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"相棒"

Act 3

 かかしのように突っ立ったままの高橋教諭はだけどやっぱりかかしなどではなくて、束の間の自失から立ち直るとフレームレスの眼鏡にはめ込まれた厚いレンズの後ろの目を瞬かせた。調子の悪い電灯のスイッチを何度かパチパチやるのに似ていた。
 「あのですね、もしかして僕の聞き違いかもしれないので、もう一回確認しますけれど」
 あくまで温厚な口調が、ところどころしわがれていた。通常時はオペラ歌手もかくやという滑らかなテノールの持ち主で、つまりそろそろ機嫌を損じ始めているという兆しだ。
 クラスのみんなだって馬鹿じゃない。そんなことは先刻承知、こうなったらもう下手に言い訳などしないで素直に謝ってしまう。たとえ自分に非が無いと思っていたとしても、だ。そうすれば被害はほぼゼロで済むから。
 入学したての一年生でもない限り、誰だって弁えていること。
 「一三八ページから一四五ページまでを現代語に訳しておくこと、前回僕は確かにそう言ったはずです。いやそう言いました。これこの通り講義日誌に付けてあります」
 高橋先生はぶ厚い大学ノートを手の甲で叩きながら言った。中身までは確認できなかったが本当だろう。
 「つまり、ここにおられる皆さんは須く課題を完了されていてしかるべきです。出来不出来、正解不正解はあるでしょう。当然です。皆さんは学ばれる身、出来ない部分があって当然、それを出来るようにすることが学生である皆さんの務めであり、そのお手伝いをするのが僕ら教師の役目であります。さてそこで」
 先生は言葉を切った。息が続かなくなったらしい。
 「……水郡さん。川瀬さんの訳した次の行から現代語に訳して下さい。さあどうぞ」
 「やってません。宿題があるなんて聞いてなかったですから」
 教室内は水を打ったように静まり返った。高橋教諭の激発を恐れてというより、無知な愚か者に呆れ果てているといった雰囲気だ。一言で云うならば、「やっちゃったよあいつ」。
 そうした気配を知るや否や。美形の転校生は平然と教諭を見返す。
 その様に俺はふと昔のことを思い出した。五対五のPK戦、勝負の掛かった五人目になっても顔色一つ変えずに。ゴールを決めたあいつ。
 だが今はサッカーの試合中ではないし、対戦相手も対等ではない。ゲームのルールの決定権は。
 「よく分りました。では水郡さん。あなたは僕の授業に参加される意思はないということですね」
 向こうにある。
 「出て行きなさい」
 問答無用のレッドカード。水郡は眉一つ動かさなかった……かどうかまでは俺の席からは分らなかったが、少なくともうろたえた様子はない。度胸があるのか、事の重大さを認識していないのか。
 「待ってください、先生」
 たまらずといった感じで声を上げたのは川瀬。今の季節には不似合いなぐらいよく日に焼けた陸上部員は、新しい友人のために果敢にアピール。
 「水郡さんは本当に知らなかったんです。だって転校生で前の授業に出てなかったんですよ?しょうがないじゃないですか!」
 微かなざわめきが生じた。同意や称賛といった好意的な反応と、これ以上面倒臭くしないでくれ的な否定的な反応がほぼ半々といったところか。大体において前者は体育会系、後者は成績優先系だろう。いや偏見だけど。
 「む」
 教諭は目を細め、咳払いとも唸りともつかない声を発した。
 「成程。川瀬さんの言わんとする所は理解できました。ですのでお座りになって結構です。では改めて水郡さん」
 「はい」
 「そうですね、確かにあなたは転入生で、前回の僕の授業の時にはいなかった。課題の存在を知らなかったのは当然で、知らないものはやりようがないというのは論理の帰結としてしかあらしむるところ。しかし」
 ひとたびは緩みかけた教室の空気がまたもや緊迫の度合いを増した。気付いて、というか気にしていなさそうなのは、一人立たされたままの水郡当人と、そして。
 俺は凝った肩でもほぐすような素振りで首を回した。左斜め後方、ジャージ同様大き目のサイズの制服に半ば埋もれるようにして姿勢よく座るかの子は、振り返った俺の方をちらとも見ようとはしなかった。
 先生に見咎められないよう俺もすぐ前を向く。
 「水郡さん」
 「何でしょう」
 「あなたがこの桜樹学院中学二年A組に編入されたのはいつのことですか」
 「十日……今週の月曜日ですけど」
 「成程。では今日は何曜日ですか?」
 「木曜です。それが?」
 挑戦的、とまではいかなくても明らかな苛立ちの色が返事に混じる。
 「それが?ええ、それが意味する所はですね、あなたは今日のこの授業に参加するまでに三日もの猶予があったということです。課題の有無を学友に確かめ、取り組むのに十分な時間だ。そうは思いませんか?」
 「──まあ、そうかもしれないですね、でも」
 「そうかもしれない、ではありません。そうであるのです」
 先生は重々しく断じた。一片の迷いすら差し挟む余地のない態度は、どこか悲しげですらあった。
 「従ってこう結論せざるを得ません。あなたには学習意欲が欠けており、よって僕の授業に出る必要はない。退室しなさい」
 「分りました」
 水郡は頷いた。駄目だ。この女は全然分ってない。誰も教えてやらなかったのか、高橋がいかに危険な人物かを?
 しょうがねーな、全く。
 「こ……水郡、ちょっと待て」
 静まり返った教室、俺の声は異様に大きく響いた。全員の視線が集中するのを痛い程に感じる。特に左斜め後ろの辺りから。気のせいだろうか。気のせいだといいな。
 水郡は振り返った。
 「なに、えーと、鹿鳥君」
 「授業中ですよ、鹿島君」
 水郡と高橋の声が重なった。空のようなソプラノと、古木のようなテノールとはだけど混じり合ったりはせず、たやすく聞き分けることができた。
 席から立ち上がった俺はまず教諭に頭を下げた。高橋は危険だが悪党ではない。扱いさえ間違えなければ大体は大丈夫だ。
 「すいません先生、授業の邪魔をするつもりはないんですが、今後のこともあるので、一言水郡さんに注意をしておいた方がいいかなって。共に学ぶ仲間として」
 小っ恥ずかしいフレーズだが、高橋には有効な筈。もう一つおまけだ。
 「課題があることを教えてあげなかった僕らにも落ち度がありました。すいません」
 頭を下げつつ、川瀬にアイコンタクト。通じた。元気良く川瀬も続く。
 「すいませんでしたっ!」
 こうなれば後はもう勢いというものだ。水郡に同情的な者もそうでない者も、波が打ち寄せるように次々と頭を下げる。
 誰より驚いたのは水郡本人だろう。筆ではいたような形の良い眉を上げ、物問いたげに俺を見つめてきた。
 狙い通り、高橋は深々と頷いた。
 「分りました。皆さんの自らの非を省みようとする心、学友を大切にしようという思い、確かに受け取りました。僕の方も性急に過ぎたかもしれません。教育者たる者、教え子に過ちがあれば粘り強く教え諭すべきであって、一方的に排斥するなど言語道断の振る舞いでした。謝罪します……」
 この後十分以上に渡って高橋教諭の自戒の弁やら教育論やらが続いたのだが省略。
 「……というわけで鹿島君、水郡さんに言葉を掛けてあげて下さい」
 「は、はい」
 立ったまま眠り込みそうになっていた俺は急いで意識を覚醒させると水郡に相対した。促すように水郡は小首を傾げる。口元が微妙に笑っているような気もしたが、定かには分らなかった。しかしこうやって改めて眺めるとほんと美人だよな、こいつ。琴と同じ顔してんのに。あいつが美形だなんて考えたこともなかったけど。
 「どうしました、鹿島君」
 「はい、すいません。えーと、水郡さん。転校して来たばかりで慣れなくて分らないことも多くて色々大変なのは分るし、俺達クラスの人間がきちんと授業で準備すべき点を伝えなかったのも悪かったと思う。ゴメンナサイ。でもそれはそれとして、やっぱり水郡さんの方にも至らない点があったと思う。つまり」
 「分ったから。いい」
 水郡は俺の言葉を遮った。空のように澄んだ声は大きくはなかったが二の句を継がせない強さがあった。教諭の方へ向き直る。
 「先生、私が間違ってました。授業に参加するためには、当然、その日の学習内容について準備をしておくべきでした。私の態度は勉学に励む者として余りに消極的だったと思います。これからは心を入れ換えます。ですから、私の間違いを正してくれた素晴らしい友人達のためにも、今後もご指導頂けないでしょうか?」

 休み時間になると、川瀬はすぐさま水郡の席に張り付いた。ゴールラインをトップで駆け抜けた後みたいに、日に焼けた頬を上気させている。机の上に置いた手がぱたぱたとリズムを取って踊る。
 「良かったねー、水郡さん。危機一髪だったよ!」
 「ありがとう、川瀬さん。おかげで助かったわ」
 水郡は品良く微笑み、だがそれはすぐに消え、もっと複雑な表情に変わった。理解できないジョークを聞かされた哲学者みたいな。
 「って言いたいとこだけど、ううん、ありがとうって思ってるのは本当だけど、よく分かんないな、私。たかが宿題じゃない。なんでこんな大騒ぎになっちゃうわけ?」
 高橋教諭を感銘させた(フレームレスのレンズの奥の目は潤んでいた)殊勝な態度からかけ離れたあけすけな態度に、川瀬や他の周りにいた生徒達は一様に戸惑いの色を浮かべた。
 だが誰もが認める美少女で立ち居振る舞いも品行方正なんてのより、ちょっときれいで気さくな女の子の方が受け入れ易いに決まっている。
 もともとつき合いが良くて人好きのする川瀬は、簡単に気持ちを切り替えたらしく、一層の笑顔になった。
 「あまい!あっまいんだなー、水郡さん。キミはあの先生の恐ろしさを知らない」
 周りに集った女子達が一斉に頷いた。俺もだ。
 だが水郡はますます不思議そうに首を捻った。長い髪が顔にかかるのを手で払う。
 「それはもちろん知らないけど。でも、ちょっと変な人っぽいけど、別に怖そうな感じはしないな。話が長いっていうかくどいのはあれだけど。殴ったりとかするの?」
 「ううん、暴力はね、大丈夫。あたしも見たことないし、話にも聞いたことない。あの人が凄いのはね、権力なの」
 「権力……?」
 「そうそう。うちってさ、私立でしょ。高橋先生はね、何を隠そう、桜樹学院の理事なのでした」
 なぜか川瀬は威張るようにして言った。
 「へぇー、そうなんだ。でもまだ若そうだよね。ああ、理事とか、そういうお偉いさんみたいな人にしてはって意味だけど」
 正確な年齢を知っているわけではないが、たぶん高橋教諭は四十前後だろう。おっさんではあるけれどじじいではない。水郡の感じた疑問は真っ当だろう。
 理事会の人間なんていうと、腹が出て頭が禿げて無用にふんぞりかえった末期型中年とか連想するよな、やっぱり。実際にどんな連中がいるのかは知らないけどさ。
 「うん、それがね、高橋先生ってうちの学校の創立者の実の孫なんだって。だからいずれ理事長になるかもしれない人なの。校長とかだっていっつもぺこぺこしてるんだから。あれってマジ笑えるよね」
 「そうそう」
 「普段エラぶってるだけに余計ね」
 「それは分ったけど」
 違う方向に転がっていきそうな話の流れを水郡が引き止める。
 「別に私ただの生徒だし、相手が普通の先生でも理事でもあんまり変わらないんじゃないの?」
 「大違いだって。あの先生はね、落とすの」
 「落とす……」
 一言で要約した川瀬だが、水郡には理解できなかったようだ。眉根を寄せて考える。
 「崖から落とすとか、地獄に落とすとか、脳天逆落とすとか……?」
 「あはは、いくらなんでもそんな過激なことしないって」
 川瀬がふき出しながら言った。
 「要するにね、点をくれないの。自分の授業に出る資格無しってみなすとね、落第させる。でも中学ってギムキョーイクだからさ、基本的に留年とかってないでしょ、つまりイコール退学ってわけ」
 「はあ、なるほどね」
 水郡は頷いた。
 「で、理事でもある先生の決定に反対する人はいないってことか。普通なら、他の先生がとりなしたり、反省文書くとか追試とかで許してもらえるようなことでも」
 「そうそう。実際、あたし達の二個上にいたみたいよ。授業中に携帯使ってたの注意されて謝らないで逆切れしたとかで退学だって。先輩から聞いたんだけど。だから本当、危なかったんだから。ねぇ、きんちゃん?」
 「え?あ、ああ、そうだな。無事で済んで良かったじゃん、水郡」
 白々しい、と思いつつも俺は当たり障りのないことを口にした。水郡がこちらを向く。見飽きるまでに見たはずの、だけどどこか違う顔に、瞬時息が止まる。
 「ありがとう、鹿鳥君、フォローしてくれて。一つ借りだね」
 「や、別にいいよ。知らなかったんだからしょうがない。あと俺、鹿島」
 「そうだっけ、ごめん」
 水郡は小さく笑うと、川瀬達との会話に戻っていった。
(続く)
2006/ 8/20
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