大和山観勝院の跡地→

観勝院末寺:
蓮盛寺
大和田盛久天文元年(1532)蓮盛和尚開基

清水寺
 観勝院5世の竹庵和尚が、竹の庵を造り住んだ
セイスイジはかつてキヨミズデラと称された時もあった。(京都清水寺は坂上田村麿のゆかりの寺)





長野県 北安曇郡 松川村
この参道は曹洞宗大和山観勝院へ至る道である
観勝院は室町時代永正(1504〜1520)年間に、大町市大沢寺(だいたくじ)五世の功岩玄策禅師を開山とし、この地の豪族大和田盛氏によって建立された。「信府統記」 天文年間(1532〜1555年)に大和田盛久(大和田大蔵丞)が居城とした。
当時の規模は不明、江戸中期享保11年(1726)の記録によると
寺域 一町歩 余
本堂:八・十一間 庫裏:九・七間 僧堂:七・四間 鐘楼:四・四間 山門:九尺・九尺五寸 とある。
下の写真にある山門は 二十一世住職 宗獄法瑞の代、嘉永五年(1852)当時の寺社建築の粋を凝らした壮大華麗な山門となった。

安達達淳和尚によって救われ今にこの姿を残す事ができた観勝院の山門


霊松寺30世住職・安達達淳和尚は、文政5年(1822)富山県に生まれ、文久3年(1863)、41歳で霊松寺住職となった。明治38年(1905)3月9日83歳で亡くなった。善光寺地震で七堂伽藍が全壊し、再建途中の明治初期、廃仏棄釈令により廃寺の危機があったが、松本藩の使いに反撥して応じず、廃寺から寺を救うとともに、中央に出向き廃仏令の撤廃を訴え実現させた。明治6年に霊松寺へ戻り、廃寺となった地域の寺の再建・復興に尽力した。

観勝院山門

入母屋造、楼門形式 正面3間側面2間総欅造り和様の重厚な形式を基本に、台輪や実肘木の繰形 虹梁 木鼻 華頭窓 等禅宗様を取り入れた折衷様式で門扉の無い豪放な八脚門である。装飾彫刻が大変多く竜 唐獅子 莫 海馬 鳳凰 鶉(うずら) 鷹 水鳥 牡丹 菊紅葉 仙人 十二支 など、多才な伝統的主題を用いているが、桃山風の彩色彫刻とは異なる入念精緻な素木造は、江戸後期に盛行する建築彫刻の典型といってよい。
上階の四隅の擬宝珠に下記のような刻銘がありこの山門がもと松川村にあった観勝院の山門として嘉永5年に建立された事が分かる。
信州 安曇郡 松川邑 大和山観勝院
二十一世 法瑞代 施主請檀中
嘉永5(壬子)年 3月 大安日 再造立者
なお棟札も保存されており、建立に関与した大工は諏訪郡 高部村(現茅野市宮川高部)の藤森広八(二代)を棟梁と、脇棟梁が水内郡奈良井村(現上水内郡中条村奈良井)の和田大造 弟子大工17人であり、杣(そま)は木曾宮の越村の三人であることが知られる。
明治4年に廃寺となった観勝院から霊松寺に移築されたのは明治11年(1878)であるが、そのときに山門の方位が当初の東面から南面になった事と、後に屋根材が萱からトタンに変えられたほかに改造は無く創建当時の姿を良く伝えている。
平成五年八月
大町市教育委員会

末寺観松院に安置されている弥勒金銅像

松川村指定史跡
観勝院山城跡(大和田山城)
大洞山(1091m)に築かれた山城
この山城は北方の西山山城、南方、布上山城とともに仁科氏が西南方の敵に備えた城砦群の一つで、仁科氏の支族であった大和田氏が守っていた。
この城は仁科氏が武田に滅ぼされた天正10年(1582)ころ廃止されたとされるが、観勝院はその後も栄えた様子がこの山門によって証明される。
国指定文化財 仁科33番札所 松川村道祖神