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「おっとこまえ!!」

「おっとこまえ!!」

第8回


 むふーっ、とカバが唸ったような音がした。見れば柾が実咲人に向かって目を剥き出している。かなり不気味だ。もし暗い夜道などで出くわしたら全速力で逃げたくなること請け合いだ。びびらせた相手が女性なら通報されても文句は言えまい。
 だが目下の対象は「男」の実咲人である。見た目のわりに性根は座っているっぽいから、変態が少しばかり奇怪な言動をしたぐらいでさらなる面倒事が起こったりはしないだろう。
 と思ったのだが。
 甘かった。
 柾の変態性を過小評価していた。
 柾はバネ仕掛けみたいな動きで跳ね上がり、実咲人の方に腕を伸ばす。狙うは胸、手の平はお椀の形に丸められ、今にも乳房を揉みしだかんばかり。
 男のはずがないと思っての蛮行なのか。
 それとも。
 男と聞いたがゆえの兇行なのか。
 どっちの方が危険なんだろう。
 いずれにせよ、こんな暴挙を直巳が見逃すはずがなかった。すっと身を沈めると、前に出ようとする柾の足を水面蹴りで薙ぎ払う。
 見事に決まった。
「あ」「あ」「あ」
 哲平、柾、そして直巳の声が重なる。
「え?」
 柾の巨体が倒れかかっていく先に、実咲人はいた。


 ひとたまりもなかった。
 せめて尻餅をつく格好になったのは不幸中の幸いだったろう。もし柾にのしかかられた状態で仰向けに引っ繰り返っていたらと思うとぞっとする。
 実咲人は立てた膝を広げたいわゆるM字開脚の体勢で、しかしスカートの裾は捲れ上がっていなかったので哲平の位置からは奥までは覗けない。別に覗くつもりもなかったが。というかそれどころではなく。
 柾が頭を突っ込んでいた。
 わざとではない、と思う。直巳の足払いは完璧なタイミングで、柾は相当な勢いで前にのめった。結果、終着点が実咲人のスカートの中になったという落ちだ。あくまでも事故。それが救いとなるかはともかく。
 柾は程なくして後ろに這い出てくる。この変態が自発的に退くとは、正直意外だ。
 だがそれより実咲人のことだ。怪我はなかったろうか?哲平は柾のでかい体を押し除けるようにして、実咲人の方へにじり寄った。
 実咲人が膝を閉じる。まるで見るなとでもいうみたいに。
 違うぞ。誤解だ。
「正座」
 実咲人はすっくと立ち上がると言った。
 哲平は即行で従った。主人に命じられた犬の如し。
 いや仕方ないのだこれは。別に心に疚しいところがあるとか、いつにない実咲人の迫力にびびったとかではなく、傍らに控えた直巳が例によって睨みをきかせて。
 いなかった。
 どこに行った、と哲平は頭を巡らせる。
 隣で正座をする柾のさらに隣。直巳が端然と座していた。


 その姿は美しかった。
 スーパーモデルみたいなどこか非人間的な外見の所有者の直巳が、軽く目を伏せ、微動だにせず姿勢を正している様は、完成された芸術作品のような趣だった。タイトルを付けるとしたらきっとこうだ。
『自決』
 ──いや、ちょっと待て。それはまずい。
 全く他人事ではないのだ。一蓮托生を気取るつもりなど毛ほどもないが、哲平だけ責任を逃れることを直巳が許してくれるはずもない。
 頼みの綱は実咲人、か。
 怒ってはいるだろう。色々と常識外れな奴でもある。だが少なくとも直巳みたいに容赦のない人間ではない。
 と、思う。思いたい。思っていてもいいですか?
 哲平は実咲人を見上げた。実咲人が見返す。震えが走る。
 まるで天上から見下ろされているみたいな、無条件でひれ伏してしまいそうな感覚。
「そろそろ終わりにしようか。もう式も始まるだろうしね」
 実咲人は言った。いつの間にか、周囲からは人の気配が消えている。参列者はもう皆会場に入ったのだろう。
「覚悟はできているわ」
 控え目な、それでいて強い意志を感じさせる調子で直巳が言った。
「真っ先に処断されるべき元凶が哲平と柾なのは動かせない事実。けれどあなたへの不敬行為を働かせてしまったのは私の咎だわ。謹んで裁きを受けます」
 実咲人は頷いた。その面持ちはあくまで厳しい。
「きみ達に、ぼくに対する罪を贖ってもらう」
 何だ。何をさせられる?
「ごめんなさい」
 哲平は瞬きを繰り返した。
 え?
 意味が分らない。他の二人も同様のようだ。困惑の気配が立つ中で、実咲人はしかつめらしく教えを賜う。
「悪いことをしたと思ったらきちんと謝る。責任を取るっていうのは誠意を尽くすってことだよ。いい?それじゃあ、さんはい」
 信徒達は女神の前に頭を垂れた。
“ごめんなさい”


 式は滞りなく終了した。式次第は全て消化され、予定外のハプニングが生じることもなかった。
 新入生代表として花之舞実咲人の名が呼ばれ、前に出て演壇に登った時には哲平は危うく椅子に座ったまま腰を抜かしかけた。しかし実咲人は実に堂々とした態度で、式辞の内容もごくまっとうだった。当初会場内に起こったざわめきは、少なくとも表面上は速やかに沈静化していったのである(なお今年度から共学となるといった類の説明は一切なかった)。
 一年A組。県下一の名門私立高である武成の中でも、A組には特に最優秀の生徒が集められる。入日哲平もその一員だった。
 当然の結果、ではないだろう。今にして思えば、入試の時は最近頭を悩ませたばかりの問題が出ていたり、咄嗟に答えが閃いたりということが結構あった気がする。
 合格できたこと自体は実力でも、A組に入れたのはまぐれだろう。来年再来年とA組で居続ける自信はないし、そのために刻苦勉励するつもりもない。
 それなのに、どうしてよりによって。
 教卓の真ん前の一番目立つ席だ。
 花之舞実咲人が、きちんと背筋を伸ばして座っていた。直巳はそのすぐ後ろ。
 哲平自身は廊下側の右寄り真ん中辺り。二人からはできる限り遠ざかりたかったのだが、後ろや端は既に他の生徒に陣取られていた。まさか無理矢理どかすわけにもいかない。
 理屈としては、分る。直巳が最優秀クラスなのは(ここが本来男子高であることに目を瞑れば)当然で、実力か他の理由があるのか知らないが、新入生代表に選ばれた実咲人は文字通り“Aクラス”だろう。
 せめてもの救いは、変態の柾の姿が見えないことか。哲平はそう考えてなんとか自分をなだめすかす。
 教壇では貧相な顔と体に比べやけにふさふさつやつやした髪の中年がぼそぼそと喋っている。このおっさんがクラスの担任らしい。
 やたらハンカチで汗を拭ったりと挙動が不審だ。しかしその理由は明白だった。視線があちこちと定まらないわりに、目の前の二人の方は絶対に見ようとしない。実に分り易く、かつほとんど意味のない現実逃避である。
「えー、ではですね、えー、初めにクラス委員を、えー、決めたいと思います」
 少しだけ声が大きくなる。必要に応じてめりはりを付けるぐらいのことはできるようだ。いい年をした大人なのだから当然か。自分の役割は自分で果たす。
「えー、その後のことは全て委員長にお任せしますので良きにはからってください」
 丸投げできる相手が欲しかっただけかよ。
 突っ込むのは心の中だけにしておいた。下手に目立って面倒事を押し付けられてはたまらない。
「えー、それでは立候補してくれる人」
 誰もいない。
 それはそうだろう。普通なら物好きの一人や二人いても不思議はないが、こんな言い方をされて「じゃあ自分が」などという奴はいない。
「それでは、えー、推薦は」
 教師は早々にあきらめて次の段階に進んだ。さては最終的には自分で適当に誰か指名しようという魂胆か。
 名簿の先頭とかだったら少しまずいかもしれない。
 哲平の苗字の“いりひ”より前はいただろうか。浅井とか荒木とか安藤とか。大丈夫だ。きっといる。
「はい、テッペイがいいと思いますっ!!」
 実咲人が元気いっぱい手を挙げた。
2012/ 4/17
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