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"相棒"

Act 2

 結果的に部活をサボってしまった咎により俺はグラウンド三十周を課され、電池切れ寸前の体を引きずるようにして家に帰りくと、既に夕食は片されていた。
 「お帰り。遅かったね」
 キッチンに入った俺を迎えたのは洗い物を終えてのんびりとくつろぐ母だ。湯呑み茶碗を傍らに漫画雑誌など読んでいる。目尻の皺がいつもより深いのは、疲れているのではなくギャグにウケているせいだった。うん、分るよ、母さん。俺もそこ笑ったもん。でもさ。
 「ねえ、俺の飯は?」
 「無いよ」
 誤解しようのない返答だった。まさにシンプル・イズ・ベスト。
 「無いって……なんでよ。俺の分作らなかったわけじゃないんでしょ?」
 「もちろんしっかり作ったわよ。もう食べちゃったけど。おかげで胃がもたれてるわ」
 母は大儀そうにお腹をさすった。年相応に肉はついているが、特に大食漢というわけではないから、自分の分プラス健康な十四歳男子の分がまるまる納まるとも思えない。真犯人は別にいる。たぶんリビングの辺りに。
 だがともかくはエネルギー補給が先決だ。今日は色々とカロリー消費が激しかったし、このまま放っておいたら身体が全面ストライキに突入してしまう。幸いここは未開のジャングルでも不毛の砂漠でもない。三歩歩けば緑色の大型冷蔵庫が頼もしい駆動音を発している。
 「あれ、なんだ、ちゃんとあるじゃん」
 冷蔵庫の扉を開けた俺は思わず声を洩らした。涎も垂れていたかもしれない。
 明るく照らされた箱の中に、いい感じに焼き上がった豚ロース生姜焼が、ラップの掛けられたお皿にたっぷり一.五人前はあった。付け合せにはレタスとトマトが肉の周りをぜいたくに取り囲み、ビタミン確保も万全だ。
 わたしを食べて。ウィンクしてくるお皿に、俺は迷わず手を伸ばした。
 「それはお父さんの分」
 振り返ると、息子が帰って来ても少年誌から顔をちらりとも上げなかった我が母が、万引常習犯を見付けた店主のような眼光で威嚇していた。銃口を突き付けられたように俺は両手を上げた。冷蔵庫の扉が鼻先でゆっくりと閉じていく。
 こんなにも近くにあるのに、なんて、遠い。
 「えっとさ、でも俺腹減ってて……。それにお父さん帰ってくるの遅いし、夜はあんま食わないしさ、少しくらい分けて貰っても……」
 俺は理と情とに訴えた。
 仮に全部食べてしまっても父が怒らないことは確かだ。自慢の息子が可愛いから、ではなく、食欲の薄い人だから。それが分らない母ではない。破顔一笑して、言った。
 「牛乳なら飲んでもいいわよ。お父さん嫌いだし」
 サンクス、マム。

 ほとんど中身の残った、賞味期限が今日までの1L入り紙パックを片手に、俺はリビングのソファにへたりこんだ。TVではドラマ。むやみに広々としたオフィスビルのロビーで、切れ長の眼の俳優(先輩社員)が、アイドル女優(後輩社員)をからかっている場面だった。憤然と言い返すアイドル女優がひどく舌足らずなのは、たぶん演技じゃなくて仕様だと思う。
 「あなたみたいな人にエリートサラリーマンの称号はふさわしくないわ!」
 だって。ある意味すごい面白い。
 TV正面のソファに陣取った美奈子は、食い入るように画面に集中している。俺は紙パックに口を付けて牛乳を喉へと流し込んだ。さすがに全部は飲み切れずに途中でゲップ。美奈子は半瞬だけこちらを向いたが、すぐにまた画面に戻った。
 からかいの度が過ぎたらしく、アイドル女優が涙目で外へと駆け出していく。切れ長の眼の俳優は呆然と立ち尽くして、二枚目ぶった表情にやがて苦い後悔の色が浮かぶ。……やれやれ。
 画面はCMに変わった。南の島の青い海と広い空、白い砂浜。ベタだけど、確かに心和む情景だ。少なくとも今のドラマよりはずっとまし。
 美奈子は前のめりの姿勢をやめてソファによりかかった。丸顔のくせに、眼だけはあの俳優に劣らず切れ長だ。
 「そこ、邪魔。消えて」
 「え、俺?」
 俺は素で驚いた。美奈子とTVの間にあるのは空気だけ。横のソファに座っている俺が邪魔になるわけがない。
 TVではCMが終わって別の場面が始まっていたけれど、さっきまでの熱情は美奈子には無い。切れ長の眼の俳優が画面にいないから。
 「別にいたっていいじゃん。他の番組に変えろとか言わねえし」
 「だってあんた臭いんだもん。気が散る」
 「な……」
 汗をかいてきた後ではあるけれど、いくらなんでも、ひどい。それにこいつは。
 「おまえ、俺の分の生姜焼食っただろ」
 美奈子は切れ長の眼を見開いた。
 「だって残したらもったいないじゃない」
 「で、今体重何キロだっけ?五十……」
 「うるさいなっ、いいからとっとと消えてよ。同じ空気吸ってたくないんだから」
 「じゃあ鰓呼吸でもしてろよ」
 毒吐くと、俺はソファから立ち上がった。一体なんだってこいつこんなに機嫌が悪いんだ?っていうか俺に当るなよ。人の生姜焼まで取りやがってさ。
 「これ終わったらあたしお風呂入るからね」
 美奈子はTVに向けて顎をしゃくった。アイドル女優が、やはりヘタレの若い男優(同期社員)に相談を持ちかけている。
 俺は壁掛け時計に目をやった。ドラマが終わるまで後十分足らずだ。今から入ろうと思ってたのに。
 「分った。じゃ、出たら教えて」
 だが美奈子は全然別のことを答えた。
 「覗かないでよ」
 「誰がそんなことするかって」
 「だってあんた前科有りじゃん」
 「はあ?いつ俺がおまえの風呂なんか覗いたよ」
 小学校の低学年ぐらいまでは一緒に入ったりもしたが、そういうのは普通覗くとは言わないだろう。
 「同級生の着替えなら覗くけど?」
 リビングを出ようとした俺はぎくりとして足を止めた。
 美奈子はねずみをなぶる猫のように目を細めた。
 「かの子ちゃんから電話あったよ。当分話しかけないで、だって。当然だよね。あたしも聞いてて恥ずかしかったもん。まさか自分の身内から性犯罪者が出るなんてさ。予想してなかったわけじゃないけど、さすがにちょっとショックかも」
 「いやそれは違くてね」
 俺は即座に言い訳を試みた。美奈子に弱みを握られるのは死活問題だ。特に食事の面で。けれど美奈子はもう俺の方など見ちゃいなかった。TV画面に、再び切れ長の眼の俳優が登場していた。

 ……疲れたぜ
 俺は制服も脱がないままベッドに倒れ込んだ。空腹だったが、キッチンに行ってカップラーメンに湯を注ぐという手間を掛けるのすら億劫だった。
 左の頬がいまだに腫れぼったいのはたぶん気のせいなんかじゃない。指で押してみれば鈍い痛みが返る。明るい太陽の下で見れば青あざになっていることだろう。朝までに消えてくれりゃいいんだけど。
 手形のついた顔で学校に行ったりすれば、何があったのかなんてクラスの連中には瞭然だ。かの子が周りに引かれる種がまた増えることになる。なにしろ、サッカー部のエースでルックスも性格もいい俺ってば、みんなの人気者だからさ、その顔に傷つけるなんて大顰蹙買う行為なわけで……。
 とはいえ面と向かってはもちろん、たとえ陰に回っても、かの子に嫌がらせするような命知らずはいない。それにかの子は嫌われているわけでもない。
 好かれてもいないけど。
 要するに怖がられているんだ。特に用事もなくかの子に声を掛けるのはクラスでは俺ぐらいのものだし、その俺にしたって、教室の中では距離を置く。人目のある所で馴れたりするのは、かの子の方がいやがるから。
 だから、かの子は教室ではたいてい一人で座っている。ただ真っ直ぐ前を向いて。
 「……悟、ちょっと琴悟、入るよ」
 「んあ?」
 俺は寝惚け眼を開いた。オレンジ色のパジャマにパーカを羽織った美奈子が、ずかずかと部屋に踏み込んできた。枕元の目覚ましは十時五十三分を指している。いつの間にか一時間以上も過ぎていた。ベッドに突っ伏してついそのままうとうとしてしまったみたいだ。
 美奈子は机から椅子を引き出すとどっかと腰を下ろした。高々と組んだ足はいかにも偉そうだったが、その足先を覆う厚手の靴下は微妙にババ臭い。
 「なに、寝てたの?返事がないからマスカキでもしてんのかと思っちゃった」
 俺は身体を起こした。疲れているというより、怠い。美奈子の相手をしているような気分じゃなかった。
 「そう思ったんなら入ってくんな。変態か?」
 「だってガキのオナニーなんて犬のオシッコと同レベルだし。別に見たくもないけど、わざわざ遠慮するほどのものでもないでしょ」
 「くだんねえこと喋ってんだけなら出てけよ。プライバシーの侵害だ」
 「偉そうな口きくじゃん、ガキのくせに。あ、違った、エロガキだっけ。そうね、用が済んだらすぐ出てくわよ。性犯罪者のガキに飛びかかられるのはあたしだってやだもん」
 「つき合ってらんね」
 俺はベッドから下りるとタンスから着替えを引っ張り出した。
 「お風呂の湯ならもう抜いてあるからね」
 美奈子はさらりと言った。膝の力が抜けて俺はその場にへたり込む。
 「どーしてそういうことするかなー。俺、姉ちゃんになんか悪いことしたかよ?」
 「冗談でしょ、なに本気になってんの。いいからちょっと話聞きなよ。それともなに、お姉ちゃんと密室で二人きりになるのは緊張する?だったらリビング行こうか?」
 「いや全然密室じゃないしこの部屋」
 俺は美奈子が開けっ放しにしたままのドアを見やった。今度お年玉が入ったら鍵の取り付け工事でも頼もうか。
 「で、話って何」
 俺はあきらめて腰を落とした。美奈子の切れ長の目が笑いを含んで細められる。勝ったな、と言わんばかりだ。
 「早く謝りな」
 「なんで俺が姉ちゃんに謝んないといけないんだよ」
 「かの子ちゃんにだよ。決まってるじゃない」
 「…………。姉ちゃんには関係ないじゃん」
 おもむろに椅子から立ち上がると、俺の頭をはたこうと美奈子は手を伸ばしてきた。けれど俺は余裕でブロックする。性格はともかく、身体能力的には姉はごく普通の女子高生だ。かの子とは違う。
 「なによこのガキ、素直じゃなーい」
 「黙って殴られるような趣味はないから。姉ちゃんのマゾの彼氏みたいに」
 「なんであたしの彼がマゾなの」
 「だって姉ちゃんとつき合ってるんだろ」
 どういう意味よ、とぼやいて美奈子は俺の隣に腰を落とした。心持ち濡れた髪からふわりとリンスの香が漂う。
 「泣いてたよ、かの子ちゃん」
 美奈子は言った。昔のジャズの曲でも歌っているみたいな、抑えた声音だった。
 「嘘だ。かの子がそんな簡単に泣くわけがない」
 「なんでよ」
 「姉ちゃんはさ、奴の恐ろしさを知らないんだよ。マジ半端じゃないんだから。泣いてる暇があったら、相手のしてるって」
 実際、のされた奴がここに一人いるわけだが。美奈子は呆れたように息をついた。
 「殴っちゃってゴメンなさい、だって。他に好きな人がいるみたいだし、自分のことなんかもう嫌いになったかもしれないって。琴悟、あんたさ、他の女の子のこと好きになるのは仕方ないとしてもね、もっときちんとしないと駄目だよ。中途半端が一番ダメージ残ったりするんだから」
 「だからそれは誤解だって」
 「ならそう言ってやればいいじゃん」
 「当分話しかけるなってかの子が言ったんだろう?なら少し冷めるまで待った方が」
 「だからあんたはガキだっての」
 美奈子は俺の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。そのままヘッドロックに移行する。顔に胸が当ったが、さすがに嬉しくもない。
 「そんなの、話しかけてくれなかったら悲しいからに決まってんじゃない。好きな人が自分に近付いてこないのは、自分がそう言ったせいだって思いたいからさ。こんな馬鹿のどこがいいのか分んないけど、ほんと健気っていうか」
 美奈子は俺の頭をぎりぎりと締め付けてきたが、しょせん鍛錬なんかには縁の無い女子高生の細腕だ。振り払うのは簡単だった。
 「なによ、逃げる気?」
 「風呂入る」
 言い捨てて風呂場に行くと、確かに湯はまだ張ったままだった。というか、少し前までは湯であったぬるい水が、浴槽にたたえられていた。風呂釜の保温スイッチはきっちりと〈消火〉になっているから故障じゃない。イジメ?
 仕方なくシャワーだけ浴びて部屋に戻った。美奈子ももう自分の部屋に引き上げていた。閉じられたドアの隙間から、白い灯りとポップソングが洩れ出している。曲名までは分らなかったけど、たぶんビートルズ。
 電気の消えた部屋に足を踏み入れ、ベッドに寝っ転がって目を閉じる。もしまた寝入ってしまったら風邪引きコースだが、さすがにあまり眠くはなかった。身体が火照っているせいではなく、冷えているせい。この時期やっぱりシャワーだけじゃ辛い。それにしても。
 女ってのは、なんでああ知ったふうな口をきくんだろう。俺と大して年違わないくせにさ。大体、美奈子がかの子と直に会って話したことなんて、片手の指にも足りないぐらいだ。それなのに俺よりずっとかの子のこと分ってるみたいに。かの子もかの子だ。言いたいことがあるならさ、直接俺に言えっての。明日、どうするかな。何事もなかったように接すればいいのか、少しは遠慮した方がいいのか。
 ──めんどくさい
 俺はベッドから起き上がると部屋の隅の棚からアルバムを引き出した。開いたのは、あいつと二人で写った写真。
 市大会の優勝トロフィーを掲げた俺の隣に、優秀選手賞の楯を持ったあいつ。何の屈託もない笑い顔。
 なあ、琴。あの転校生は、やっぱりおまえなのか?
 もしそうなら。
 また昔みたいに、なれるのかな。
(続く)
2006/ 8/ 5
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