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「表現規制 賛成/反対 フローチャート」


 民主主義の基本は話し合いです。
 表現規制に賛成の人も反対の人も、自分の論点、そして相手の論点をきちんと理解した上で、実りある議論を行いましょう。
 (この例にある誰かのようなサル以下の態度は慎むべきです。少なくともサルは人が真面目に話しているのを悪意を持って妨害したりはしません)
 なお、上から下へのフローチャートという形を取ってはいますが、これは必ずしも一個人が一つの主義のみにあてはまるということを意味しません。
 あくまで議論の立脚点を明確にするための参考図だとお考えください。

規制フローチャート


付記1 ”イヤなものはイヤ”、”見たいものは見たい”

”人間は生まれながらにして自由で平等である”
 もしもこの17世紀末葉以降に現れた命題が正しいとするならば。

 表現規制の論理は究極的には成立しない。
 なぜなら、”自由とは他者にとっての同等以上の自由を侵害する場合にのみ規制される”べきものであり、これを規制の論理に適用するなら、”思想・表現の自由は他者の思想・表現の自由、もしくはそれと同等以上の権利(生命、財産の自由等)を侵害する場合にのみ規制される”べきものだからだ。
 逆の言い方をすれば、”ある人が「不健全な」漫画を読んだり描いたりすることは、他の人が「健全な」漫画を読んだり描いたりする自由を侵害しない”、ということである(”精神的な被害を被った”などというのは、特定の個人・団体に向けられたものでもない限り、”面白かった”、”感動した”といった「ただの感想」とレベル的に変わらない。”意に添わないものを強制的に読まされた”とでもいうなら話は別だが、その場合訴えられるべきは作品ではなく、”強制的に読ませた”人の方だろう)。


 従って、規制を正当化するためにはどこかから別の論理を借りてくる必要があるが、上述の根本的な不均衡があるために、それらはどこか無理のあるものとならざるを得ない(現実の世界と虚構の世界との混同、客観的根拠のない「有害」論、独善的な価値観の強要など)。
 反規制派がしばしば論理的に批判を展開するのに対し、規制派が「わけの分らない反対をするわけの分らない連中」、「同性愛者がテレビに出るのはおかしい」、「痴漢されて喜んでるんだろう」などと突拍子もないことを言い出す理由の一つもそこにある(もちろん当人の知性か品性、あるいはその双方が低劣だからという要因もあるのだろう)。

 にもかかわらずなぜ規制派がそれなりの支持を集めるのかといえば、規制を主導している人達にはまた別の思惑もあるのかもしれないが、一般の人々について言えばとどのつまりは”イヤなものはイヤ”だからだ。
 もともとの動機が、感情(というか駄々)であるために、いくら論理で勝ったところで真に納得させることはできない。

 しかし実はこれは反規制派にも言えるのではないか。

 人権関連団体や一部の良識ある議員はともかく、一般の人々、とりわけ反規制派の中核を成していると考えられるオタク近縁層にとって、一番の動機は”見たいものは見たい”だろう(表現者もこれに準じる)。
 少なくとも、反対運動の最大の目的が、”民主主義における思想・表現の自由の論理的正当性を明らかにすること”だとはちょっと考えにくい。

 だとすれば。
 ”規制と反規制のどちらが正しいのか”など、議論するだけ不毛というものではないか。
 それよりも、一方に”イヤなものはイヤ”、他方に”見たいものは見たい”という異なる価値観を持った集団があることを前提として、その上で”両者の折り合いをどうつけるか”という具体的な方策を検討した方がよほど建設的なのではないかという気がする(というか”初めに規制ありき”の風潮が引っ繰り返りでもしない限り「今はこれが精一杯」)。

付記2 ”現実と虚構の区別がつかない”

 翻訳家の兼光ダニエル真のウェブ上での発言に、日本のオタク系作品とアメリカの娯楽作品とでは”虚構の種類が違う”といった趣旨のものがあった。
 興味深い指摘だが、これはオタク的文脈に属する作品と一般向けの作品についてもある程度当てはまる区分ではないかと思う。
 つまり、一般向けの作品が「現実に準じたものとして成立している虚構」であるのに対し、オタク系作品は「虚構の素材によって成立している虚構」だということだ(詳しくは東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を参照。ある種の作品群には、現実とは別種の「リアリティ」があるのだと言えば分る人には感覚的に分るだろう。”○○は俺の嫁”、というのもその類)。
 この成立の仕方の違いが認識されないために、治安担当者や児童ポルノ撲滅に邁進している人々が躍起になって「虚構の」作品を攻撃するのに対して、反対するオタク層からは”規制派の連中は現実と虚構の区別がつかない”といった皮肉に満ちた批判が飛び出すことになる。
 そしてこの両者の間にある意識の齟齬は原理的に決して解消されない。
 なぜなら、規制派がオタク系作品に好意を持って親しむことは無いだろうし、もし仮にそうなったとしたら、その時にはもはや彼らは規制派ではなく反規制派のオタクになっているであろうから。
2010/12/12
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