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"ロールプレイ"

2-2


 幸太は脊髄反射で面を伏せる。トラブルは避けられねばならない。闘争は害悪だ。自分には格闘技の素養も経験も、ましてや銃器や刃物の武装もない。
 当り前だ。「護衛屋」などではなくサラリーマンなのだから。
 「シカトぶっこいてんじゃねーぞ。それとも聞こえねえのか?こいつは飾りもんか?」
 「いっ」
 耳を引っ張り上げられる。苦痛に抗えず腰を浮かせ、顔を歪めながら周囲に助けを求めたが、誰も傍に寄って来ようとする者はいなかった(面白そうに眺めている顔ならちらほらと見かけたが)。
 「いいじゃんそんなの。ほっときなって」
 「けどこいつがよ」
 「うざいからやめろっつってんの。あとそんなキモい奴触った手であたしに触んないでよ?後でちゃんと手洗っといて」
 「わーったよ」
 ピアス男は手を放した。幸太は息を殺し、体をできる限り縮こまらせて、汚カップルの間を擦り抜けた。
 絶対に後ろは振り返らない。ピアス男に再び因縁をつけられること以上に、シャネル女の様子を確かるめのが怖かった。もしも生ゴミを見るような視線を向けられていたら。それとも。空気中に漂う誇りほどの関心さえ持たれていなかったら。考えるだけで心が破壊されそうな気がした。
 ふざけている。こっちは休日にもかかわらず急な呼び出しで仕事に向かうところだというのに。
 私情を抑えて社会人としての義務を全うしようとしている自分が、なぜあんな社会の屑みたいな連中に馬鹿にされなければいけないのか。
 間違っている。幸太は心底から思った。この世界は。この現実は。絶対に間違っている。
 電車を降りた。目的の場所はまだずっと先だったが、どうでもいい。どうせ嘘の世界の嘘の仕事だ。やらなくったって誰も困りはしない。困っている振りをするだけだ。上司は文句を言うだろう。言わせておけばいい。どうせ文句を言いたいだけで、本当の意味なんて無いんだから。
 真っ直ぐ引き返す気にもなれず、改札から外に出る。初めて降りた駅で、どこに何があるのか全く分らなかったが、不都合はない。街の風景などどこも似たようなものだ。ファーストフードかコーヒーショップにでも入って本の続きを読めばいい。そんな予定ともいえないような予定を立てていると。
 「きゃっ」
 体の側面に衝撃。よろめきながら、悪いのは自分じゃないと、咄嗟に思う。こっちはただ真っ直ぐ歩いていただけ、ぶつかってきたのは向こうの方だ。
 しかし相手が小柄な女性であり、そのうえ路上に尻餅までついているとあっては、知らない振りもできなかった。
 「あの……大丈夫ですか」
 本当に心配していたのは、面倒なことにならなければいいがということだ。「どこ見て歩いてんのよっ!」などと自分のことを棚に上げ喚き出されてはたまらない。
 「ええ、大丈夫です。ありがとう」
 だが相手の声に怒りはなく、幸太はひとまずほっとした。口調もしっかりとしており、大した怪我もなさそうだ。
 助け起こすのもかえって馴れ馴れしいだろう。軽く頭でも下げてすぐに立ち去ろう。幸太は思った。だが。
 「あれ、えっと、眼鏡は」
 「え?」
 遅かった。彼女が何を言っているのか即座に理解できず、気付いた時には歩道に落ちた黒縁メガネは通りがかった自転車に轢き潰されていた。高校生ぐらいの乗り主は、速度を緩めもせず一散に走り去る。まずいと思って逃げたのか、本当に気にとめなかったのかは分らない。
 「これですか」
 幸太は眼鏡、というよりその残骸を差し出した。
 「そう、かな?多分そうみたいですね。すいません、ありがとうございます」
 女性は礼を口にしながらも大きくため息をつく。
 「私、眼鏡がないと駄目なんですよね。普通に生活するにも不自由するんです」
 「はあ」
 そんなことを言われても困る。というかこれは遠回しに責められているのだろうか?自分に眼鏡代を弁償しろとでも?
 しかし幸太の困惑を、相手は察したらしい。
 「どうもありがとうございます」
 改まって礼を言うと、眼鏡を受け取った。その拍子に。伏せられていた瞳が、幸太を射た。
 「ぶつかったのは私が前をよく見ていなかったからで、あなたのせいではありません。眼鏡が壊れたのも、もちろんあなたの責任ではないです。だからこれは純粋なお願いなんですが」
 「な、なんですか……?」
 「私本当に眼鏡がないと困るんです。自分一人だけだとどんなことになってしまうか分りません。それで」
 彼女は鼻がくっつきそうなほどに顔を寄せた。
 「もしよろしければ、眼鏡屋さんまでエスコートしていただけませんか?」
2010/ 1/ 4
(続く)
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