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安曇氏の起源は中国大陸の揚子江流域に住む舟の上で生活する種族であったとされる。
国の名は呉である。紀元前5世紀呉越戦争で越に滅ぼされボートピープルとなって九州に対馬海流に乗ってやってきた。
この海の航路はそのとき既に知られていただろうが、夏、揚子江河口を東に漕ぎ出せば海流に乗って数日で五島列島に流れ着く。
彼らが建国した奴国はその150年後、宿敵であった越の難民をも受け入れ、日本海沿岸地域を開拓してゆく。
産品は絹、鹿の皮、角(釣り針用)、塩、鉱物等。これらの交易を時の中国政府魏と行なっていた。
鉄器を持った出雲との戦いで奴国は消滅し、纒向に卑弥呼を立てて邪馬台国を樹立することになる。
安曇族も福岡の糟屋郡を本貫地として三輪山の纒向に首領たちは移動する事になる.纒向に都市国家が出現した事になる。
それ以前の銅矛と銅鐸の青銅器を祭祀していた2つの弥生人の国家が統一された事になる。
この時期は九州からの移民は非常に多く、纒向はまさに都市国家として各地の産品を集め,市が立ち、
情報交換の坩堝としての役割を持つようになった。
それまでは10月の収穫祭に年に1度だけ出雲に首領たちは集まって祭りをするに過ぎなかったが・・・。
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| 観松院弥勒菩薩 |
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日本書記巻29天武天皇下
天武十三年春・・・(685年)二十八日、浄広肆広瀬王・小錦中 大伴連安麻呂および判官・録事・陰陽師・工匠らを畿内に遣わして、都を造るのに適当な所を視察し、占わせた。この日、三野王・小錦下采女臣筑羅らを信濃に遣わして、地形を視察させられた(地ところの形を見る。この地に都を作らむとするか。
閏四月・・・・十一日、三野王らが信濃国の図面をたてまつった。
天武十四年春・・・・(686年)三月。この月、信濃国に灰が降って草木がみな枯れた。(浅間山噴火か)
冬十月・・・・十日、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣わし、行宮つくりを命じられた。
天武天皇は本気で一時信濃国に都を造ろうとしたことが伺われる。
かつて、推古天皇の時代、物部氏の里、伊那の地に釈迦三尊像を安置していた。そして久米皇子が将軍となって新羅征討の折、秦の川勝は急遽その釈迦三尊像を水内(みのち今の善光寺)へ移動させている。戦勝祈願としての行為と新羅からの帰化人集落への懐柔政策もあったのだろうか。
天武天皇の世は大きな改革として日本という国家観を確立した事である。百済が新羅に破れ吸収され、王族や高い文化や政治力を持った官吏ごと大和朝廷は吸収した。その上で統一新羅との交易や唐との国交を樹立したのである。こうして韓半島三国時代は終わり、大唐対日本、新羅といった国家バランスを構築した。朝廷内は全て中国式とし、官吏の服装も中国式に改めた。また国家として国史の編纂に着手し、国内の津々浦々から風土記の提出を求めた。
九州筑紫にはこのとき既に唐の筑紫都督府が置かれていて、白村江の戦い以降多くの負担が国家にはのしかかっていた。
万が一唐がこの国を属国として支配しようとすれば、一気に筑紫へ軍を運ばねばならないし、その場合東国の力を頼る以外に無いわけで、美濃、信濃、三河の力は確保しておくべき戦略であった。
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新羅と供に
安曇氏が歴史の中に現れるのは何故かきまって大和朝廷が百済から離れた時である。
新羅と同盟関係を築き時の継体天皇に逆らい、交易航路を封鎖した磐井の乱はまさに阿曇氏と物部氏との戦いであった。
また天智天皇が新羅を撃つ時は安曇氏は百済へ派遣されていた。そして安倍氏が新羅を撃った。(663年)
決定的なのは桓武天皇の母百済人であること。百済王家と血縁である藤原氏の策によって桓武は天皇になれた。
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| 関山神社菩薩立像 |
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安曇氏の衰退
安曇氏の歴史は桓武天皇の御世に閉じてしまうのだが、その間際まで、この安曇野は栄えていたと見られる。
内膳司としての伝統的な役割は、天皇に差し出される食事の毒見と、神に供えるための神饌を賄う仕事である。
常に天皇の傍にいる事で、さまざまな豪族たちの申し立てを天皇に伝える事ができる立場にあった。
がしかし、同じ役職の高橋氏と祭りの席順を争い、桓武天皇の諌めも守らず、その地位を追われ佐渡へ流されている。
そしてそれと時を同じくして大町市 社 まで南下してきていた仁科氏が台頭する事になる。
仁科氏は 後年桓武天皇から出た平氏を標榜していたところから考えても、
安曇族というより 桓武天皇の時代征夷大将軍となった安倍氏系列の坂の上の田村麿の系列であったと考えたい。
大和田氏が安倍氏系列か、阿曇氏の系列かは、今のところ判断できないが、
参考までに・・・・・和田「ワダ」というのは海を意味する言葉である事を考慮すると安曇氏の末裔なのかもしれない。
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仁科濫觴記考(仁科宗一郎著)
安曇氏滅亡の有様八面大王としての民話の原型がここにある。
「耳削ぎ終わり、戒めの縄をかけたままで、健夫らに引き立たせ、地頭の面々、警固して三郷村温
あたりから梓川(真光寺あたり)を過ぎ、追放地八鬼山に至る。民衆は『これまでは公儀の罪なり、これからは我らが怨みを酬いぞ、天罰と思え』と穴へ突き落とし、石積みにした。民衆の恨みによる私刑であったと伝えている。この地を今は八景山と称する。
安曇の民を苦しめてきたのは、蝦夷追討の命令が朝廷から下りて、東北地方への食料、馬の拠出、兵役など過酷な徴税に対し、安曇氏の指導者が朝廷の命令に従わず、紛争を助長するような立場に立ったため、朝廷寄りの支配者と入れ替える必要が生じた結末だったと思われる。
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