフェイントをかます意味が分らない。俺はなおも不意打ちに備えながらそろそろと腰を浮かせようとした。
反対に、かの子の方がしゃがみ込んできた。額がぶつかり、反動で頭を後ろのコンクリにぶつけて目に火花が散った。くっ、やっぱり罠だったか。
「ねえ、琴悟くん」
完全に腰砕けになった俺に、額をくっつけたまま、ぽつりとこぼされる言葉はだけど弱いままで。
「これから、君にいくつか質問するから、正直に答えて。分らないなら分らないでもいい。言いたくなかったら黙っててもいい。だけど嘘は吐かないで。いい?」
「……うん」
喋るたびに額に振動が伝わってなんだか変な感じだ。
「わたしって、可愛い女の子だと思う?」
「あーっと、正直に?」
「正直に」
「微妙」
「…………。なにそれ」
額にかかる圧力が強まった。だが後ろはもう屋上の縁にぶつかっているから受け流すことはできない。もしも今、かの子の本気ヘッドバットを食らったら比喩でなく死ねる。少なくとも、頭蓋骨折は必至だ。
だがかの子は自制した。ふー、と吐き出す息がくすぐったい。微かにオレンジとミントの混ざったような匂いがした。
「うん、いいの。わたしだって、自分がアイドルみたいだなんて思ってるわけじゃないし。ちょっと、傷付いたけど」
「ごめん。でもだったらもうこんなの止めようぜ。終礼だって始まるだろ」
「もう終わってるよそんなの。さっきチャイム鳴ったじゃない」
「そうだっけ?」
「じゃあ次の質問。わたしのこと、好き?」
「答えるのか、それ。このシチュエーションで?」
「うん。嘘吐いたら殴るから。ゲンコで」
かの子の場合、ゲンコというのはいわゆる正拳突きのことだ。
「黙ってるのはあり、なんだよな」
そう言うと、かの子は息を呑んだ。決死の闘いに臨まんとするもののふのように、一度目を閉じて、再び開くと、言った。
「ありだよ。それが答え?答えられないっていうのが、答えなんだ」
「その前に俺も質問な。かの子、本当にイエスかノーかで答えて欲しいのか?正っ直にさ」
「──うん」
かの子は頷いた。必然的に俺の首も前に折れる。二人の鼻の先がこすれ合う。
「分った。じゃ、もう一回訊いてみて。今度は即答すっから」
「琴悟くん、わたしのこと、好きですか?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「嘘だったら殺すよ?」
「うん。っていうかおまえ、あんまそういうこと言わない方がいいぞ。洒落になんないから」
「だって本気だし」
かの子は俺にくちづけた。初めてではなくても、やっぱり俺は緊張する。この距離で襲われたら絶対に逃げられない。首をちょっと捻られれば、俺の人生は終わってしまう。
かの子は唇を離した。直ぐな瞳がしっとりと潤んでいる。
「ねえ、琴悟くん」
「なに?」
「またむかつくこと考えてなかった?わたしのこと、猛獣かなにかみたいに」
「俺はいつだって、おまえのこと女の子だって思ってるよ」
かの子は俺に抱きついた。
「ありがとう、大好き」
「うん、俺も」
俺も抱き締め返す。ちいさくて、やわらかくて、あたたかい。かの子のことはほんとに好きだし、ちゃんと女の子だと思ってる。ただちょっとばかり強いだけで。物理的に。世の中の大多数の男より。もちろん俺も多数派の方に入る。
「じゃ、最後の質問ね。いい?」
体をぴったりくっつけることはやめていたが、かの子はその代わりのように、俺の手に手を重ねてきた。
「いいよ、なんでも訊けよ」
俺はかの子の手を握る。かの子は小さく笑って、ついと顔をそらした。
「覗いてたのって、もしかして水郡さんが目当てだった?」
「あれ、良く分ったな」
「なんだ。やっぱりそうか」
かの子は笑って頷いた、ような気もするが定かじゃない。
気付いたときには俺は相変わらず屋上にいて、日はもう落ちて暗かった。身体は冷え切り、左の頬だけ手の平の形に熱い。
張り手一発で瞬殺とはさすがだな、かの子。まるで見えなかったぜ、ふっ。
殴られた記憶はなかったが、俺の反応速度よりはかの子の手の方が断然勝る。
ゲンコじゃなかっただけまし、か。
足腰の具合を確かめながら、屋上の縁につかまって立ち上がった。どうやら普通に動けそうだ。
おまえ、よくあれとつき合えるよな?
友達連中にも信じらんねーとかしょっちゅう言われてるが、俺だって、謎だ。かの子は俺のどこを気に入ってるんだろう?顔かな、やっぱり。うん。
「一応、謝った方がいいんだろうな……」
かの子に聞く気があればの話だけど。またいきなり殴られるのはゴメンだしさ。誤解なのに。
宵闇に沈む隣の校舎に俺は双眼鏡を向けた。電気の消えた教室の窓は、当り前のように黒い壁になっている。俺は目を閉じて、記憶の情景を映し出す。
桜の花びらが舞い散る中で、泥団子を投げつけ合って。
無限に広がる芝生の上で、一個のボールを追いかけて。
笑ってた。俺と──。
水郡琴。
あいつと同じ顔と名前の転校生は、女子の制服を、着ている。
(続く)
2006/ 7/ 7
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