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"夏影"

(前篇)


 暑い。
 いやむしろ熱い。
 というかもはや痛い。
 宏実がそう感じているのは決して比喩などではなく。
 天空からこれでもかとばかりに降り注ぐ陽光は肌を焼き、とめどなく溢れ落ちる汗は眼に沁みる。ふくらはぎも腿もぱんぱんに張って、渇いた喉は石でこすられたみたいにひりつき、苦しい肺は悲鳴を上げる。心臓はもうオーバーヒート寸前、意識が遠くなりかける。
 足元がふらついて、とうとう膝から地面に崩れ落ちた。幸いに、と言えるかは疑問だが、既にグロッキー状態で、歩くのとさして変わらないスピードになっていたおかげで衝撃は大したことはなく、皮膚を浅くすりむいたぐらいで済んだ。ほんのわずか血が滲んではいるが、あえて絆創膏を貼るまでもない。そもそも持っていないが。
 とはいえ怪我はなくとも体力は底をついている。宏実はすぐには立ち上がることができなかった。むしろ反対に背中を付いて、その場にごろりと横になる。
 これが公道の上なら、轢かれて死んでも文句は言えないところだが、ここは天下御免の公園の競技場、車はもちろん自転車だって乗り入れは禁止されてる。それでもダイエットジョガーや、走り込みにきたスポーツ選手達などにとっては邪魔なことこの上ないに違いない。
 もし今が真夏の青天の昼下がりでなかったら。
 赤土の上には陽炎が揺らめくばかり、宏実の他には人っ子ひとりいない。コースの真ん中で大の字になっていたところでどこからも文句の出る気遣いはない。なかったけれど。
 身体が悲鳴を上げている。他人のは放置できても、自身の苦情申し立てに耳を塞ぐことはできない。日射しをたっぷりと吸った地面は、たぶんアスファルトなんかに比べれば冷たいのだろうが、背中へ夏の気合いを存分に伝えてくれる程には温まってる。激しい運動で溜まった体の熱を逃がすことなどもちろんなくて、むしろ五割増しで返してくれる。
 そして偉大なる太陽。走っている最中は鋭くキュートに頭頂を抉ってくれていたが、こうして寝そべっていれば、無限の慈愛で全身を惜しみなく包んでくれる。あと少しだけこのままでいられたら。程なくして人のローストが焼き上がる。
 「死ぬ……死んでしまう……」
 疲れ切って指一本動かしたくなかったが、このまま動かずにいたら間違いなく熱射病だ。肉体からの警告を、折れた精神にも分らせるべく、宏実は粘りつく唇と舌を必死の思いで動かした。
 そうだ。動け俺。動くんだ。
 お前は干涸びて死ぬためにこんなくそ暑い中を走っていたのか?
 断じて違う。

 「生きるためだっっ!!」

 主観的には地をとよもす大音声、客観的には蠅も気付かぬ幽けきあえぎ声で宏実は己に活を入れた。
 「為せば為る」なんて精神至上主義を奉じてはいなくても、実際のところ本当の限界に来ていたわけでもなかったので、まずは身体をうつぶせにすることに成功すると、あとは腕を引き寄せ膝を立て四つん這いになって一気に、とはいかなかったけれど、よろめきながらも立ち上がることができた。とりあえず向かうのはトラックの外、木立の陰だ。
 宏実は歩くというよりほとんど前のめりに倒れるようにゴールを目指す。


 気温はまだ軽く三〇度を超えているだろう。だからがんがんに冷房の効いた屋内に入った時のような、瞬間的に肌を打つ快感はなかった。しかし日を遮る木の根元に座り込んだ時の心地は、確かにそれを上回っただろう。
 汗はまだまだ残っている。微風に吹かれればそれもかえって気持ちいい。体の疲労とあいまって、目を閉じればこのままとろりと眠り込んでしまいそうだ。
 一体どうして。
 なぜああもしゃかりきになって走っていたのか。
 意味はない。
 理由もない。
 少なくとも、他人に説明して理解してもらえそううなものは皆無だった。だけど必然だった。走らずにいられなかった。たとえどれほど馬鹿げた行為に映ったとしても、宏実にとってはやるべきことだったのだ。
 だから少しも後悔していない。むしろこの上なく満ち足りていた。もしこの気持ちを、他の誰かと分かち合うことができたなら。
 その誰かは、きっと自分にとって一番大切な人になる。
 そんな妄想じみた考えが、すとんと胸に落ち込んだ。
 宏実は口元を綻ばせ、だが暑いさなかに公園の片隅に一人座り込んで目をつぶり独り笑う汗みずくの若い男、というのは端からすればかなり不気味というか通報ものだという冷静な自己認識に思い到ると、口を引き結び目を開けた。
 日傘だ。
 白い地に縁に黒い波の模様の縫取りがされている。足元は素足にサンダル、膝下丈の袖無しワンピースの浅葱色が風にそよぐ。熱で上せた頭のせいもあり、海辺の別荘地にでもいるような気分に陥って、一体どこの御令嬢だろうと心惹かれて目で追えば。
 「──西川」
 宏実は声を上げていた。束の間の錯覚は消え失せて、同じクラスの西川さくらがそこにいた。あまり話したことはなく知り合って半年にも満たないが学校で毎日見ていた顔だ。間違える筈もない。
 実は一卵性の双子だとかいうなら話は別だが。
 だが宏実の呼び掛けに西川は応じなかった。きっと聞こえなかったのだろう。まだ幾らか離れているし、向こうは歩道でこっちは植込みの中だ。周りには蝉の声も響いている。
 「よお、西川」
 もう一度やや声を大きくすると、西川はちらりとだけこちらを向いた。それだけだった。買い物帰りらしいビニール袋を左から右に持ち替えて何事もなかったように傍らを過ぎていく。
 こっちが誰か分らなかったのか?
 それとも分って無視してるのか?
 別に嫌われるようなことをした覚えはない。というかそれ以前に好かれたり嫌われたりするほどのつき合いがない。もし単に顔がやだとか話し方が気に入らないとか体臭が不快だとかとにかく生理的に受け付けないとか、そういう理由だったりしたらとても悲しいが。
 駄目だ。そんな考えは間違ってるぞ、西川。
 人はもっと広い心を持って、相手の外面じゃなく内面を見るべきなんだ。そうすれば世界はもっと明るくなるし、人はずっと幸せになれる。
 宏実は無茶なランニングのせいでふらふらの足と、無分別な直射日光のせいでぐるぐるの脳みそとで植込みから飛び出した。
 「西川っ」
 肩の辺りで切り揃えられた後ろ髪に声を掛ける。西川は振り返らない。
 「待てよ、西川!」
 宏実は足を速め、腕を伸ばして西川の肩に手を置いた。
 「やっ?」
 途端、西川はものの見事にバランスを崩し、転倒こそ免れたもののあたふたと腕を振り回し、ぶら提げていたビニール袋が勢いよく跳ねて、ごすっ。
 目眩がした。
 「あ……だ、大丈夫ですか!?すいませんっ」
 うずくまった宏実の頭上から慌てた声が降ってくる。だいじょうぶ、と答える意思はあったのだが、痛みのせいで即座に声にならなかった。袋の中身はジュースの缶か何かだったのだろう、こめかみを襲った打撃は凶悪なまでに重たくて固かった。
 恐る恐る手を触れてみると、早くも腫れはじめている。だが幸い出血はなさそうだ。
 「あの、えっと」
 気遣わしげな西川に片手を挙げてみせ、鋭かった痛みが鈍い拍動に変わるまで待ってから、宏実はおもむろに立ち上がった。すると全く同じタイミングで。
 「本当に、すいませんでした」
 西川が深々と頭を下げた。天辺のつむじが健気に白い。いつのまにか日傘も畳んでいて、なかなかに折り目正しい。
 「あーっと、そんなかしこまられても困るんだけど」
 「はい、でも……ぅあっ?」
 面を上げた西川は女子にふさわしからざる奇声を上げた。ただの「あ」ではなく、濁点の付いた、通常日本語に存在しない音である。ようやく相手がクラスメイトだと気付いたらしい。
 「長瀬くん。さっきから西川西川って騒いでたのって、あなただったの」
 「そうだよ、西川ってば全然気付いてくれねえんだもん。分っててシカトしてんのかって不安になったぜ。俺、何か西川に嫌われるようなことしたかなーとか考えたりして。でも西川ってずいぶん鈍いのな。意外な発見っていうか、ちょっと面白かった」
 「わたしはちっとも面白くないけど。荷物ぶつけたのはごめん」
 「じゃあね」と西川は背中を向けた。宏実は一瞬唖然とし、しかしすぐに追いすがった。
 「待てよ。その態度はちょっとないんじゃないか?俺と西川はおんなじクラスだろう、もう少し仲良くしたってさ」
 「長瀬くん?」
 「な、何だよ」
 「訊きたいんだけどさ、西川って誰」
 「ふざけてんのか?お前のことに決まってんだろ」
 「西山」
 「は?」
 「わたしの名前。西川じゃないから」
 「…………あ」
 「わたし、西川なんて人知らないんだけど。誰?あなたの彼女?」
 「彼女は、いない」
 「ふーん、そうなんだ。どうでもいいけど」
 嫌味っぽくとかではまるでなく、本当に興味なさそうに西川、もとい西山は言った。
2009/ 9/ 3
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