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"ロールプレイ"
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幸太は三輪なる女性と共に眼鏡屋へと向かう。別に断っても良かった筈だが、拒否するという選択肢が、さっきは全く頭に浮かばなかった。魅力的な悪魔の誘惑にでもあったみたいに、自動的に頷いていた。
「すいません、本当に助かります。ご迷惑でないといいんですけど」
裸眼で一人で歩くのは怖いからという理由で、三輪は幸太の肘の辺りに手を添えている。終始うつむきがちで、ほとんど前を見ていない。大変そうだとは思いながらも、まるで蠱を含んだような視線に曝されずに済むのは、正直言ってありがたい。
「どうせ暇ですから」
「お仕事は?今日はお休みですか」
「……土曜日です。普通は休みです」
「そうでしたね。私、自分が普段から家にこもりっきりだから、つい普通の人の感覚を忘れてしまって」
幸太は微妙な居心地の悪さを感じる。もちろん三輪が事情を知った上で嫌味を言っているなどということはあり得ない。
気を取り直して尋ねてみる。
「三輪さんは?お仕事は何を」
「内職みたいなことですね。大体は一日中家にいて、パソコンと向き合ってます」
「IT系とかですか」
「そうとも言えます。文字通りの意味でなら」
「っていうと」
「情報についての技術、ということです。でも情報を全く扱わない仕事なんて、そもそもないでしょうけど」
「そうですね」
三輪が何を言いたいのかはいまひとつ分らなかったが、幸太はとりあえず頷いておいた。もしかすると、余り人に言えないような職業なのかもしれない。スパイとか。馬鹿馬鹿しい。
「あ、ここです。私の行きつけのお店」
飲み屋や喫茶店ではあるまいし、行きつけはないだろう。幸太は思ったが、わざわざ突っ込みを入れるようなことでもない。
ずいぶんと地味な外観の店だった。ショウケースの類は一切なく、漆喰塗りの壁に濃い色ガラスの嵌まった扉があるだけで、知らなければ一体店なのだか分らない。一見さんお断りの老舗の純喫茶、とでも言えばかろうじて納得できるだろうか。
扉を開ける。純粋に眼鏡だけを売る店らしく、宝石や時計などは見当らない。だからということもあるまいが、およそ華やかさというものに欠けており、ほとんど薄暗くさえ感じられる。照明はきちんと点いているから、きっと採光の問題なのだろう。
カウンターの後ろには、純黒色に近い丸眼鏡を掛けた老人が一人いた。この店の主人であるらしい。
「こんにちは、成田さん」
三輪が気安げに挨拶する。老店主は口の端に笑いを上せた。
「これは、奈美子さん、ようこそいらっしゃいました。いや、奈美子先生とお呼びするべきですか」
「からかわないでください。私はまじめにやってるんですから」
三輪が不服げに答えると、店主は笑みを強ばらせた。
「もちろん、分っておりますとも。奈美子さんの仕事には、わたくし心から感服いたしました。自分が申すのもおこがましいですが、見事に素材を料理されていたと思います。相当の年季を積んだひとだってあれほどの手際はなかなか見られない。さすがと言う他ありません。わたくしも本望ですよ、ええ、本当に。……で、本日はどういった御用向きで?」
「これなんですけど」
三輪はハンカチに包まれた眼鏡を差し出した。
「直りますかしら。さっき壊れてしまって」
「こりゃあひどい。一体何だってこんなことに?」
老店主は初めて幸太の方を向いた。黒レンズのせいで瞳は全く見えないにもかかわらず、背筋を凍りつかせるようなプレッシャーに襲われる。
「私が悪いんですよ。ちょっとよそ見をしていたから」
急激に冷たくなった空気にはまるで頓着せず、三輪は言った。
「吉淵さんは、親切に私をここまで送ってくださったんです。もしそうじゃなかったら、きっとまずいことになっていたでしょうね。成田さんには良くお分りでしょうけど。それで、眼鏡の方は」
「ああ、これね」
店主は幸太に対する関心をあっさりと失ったようだ。途端に呼吸が楽になり、自分が今まで息を止めてしまっていたことに気付く。
「ここまでになっちゃうと、直すのはちょっと難しいですねぇ。新しいのを作った方が早いですよ」
「何とかなりませんか?とても気に入ってるものなんですけど。成田さんならきっと大丈夫と思って、わざわざ来たんです」
「分りましたよ。奈美子さんにそこまで言われてしまっちゃあ、やるしかない。ですが、お時間は頂きますよ。そうですね、一週間ばかり。何とかしてみますから」
フレームがぐしゃぐしゃにひん曲がり、レンズの割れてしまった眼鏡をどう直しようがあるのか、幸太には甚だ疑問だったが、店主は自信がありそうだった。しかし三輪はなお不満らしい。
2010/ 1/ 5
(続く)
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