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守護神:大己貴命オオナムチ(大国主命の若い頃の名前)朱雀二年(684) 後に その子である武御名方命 事代主命を諏訪から勧進している建久二年(1191) |
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明治41年 7月 境内に各氏18座の氏神さまを合祀している 4月4日 小宮祭 氏神様神事 |
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| 歴史背景 | |||||
| 松川神社として 大和田神社が大己貴命を主進祭神に迎えたのは、朱雀2年とされる。しかしこの年号は日本書紀には存在せず、扶桑略記に天武天皇元年(672年)とする根拠があり、また異説には天武15年を朱雀元年とし、その年限り使っている。 この年に天武天皇が徳政令を行った事を契機に年号を朱雀としたが天武の死によって一年限りだった。 それ以降持統天皇の代では朱鳥(あかみとり)としている。これを朱雀と同等としてみていたようだ。(万葉集)そうだとすると朱雀二年というのは持統天皇二年(689年)となる。 どちらにしてももっとも持統天皇の御世に近い頃、三輪の祭神をこの大和田の地に勧進している。 その頃の時代背景は670年に焼失した聖徳太子の斑鳩寺(法隆寺)が壬申の乱以降民間による再建が始まったように、唐と新羅との戦いが終了し、その戦傷も天武天皇の徳政令で癒えて、全国的に民間の信仰の高まりが起こった時期でもある。 この時代から古墳時代は終わり、天武天皇持統天皇は同じ八角墳墓に葬られるようになるが、松川のこの地に前方後円墳があるという事を聞く。 また、穂高神社の神官が祭壇用須恵器を携えて大和田の郷を訪ね、祭祀を定期的に行っていたという地元の言い伝えもあるところを見ると、三輪の祭神を勧進するだけの根拠はありはしないか、またそうでなければ観勝院の末寺である観松院に百済時代の弥勒菩薩が残っている事の説明もつきにくくなる。 |
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| 大和田神社として 松川神社として農耕の神として地域に崇敬されていたこの神社が建久二年(1191)年大和田氏の祈願所となりました。 この翌年に源頼朝が鎌倉幕府を開いたのですから大和田氏というのは頼朝の挙兵に応じた一武将だったと思われる。 室町時代以降も 大和田氏は仁科氏の支族としてこの地を支配したようですが、1504年大和田盛 氏が観勝院をこの神社の北西の大洞山裾に創建したとされています。 その後享禄年間1532年この山の尾根に城を築き居城としたのは大和田盛久(大蔵丞)。 松川神社が大和田神社と改称して以降、この神社は観勝院と同一の支配者による支援の下この地域を束ねる要としての役割を担ってきた。 |
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