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"ロールプレイ"

1-4


 でもそうしたことが分っている人は少ない。知らない者は子供向けランチに付いてくるおもちゃぐらいにしか思わない。活字嫌いな今時の子供に、本を買わせるためのカラフルなおまけ。もちろん本体の方だってろくなもんじゃない。ストーリーは荒唐無稽、文章は擬音語だらけ、改行ばかりが多くてページの半分は空白。文学性など薬にしたくもなくて、あるのはゲーム感覚の暴力と、マンガみたいな色恋だけ。
 いや、そんな程度の浅く誤った認識すら持ってはいまい。要約すれば一言で足りてしまう。即ち、いい大人が読むようなものではない。
 小説に興味を持ち始めた小学生や中学生、せいぜい高校生ぐらいまでが対象で、およそ褒められたものではないが、暇な大学生が気晴らしに手に取るぐらいまでがぎりぎり許容範囲。間違ってもスーツにネクタイの社会人にはそぐわない。もしもビジネス書や資格取得用テキストの代わりに、電車でそんなものに夢中になっているサラリーマンがいたら、いい笑い者。
 幸太は眉をひそめた。ページの左隅が黒く汚れている。染みが付いているとかではない。波状の線の跡だ。
 原因には考えるまでもなく思い当たる。靴底だ。犯人も分っている。不可抗力で幸太が足を踏んでしまったことに理不尽に腹を立てて、本を払い除けていった男。実際に跡をつけたのは別の者だとしても、責任があるのはあの男だ。
 だがそれはいい。幸太にとって本は不可欠の存在だが、本それ自体を愛しているわけではない。少しぐらい汚れても、読むのに支障なければ問題ない。今回被害に遭ったのは、イラストページの余白部分だ。『グレイシャス・モーメント』は文章だけで世界の扉を開く最高レベルの作品であり、極端な話、イラストが台無しになっていたとしても十二分に楽しめる。
 だから問題は別のことだった。
 踏まれたということは、そのページが開かれていたということだ。普通に落ちて活字の側が上になるわけもないから、幸太が読んでいた箇所が閉じ切る前、まだ落ちている途中で蹴飛ばされたりしたせいで、そういう不幸な事態になったのだろう。そう。まさに不幸な偶然だった。
 幸太はこの手の本を読んでいることを恥じてはいない。恥じてはいないが、ことさらにアピールするつもりもない。外で読む時には常にカバーをかけている。従って読んでいるところを覗き込まれでもしない限り、中身が何かなど他人からは分らない。あるいはちらりと見られるぐらいなら、他の「普通」の本と区別できないだろう。
 けれどイラストページは別だ。本の素性を一発で明らかにしてしまう。こうした小説の存在を知らない者でも、イラストさえ目にすれば、どういった種類のものか即座に分るのだ。
 より正確に言えば、誤解する。子供向けのくだらない代物だというふうに。
 だがそれがどうした。どこの誰とも知れない相手にどう思われたところで、困ることなど何もない。たとえそれが魅力的な異性でも。
 どうせ他人だ。二度と会うこともない。たまたま拾った本に何かアニメや漫画みたいなイラストが描かれていて、その持ち主がネクタイを締めた社会人だったからといって、いつまでも覚えている筈がない。後でそいつと目が合えば失笑ぐらいするかもしれない。だけどそれだけだ。僕の知ったことじゃない。笑われたのは「僕」じゃない。「誰か」だ。
 それに本当に笑うべきなのは、本当の価値を知らず知ろうともせず、上辺のイメージだけで分ったような気になってあまつさえ馬鹿にする、その精神の貧しさだ。
 きっと。幸太は三分をとうに過ぎて伸びてしまったラーメンを啜った。ぶよぶよとした歯応えは気にしないことにしてがつがつと咀嚼する。塩味が小さな刺となり口中と舌をつつく。
 本なんてろくに読んだこともないに違いない。掛けていた眼鏡は素通しの飾りか、携帯メールの打ち過ぎで近視になったかのどちらかだ。間違っても、昔の岩波文庫とかの活字の小さな本で古典作品を読破した結果なんかじゃない。そんなこと、あるわけがない。
 紙容器を傾けて塩辛いだけでこくのないスープを飲み干す。小さな麺の切れ端が喉の奥に絡まって咽そうになったが、口を手で覆って我慢する。本にスープの汁を跳ね散らかすわけにはいかない。匂いでもついたら最悪だ。折角あのひとが手ずから拾って渡してくれたんだから。
 ……だから。だから、どうだっていうんだ。
 幸太は本を閉じた。さっきから一行も読み進んでいなかった。気付けばずっとイラストを眺めていた。この世界のどこにも存在しない王国の、気高くも美しい姫君の横顔はどこかあのひとに似ていた。
2009/12/27
(続く)
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