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"夏影"

(後篇)


 「悪かった。その、ちょっとした勘違いってやつ。にしか、西山が影が薄いとかそんなことじゃ全然なくて」
 「いいよ。別に気にしてない」
 「ジュースでも奢るよ。お詫びってわけでもないけど、せっかく会ったんだしさ。少しぐらいつき合えよ」
 「うーん、でも暑いしなあ。それに長瀬くん汗だくじゃん。ちょっとあんまり傍に寄ってほしくないんだけど」
 「うわ、ひで」
 とおどけてはみたものの、暑苦しいのは本当だろう。休んだおかげでさっきまでに比べればましになっっているが、Tシャツはべっとりと湿っているし、自分では分らないがあるいは結構汗臭いかもしれない。
 西山はレジ袋から飲料缶を取り出した。
 「喉渇いてんでしょ。あげるよ」
 「あ、サンキュ……」
 宏実は反射的に受け取って、蓋を開けようとした手が途中で止まる。
 「冷えてるでしょ。保冷用の氷一緒に入れてきたし」
 確かに、炎天下を運んできたとは思えない冷たさだ。
 「わたしも一本飲もうかな」
 西山は気安げに歩き出した。向う先にはベンチが二列並んだだけの小さな東屋がある。暑い空気は素通しでも、屋根があるだけでずいぶん違うだろう。
 ベンチに腰を落ち着け、缶に口を付けると、目を細め顎を上げ中身を喉に流し込む。まるで山中で冷たい清水を含んでいるみたいに幸せそうだった。一息入れて、金色に光る缶を脇に置くと、いまだ動かないままの宏実を物問うように見る。
 宏実は磁力に引っ張られるみたいにして東屋に近付いた。
 「うまい?」
 西山の持った缶を指差す。
 「え、うん。ドライとかの方が良かった?わたしはこっちのが好きなんだけど」
 貰った缶のラベルを読む。原料は麦と水のみ。ホップは使っていない。
 「飲んだことないし」
 「そっか。ごめんね、ジュースは買ってないんだ。チューハイならあるけど」
 「いいよ。これ貰う」
 味見するように舌先で触れてから、二口ばかり飲んでみる。
 「……うん。まあ飲めないこともない、かな」
 「無理そうだったらやめときなね。気持ち悪くなったりとかしてもわたし面倒見ないから」
 「平気だろ」
 宏実は西山の隣に腰を下ろした。西山は尻をずらして距離を開けた。やっぱりくさいのだろうか。
 「西山はしょっちゅう飲むの?」
 「ん、時々だよ。その、友達とかと」
 「へえ」
 缶を半分ほど空ける。じんわりと頭に血が上って、治まりかけていた動悸が再び勢いを増してくる。渇きにまかせて一気にあおったりしていたら、きっとかなり厄介なことになっていた。
 横で西山は名残惜しそうに缶を振った。早くも飲み終えてしまったらしい。
 「西山、その仕草微妙におっさんくさいから」
 「大きなお世話。それ残すんならわたしが飲むけど」
 「まじで?」
 「だってもったいないじゃない」
 西山は強引に宏実の飲みさしを奪い取った。
 「間接キスだぞ」
 「え、ああ。そういうの気にする人なんだ」
 「いや、いいんだけど」
 宏実は顔をそらした。酔いがさらに回ってきた気がする。
 「長瀬くん、あんなとこで何してたの?絞れるくらい汗かいて座り込んだりして。ピンポンダッシュ?」
 「そんなことするかよ。ただ走ってただけ」
 西山は首をひねった。
 「よく分んないんだけど。それってつまり……マゾ?」
 真顔で訊かれた。
 宏実はもちろん首を左右に振った。体を虐めていたのは事実だが、それが楽しかったわけじゃない。乾いた唇を舌で湿す。苦い味がした。
 「走りたいから、走ってた。いや違うな、走らずにいられなかった、かな。胸の中に火が点いたみたいになって、駆り立てられた。自分で言ってて馬鹿みたいだけど、でも」
 宏実は西山を見つめた。その瞳は戸惑ったように揺らいでいて、しかし拒絶や嘲りの色はなく。むしろ宏実の心のうちを読み取ろうとするみたいに真剣なもので。
 「もしかしてお前なら分ってもらえるんじゃないかなって、思う。だってこうして出会えたことには絶対意味があるんだ。最初はただの偶然でも、新しく生まれてくるものある筈だから」
 全ては伝えきれない。気持ちを言葉にすることはひどく難しい。だからこそ、同じ時と場所を過ごすことが大切なんだと思う。
 西山は宏実を見つめ返した。
 「大丈夫?」
 心配そうに、宏実の額に手をかざした。
 「幻覚とか見えてない?熱射病とか脱水症状とかだったら怖いよ?わたし、病院連れてってあげる。立てそう?」
 宏実の腕に手をかける。
 「やっ、平気だって。ちょっとおかしくなってるだけで」
 宏実は手を振り払ったが、西山は「分っている」というように頷いた。同意したのは間違いなく後半についてだけだろう。宏実は肩を落とす。
 「……そんなに変かな」
 「かなり。自覚があるんなら少しはましかもだけど。あ、そうだ」
 西山は氷の入ったビニール袋を取り出した。
 「はい、横になって頭にのせて。でも直だとちょっと冷た過ぎるかな。ハンカチ持ってる?なかったら貸してあげる。おでこに敷いて」
 小花模様のハンカチを渡される。色々な意味で宏実は泣きそうだった。
 「聞いて。最初から説明するから。つまりさ、映画を観てたんだ」
 「えーが?」
 「そう。レンタルで。全然知らないやつだったんだけど、店でたまたま見かけて何となく気になって。で、さっきまで観てた」
 「それでおかしくなったっていうの?なにそれ。ホラー映画?それとも、すごい勢いで画面が点滅してたりするやつかな。まさかサブリミナルってことはないだろうし」
 「違うよ。そういうんじゃない」
 宏実は否定した。サブリミナルという単語の意味は実はいまひとつよく分っていなかった。
 「主人公が、いや主人公だけじゃないんだけど、出て来る人達がとにかくみんなすごいかっこ良かったんだ。もちろん見た目とかじゃない。行き方がだ。もう絶対にあきらめない。どんだけ絶望的な状況になっても、自分の持てる全てを出して、限界まで攻めていく。そしてついに奇跡を起こす、っていう最後の最後になって、信じられないような不運に見舞われる。そして駄目になる」
 宏実は西山の様子を窺った。もしかしてまるで聞いてくれてなかったりするんじゃないかと不安になったのだが、興味か義理かは別としても、西山は先を促した。
 「で?」
 「で、ね」
 宏実は一つ大きく息をする。ここからが肝心だった。
 「主人公が言うんだ。また次に頑張ろうぜって、笑いながら。だけど主人公にはもう次なんか残されていない。そのことを自分で百も承知してるのに」
 「…………」
 「それでなんかもう、がーって来ちゃって。俺もやらなくちゃいけないって思って、でも何すればいいのか分んなくて、それでもじっとしてられなくて、で、走った。全力で」
 西山は笑い出しはしなかった。考え事をするみたいに、眉をひそめた。
 「一つ、訊いていい」
 「うん」
 「その映画ってさ」
 作品のタイトルを告げる。聞いた瞬間、風にあおられたみたいに宏実の胸の中の火が吹き上がった。
 「それだよ!!そうか、西山も知ってたのか!いいよな、サイコー感動するよな!俺、今すっげえ嬉しいかも。同じのをいいと思った相手と、ばったり巡り会えるなんて、運命みたいに感じる。知らないうちに二人の気持ちが通じ合ってたんだなって。俺達さ、これからきっとうまくやっていけるぜ」
 さすがに舞い上がりすぎかなという気持ちも頭の中を掠めたが、すぐにそれでもいいやと思い直した。こういうことはきっとフィーリングとタイミングが全てなんだ。見栄とか理性とかは遠くの棚の上にうっちゃっておけばいい。
 息が合って気が合えば他には何もいらない。絶対、西山もきっとおんなじふうに感じて──。
 あれ?
 宏実は目をしばたいた。西山はとりたてて興奮しているようには見えなかった。むしろどこか困惑しているふうでさえあった。
 「西山も、観たんだよな?」
 「うん」
 「面白かったよな?」
 「ある意味、面白かった、かな」
 煮え切らない答えに、宏実はほとんど祈るような思いで問いを重ねる。
 「分ってくれるよな?俺がやったのは無意味で馬鹿なことだったけど、それでも、そうしたくなったって気持ちは」
 「ごめんね。悪いけどこれっぽちも理解できない。あれでそんなに感動できるなんて、わたしには信じられないな」
 「……そう、か。そうなんだ」
 西山が偽らざる気持ちを語っていることは分った。
 「あー、やばい、俺ちょっと」
 宏実は顔をうつむけた。
 まるで馬鹿みたいだ。一人で勝手に盛り上がって、盛り下がって。それもろくに話したこともないクラスメートの女子を相手に。
 「酔った、かな。飲んだの初めてだったし……」
 見え透いた言い訳で本当にごまかせると思ったわけではなかった。それでも意図は汲み取ってもらえたらしく。
 「わたしはもう行くから。長瀬くんは少し休んでったらいいよ」
 「そうする」
 もしこのまま別れたら、次に会った時に気まずくなる。そう思ったけれど、もともと近しかった相手ではない。前と同じになるだけで、困りはしない。
 今日のことを西山がクラスの連中に面白おかしく言い触らす。まずありそうにない気がした。
 「またね、長瀬くん」
 「ああ」
 「話せて良かったよ。名前間違えて覚えられてたのはちょっと驚いたけど。でももう大丈夫だよね」
 「そこまで記憶力悪くないよ」
 「じゃあ、下の名前は言える?」
 「……さくら」
 宏実は答えた。西山は黙り込んだ。
 「あれっ、えっと、その……」
 涙目になっていることも忘れ、宏実はあせって顔をあげた。西山は宏実の正面に立っていた。涼しげなまなざしに捉えられ、逸らすことも敵わなくなる。
 「正解」
 西山は悪戯っぽく笑った。
 陽光の中、地面にできた日傘の丸い影が遠ざかっていくのを眺めながら、宏実は小さく息を吐いた。炭酸と慣れない苦みが喉を抜け、眩しい空に溶けて消えた。
                 (了)
2009/ 9/ 4
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