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"相棒"

Act 6

 ひときわに寒い朝だった。小さく鳴り続ける目覚ましの電子音をBGMに、カーテンを開けて、露で曇った窓を開ける。どこまでも澄んだ空は、宇宙まで続くようなグラン・ブルー。
 部屋のぬくい空気が逃げていくのもそのままに、俺はつかのま天を仰いだ。俗っぽいというか、昔の少女漫画か何かに出てきそうな間抜けな言い種だけど、何か良い事がありそうな予感が胸の奥から湧き上がる。きっと人間が幸せになるのなんてとても簡単なことなんだろう。朝起きて、きれいな空気を胸一杯に吸って、また空っぽになるまで吐き出せばいい。悩みだって忘れられるし、優しくなれる。どんなに許せないと思えるようなことだって、きっと消えてしまうだろう。
 ……だから。
 バターをたっぷりと塗って、好みぴったりに焼き上がったトーストを、牛乳をコップについでいる間に奪い取られたぐらいで、俺は腹を立てたりなんかしない。
 更にそいつがパンを咥えたままモゴモゴと、「もう一枚焼いて。あとコーヒー」なんて仰せを下したとしても、喜んで応じよう。そう。人は人に喜びを与えるために生きているのだから。
 ……なんて。
 「んなわけあるかよっ!なんでおまえって奴はそう横暴なんだ?俺のこと奴隷かなんかと勘違いしてんじゃねえのか?だったらすぐに認識を改めてもらうからな」
 俺は食卓に両手を叩き付けた。はっきり言って今日の俺はちょっと違う。起き抜けの優しい爽やか気分こそ蹴散らさかれたものの、気合いの充実度合いはいささかも損なわれてはいなかった。こととしだいによっては、明日からは毎朝、美奈子に俺のブレックファーストをサービスさせてやる。そのぐらいの勢いだった。
 俺の本気が通じたのだろう、美奈子は「…………」とパンを呑み込むことも忘れた様子で、目をしばたたかせた。
 「分ったのか?それなら返事ぐらいしろ」
 さらに追い討ちをかける。ここまで厳しく攻め立ててやれば、どんな鈍感な奴だってこたえる筈だ。
 美奈子は、石でも噛み砕くようにのろのろと、残りのパンを食べ終えた。そして、さっき俺が牛乳を注いだコップをテーブルから取り上げて一口、二口。よほど俺の本気モードが効いているらしく、その間も目を合わせようともしなかった。哀れなものだ。
 今までさんざん威張り散らしてくれていたが、しょせんは姉と弟という関係によりかかっただけの砂上の楼閣だ。ひとたび実力勝負となればあっという間に崩れ去るのだ。
 「…………」
 睨み続ける俺に脅えて縮こまったように、美奈子はコップに残った牛乳をほうけたように眺め、気を落ち着けるためだろう、間を置いてから再び口を付けた。
 俺は視線の縛りを緩めない。
 美奈子は視線を合わさない。
 空になったコップをテーブルに置くと、美奈子はティッシュを一枚抜き出して口の周りを拭った。口紅は稀に付けるだけで、普段はリップなど塗っていることが多い唇は、今は起きた素のままに乾いている。
 白く残った牛乳を拭き取ると、丸めたティッシュを美奈子は俺に差し出した。意味が分らない。きょとんとする俺に、我が姉は。
 「ん。捨てといて。あと食器も洗っときなさいよ」
 告げた。俺は反射的にティッシュを受け取り、「ああ」と素直に頷いて。思った。いや、これってなんか違くねえか?
 だがそんな違和感もなんのその。
 「なにボケっとしてんのよ?」
 との一言で俺の身体は勝手に動き出し、美奈子の使った食器の後片付けを始める。おいちょっと待て俺。一体何をやっている?
 かくして漲っていた俺の気合いは朝露のようにはかなく消えたわけだが。
 だがしかし。ここで終わるわけには行かない。本番はこれからだ。
 玄関のドアを開け、外に出た俺は静かに深く息を吸い込んだ。朝の空気はまだ硬くて、身体の内に行き渡らせるのには少しくタイムラグが必要だった。力んだ肩を回してほぐし、黒く湿った土の上に並んだ灰色の敷石に足を載せる。二歩目で踏み切って、門の前で着地。
 錠を外して鉄柵の門を開けた。敷地の中と外で物理的に何が違うわけもないが、そこはかとなく戦闘開始とでもいった心持ちになる。
 美奈子に出端をくじかれたことだって、考えようによってはむしろプラスだ。猪突猛進したって怪我するのが関の山だ。勝負事で結果を出すためには、前向きな姿勢はもちろん大切だけど、それ以上に冷静さは必須なのだ。
 だからかえって良かったのかもしれない。きっと美奈子は俺がテンパってるのを見抜いて落ち着かせてくれたんだ。感謝しないとな。
 ……なんて、あるわけないけど。

 今日は朝練はなかったので、学校へ着いたのは少し早目とはいえ普通の時間だった。下足箱で上履きに履き替えるさいに、ターゲットが既に来ているかチェックしようとしたが、考えてみればあいつの靴の置き場所なんか知らない。もしかしたら一番端っこかもしれないとは思ったが、でも確かじゃないし、どうせ教室に行けば分ることだ。ついでに見ると、かの子はまだ来ていないらしかった。
 昇降口から左に折れて廊下へ進む。一年と三年の教室があるのは隣の校舎だから、ちらほらと行き交う生徒は基本的にみんな俺と同じ二年生だ。けれど三階まで上る間に知った顔はあっても特に話をするほど親しい相手はおらず、教室に入るまで俺はずっと孤高の行軍を続けた。でもそれでいい。下手に喋くって盛り上がった挙句に、肝心の機会を逃してしまうよりかは。
 戸口に立って教室内をざっと眺め渡した。ターゲットの姿はない。座席も荷物の置かれていない空白で、俺は軽く失望したが、始業にはだいぶ間があるし、クラスの席の半分以上はまだ空いている。
 俺はひとまず自分の机にバッグを置いて腰を下ろした。前の席ではいつものように坂上が漫画に読み耽っていた。特に言葉を交わしたりはせずにそのまま放置。恋人(二次元)との一時を邪魔しちゃ悪い。
 バッグから教科書とノートを取り出して机の中に放り込む。昨日持ち帰ったのは数学と英語だけだったからすぐに済んでしまう。別にこの二つが好きな教科だとか、特に力を入れて勉強しているとかそういうことは全くなくて、単に宿題があっただけのことだ。両方ともまがりなりにも終わらせたから、あせって他の奴にノートを借りたりする必要もなく、始業までゆっくりと待つことができる。
 ──まずは。俺は思った。二人だけで会う約束を取り付けるのが先決だ。他人に聞かれて困る話をするわけじゃないけど、聞かれたい話でもない。俺とあいつのことは、俺達だけのことだから。
 「あ、水郡さん、おはよう」
 そんな声が聞こえて。俺は戸口に視線を向けた。他の女子達と同じ普通の制服のジャケットが、まるでオーダーメイドの高級品のようにきらやかだ。きれいな長い黒髪と整った顔立ちのせいもあるだろう。だけど俺は気付いている。あいつが格好いいのは、姿勢がいいからなんだ。
 背が直ぐに立ち、身体の軸が綺麗に定まって、着崩れた感じがどこにもしない。きっと、Tシャツにジーンズなんてラフな格好でいたとしても、やっぱり様になってることだろう。雑誌のグラビアとかに載ってるような、値段の桁が一つ違うようなのを着てるみたいに。
 俺は席を立つと、水郡が席に着くのを待たずに自分から歩いて行った。
 「ちょっといいかな」
 挨拶を交わす女子の後ろから声を掛ける。水郡はすぐに気付いた。
 「鹿島君。なあに?」
 無愛想、というのではないが、水郡の返してきた声は平坦で、感情を読み取ることはできなかった。とりあえず俺はそのまま教室で話を続けることは避け、廊下の方を目で示した。
 水郡は頷いて、素直に俺に続いて廊下へと付いてきた。多少、不審そうではあったが、嫌そうではなかった。たぶん。
 「水郡に話したいことがあるんだ。時間取れないかな」
 俺は短刀直入に言った。誤解を招くような言い回しかもとは思ったが、下手に遠回しにして無駄な時間を掛けるよりはいい。
 「それは学校の外でってこと?」
 水郡は察しが良かった。俺は頷いた。
 「できれば。外じゃなきゃ駄目ってわけじゃないけど、俺は放課後は部活あるし、もしかすると長い話になるかもしれないから、土日とかの方がいいな。でも迷惑だってのなら昼休みとかでもいい」
 「私はいいよ。お休みの日でも」
 水郡はあっさり同意した。だが俺は少しも意外とは思わなかった。水が上から下に流れるぐらい、自然なことだった。
 「じゃ、次の土曜……は試合があるから、日曜かな。水郡って、どこいら辺に住んでんの?待ち合わせに出易い場所とかあるなら、合わせるけど」
 「そうだね……」
 長い髪が揺れて、制服のジャケットにかかる。俺はひどく違和感を覚えた。なにカツラなんかかぶってんだよ、と突っ込みを入れたい心境だ。だけど黒々としているくせに透明で艶やかなその髪は、カツラのような嘘っぽさからはほど遠くて。
 俺がそんな感想を持っていることなんてまるで知らぬげに。水郡は淡々と言葉を継いだ。
 「じゃあ、その土曜の試合の後とかは?何時ぐらいに終わるの」
 「試合は一時からだから、三時には終わるだろうけど……。でもその後また練習するかもしれないしな。最終的にどのくらいになるかは、ちょっと分らない」
 顧問の蓑輪が満足するような試合内容なら、軽く整理体操だけで終了ということもあり得る。そうでなかった場合は、まあ推して知るべしだ。
 「相手は?」
 「え?」
 「試合の相手。強いとこなの」
 「けっこう。いや、うちと比べたらかなり。夏は県でベストフォーまで行ってるし」
 「ふうん。ってことは、東武か白山か。たぶん白山の方だね」
 「……良く分ったな」
 俺はかなり驚いていた。思わず唾を呑み込んで、そして。
 「サッカー、詳しいんだな、水郡は。その、もしかして、自分でもプレイしたりするのか?」
 決定的な質問、のつもりだった。少なくとも俺の方は。
 水郡は目を見張った。間違いなく美人だけど、でもどこか作り物めいて感じられていたその顔に、やがて小さな笑みが浮かんで。俺は呼吸を止める。それは俺が何より慣れ親しんでいたもので。いつまでも当り前に隣にあると思っていて、だけどある時突然に消えてしまったもので。
 俺は目を、いや心を奪われて、そのまま離すことができなかった。言葉が勝手に口から零れ出す。
 「琴、なんだな……?」
 万感の想いをただ一語に込めて、いや違うな、そんな大袈裟なものじゃない。俺達の間にある繋がりは、もっとずっと素っ気なくていい。
 最高級リムジンを仕立ててパレードするよりも、サンダル突っ掛けて近所を散歩するみたいな。
 琴は頷いた。
 「そうだけど。それが」
 どうかしたの。そう言った。枯れ葉一枚ほどの重さも感じられなかった。
 気が抜ける。俺の中で柄にもなく高まっていた感情の渦は嘘のように引いていった。
 琴、水郡はものすごく怪訝そうで、俺がなぜそんなことを尋ねるのかまるで分らないというふうだった。俺は一気に冷えた。馬鹿か俺は。何一人で勝手に盛り上がってるんだ?
 「いや、別に。なんか珍しい名前だなって思っただけ」
 言い訳ともつかないようなたわ言だったが、口の中でもごもごと呟いただけだったから、耳にまで届いたかどうかは分らない。
 水郡はわずかに眉をひそめただけだ。俺は話題を変えた。というか、元に戻した。
 「白山中に友達でもいるとか。実はここに来る前は白山の生徒だったとか?」
 違うよ、と水郡は言った。肩を竦める。
 「ほんとはね、関谷君から聞いただけ。だから最初から知ってたのさ」
 冗談ぽい口調は種明かしのつもりだったらしいが、俺は別の意味で驚いた。
 「なんで関と?クラス違うじゃん」
 「違うクラスの子と話したらおかしい?」
 「いや、そんなことはないけど、でも」
 水郡は転校して来てからまだ一週間と経ってない。関谷と親しくなるような機会があったとは思えなかった。まさか関谷に限って、水郡が可愛いから声を掛けてみました、なんてあり得ないだろうし。
 よっぽど俺は不思議そうにしていたのか、水郡の方が反対に首を傾げ、それから簡単に真相を告げた。
 「ついさっきだよ。ここに来る途中で挨拶されて。サッカーに興味ないかってね。土曜に試合があるから、良かったら観に来てほしいって」
 あの関谷が。うーん。
 「あ、おはよう」
 悩んでいる俺の肩越しに、後ろから来た誰かに水郡は声を掛けた。たぶんうちのクラスの生徒だろう。長いことというほどではないが、俺が水郡と話を始めてちょっとした時間が過ぎていた。クラスの連中に妙な勘繰りでもされたら厄介だし、そろそろ切り上げ時だろう。俺はそう思って。
 「……おはよう」
 聞こえた声に凍り付いた。
 「か、かの」
 子と言い終わる前にかの子は俺の傍らを行き過ぎ、そしてかの子がまだ行き過ぎ終わる前に。水郡は。
 「じゃあ鹿島君、約束は土曜の試合の後でいいね」
 と宣った。
(続く)
2006/11/ 4
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