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"ロールプレイ"
1-3
幸太は彼女から遠い方のドアを通って電車を降りた。上りのホームに向かって足早に歩きながら、中身のほとんど入っていない通勤鞄を開けて文庫本を放り込む。
普段ならたとえ一駅でも電車に乗る時は必ず本を開く。暇潰しというより、身体に染み着いた習慣だった。
本を開けば、そこに幸太はいなくなる。別の世界へ入っていける。
行きたくもない職場に向かったり、誰も待っていない部屋に戻ったりするために費やされる時間が、輝きを帯びたものに変わるのだ。それはきっと麻薬のもたらす快楽に似ている。つまり、中毒しているのだ。いわゆる活字中毒とは違う。物語中毒、あるいは別世界中毒、つまりは依存、耽溺、現実からの逃避。
上り列車はほとんど待つことなくやって来た。席もちらほらと空いていたが座ることはしなかった。扉の脇の手すりに緩くもたれかかり、暗い窓を透かす外の景色と、そこに映った自分の顔を眺めやる。
恐ろしくまずい顔、ということはないと思う。少なくとも見た瞬間吹き出されるような珍奇な作りはしていない。だが彼女は幸太を見て笑った。理由なら分っている。分っているのだ。分ってしまった。
彼女は幸太の持つ文庫本へ目を向けた。笑ったのは、その後。
最寄り駅で今度こそ電車を降りて、改札を抜けると真っ直ぐに家路を急いだ。物理的な観点からすると歩みそのものはむしろ緩慢だったが、惰性のままただ機械的に左右の足を動かし続け、途中で店に寄ることもなければ、寄ろうと考えることさえなかったために、帰り着くのは早かった。
郵便受けに投げ込まれた広告チラシは一瞥もせず、コンクリートの階段を上る。二階建ての二階、最奥の二〇六号が幸太の住む部屋だ。一応角部屋だが、隣のマンションがほとんど接しているから余り意味はない。そちら側の窓はたいていカーテンを閉ざしていた。
暗い部屋は外よりも冷えているような気がした。蛍光灯のスイッチを入れても白い光は空々しいだけで身体を温めることはない。また電気を消して布団の中に潜り込みたい衝動に駆られたが、一着しかないスーツを皺だらけにするわけにはいかない。夕食だってまだ済ませていない。歯もまだ磨いていない。シャワーも浴びていない。それから明日の目覚ましのセットも……いや。
幸太は少しだけ明るい気持ちになった。明日は土曜だ。今夜は心置きなく、いや今夜どころか朝までだって読書に没頭することができる。
スーツを脱いでハンガーに吊るし、クローゼットからスウェットを出して着替えた。電気ポットに水を足してコンセントを差し込む。夕食はカップラーメン。不健康だし貧しいが、もともと食への欲求は薄い。行列に並んだり何千円も払ったりしてまで食べたいものなどない。手早く簡単に済ませることができて、そのうえ片手で食べられるものがいい。もう一方の手はもちろん本を持つのに使う。
お湯が沸くのを待つ間、当り前のように読みさしの本を開く。先刻は読む気が削がれたが、今ここには誰も邪魔する者はいない。
本のタイトルは『グレイシャス・モーメント』。著者は大神すくな。どちらも書店で見て初めて知った名だ。
後発のマイナーレーベルからの出版ということもあり、大手でデビューしそこねた新人か、どこぞのゲームシナリオライターでも引っ張ってきたのかと、読む前はさほど期待していなかったのだが。
浅はかな予想は完全に裏切られた。
落とした時に栞を失してしまっていたが、ちょうどイラストのあるページだったから、読んでいた箇所を探し出すのは簡単だった。敵の包囲が迫る中、カルデア王国の王女リディアと、フリーの護衛屋竜平が、初めて互いの想いを交わすシーン。
幸太はイラストで本を選ぶことはないが、良い絵には応分の敬意を払う。流行りの絵柄からは外れた、ナイフで刻んだみたいなシャープな線で描き出された二人には、著者大神すくなの操る言葉によって産み出された世界のマナが、確かに存在していた。
物語の世界に開いた窓。
小説におけるイラストは、たとえばそういうものであるかもしれない。言葉だけで完全に向こう側へ行けるのなら、なくてもいい。下手をすれば余計なものとさえなってしまう。
しかし作家の力量や、読者の想像力といった限界によって、必ずしもいつも境界を越えられるわけではない。むしろ駄目な場合が大半だろう。
そうした際、良質なイラストは(拙劣なやつではダメだ)、向こう側を垣間見させてくれる助けとなり、本当に優れた〈絵〉であれば、きっと潜り抜けることさえ可能にする。
2009/12/26
(続く)
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