私は 弟を 愛している / 憎んでいる
どっち?
どっちでもいい。どちらでもない。
一般的な価値基準に照らせば弟は変態の部類に属するのだろう。実姉である私に欲情しているのだから。
しかしそんなのは別にどうでもいいことだ。
一般的な価値基準からするなら私は狂人だ。というよりどのような観点からしても間違いなくそうだろう。少なくとも暫く前まではそうだった。
自分で自分のことを狂っていると見做す狂人はいないという。
それが医学的に正しいのかは知らないが、確かに以前の私は自分が狂っているとは思っていなかったようだ。
そもそも狂うためには“正常“という基準がなければならず、そんなものを持っていなかった私に、自分が狂っているなどと思える筈もない。
とはいえ私は生まれた時から気が違っていたわけではない……ないと思う。その頃の記憶は確かに残っている。私は大方において“普通の”人間として生きていた……筈だ。
曖昧にしか言えないのは許してほしい。記憶自体はそれなりに鮮明なのだが、それが本当に自分のものだという確信がいまひとつ持てないのだ。ドラマや映画で観ただけで、実際に自分の身で体験したものではないような感覚、とでも言ったらいいだろうか。
そうなってしまったのには理由がある。
ある事件をきっかけに、私は正常な世界から弾き出された。
だがそのことについては語るまい。これ以下はないというぐらいにくだらない話だ。
私はあの事件に関わった者達を永遠に許さない。それは確かだ。しかし許せないという気持ちすら今となってはどうでもいい。全ては廃棄物処理されて埋められた。汚物溜めを徹底的に浚い返せば、どこかに痕跡くらいは見付かるだろう。
とにかく、あの後私は狂った。狂った振りをしたのではなく、本当に狂っていた。そしてそれは私の人生で最も幸福な日々だった。
世界にはただ私がいるだけで、私を悩ますものは何もない。私は自閉し、自足した。私の他に必要なものはなく、私は世界そのもので、世界がそのまま私だった。
ずっとそのままでいられたら良かった。私は心からそう思う。そうすれば私は自分でも知らないうちに死に絶えて、無へと還元されただろう。至上の幸福にふさわしい完璧な帰結。
──だがその愛おしき楽園に、いつしか異物が忍び込んだ。
初めそれはただの影だった。呼べば現れて用を足し、呼ばなくても察して用を足す、私の意思に寄り添う道具。
だがそれが顔を持っていることに、最初に気付いたのはいつだったか。たとえば食事の給仕をさせた時。たとえば髪と体を洗わせようとした時。たとえば抱き枕として使う時。
それは物問いたげに私を見るのだ。目も口も持っていないのに。
嬉しい?怒ってる?悲しい?楽しい?僕のこと、好き?
雨垂れでも三年経てば石に穴を穿つように、繰り返される想いの放射は王国の城壁にひびを刻んだ。
何人も立ち入ることを許さない私という王国。
ただの影であった故に見逃されていたそれは、城壁の隙間から少しずつ実体をたぐり寄せ、人としての身体の厚みを備えていった。
そしてついに完全な顔を取り戻し、その口が言葉を発した時。
“姉さん”
私は寂れた庭園の一隅を掘り返し、記録されていた画像と照合した。どうやらそれは弟と呼ばれる存在だった。
──もし弟が常識の内に住む人間だったら。
私はこれほど苦しまずに済んだはずだ。
それならば私はただの厄介もので、たとえ今と同様弟が私の面倒を見ることになったとしても、せいぜい観葉植物の世話をする程度の関心しか寄せなかっただろう。王国を維持管理してくれる影に、私は感謝の念さえ抱いたかもしれない。
しかし弟は変態だった。私に強い執着を持っていた。
気違いの姉の弟が、姉を性的に欲望する変態だったからといって、さして驚くにはあたらない。そもそもなぜ近親相姦がいけないのかさえ私には分らない。
だがそれはあくまで一般論としての話だ。
実際に自分の身に降りかかってくれば、それは苦痛以外の何物でもなかった。
繰り返すが、私は狂っていたのだ。世の理の外にいて、それで十分幸福だった。
なのになぜ弟は私を私の王国から追い出そうとするのか?二人で新たな楽園を築くため?あり得ない。
弟は普通の人間だ。変態かもしれないが、気違いではない。倫理という名の慣習から、欲望の対象が少しばかり逸脱しているというに過ぎない。
比べて私は誰も愛することのなくなった人間だ。他人を愛さないのはもちろん、自分に向けられる愛情は感知しないか、閾値を越えれば自分に対する攻撃として認識される。誰であれ、私を愛することは不幸しかもたらさない。
傍迷惑な道化者がどこか余所の人間なら、私は有害な愛の存在に気付くことなく、道化はすぐに己れの誤りを覚って、観客のいない見世物小屋から早々と立ち去ることになっただろう。
だが弟は常に私の傍にあって私に執着することを止めず、今や隈なくひび割れた城壁は私を取り込もうと蠕動を始めていた。
終局が訪れるのは遠くなかった。私を外の世界から守っていた狂気は破られたとはいえ消えて無くなったわけではない。このまま攻撃が続くなら、それは自身の存在を守るため、侵略者たる弟を殺すだろう。私には止められない。
もっとも、そうなったところで別に不都合はなかったのだろう。私は投獄されるか病院に収容されるかして、今度こそ私という王国とともに朽ち果てることができた筈だ。
しかしもっと良い機会が訪れた。
弟は私を楽園から地上へと連れ戻した。それは堕天という最悪の罪だ。ただの死によっては贖えない。
罰が与えられねばならない。私の味わった絶望のたとえ千分の一なりとも、引き受けさせなければならない。お前が私に向けた愛は全くの無駄だったのだと、報われることなど絶対にあり得なかったのだと、骨の髄まで知らしめてやらねばならない。
私はこれからある場所へと赴く。そこで私の取る行動は、来た者達の耳目を集める。もちろん弟も。いや誰より弟こそ、私の語る言葉に耳を奪われ、片時も私から目を離せなくなる。
しかし私は決して弟に目を向けない。まるで存在しないものであるように振舞う。
お前は私を見ていたが、私はお前を見ていなかった。
私についての記憶で、お前が持つことを許されるのはそれだけだ。全く取るに足りない。すぐに頭の片隅に追いやられてしまうだろう。そうしてお前は私という重荷を忘れ果て、私は人の世の軛から解放される。
だから私は弟を見ない。
絶対に。
一瞬、たりとも。
女が部屋から出て行った後。机の端に立ててられていた厚い専門書が倒れて落ち、その拍子に間に挟まっていた紙片と密封された小さなビニール袋が滑り出た。袋の中身は四つ葉のクローバー、歳月を経て古く黄ばんだ紙片には、たどたどしい文字で次のように記されていた。
だいすきなおねえちゃんへ
おたんじょうびおめでとう
これからもずっといっしょになかよくしてね
かずより