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"ロールプレイ"

4-2


 三輪が問う。間近に銃口を突き付けられたみたいに、幸太の掌には汗が滲み、反対に口の中は乾いていく。頭では何と思おうと、身体は真実を知っているというふうだった。
 「どうしました?せっかくのお茶が冷めてしまいます。どうぞ召し上がってください」
 あなたが怖いことを言うからだ。幸太は抗議をしたかったが、大人しくカップを取り上げた。だが最早緊張で味など分るわけもなく──ということはなかった。やはりおいしい。思わずため息が洩れてしまうくらいに。
 「優雅なるひととき。まさに名前の通りでしょう?どんなに辛い状況にあってとしても、これを一口飲みさえすれば、たちまち憂き世の苦しみから解放される。そういう意味の銘です。でもね、それは逆のことも言えるんです」
 「逆?」
 「逆というより、裏かしら。それを味わうためなら、他の何を犠牲にすることも厭わない無上の瞬間。それが〈グレイシャス・モーメント〉。例えばそう、周り中を敵に囲まれて、今にも命を失おうかという状況にあってさえ、リディアと竜平の気持が通じ合った瞬間、二人にとって世界は金色の輝きに満ちていた。分るでしょう?そういうひとときさえあるなら、人はどんな辛い体験だって耐えられるし、どんなに苦しい試練にだって立ち向かえる。そういうことです」
 幸太は言葉を失った。三輪が『グレイシャス・モーメント』のことを知っていたという以上に、語られた内容に衝撃を受けていた。
 三輪の言っていることは完全に正しい。たんなる思考上の同意ではなく、心が、魂が、共感し受け入れていた。
 自分はこれまで一度たりともそうした瞬間を持てたことがなかった。何の意味もない人生を送ってきた。だからこそ分る真実がある。
 「ずっと気になってたんです。あのタイトルはどういう意味なんだろうって。あなたに教えてもらってはっきりと分りました。それが正解なんですね」
 数あるうちの一つの解釈ではない。唯一無二の絶対の答え。なぜなら。
 「他ならぬ作者のあなたが言うんだ。間違いない」
 確信していた。根拠はない、というより必要ない。上に空があり、地が下にあるほどに自明のことだった。
 「私、電車に乗ることって少ないんですよ。だからとても幸運でした」
 不愉快だった記憶が、三輪の言葉で意味を変える。
 「熱心に本を読んでいる人がいるなあって、ずっと気になってたんです。それで失礼だとは思いながら、時折様子を窺っていました。そうしたら」
 無礼な男に弾かれて本が飛び、それが偶然作者本人の手へと届いた。
 いや、本当に偶然だろうか?ただの偶然で、一度ならず二度までも、劇的な邂逅を果たすなどということがあるだろうか?
 〈グレイシャス・モーメント〉。紙の上にばら撒かれた砂粒みたいな、価値も意味もない人生の中で、奇跡のように訪れる高められた時。色と音と手触りとが極限まで濃縮された、別次元への扉が開く魔法の刻。
 この人の傍にいられたら。幸太は思った。きっと僕も、そういう瞬間を手にすることができる。自分だけの勝手な思い込みや勘違いなんかじゃない。ない筈だ。
 幸太の願いと気持ちとが込められた視線を、三輪は正面から受け止めた。
 「運命なんです」
 幸太は息を詰め、まるで小石の塊か何かであるように苦心して口中の唾を呑み下す。その音がやけに大きく聞こえ、辺りが不自然なほど静かになっていることに気付く。
 もしかしたら。
 馬鹿な想念が浮かび上がるのを、どこか別の場所にいるもう一人の幸太が、ぼんやりと眺める。
 今この世界に在るのは、僕と彼女の二人だけなのかもしれない。僕らは永遠に外の世界から切り離されていて。だがそれは追放などではなく。楽園への誘い。
 「小説というのは、もちろん架空のものです。本当の現実とは違う、頭の中だけに存在する嘘の世界です」
 三輪は言葉を紡ぐ。淡々と、ただ事実を伝えるように。
 「嘘だからこそ、どんなことでも自由に出来る。思った通りの世界が実現する。それはつまらない現実からの逃避ではなくて、真に生きるべき世界の創造です。幸太さん、あなたになら分る筈。想像することは創造することだということが」
 「……分ります。僕も、そう思っていたから」
 「そう。あなたには分る。分っている。けれどどうしても分らないこともある。違いますか?」
 「そうだ。僕も前に書いたことがあるから。自分で。何度か。だけど……」
 プロの書いた中にも、どうしようもなくつまらないものはある。よくこんなの出版するよな、と呆れ返ってしまうような出来のものだ。
 だがそうした紙屑に等しいような作品と比べてさえ、幸太の書いたものはさらに劣っていた。
 曲りなりにも向こうはプロなのだから当り前、匹敵するような作品を書きたければひたすら精進あるのみ。
 それが常識的な見解というものだろう。それでも幸太にはどうして納得できかった。単なる技術上の巧拙だけでは説明のつかない、特別な何かがある筈だ。
2010/ 1/17
(続く)
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