私の歴史観
安曇野の歴史は,すなわち我らがルーツである。
無量寿経にあるように人は独去 独生 独来。何処からやってきて何処へ行くのか誰しもが心に抱いている疑問である。
ただ、この地に生まれ、此処で生きている人も、他所から此処に来た人も、此処で生まれて遠くで生きている人も
私たちの心のよりどころは安曇の地であり、その地が持っている歴史であり祖先がかもし出した風土である。
安曇のルーツや歴史を此処に思い立つままに書き綴っておき、いつか時間を見つけてまとめてみたい。

ご意見やご感想などいただけたら幸いです。2010年8月5日記


東松川南氏子総代 奥原
silver50@hotmail.co.jp

http://kuu.digi2.jp/
 
聖徳太子と天智天皇の仏教の捉え方の違い。

 厩戸王が最期に唱えた教えは
「諸悪幕作 衆善奉行 自淨其意 是諸仏教」でした。
諸悪を作すことなかれ、衆(もろもろ)の善は奉行し、自らその心を浄くせよ、是れ諸仏の教えなり
です。(過去七仏通解)

それに対して中大兄皇子はファランの思想を持っていました。
新羅の円光法師が広めた思想です。(円光は中国南朝の陳に留学した深い学識を持つ僧侶)
世俗五戒
@王には忠誠を尽くす、
A親には孝行し、
B友には信頼をもって交わる、
C戦いに臨んでは決して退かない、
D殺す時には慎重を期するという五つの教え。
沙門として衆生が互いに殺し合う戦争をもつとも忌みながらも、
正法と仏国土を守護するという信念を持つ立場において戦争も容認した。
円光の「臨戦無退・殺生有択」は、あくまで仏国土を守護するという護仏思想によるものであり、
国家を守護することが、すなわち忠君の道でる。

天智天皇はこの弥勒信仰が忠義を最優先し、時により命を惜しまず敵を倒す、という
武士道に近い思想をもって統率していこうと考えました。
この証として弥勒菩薩念持仏を下賜し
その弥勒菩薩を持っている者を中心として不退転の戦力としようと思ったのではないでしょうか。

やがてこの弥勒菩薩を持った者達が壬申の乱において大海人皇子の元に結集したのは
天智天皇の大きな誤算だったのかもしれませんが・・・・・。
観勝院 

大和田山観勝院は大沢寺末寺であるという事が分かっているが
信府統記に観勝院の開山は功岩玄策和尚なり永正11年 (1515年)
大和田守平盛氏の建立にて 天文2年(1533年)大和田大蔵丞盛久中興なり

松川村にはこのほか有明山社と細野神社がある。
有明山社は坂の上の田村麻呂(大同2年807年)が宝剣を献納して敬意を表していると伝えているが

また信濃宝鑑にはその昔天の鈿女の命の鎮座ませし処にて、後世戸放大権現と称し奉り、宮を川合に立てて川合社という。とある。

片敷きの衣手寒く時雨れつつ 有明山かかる白雲 
 後鳥羽院延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。

信濃なる有明山を右に見て心細野の道を行くらむ
西行法師俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。

ほか一遍上人の歌も残っている。


細野神社は創立詳細不明、明治になって大仙寺部落の産土、八幡社を合祀し、諏訪社と称していたが昭和9年細野神社に改称。
どうやら八幡社は今の大泉寺跡地南東にあったようだ。
大泉寺は木曽源氏残党の菩提寺で、ここにある墓はすべて同一姓である。

天鈿女神社:創立不詳 口碑によれば、桓武天皇の宇 坂の上田村麻呂中房山鬼賊を掃討せし時この地に至り、神威を感じ細野の地に鈿女神を祀れりと伝うけれども、其の後史籍の徴すべきものなし。となっている。
また、建武の朝、後醍醐帝の皇子尊良親王の妃御舟方足利氏為に世を避けここに留まり給い薨去じ給いし霊地なりという。(南北朝時代)
皇都 信濃 安曇野の計画
 
天武10年、日本書紀編纂の始まり、その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。


天武天皇はその治世の間、新しい都を作ることを目的にたびたび臣下を調査に派遣した。
11年(682年)3月1日に宮内官の大夫たちとともに新城に行って地形を見るよう命じられた。
13年(684年)の2月28日には、三野王と采女筑羅とともに信濃国に遣わし、新京造営に適した土地を探させ、地形を見るよう命じられた。
帰ってきた三野王は、閏4月11日に信濃国の図を提出した。

この一連の動きについて、『日本書紀』も、
『是の地に都つくらむとするか』
『日本古典文學大系68 日本書紀 下』 

晩年の天武天皇14(689)年10月10日、天武天皇、
軽部足瀬らに命じて、信濃国に行宮の造営を開始している。

この行宮造営について、『日本書紀』は、「束間温湯」に湯治することが、
目的だったのではないかと注釈している。

しかし、翌朱鳥元(690)年9月9日、天武天皇が崩御。

結局、天武天皇の信濃国への遷都計画は、実現されることはなく、
行宮だけが信濃松本浅間温泉に造営され、
新京として藤原京(新益京)が造営されるのである。

 天武天皇にとっては信濃の地が決して枯れることのない千曲川や犀川があり
水清く湧水も多く四方を山に囲まれ、風水から言っても新京の条件をもっているこの地を
直に知っていた可能性があると言えるのである。

天武天皇の死によって頓挫した信濃の新京造営。
結果として 畿内での新京、後の藤原京が実現したが、この藤原京造営と同格で、信濃国の新京造営が、 政治的視野に常に入っていたと思われる。

ここに、仁科濫觴記に記された孝徳天皇崩御前の2年間の書記における大海人皇子の所在の空白と
同年、安曇氏と仁科氏の仲裁をした皇極皇子の記録が意味を成すのである。

そして仁科氏に預けられた宝祚谷氏(高明王:天智天皇のご落胤か)の存在もあったのではないかと言える。

また信濃国で、行宮の造営が開始された天武天皇14(689)年正月に、
信濃国で火山の噴火があり、その猛烈な火山灰によって、
信濃国の草木が全滅するという非常事態に陥っている。
にもかかわらず行宮が束間に造営されている。

皇極太子の頃、実際にこの湯につかり、持病が癒えたことを経験していなかったら
翌年9月に薨去 する天武天皇の病はその前年は相当悪化していたのではないかと思われる。
善光寺と尼寺
 
聖徳太子が崩御した622年の翌年

蘇我馬子は善光寺本堂に接する形で一宇「本善堂」を建設した。

そしてその姫、尼公尊光上人が初代住職となる。

この尼公尊光上人とは聖徳太子の最初の妃である刀自古郎女が得度して尊光となった姿である。

刀自古郎女は馬子の子であり、山背大兄皇子の母である。

翌年安曇連黒友は法頭となる(推古32年)。
天智天皇のご落胤 
これは時間の一致でしかないが考えられる事件なのでここに記録しておこうと思う。
乙巳の変によって蘇我蝦夷、入鹿が滅び
皇極天皇の弟である軽の王子が孝徳天皇として難波で即位した。
内臣藤原鎌足、右大臣蘇我の倉山田石川麻呂、皇太子中大兄皇子
この乙巳の変によって功を成した右大臣蘇我山田石川麻呂は義弟の密告により
謀反を企てたとして孝徳天皇の差し向けた兵によって山田寺を取り囲まれ自害してしまう。
(649年)
しかし、中大兄皇子が石川麻呂の身辺を調べたが謀反の疑いは無かった。
後悔した中大兄皇子は孝徳天皇との距離を取り始めたのであった。
なぜなら山田石川麻呂は中大兄の皇子の妃である遠智娘の義実父であったからだ。
このことがきっかけで遠智娘は狂乱し建皇子(早逝)を生んで崩御してしまう。


ここで仁科濫觴記の記録が出てくる。

653年斉明天皇元年に生まれた王あり

 斉明天皇2年(656年)に、大海人皇子(天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」の密命で、
その三歳になる子が仁科の城主として派遣された。
その際、補佐として田村守宮をつけて、都(岡本宮)から王町(現・大町市)に降った。
この田村守宮が等々力氏の祖である。


田村なる守宮を付けたという事は祖母に当たる皇極の亡夫、舒明天皇の一族の名である。

653年,中大兄皇子は孝徳天皇に難波から大和へ都を遷すことを相談するが,
天皇は認めなかった。
中大兄皇子と孝徳天皇の間に溝ができていき、中大兄皇子は母、皇極天皇や弟大海人皇子,そして孝徳天皇の皇后の間人(はしひと)皇女や都の役人らを引き連れて飛鳥へもどってしまう。
孝徳天皇は難波に一人残され寂しく暮らす。

以下は孝徳天皇の嘆きの歌である。

「鉗着け 吾が飼う駒は 引出せず 吾が飼う駒を 人見るつらむか」
逃げないようにと首に鉗を付けて飼っていた駒を誰が引き出して見たのか・・・・大切な妻と誰かが会っていた(密通していた。 妻=間人皇女 誰=中大兄皇子or大海人皇子の兄妹で深い関係にあったことに対しての恨みの意味がこもった歌とされる。)

この孝徳天皇が恨みに思った内容は、だれかが自分の妻を奪ったことなのだが
単に孝徳天皇のもとを離れるだけならば密通していたなどとは言わないだろうと思う。
その後誰かの子供を産んだという事になる。
これが中大兄皇子であれば近親相姦になる。また大海人皇子であれば父違いの同母兄弟となる。
間人皇女=聖徳太子の母を想像する。
聖徳太子の母穴穂部皇女は用明天皇の妃であり用明亡き後、一子の田目皇子と結婚している。
書記の中で間人というのは親子あるいは兄弟といった近親相姦をしてしまい、子をなした女性に冠せられた言葉だったのかもしれない。

10年後の665年3月 間人皇女は崩御している。

「斉明天皇六年(661年)ニ宝祚谷殿御年七歳ニ成ラセ給シカバ衆臣御供シ都ニ 登ラセ奉シカバ高明天王ト王号ヲ号シ賜シ也」 仁科濫觴記より

七歳になって元服し、岡本の宮に訪問し 祖母である斉明天皇に謁見し、父大海人皇子や母間人皇女と会っているのではなかったか。
仁科濫觴記 
仁品王は崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる人物。
都より降臨し、王町(現・大町市)に館を構え、犀川の水を開いて安曇平を開墾し、
仁科神明宮を建立した。
子には、早世し若一王子神社として祭られた一ノ宮と、仁品王の跡を継いだ二ノ宮があった。

白雉2年(651年)には、二ノ宮から数えて21代目(つまり22代目)の子孫、高根伊勢(たかねのいせ)が継ぎ、
一族は伊勢、出雲、隠岐、主膳の四家に分かれて栄えていた。

斉明天皇2年(656年)に、大海人皇子(天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」の密命で、その3歳になる子が岡本宮から仁科の城主として派遣された。

上記の3歳の子は、仁品の館に入り、宝祚谷(ほそ(が)や)氏と名乗った。
7歳のときに高明王(高明天王、高明親王)と名乗ることとなり、
天智天皇7年(668年)には高明王15歳 和泉守に被任したことから仁科和泉守高明(森和泉守)とも呼ばれる。
この年、皇極ノ太子の命で、「仁品」は「日本」と訓が同じであることから、
「仁科」と改めさせられた。
ここで、仁科の姓が起こることとなる。
 皇極の太子
白雉四年(653年)にこの地に降臨し、保高見熱躬の舎蹟に保高神社を創建する。

翌年白雉五年(654年)には王町にて仁品王の二十一代目の孫、高根伊勢他に会い、諸所巡見し、
荒廃を憂えて建替増営などを命じ進めていたが、
孝徳天皇の病気急迫を知らされその白雉五年にはすぐに都に馳せ帰ってしまう。

この皇極太子を仁科濫觴記考を著した仁科宗一郎氏は大海人皇子(天武天皇)だというのである。

確かに孝徳天皇は難波に一人残され、姉の皇極天皇、東宮の中大兄王子、妻の間人皇女は飛鳥へ戻ってしまう という事件が起きたのが653年である。
この事件の後孝徳天皇は失意のうちに翌年10月10日薨去 する。

大海人皇子は難波から飛鳥へ戻ってきてしまった653年から
孝徳天皇が病に倒れる654年10月までの間
この安曇の地において、仁科氏と安曇氏との仲裁を試み
仁科21代目の孫高根伊勢に会っているのである。

仁科神明宮の創建は白雉6年(654)
仏崎の別当高根伊勢守平盛国が伊勢神宮の外宮を勧請したのが始まりとなっている裏付けとなる。

そして656年皇極太子の密命を受けて3歳になる皇子を仁科氏に預けることになったのである。
この子は何を依り代として携えて来たのであろう。
宝祚谷氏と名乗ったという。

かつて二品王が埋葬されたのが「宝祚谷の西清浄なる場所」と記されている通り
その古墳の東麓にある観勝院廃寺跡地が有力な場所となるのである。

このことで仁科氏高根伊勢はどのような判断をしたか不明だが
場所が仁科家の館から少し離れた場所に置いたことで推し量れるように
少し距離を置くかたちになっている。

守役として同行したのは田村の守といわれる。
田村は舒明天皇の幼少期、居た場所に当たる。
彼らは 後に等々力家として力を蓄える。
今も本陣が穂高にある。

656年の密命とはなんだったのであろう。
公に出来ないご落胤という事になるが
不義により生まれた子であるという事は容易に想像がつく。

また大海人皇子が極秘としたという事が
兄 中大兄皇子の子では無いかという疑惑も生じる事である。
それでは誰が生んだのかという事が疑問になるが

生まれた年は653年である。
孝徳天皇を難波に置き去りにして飛鳥の岡本の宮へ戻ってしまった年に生まれている。

「かなき付け 吾が飼う駒は 引き出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか」

逃げないように首につけるもの)を付け人目にもふれぬよう飼っていた私の若い馬を
どうして他人に見初められてしまったのだろうか。

と意味深な歌を残している。
この馬にたとえられている后とは間人皇后である。
中大兄皇子の実の妹にあたる。
この間人皇女が孕んだのではないだろうか・・・・。
という疑惑である。

その後この皇子は田村氏(舒明天皇の本貫)で育てられ
中大兄皇子の命で大海人皇子が仁科へ連れてきた可能性がある。
この時、弥勒菩薩半跏思惟像を宝祚谷氏に与えたのではないかと思われる。

あくまでも想像の世界だが
三井寺にある弥勒菩薩像(3尺2寸)も天智天皇、大友皇子の菩提を追善するためであろう。
弥勒信仰を地で行った政治改革者・天智天皇が子供たちに弥勒菩薩半跏思惟像を与えていったことは
理解できるのである。

馬羅尾山(バロオ)
松川村と大町市の境に馬羅尾山 1,852mという山がある。
その山麓を馬羅尾高原と言っている。
すずむし荘は此処を1800mの深さまで掘ってラドン温泉をくみ出している。
かねてから馬羅尾という言葉が気になっていて
その意味を知りたいと思っていた。
未だに 確たるものは出てこないが
音からはウマラという音 と ヲ という音がある。
ウバラは荊棘(うばら)、野荊(のいばら)という語源にたどり着いた。
いばらの東言葉だという。ウバラを呉音表現するとうまら(馬羅) となる。
登った事は無いが、馬羅尾山の尾根は登り難いという。

http://www.webnagano.jp/barouyama.htm

道の辺の 荊(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の  からまる君を    別れか行かむ 

はせつかべのとり
(道端の荊の先に這い、まきつく豆のように、からまるあなたに別れて行くのであろうか ) 
防人が愛する人が足に絡みつくようにしてすがるのをどのようにふりほどいてふるさとを後にしたら良いのだろうか。

といううただが奇しくも、馬羅(うまら)とは古い日本のイバラを指していたことに驚く。
 つまり馬羅(バラ)尾とはバラの尾根である。

いばらは荊棘(ケイキョク)とも 薔薇(そうび)とも読む。

奴国
日本の弥生時代に対する私たち現代人のイメージは
土をくりぬいて掘っ立て小屋を建てて集団で農業をする というイメージなのかと思う。
果たして 国際的な流通のやパワーバランスとはまったくかけ離れた時代だったのだろうか。
確かに庶民は今の時代でもノンポリティカルで現状の小さな欲を満足すれば平穏であるとように
弥生時代においても同様であったのではないかと想像できる。

しかし、弥生時代1,2世紀頃 農耕文化はこの長野県の安曇野にもやってきたのである。
もちろんその時代は縄文人ととわれる種族のコロニーがあちこちにあって
稲作を持ち込んだ弥生人たちとの交流や交渉、取り決めなどが行なわれたと考えなければならない。

この安曇地方にも入ってきた弥生人たちは、どのような背景を持ってやってきたのかを
日本の弥生時代に対する私たち現代人のイメージは
検証する時
稲作は一年目は田を作ることに費やされる。灌漑開発である。
1 水田は水平でなくてはならない、そのため畦によって囲まれる事とその田を構成する土は粘土質で保水性を持たなければならないのである。また灌漑用水路の建設も必要である。
この間の1年間の衣食住の確保は誰がやったのか
あるいはこの地に土地を確保するための準備は誰がしたのか  という疑問が残る。

2 内陸地に入植すると言う事はすぐに塩分の供給を必要とする。塩の供給ルートは縄文時代ら既に出来上がっていたルートだったから、弥生人は彼らから供給をしてもらう必要があったのではないだろうか。
安曇野は本来小谷から始って佐野坂峠、仁科三湖を経て、大町、池田松川までを北安曇郡といい、有明、穂高、豊科(現安曇野市)を南安曇郡として行政区分されているが佐野坂峠を越えて白馬、小谷(おたり)までを安曇野という訳である。このルートを日本海の糸魚川まで千国街道が縦断していて塩尻に至る。この街道は塩の道として有名だが、ボッカによる輸送ルートは縄文時代にもあった。
米を持った入植者弥生人は縄文人との交渉の中で内陸部と沿岸部との交易品をボッカに委託することになる。弥生人が持ち込んだ殖産は生糸と水銀や製鉄の技術である。安曇野には鉄はない。

3 沿岸地帯は海洋族安曇氏の支配地が広がっていたと考えられる。

鬼の釜古墳
池田町の河岸段丘丘陵地帯は稲作の敵地であった。丘陵地帯堀の内地籍にこの鬼の釜古墳がある。
7世紀前半と言えばちょうど聖徳太子が飛鳥では摂政をしていた時代にあたり、各地に仏教が普及した時代となる。
仁科氏がこの時代にこの地を治めていたと仁品濫觴記にはあるが、この地の首長の墓である鬼の釜遺跡を見る限り、そういう治世の跡は見受けられない。主産業は農耕と玉石の研磨だったであろうこの地にふさわしく、この墓にはなめり石が副葬されていた。これは首長である印として納められた物。卑弥呼の時代から古墳時代までは首長の証として三種の神器が与えられた。そしてこれを代々維持してきたのである。
ただこの三種の神器 玉、剣、鏡、はもともとは三つの古代王国が連合したもので、玉は
越の河比売(ぬなかはひめ)と連合を組んだ出雲の大国主の命の系列を意味し、剣はスサノオの命がヤマタノオロチを退治した時に尾を割って取り出した草薙の剣を意味する。これは今でも熱田神宮にある。そして最後に卑弥呼が持った三角縁神獣鏡である。太陽神を神とし、神憑りによる女王支配を受け入れた民族である。
玉は重要な産業で、中国大陸魏でも不老不死の象徴として支配者に必要な神器であった。
姫川とは峠を越えているこの地にも玉は産出していた。またこれらの玉を研磨するための石英の粉末はこの松川村の西山に上質な石英を産出する。昭和時代硅カルとして土地改良財として生産していた。
又この地は玉を生産する出雲王の支配地であったし、大国主を今でも称えている。大和田神社の主祭神はオオナムチ=大黒=大国主の命である。
琴柱型なめり石副葬
焼けた菩薩半跏思惟像
観松院の半跏思惟像を含め、対馬の浄林寺、新潟の関山神社の新羅仏は3体とも百済の同一の鋳造所で製作されたものであるという。
神野寺にもよく似た菩薩半跏像があるが、時代はそれよりも少し下る。いずれも火中に投じられた損傷を持っていて、一時日本国内で廃仏運動に被災した形跡がある。物部尾輿が蘇我の稲目の寺から仏像を引き出し難波の堀江に廃棄したのが570年である。また同様な事件が物部守屋が起こしている(585年)敏達天皇。
これらの弥勒菩薩はそれ以前に造られて日本へ渡来した渡来仏と言える。
正式に仏教伝来として日本書紀に残るのは552年百済聖明王が欽明天皇に金銅釈迦三尊像を送っている。しかし、それより古く538年百済より仏像・経論を伝うと、上宮法王帝説に残っている。(宣化3)
また、『扶桑略記』によると、司馬達等は522年(継体天皇16年)2月に日本に渡来し、大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したという。

いずれにしても、物部や中臣氏らの廃仏運動があり、廃却された仏像を火中から拾い、対馬、新潟関市、安曇野、そして奈良神野寺へ運んだ人物がいたと言う事です。彼らの行動の代表と言えるのが、聖明王からの釈迦三尊像の軌跡ではないかと想像できます。

書記に書かれた正式な仏教伝来は552年でした。これが金銅釈迦三尊像の来日でした。
それから欽明天皇は百済へ馬を556年まで毎年送っております。が聖明王は554年に戦死しております。
この金銅釈迦三尊仏は蘇我稲目が小墾田に仏像を安置して礼拝していたが、その年厄病が流行り尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許したため難波の堀江に捨てられた。その後小墾田の寺に火をかけられたという。この時、一光三尊仏は火の被害にあっていない。翌年欽明天皇は仏像を2体彫らせて、仏教復興させている。
次に起こった大きな廃仏運動が585年物部守屋主導の元で起こっている。このときも仏像は海に廃棄されるだけで焼かれた形跡は無い。

しかし渡来人が持ち込んだ弥勒菩薩像は多く火中に投げられ、対馬のは上半身が失われているにもかかわらず1400年以上もたった今に伝えられている事は奇跡である。

松川村西方にある里山「大洞山)の仁品王廟は双円墳である。

この地は大洞山の尾根のもっとも低い位置であり、かつ乳川から140mほど高台になる。

かつて縄文人の集落があったと伝えられているが

確かに(朴)ほうの木がたくさん自生していて湧水もあって生活しやすい環境である。
この地に双円墳の廟がある。土師氏由来の西山神社では毎年頂上にて祭りを行なっている。双円墳は新羅の先祖崇拝の形式だが大和田神社は三つ巴の家紋を踏襲し、そしてオオナムチを主祭神にしている。
三つ巴は九州宇佐神宮の家紋で、伊勢とは異なる。
仁品氏の廟であるのかそれとも仁品氏が発見した廟なのかは不明だ。
仁品氏が歴史の表に出てきたのは桓武天皇の時代であって
双円墳が出来たであろう5世紀〜6世紀よりずっと時代は下っているからである。

九頭龍と日光白水郎(ひかるあまこ)

九頭龍は今の戸隠に祭られている司水の神で、タジカラオウのミコトの末裔とされる。

この九頭龍の指導により 日光白水郎(ひかるあまこ)が働き、安曇野の湖沼を決した

といわれている。

仁科濫觴記では 10代崇神天皇の時代に九頭子を河伯司に命じ日光白水郎(ひかるあまこ)を長とし

山征場の川底の岩を除き、砂石をさらい流して水路を広開して流量を増やした。とある。

ダムが無く、バイパスも整っていなかった60年前のこの地域を考えた場合でも

大雨が降れば、高瀬川の水量、梓川、中房川、奈良井側の水が合流する犀川は

排水が間に合わずみずうみのごとく冠水したであろう事は想像に難くない。


泉小太郎というのは 白水 という字を泉と立て読みし、小太を光と読みできた名前ではないかと言う説がある

この地にあるあちこちに点在する湖沼を排水し稲作に適した地とし

また洪水のたびに冠水する明科の地を

川下の山清路当たりの川床をさらい、川幅を拡張していった

九頭龍と日光白水郎(ひかるあまこ)の功績を「犀竜と泉小太郎伝説」にして口伝したもののようだ。

仁科濫觴記から離れて九頭龍が九州の磐井の乱の後の葛子だったらこれもまた面白いかもしれない。

仁科濫觴記 8/25

仁科濫觴記はまさに弥生時代まで文字による遡及が為されていること。

この地にある地名にはその発祥のいわれがあり、

この歴史書はいくつかの地名のいわれを書き記している。

地名はそのとき改められたか、あらたに付けられたのかあるいは意味をたがえてその呼び名を継承したかである

安曇ののこの地が熱躬と呼ばれていたのは仁科濫觴記によると

「人皇拾三代成務天皇ノ御宇諸国郡境ヲ定ダメ給フ時熱躬郡司タルニ依リ熱躬郡ト号ケ給ヒ境ノ川モ熱躬川ト号ケ給エリ亦」あるように、

仁品氏がこの地に下り立った10代天皇 崇神天皇の御世、おおよそ280年〜318年頃

そして11代垂仁天皇は仁品王にとっては兄となる存在であった。

二品王と穂高見の熱躬が袂を分かって、穂高見が中央に戻ってしまう事件が起こった。

開拓の事業と平行して行なわれた神事のため神殿の修築や御所の体裁を整えるための工事の連続に

重臣穂高見の熱躬は民の疲弊や臣下の度重なる徭役に対する不満などを見かね、二品王への諌奏に対し

焦る若き二品王が逆燐し竹の鞭にて熱躬を打った。

熱躬は倭の柏原に戻り景行天皇に上奏し、景行天皇はこの事実に怒り

二品の城館は破却せしむべし、という厳しい結果を突きつけたのであった。

その後、熱躬はこの信濃の地に戻ったが

王町には戻らず、その南の地現在の穂高の地に留まって北上しなかった。

二品王は天孫の王としてのまつりごとの意義を失ってしまったのである。

失意のうちに時を経ずして崩御され、宝祚谷の奥の清浄なる所に葬られた。

おそらく西暦350年以降にあたる。

そしてこの地に郡が置かれるようになったのは成務天皇の御世で

この時主を失った二品氏は衰退の状態で、この地区は熱躬が実権を持っていた。

その土地のおさおさしき者に地方を治めさせ郡を置いたためこの地を熱躬郡としたようだ。

初代仁品王のみが松川の地に葬られたが若一皇子以降は現在の大町市内に葬られた事からも臣下たちの離反が相次ぎ、

安曇の地は500年近く二品と穂高の確執の中にあった。

二品王が葬られている宝祚谷の奥というのは大洞山の南西の尾根部分に当たる。

従って大洞山の東に位置する大和田(マツカワ)神社とは二品王が中央の垂仁天皇の宝祚長久を祈る為の山である、

大洞山の麓にある事が何らかの意味を持つのではないだろうか。

大町市常盤西山地区にある八王子神社(土師神社)は二品王の従者土師氏を祀る神社だが

大和田神社の末社と言われる所以は二品王が大和田神社を勧進した可能性が高いと言わざるを得ない。

仁品王降来

第10代崇神天皇の御世、纒向に都を建設した。

その地は清らかな水に囲まれた師木水垣宮(しきみずかきのみや)という。

第11代垂仁天皇は同じ纒向の地に纒向珠城(まきむくたまきの)を建設している。

書記の年代とは異なり、時代は3世紀の後半から4世紀にまたがっている。

3世紀前半の卑弥呼の邪馬台国の想定位置よりも600m程東に移動した場所に崇神天皇の宮は建設され

その柱は卑弥呼の宮殿から抜き取ったものと言われる。

30国の連合の王 卑弥呼が没して男王が立ったがその後再び倭国大乱が起こり

248年 13歳の壱与を擁立して同じ纒向の地に連合国家の中枢が建築された。

この時代のことは日本書紀ではまったくあいまいに処理されていて倭と邪馬台国の繋がりが見えてこない。

ただ、最近になって箸墓古墳が卑弥呼のものではないかという説が有力である。

卑弥呼には弟がいて、卑弥呼の霊能力を伝達し実行していた。

これが崇神天皇ではないかとされるのである。

彼は卑弥呼(倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の交霊予言に従い

三輪山に大物主を祭り、大田田根子を神主にして、

天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせて

疫病は収束し、五穀豊穣になったという言い伝えがある。

この崇神天皇の子に豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)がいる。初代斎宮である。

垂仁25年まで斎宮として伊勢神功天照大神を祭った。


垂仁天皇の弟(書記には表記されず)である仁品王はこの安曇の地へ降り立った。

保高見熱弓(ほたかみのあつみ)と武内山雄(たけのうちさんゆう)を重鎮に従え

近臣五名、従臣一五名

纒向と同様水清く北から南に流れる鹿島川、高瀬川の扇状地に都を建設した。

この地は昔、九州奴国の時代に安曇族が発見し、開拓を続けていた地であったが

狗奴国と邪馬台国の和平が成就し、天孫族と出雲を中心とした足長族との共同で進める国づくりの一環として、

穂高見熱弓が招請したものではなかっただろうか。
エゴ草
安曇野の烏川以北に伝わるエゴを食べる習慣について考察
 
 
エゴ というとegoismをほとんどの人は頭に浮かべますが

エゴと聞いて海草の香りや、寒天よりはザラッとした野趣豊かな舌触りを思い浮かべる人々がいます。
日本列島 出雲を中心に南は福岡から青森あたりまでの日本海側の人々です。
 
エゴ草とテングサは異なる海草です。エゴは着物の洗い張りの糊に使われたり
また海草を使って土壁の繋ぎにしたりしていたとも聞いた事があります。
 
古代人は沿岸部の人は海草を食べていました。
 
ところが、ここ安曇野は海無し県 信濃 の中信部にあたります。
 
しかしエゴを食べる習慣があるのです。
 
幼い頃、私はいつもこのお盆の時期、大町市平(木崎湖の南)の古屋という屋号の親戚に遊びに行っていました。
 
そこでは旧盆のお供えにエゴが供せられ、そして子供たちもおやつに甘味噌をのせて頂きました。
 
ですから、私にとっても懐かしい味です。
 
最近めっきり食べる機会を失いましたが
 
何故、いつごろこの海草が海無し県信濃まで持ち込まれ、食されたのか
 
おおくの安曇族研究家も論文を発表しています。
 
エゴは福岡ではおきゅうと といいます。「沖うと」
 
塩の道というテーマで此処で少し書いた記憶があります。
 
内陸地へ人が入植すると言う事は、即塩を沿岸から調達するルートを確保するという意味を持ちます。
 
沿岸部と内陸地は川をもってルートとします。
 
これがもっとも安全最短ルートだからです。
 
そして内陸地と沿岸部は同族かあるいは協力関係を契約してはじめて内陸部へ入ってゆくことができる。
という必須条件が民族移動にはあるのです。
 
塩はテングサやホンダワラなどの海草を使って天日で塩分濃度を上げてから煮詰めます。
 
最初から海水を煮立てても貴重な燃料ばかりが消費されてしまうからです。
 
海草を吊るして、何度も何度も海水をかけてゆきます。
 
海草はラジエターのような働きをします。表面積が大きいので効率よく水分を蒸発させます。
 
高濃度の塩水が付着して干からびた海草を海水で洗えば、濃度の高い海水ができます。
 
これを煮沸します。
 
また高濃度の海草を焼いて灰にして海水に混ぜる方法もあります(藻塩)
 
これはミネラルたっぷりの美味しい塩になります。
 
使い古したテングサを燃やすか、それとも内陸地へ運んで物々交換のネタにするのか
 
ボッカたちの中の誰かは考えたのでしょう。
 
そうして塩の道をたどって海草や魚の干物などが内陸地へもたらされたのではないでしょうか。
 
塩もにがりを除去してない粗製の塩は内陸地では重宝がられました。
 
俵に入った粗製塩は吊るしておくとぽたぽたとにがりを滴らせます。
 
時代は下るのでしょうが 内陸地にも豆腐の産地が増えてゆくのもそうした理由があったと思います。
 
あるいは、茅野市などは寒天の一大産地なのです。
 
テングサの無い内陸地にそのような大きな殖産が栄える事は
 
やはり塩の道が大きく貢献しております。
 
 太古鮭は信濃の高地400m位までは遡上して来ていました。
 
秋には 漁った 鮭を開いて、塩を塗って 乾燥します。
 
凍てつく外に鮭を春まで凍らせて保存する事もできました。
 
塩があれば漁醤にすることもできます。
 
これらは天皇の膳部としての安曇氏にとっては重要な産業でした。
 
塩があれば・・・・という条件が付く訳です。
 
此処安曇野から流れ出る川は全て犀川 → 信濃川となって日本海に繋がります。
 
また北安曇地方は仁科三湖までは農具川、そこから徒歩で峠を越えればヒスイで有名な姫川に出ます。
 
急流ですが、これも糸魚川へと繋がっています。
 
安曇野までの塩の道はこのルートでした。
 
千国街道と呼ばれているルートで、
 
戦国時代は上杉謙信が敵将 武田方へ塩を贈ったことがあって
 
その配った塩が尽きたところが塩尻でした。
 
上杉はこの千国街道を押さえれば、信濃は落ちたはずでしたが
 
上杉謙信はその地の利を利用しませんでした。大和の武将の根本にも民を苦しめての勝利を望まない潔さがあったのです。

安曇氏の失脚

安曇氏が一地方豪族となり、中央の求心力を失ったのは(792年)延暦11、高橋氏(膳部氏)と供奉(ぐぶ)の先後を争って桓武天皇の勅勘を

破ったため新潟へ配流となった。
このとき依頼中央での安曇氏の名は失せている。
また桓武天皇の御世、阿部氏は797年に征夷大将軍に任命され東北蝦夷の制圧に貢献したが
600年代に日本海を北上した阿倍比羅夫によってある程度支配下になっていた越後糸魚川から坂の上の軍は姫川を遡上し青木湖木崎湖あたりに入った。
さらに農具川、高瀬川を下り天武天皇の時代に設置された今の大町市 社の仁科神明宮あたりの伊勢神宮の御厨を管理していた仁科氏を

懐柔しさらに南下して河相神社のあたりまで来て陣を張った。(800年頃)
安曇氏は既に朝廷に反旗を翻す賊となるため、坂上田村麻呂は自分の同族をこの地の支配者として任命してゆく事になる。

それが仁科氏の祖となる。燕岳登坂路途中合戦小屋なる名前の休憩所がある(海抜2363m)。
「 桓武天皇の御代、有明山に棲み、妖術を使って悪事をはたらく魏石鬼「八面大王」を坂上田村麻呂が大合戦の上退治したのが

この尾根の谷間だった。」

坂上田村麻呂はオオナムチを産土として祀り、これを崇拝するものには保護をするとし、各地に神社を作らせている。

この時の神饌(供物)はエゴだったのかも?
 
九州福岡の安曇氏は白村江の戦いで唐、新羅の連合軍に壊滅的な打撃を受け
 
その後新羅との和解などで多くの資財を没収される、などして安曇の荒尾以降没落してゆくが
 
信濃の安曇氏は御厨(みくりや)の管理をしつつ、力を蓄えていったと見られる。
 
御厨とは伊勢神宮の神饌(神に供える飲食物の調達地域。
 
信濃の安曇氏の本拠地は今の安曇野市明科の塔の原であり、穂高神社であったと思われる。
 
塔の原の地名の由来は其処に仏塔が建てられていたからだが、安曇氏は壮大な私寺を所有していた。
 
穂高には金刺の舎人という人物がいて、農地の開拓に力を注いだとある。
 
金刺とは欽明天皇が即位した場所で、この宮警備などのために大和朝廷に送り込まれた杖刀人のことで、
 
この頃は伊那の物部氏が多く出ていたと云われているが・・・・。
 
同様な境遇の者が穂高にもいたと言う事だろう。
 
科野国造の祖先である建稲背命七世の後孫金弓君の二男金刺宮舎人麻背
 
以下追記
岩城仁科系図」によると、平貞盛の後裔で仁科盛遠の時に仁科を姓としたのが始まりとなっているが、

現在では奈良時代に古代豪族阿倍氏または安曇氏信濃国安曇郡に定住、その支族が伊勢神宮の御領「仁科御厨」を

本拠としたことを起源とする説が有力とされる。

弥生時代の中期の銅鐸や鏡から 8/16 2010

古墳時代の埴輪に到るまで、鹿の絵柄が 刻まれ、ヘラ描きされ続けた事実は

おそらく鹿という存在が倭国へ渡り住んだ南方人からしてみると

重要な獣であったと言う事ではなかろうかと想像がつく。

黒潮や対馬海流に乗って渡り来た南方人は最初から鹿の生息地を探す必要があった。



なぜなら、この八島の国は過酷な冬があるからなのである。


人間が生きてゆくためにまず必要なものは衣食住である。

食は漁業に長けた海女にとってそれほど不安な要素ではない。

多くの穀物の趣旨を持っては来たが、この国には既に稲作以前に粟(あわ)ほか栗、そば、栃などの

主食は手に入れることが出来た。

もっとも直近で必要なものは衣類の確保ではなかっただろうか。

漁撈であった安曇族は鹿の角を釣り針や銛の材料にしていたが

鹿皮は衣類としてこの地の冬を越すために最も重要な材料ではなかったか。

春日大社にいる鹿も人間と共存し、

牡鹿の角は長寿の漢方に使われたり刀の柄やさまざまな飾り物として使われてきた。


志賀 滋賀 四賀 男鹿 鹿島 など 数え上げればきりが無いほど。


未来を予測するため、巫女たちは鹿の骨による卜占をしたし

巫女を象徴する衣類には必ず鹿の姿が縫いこまれたのである。

蘇我入鹿もその名が表わすとおり未来予知に長けていたと予測できる

もともとは膳職と呼ばれていたが、大宝律令によって饗宴の準備担当を大膳職、天皇の食事の調理、配膳をの役目を内膳司といい

代々高橋氏と安曇氏が世襲し、官位は三位後に大納言あるいは中納言が兼務した。
 
716年から安曇野宿禰と高橋氏との内膳司としての主導権争いは
 
桓武天皇の仲裁によって、「今後は交互に、勤めよ。」となったが
 
安曇宿禰 継成は譲らず、788年6月、12月の今食(かむいまけ)と11月の新嘗祭の神事の3回共
高橋氏の制止を振り切って前に進んだようです。
 
朝廷は再び両氏を呼び出して神事を交互に主導するようにと申し渡したが
 
安曇氏はそれ以降一切姿を見せなかった。
 
安曇宿禰継成は「人臣の礼無し」と断定され大不敬、八虐の罪に問われ、絞首刑と除名を宣告されたが
 
恩赦により死罪をを免れ、佐渡に流されました。
 
安曇氏は破滅し安曇族は中央における支えを失ってしまった。
 
しかしこの頃は大和朝廷は東北蝦夷討伐のための軍資金の必要から
 
厳しい租庸調の取立てがあり、郡司としての安曇氏は朝廷と住民の板ばさみに逢い
 
民衆はその負担に苦しみ、戦いによるすさんだ心は戻っても耕す農地無く
 
盗賊となって、里を荒らすことも増えたのだろうと思う。

道 8/25  2010


私たちは地図を携えていれば簡単に見知らぬ道をたどることが出来るが

地図の無い時代ははたしてそのように簡単に見知らぬ道をたどる事は出来ただろうか。

ヤマト朝廷の時代、安曇族が歴史の中で大きな力を発揮できたのは

彼らが山を知り、河口を知り、潮の流れを知っていたからで

いわゆる未知の土地への道案内人であれた事が大きな力であっただろう。

河川は重要な交通手段だったはずだ。



確かに縄文時代にも日本中に道は張りめぐらされてあった。

彼らはさまざまな交易を、その道を使ってやっていた。

その道というのは、まさに獣道と同じで、か細く、一年間誰も通らなければ消滅してしまうようなものだったはずだ。

神武がヤマト入りする時も多くの道案内人が現れている。

地元の人間に道案内をしてもらわなければ,次の目的地にはいけない。

道をたどるということはとても危険な行為ではなかっただろうか。

夜は間違いなく狼の群れに囲まれている。

だから海洋民族の安曇族は舟での内陸への通行を目指した。

目印の山は志賀(滋賀、鹿)と言った。彼らは鹿の生息地をよく知っていたからだ。

鹿の角は釣り人にとって重要な釣り針の材料なのだ。

内陸と海とは塩の道がどの地方にもあった。

縄文人でさえ、塩がなければ生きては行けないことを知っていた。

塩は海岸で海の水を大量に煮詰める事で造り、それを内陸へ運ぶ。

もちろん山中の獣たちも塩が必要で、塩のにおいをかぎつける。

だから人は火を携えながら塩を運んだ。

道という認識は現代人と古代人ではまったく異なったものとして考えなければ

古代の流通は見えてこないし、航海能力への依存度が今と異なってくると言う事だ。

気候変動   6/4  2010

紀元前一世紀から紀元2世紀にかけて大きな気候変動があって

洪水や冷害が頻繁に発生し、食糧危機にさらされた時代があって

弥生後期、人々は強烈に灌漑用のツールとして鉄器を必要とした。

もちろん食糧確保が死活問題で、食料の豊かさよりも

強奪の武力のあることの方が生きるうえで必要だった。

鉄器が東日本に一気に広がったのは2世紀以降という。

高地性集落など人々の移動や、鉄器が九州で生産できるようになることなど

もっとも強い武器を持ち、貨幣としての価値を持った鉄器の所有者こそ

当時の緊迫した食料事情の中で冨の集中と権力の集中をなしえたのだろう。


坂上田村麻呂    5/31  2010

坂上田村麻呂は桓武天皇の側近。

彼の子 春子は801年桓武天皇の妃になっている。

安曇氏の身分は朝廷では内膳の一人。

膳部氏の末裔の高橋氏と宮廷・神事御膳係の地位を巡っての確執していました。

そして792年に安曇氏は奉膳の職から去り断絶します。

翌793年坂之上の田村麻呂は奥州蝦夷征伐に出かけます。

おそらくこのときに乗じて仁科氏は安曇平の支配権を握りたかったので行動に出た。

八面大王はこのときの伝説でしょう。

この地の支配権が大和の安曇氏の出先司(つかさ)から仁科氏へ移ったと思われます。

安曇氏はそれに対抗できる力を中央では持ち得なかったというのが実情でしょう。

安曇氏はそれまでは常に天皇の側近にいて時の朝廷を補佐してきています。

西暦57年に後漢光武帝から漢委奴国王之印を授かって以後

卑弥呼が王になり、親魏倭王之印を受けて後も

それが邪馬台国の一大卒として中国や半島との交流の窓口として

安曇族は活躍し続けたのではないでしょうか。

もちろん白村江の戦いにも斉明天皇を補佐し働きました。

けして、磐井の乱で力を失ったと考えないほうがいいと思うのです。

観松院 弥勒菩薩   5/25  2010

この地にある観松院の弥勒菩薩。

松本氏の「失われた弥勒の手」を一通り読ませていただいた。

安曇氏という一族の歴史とはいえいくつかの国の歴史が折り重なっていて、その全てが関連している事。

これをどのように整理していくか、とても難しい問題だと思う。

説明や可能性を重ねてしてしまうと冗漫になってしまい、読者はそっぽを向くし

かといって、強引に面白く書いてしまっても、歴史的な認識の誤りなど汚点を残す。

長い時間をかけて少しずつ進めていくしかないのだなーというのが感想でした。

ただ今回は浄林寺まで出向いて、また韓国まで出向いて仏像を比較された

松本氏の情熱に敬服いたしました。

実際、ヤマト朝廷が600年に隋へ使者を送ったり、

第2回、607年の遣隋使派遣後裴世清が大和に609年に入ったときの見聞録など

日本書紀とはまったく異なる印象が隋の歴史書には残っています。

ましてや安曇氏は継体時代には物部麁鹿火に1年にわたって攻められ滅ぼされたとあるが

白村江の戦いには安曇氏は斉明天皇や天智天皇の大きな力になっていたのも

我々がまだよく分かっていない歴史が隠れているような気がします。

久米の皇子(聖徳太子の弟)が百済への援軍として筑紫へ向かう時

急遽、元善光寺にあった釈迦三尊立像は聖徳太子の命により今の善光寺に移されている

これも本当の理由が不明である。

新羅との戦いを前にして何故この仏が水内へ移らねばならなかったのか

水内には一体何があったのか。

安曇氏は志賀という地名をつけていることが特徴で

志賀高原は・・・・、有明山は・・・・・

もちろん松川村に留まったかも知れなかった釈迦三尊立像

水内に行った理由も考えてみる必要がありそう。

百済の聖明王が552年欽明帝の世、日本に釈迦三尊立像送ってきた。

570年には物部尾輿は小墾田のその仏像を難波の堀江に流したという。

実際仏教が日本に入ったのは宣化帝538年以前なので少なくとも倭には実質的に仏教は広まっていた。

この仏像を物部は本当に捨てることができたのだろうか。

一度捨てて、拾ったのではないだろうか。

だいたい、仏像を拾った善光の生まれたところは物部氏の里なのだ。

その阿弥陀三尊立像の(秘仏)前立ち三尊立像の菩薩の顔は観松院の弥勒とよく似ていると思わないか。

物部と安曇は確かに1年にわたって戦ったのだが

これが実際和睦していたとしたら、どのような展開が予測できるだろうか

失われた弥勒の手   5/21  2010


岩崎ちひろのお子さんでちひろ美術館館長の松本猛さんが表題の本を出版しました。

その記念レセプション招待者の一人が私がこのことを研究しているのを知っていたので

本を持ってきてくれました。

歴史書ではないのですが、当時のことを髣髴とさせる内容です。

何故こんな田舎に6世紀に作られた弥勒菩薩があるのかが不思議です。

明治になって廃仏毀釈が多くの仏典や寺、仏像を失わせました。

この観松院の弥勒菩薩も腕を失いました。

しかしこの弥勒菩薩が何故ここにあるのかが解れば

安曇野の歴史が見えてくると言うものです。

この安曇野の地の名は北九州の福岡にあった安曇氏がここに入植した証拠だと思います。

ここには円墳が残っています。前方後円墳はありません。

弥勒菩薩は同じ鋳型のものが対馬にもあると言います。

安曇氏は九州伽耶をテリトリーとする海洋民族であったらしい。

魏志倭人伝に出てくる全身刺青の男たちは、もり一本で漁業をする漁師の姿です。

彼らは何故九州を追われたのでしょうか、いつ追われたのでしょうか

そして何故この山奥へ隠れなければならなかったのでしょうか。

ロマンは尽きません。

サークルストーン  12/16  2007

縄文時代後期に盛んにサークルストーンが出来ていった。

また縄文土器も祭器用の装飾のある薄いものから実用の厚手のものとの分離が始まった。

人は意匠に凝ってゆくことで自己主張するという本能を持っている。

縄文時代に既に冬至と夏至が決まっており、

季節を司る神がその山頂に居て、太陽をの出口入り口になっている山を神とあがめていた

儀式が定常化することによって、その信じるものたちは同じ衣装を纏い同じ刺青をし、

同じ土偶を拝んだ。

これが小国が始まる基礎となってゆくのだろうが

弥生人が上陸した九州はそれほど縄文社会は発達せず、むしろ東北や関東、北関東上越に発達していた。

弥生人が纒向に大きな市場を創り、北からの物資との交流点にしたというのも

日本の物流の中心となるのも地理的にも頷けることだろう。

かがみ  11/18  2007

氏社会では結婚と言うのは大きなイベントであったと思います。

氏同士の結びつきになるからです。

それはそれぞれの氏族を守っている氏神の同意が必要なはずです。

それをたずねるのは巫女で巫女は鏡に向って神が憑依するのを待ち

そして振り返り鏡を背にして族長に氏神の意思を伝える。

新郎新婦が金屏風を背にして、紅い毛氈の上に座り

神からの了解を披露するのはそういった意味合いがあるのかもしれません。


金の屏風は鏡?紅い毛氈は朱砂?

紅と金はどうも縁起がいいようですね。
硅石鉱床   11/2  2007

安曇野の西山と東山はまるで地質が異なります。

西山は花崗岩(御影石)で出来ています。東は火山岩(大峰安山岩)と堆積岩で粘土質。

高瀬川を隔ててまったく異なった地層なのである。

これが独特の文化を生んでいる。

この西山(北アルプス山麓)に城山という尾根の切れ目が北に向ってあって

この尾根が良い硅石が採れる鉱床になっている。

この石は純度の高い酸化ケイ素(SiO2)で出来ていて、戦後は粉砕して硅カルの原料にしていた頃もあった。

今は苦土石灰の方が土壌更新力があるため生産されていないが・・・・

言えることは、この酸化ケイ素(石英の粒)の塊が坩堝に最適だったのではないか

といえることである。この近くに石の坪という地籍があることも意味深い。

御影石  10/31 2007

御影石と言えば花崗岩の別名・・・・というより古代ことばというべきかも知れない。


御影とは面影とか残影とか亡き人の姿、あるいは神霊(みたま)という意味が含まれている。


つまり花崗岩(御影石)は鏡の原料であったという事が推測できる。

松川村の「鏡」と呼ばれる地はそのような岩鏡があって、

巫女が先祖の影をその御影石から読み取って

集まっている氏の宗主に伝えた場所。

いわゆる祖先崇拝の集合地であり未来を問う祭りの場であったのだろう。

この岩鏡を磨くのに、もちろん成形のためには斧のような固い石が必要だったのだろうが

もうすでに鉄があったとしたら、それで平らにし、当時採れた朱砂(辰砂)で磨いたことだろう。

その磨かれた紅く光った鏡面を巫女が覗き込んで、自分に憑依している先祖の姿を眺めた事だろう。


かがみという地名はそういう意味がある、という事を一つの手がかりとしたい。

仁科  丹科 ? 10/30 2007

これはとんでもな想像かもしれませんが「仁科」とは「丹科」なのかも・・・・・。と^^;

漢字は当て字なのでなんともいえませんが『ニ』という発音は気になります。

科は坂という意味ですから、「水銀の坂」とも読めるのです。

時代ははるか昔、3世紀ころのことでしょうが・・・・。

弥生時代の須恵器が出土しましたし、その時代の蒸留器も出土しました。

大町病院に展示してあります。トンチンカンな解説つきですが

それを見た時は私は驚きました。これはすごいって。
仁科はやはり丹科であった。
フォッサマグナによる海底隆起がこの安曇野の東部を南北に囲っています。これらは赤土で、古代人は赤のことを丹と呼んだのでした。
ベンガラ(酸化鉄)や朱砂も丹ですが、赤土も丹と呼ぶようです。
仁科の神明宮のある地点はまさに赤土の大地です。
西は2500m〜3000mの急峻な山でしたが、東は1000mをピークとする山の裾野に、高瀬川によって作られた河岸段丘が開けていました。
粘土質のその山の沢伝いに初期の稲作は発展して行ったようです。

信濃川  7/29 2007

信濃川の河口には燕市があって、鉄の加工が盛んです

ここへ製鉄の燃料炭を供給した手段が信濃川だったはずです。

材木を筏に組んで上流から下るのです。

筏には毛皮や麻布あるいは獣の干し肉、燻製など。

糸魚川で日本海に注ぎ込む姫川にはヒスイがありました。

ヒスイは勾玉の原料でもあり、祭祀に重要な役割を持っていました。

この姫川を遡上しますと、佐野坂峠にたどり着きます。

この峠を越えると青木湖、中綱湖と繋がっていて木崎湖に到ります。

この場所をなぜか海ノ口と呼びます。(ここから信濃川水系が始まっています。)

佐野坂峠までは陸上を歩くしかありませんが

木崎湖からは再び舟の移動が可能です。

ここから舟で下ること30kmで信濃川の源流である明科へたどり着きます。

つまり陸路は糸魚川から佐野坂峠までで

あとは安曇野を巡り千曲川と合流して信濃川となっているのです。

安曇平の産物はすべて舟で燕、三条へと流れ出ることが出来ます。

アイヌの保存食の作り方で鮭の日干しがあります。

これは産卵後の油の抜けた鮭でないと出来ないそうです。

ここ安曇野まで遡上した鮭はもう精も根も尽きた、スカスカの鮭ですが

これを開いて厳寒の季節に天日干しにして、春から囲炉裏屋で燻製にします。

これがアイヌの重要な保存食でしたが

これが出来たのは安曇野の干し鮭の特徴で

これのあるおかげで安曇族はヤマト朝廷の膳部の役職に着くことが出来ました。

またこの天日干し鮭は防人の携行食として、麻布と同様

時の朝廷にはなくてはならないものだったのです。

有明山  7/18 2007

有明山という巨大な里山があります。標高2268m

この山は天手力大神が天岩戸をこの地まで飛ばし、そして天照大神が光り輝いた。

ゆえに戸放し山、あるいはこの大岩がここにあって、世が明るくなったので有明山、と呼ばれた。

と信濃府統記に記されたいます。

ちなみに有明山は、志賀高原、森将軍遺跡(前方後円墳)の近くに一つ、それと

対馬に一つあります。

対馬はかつて安曇族が交易拠点として支配していた島でした。

今朝の散歩で撮影しました。

山頂には祠があります。

安曇氏  7/15 2007

私のイメージでは安曇氏と安曇族とは区別されるものです。

安曇族は北九州からやってきたのは確かですが、それが何時の頃かははっきりしません。

一つのきっかけは、邪馬台国が滅びた時か、それともずっと時代が下って

磐井のの乱の後の葛子の時代(529)か。

この地域の人々の面相を見ていると、どうやら一重まぶたが多く、そして

背丈はそれほど高くなく、朝鮮系の顔をしている人が多いかなという印象です。

ところが今日ふと気づきましたが、私の親戚の中でも

突然、濃い面相の人もいます、まるで沖縄人のような、あるいはアイヌのような・・・・

そういえば私の顔も朝鮮系というより少し濃いかもしれません・・・・。

白髪系です。司馬遼太郎のようにおそらく真っ白になると思います。

今のところグレーですが・・・^^;

ま、いろいろの血が混じっているという事も自らの面相を見て分かっていますが、

おそらく安曇族と行ってもかなり混血していたかもしれません(まずは隼人と・・。)。


安曇族は交易を主体としてこの地域を選択したのは確かなようです。

大河が大きくうねり方向転換する地点、それが明科という場所でした。

ここは北から流れる高瀬川が梓川や烏川、奈良井川、女鳥羽川が合流して

フォッサマグナに犀川、千曲川と合流して信濃川となって日本海に注ぐ大きな交点なのです。

木崎湖から農具川を下れば高瀬川そして犀川に出られます。

犀川は蛇行が激しく長野あたりまでは難所が続きます。

しかし確実に日本海に出られます。

海の幸は糸魚川から明科へ向い、山の幸は明科から燕市へ出てゆきます。

この流通をもっとも便利だと考えたのは海洋民族安曇族でしょう。

もちろんそこには姫川のヒスイが大きな動機としてあったと思いますが。

それだけでなく、やはり水銀の鉱脈を求めてやってきた節があります。

水銀の蒸留のための須恵器がたくさん出土する事からも分かります。

これはこの地域が中央地溝帯であり、水銀が産出しやすい地形である事も影響しています。

時代が下ってこういう鉱脈を空海が歩いています。

金毘羅や和歌山、比叡山などその典型といえるでしょう。

安曇族はおそらく卑弥呼以前に、倭の奴国王の時代にこの地に入植し

日本の最大の特産である水銀、須佐(朱砂)発掘したのではないかと思われます。

これはある意味では不死の薬でもあるのです。

水銀は新陳代謝を活発にする若返りの薬ですが

防腐剤でもあります。

死者を腐らせないでミイラ化させるのに重要な働きを担っています。

その昔、先祖は子孫の守り神でしたが、その体が復活するために

ミイラを製作したのは、何もエジプトばかりではなく、アイヌの伝統でもあったのです。

それは中尊寺に残された藤原氏のミイラが如実に語っているのです。

水銀は金を抽出するための媒体であるだけでなく

腐敗を防ぐ重要な働きをします。

硫化水銀は朱です。これが湿気の多い日本の木造建築を腐敗から守ってきました。

赤坂、血川(乳川)血野(茅野)など水銀の産出の可能性があるのです。

日常の中にある死   7/21 2007

時間の流れというのは遠い過去ではゆっくりと流れていたように思います。

私の子供の頃のこの田舎の人々の生活は、やはり米を物々交換の媒体としていました。

1円で鉛筆が買えたのを記憶しています。

リンゴ4kgが米一升という相場で交換されていたのでした。

そのことをすごく原始的に今は思えるのですが、たった50年くらい前の現実なのです。

またその頃というのは、やはり死というものがすぐ生活の中にありました。

私の家にはヤギがおりました。

ヤギは子ヤギを生むと一人前になって乳を出すようになります。

私はヤギの乳で育ったのでした。

このヤギがメスを産めば、少し育てて、売られてゆきました。

雄が生まれてしまうと、半年くらいで殺されてしまいます。

若いお兄さんがやってきて、ヤギをつぶすところを見ていました。

頚動脈を切られ、徐々に泣き声がか細くなってゆくのを聞いていました。

もちろんそのヤギはその晩のご馳走になったのでした。

卵を産まなくなった鶏は、いつもうずくまって普段はあまり動きませんでしたが

捕まえようとすると必死で逃げ回っていました。

捕まえられて鉈で首を落とされて、必死で逃れ走り、パタッと倒れます。

そういう鶏の羽根をうまくむしる方法を私は知っています。

人の死も身近にあったように思います。

昔は土葬でしたし、通夜も長く、多くの人が集まりました。

一部屋に電球一個の薄暗い部屋に死者は横たわり、刀を鞘から半抜きにされて添えられていました。

こういう生活のあり方は1000年前とそれほど違いが無かったのではないかと思うのです。

歴史とはそれほど身近にある出来事ではないでしょうか。

車社会が物流を急速に早め、航空機が世界をちじめ、ネットの発達が空間の偏りや濃淡を平準化してきましたが

それはこの50年の間の出来事だったのです。

ですから高度成長期以降生まれ育った人から見ると

歴史は過去の遠い存在にしか見えないということなのです。

歴史を肌で感じられなくなって、理論や痕跡の積み上げだけの知識になってしまうと

もうそれは遠い過去の違う世界の、おろかな人間の営みにしか見えなくなってしまうような気がします。

果たして 消えたのか   7/9 2007

歴史を考える時、遺跡を残した文化があってそこの住民が忽然消えたかの様な錯覚を覚える。

例えば縄文人はいったい何処へ行ったのだろう・・とか。

しかし私は人々はそうたやすく忽然と消えたりはしない。

今の文化の中から縄文時代の痕跡は見つからないのかというと

そうでもないような気がするからだ。

もちろんアイヌの痕跡すらある。

地域によってははっとするような美しい女性に会うことがある。

この人は日本人なのか・・と見まごうばかりの・・・だ。

明らかに血は残っているし、文化も残っている。

古い文化の上に新しい文化が入ってきて古い文化が変化してくると考えたい。

そう考えた上で、安曇野に栄えた安曇氏の文化は平安時代の坂上田村麻呂の

蝦夷征伐以降変大和朝廷の支配に塗り替えられたと考えたほうが良いと思う。

つまりわれわれはやはり安曇族の血を引いているのである。

祖父が塚古墳  7/4 2007

祖父ヶ塚古墳の主は6世紀後半に亡くなった。

その墓は円墳でねずみ穴の北約1km。それは新羅様式だった。

副葬品に新羅独特の土器があるらしい。

この地域に新しい稲作を教えに来たものだと思うが、

当然灌漑や、耕作のための鉄器なども持ち込んだものだと思う。

地域の人々はその帰化人を信頼し、頼った。

磐井が継体天皇が差し向けた物部麁鹿火に鎮圧されたのが527年

もともと磐井は新羅の思想と同調するところがあり

国のあり方(律令)なども、新羅から多くを学んでいた。

それが物部に破れ国を追われた(527年)、磐井の残党たちは新羅に逃れたか

あるいは新羅が占領した(529年)金官国に逃れたかしたと思う。

またはこの安曇野に安曇族を頼ってやってきたかもしれない。

日本に仏教公伝されたのは538年だがその前にすでに半島からの帰化人たちは

仏教を信じ、自分たちの祖先を追善するために小型の仏像を携帯してきたと推察できる。

須恵器  7/6  2007


誰も知らない安曇野の土器の用途。

日本列島はなぜか昔から水銀の主産地で卑弥呼の時代からおもな輸出物であった。

水銀はアマルガム製法で貴金属を純粋にするために使われている。

例えば不純物(銀)を含んだ金を純金にするために、金鉱石を砕き水銀と一定の割合で混合する、

そうすると金だけは水銀に溶け他は水銀に溶けないから完全分離することが出来る。

その混合物を熾(おき)で過熱すると水銀だけが蒸発して純金がそこに残る事になる。

このアマルガム製法は仏教が普及するに従って仏像の鍍金に必要となり、

水銀は国内でも重要な鉱物となった。

ここ大町地区も丹生のみという地籍があったり

チガワという川名が残っていたり朱砂や水銀にまつわる地名があり

そしてこの蒸留釜が発見されたわけである。

須恵器

須恵器や鉄器などは朝鮮半島から新しい技術として5世紀頃入ってきた。

倭の5王の時代はそういった朝鮮半島の最先端の技術を独占することによって

その受容が求心力となって王権の確立が進んだ。

しかしそういった技術は在地に浸透するに従って

地方の自活を促し、王権の求心力は不安定になる

このことが倭の5王が大陸から冊封を受け安東将軍の権威を盛んに必要とした原因でもある。

ここに6世紀の須恵器がある。

これを解説書に上下の身分を象徴する形の須恵器・・・という解説がしてあるが

よお〜っく見て欲しい

これは明らかに蒸留装置じゃないのかと思われる。

4つの口に竹筒をあてがい何かを析出させたか蒸留したかの痕跡に見える。

どうもこれって水銀を精製するための器じゃないかと思えるのだが

詳しい方はご意見をいただきたい。

観松院 半跏思惟像  6/20 2007

この地に残る渡来系の弥勒像。飛鳥時代のもの。
江戸時代までしか遡れないその由来。

なぜこの地にやってきたのか、いつの時代にやってきたのか

まるで謎なのだ。

火災に一度逢っていて金箔は剥がれ落ち、露出した金銅は錆なのかでこぼこしている。

これと似た弥勒菩薩半跏像は対馬の浄林寺で下半身が発見されたり

新潟の関山神社で良く似た面相表現の半跏像が発見され秘仏となっている。

まるで経路を我々に知らせるかのようだ。

また666年4月請願造立された野中寺の弥勒半跏像よりも古い時代のものと想定される。

江戸時代までは見向きもされず土蔵の隅に転がっていた可能性がある。

江戸時代にこの像高16.4cmの厨子が作られている。

この像が飛鳥仏で渡来人がもたらした重要な菩薩である事を発見したのは

昭和33年文化庁の倉田先生という方らしい。

この像を発見して、腰を抜かさんばかりに驚き

日がな一日眺めていて、後日の調査スケジュールをすべてキャンセルして

文化庁へ戻ってしまったそうだ。

それからこれが国の重要文化財に指定される事になった。

円墳の副葬品  6/8 2007

松川に有る横穴式円墳の出土品は宮内庁が持っていってしまい

今は見ることが出来ない。

村教育委員会の文献によると直刀と玉だそうだが

これからは特に帰化人なのか中央からの司なのかはわからない。

時代としては560年から600年頃。

何故かと言えば、仏教が入ってくることによって先祖供養は墓で行う必要が無くなった事。

又中央から派遣された司が地方の国造り首長より権力を持ち始めたため、

首長が領民を大量動員して巨大古墳を作ることが出来なくなった。

大和朝廷の王族が求心力と支配力を強めたということだ。

横穴式古墳が出来た事によって、入り口の開閉が容易になり合葬しやすくなり

今の墓のように同族の墓があちこちにできるようになった。

しかし直刀を副葬できた祖父が塚古墳はそれ相当の権力者と見ていいと思う。

このような墓が魏石鬼岩までの間にいくつかあるらしいが

盗掘にあわなかったものはやはり宮内庁が一斉調査して持ち去ったようだ。

明治時代は長野県は特に政府に対して媚を売らなければならなかった県だっただけに

このような宮内庁の動きに対しても問答無用で従ったのだろうと思う。

このことが古代歴史の民間欠落で

文化としても地方自治としても味気ないことであるよとおもう。

有明山社

有明山がご神体となっている。

そもそも有明という呼び名は有明海に通じる。

この地に有明という文字を残したのは誰なのか・・・・。

ふと磐井のことを考える。今の八女市に彼の墓はある。

有明海というのは福岡の志賀の港が何らかの理由で使えなくなった場合

例えば制海権を奪われた場合・・・・

それとも気候や海流の変化した場合

有明海は重要な役割を持つことになる。

有明海を拠点に貿易で力を伸ばしたのが磐井であった。

有明山社のご神体は山頂中央峰、手力雄 命(タヂカラオウノミコト)

八意思兼 命(やごころおもいかねのみこと)そして 大巳貴 命(オオナムチのミコト)

奥宮南峰は天照皇大神、天鈿女命(あめのうづめのみこと)、金毘羅大神

天照皇大神が天岩戸にお隠れになったとき八意思兼命の智恵で、天鈿女命に岩戸の前で踊ってもらい

皆で酒盛りをし盛り上がったところ、天照皇大神が外の騒ぎは何だと思いちょっと岩戸を開けた瞬間に

手力雄命が「エイッ」という掛け声もろともに岩戸を飛ばし戸隠へ隠してしまった。

という逸話の総キャストである。

しかしこれは表向きで

実はこの時代と異にしているオオナムチがいる。

このときは彼女の弟のスサノウのミコトの乱行を悲しんで天の岩戸に天照皇大神が隠れたのだが

その後、島根へ島流しにあったスサノウの娘婿がオオナムチである。

出雲に伝わる国譲りに反対して逃れて諏訪に至った建御名方神はオオナムチの子という事になる。

祖父ヶ塚古墳 5/30 2007

例えば松本の弘法山古墳のように巨大な前方後円墳(4世紀)とは異なり

6世紀後半の祖父が塚古墳は小さな円墳であるが、
 
仏教の伝来による寺での先祖供養が実現した事によって

前方後円墳を造って祭祀をしなくなった事と、

奴婢が首長の私物ではなく大和朝廷によって管理されるようになったため

墓造りに大量人員導入が出来なくなった事が影響しているらしい。

しかし小さいながらも刀剣が副葬され玉が副葬されているとなれば

それ相当の人の墓であるといえる。

この墓から真南に向って進むと鼠穴があり、北海渡、南海渡を通過して

もしこの東は湖が迫っていたとするならば

中房川を遡上して左岸へ再び上陸すればそこが有明山社なのである。

つまり魏石鬼岩と祖父が塚古墳は同一の集落であったといえる。

この集落が葛子のいた集落であるというには、やはり石像の発見を待たねばならないと思う。

磐井は南宋の石像に囲まれた墓を模して、生前に自分の墓を建設していた。
(残念にも本人はそこに入ることは出来なかったけれども)(528年11月)

葛子が誇り高き大王の子であるならば、この地にも石像と裁判を模した群像を残したはずだと思う。

聖徳太子よりも早く、律令を具現したのは磐井であったからだ

鼠穴  

魏石鬼岩と鼠穴と祖父が塚古墳とは一つの空間と考えられる。

今ある松川村と安曇市有明地区とは弥生時代においては

水稲栽培の最適値であっただろう。

ゆるい扇状地の南東向きの勾配で、北西背後は山に守られ

幾本かの脚ま側や中房川の支流から水を確保すれば

洪水からも比較的逃れやすい地形が連続している。

これが祖父が塚古墳から魏石鬼岩のある有明山社まで等高線で繋がるのである。



祖父が塚古墳(古墳時代末期)

ジイガヅカ古墳は6世紀末。ちょうど観松院の弥勒菩薩と時代を同じくする頃に造られた円墳。

この古墳がある南向きの傾斜地の先にはねずみ穴という地籍がある。

その辺りの集落の首長だったのかもしれない。

そしてその首長が弥勒菩薩を持っていたとなるとこれは最先端の大和の文化がここにあったことになる。

又、横穴式円墳である事からも、百済からの帰化人であった可能性もある。

この古墳の被葬者はどうしてここに住むことになったのだろう。

何かしらの政変の逃避者であった可能性もある。

古墳の主がここにやってきたのは聖徳太子が生まれた頃なのだろうか

それともその父が仏教の伝来の頃(欽明朝)にここへやってきたのだろうか。

この近くには古墳がたくさん見つかっているわけではないので6世紀中ごろか、

早くて6世紀初初めここへ知識人がやってきて村人を指導したという事なのだろう。

少なくともこの安曇野の北辺に日本が初めて仏教を受け入れる頃(仏教公伝552年)

蘇我稲目が今来の漢人(アヤヒト)達の強い要望で仏像を安置する寺を造った時すでに金銅の弥勒菩薩があったことは驚きである。

継体天皇 石組み発見

継体天皇の墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳から石組み遺構が発見された。

この天皇の子の一人が欽明天皇、そしてそこで力をつけてきたのが蘇我稲目。

そして稲目の子として小姉の君と堅塩姫を嫁がせている。

小姉君の子が間人皇后(用命天皇の后)そしてその第一子が聖徳太子である。


日本の国が邪馬台国から引き継いだ外交手法をとってきたが(金印や鏡などを象徴として、

中国の時の皇帝から代理統治権を認可される)雄略の時代に頓挫している。

その後天皇の後継者が定まらず、混乱した中にようやく力を持った天皇が誕生した。

そこから日本は独立国家としての道を歩き始めた。

その結果、旧態の都市国家機構を主張していた磐井は反逆者として物部に滅ぼされる。

これが磐井をバックアップした安曇氏の放浪の始まりとなったのだ。


飴市  2/12 2007

春さき、この地域には飴市がたちます。

これは越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に塩を送ったのが始まりです。

地域の民衆はよほどこの塩がうれしかったのでしょう。

それ以来、この季節は順繰りに市が立つのです。

今は飴市です。飴や縁起物の飾りを売る店が出ます。

昔は盛大でしたが、今はあふれる物資、大型チェーン店が出来て、いつでも手に入るようになったので

市は形骸化しつつあります。

余談ですが塩は上質なものと祖塩とあります。

この辺は祖塩を買って、それを置いておくと空気中の水分を吸ってにがりが塩カマスから滴ってきます。

これを豆乳に混ぜて豆腐を作りました。今でも小川村の豆腐は有名です。

また、もっと低級な塩は天草についた塩の結晶です。

天草も古くなれば、そのまま製塩業者は売ったと思われます。

安曇地方にはエゴという特産があります。これは天草を煮出して固めたものです。

また塩尻の地名は日本海の塩の終わりを意味しますが、その先にある諏訪では天草をフリーズドライして

昔から寒天作りが有名です。これって塩の流通の最後の地でもっとも粗悪な塩天草の塩を抜いた天草の有効利用だったのかもしれません。

その昔製塩業者がテングサをつかってそれに塩水をかけ、風で水分を蒸発させ、塩水の濃度を高めるために使っていました。

この製塩方法があったため、この信州に思わぬ産業を生んだ事になります。
2007年2月12日

新潟と長野のつながり  8/312006

信州には千曲川、犀川、梓川があって、それを集めて信濃川となり新潟から日本海へ注いでいます。

日本一長い川ということもあり、随分奥まで流通が盛んで、塩尻まで届きます。

塩嶺峠を越えると諏訪湖があるのですがここを起点にした天竜川は愛知県に注ぎます。

つまり、日本海と太平洋との文化や人の流れは塩嶺峠によって分けられているわkです。

はるか昔弥生時代、米の文化は岡崎から北上しました。

私たちの住む安曇野は新潟からやってきています。

信濃川に話を戻します。

  信濃川は多くの材木を新潟へ運びました。この材木は炭に加工され、そして砂鉄を溶かし鉄を作りました。

弥生時代は鉄がもっとも貴重で、稲作地の開墾には不可欠でしたし、この鉄はかつては釜山からの輸入品でしたが、

朝鮮半島の材木を燃やし尽くした後は、温暖に日本列島に移住し、出雲の地で鉄器は作られたのです。

その後それは大黒様の伝説と共に北上し新潟に根付きました。弥彦神社です。

信濃は塩をおおく内陸へと運び込んだのです。

この塩はたんぱく質の保存や、漬物、などに多く利用されました。祖塩はにがりを絞って豆腐の凝固材としても使ったのですが、

これは時代が随分下ってきております。

まえにもここに書きましたが、信濃川を遡上する鮭は日本でもっとも長距離を遡上する鮭です。

もちろん河口では丸々太った鮭も、此処まで遡上すれば、もうぼろぼろです。

産卵し終えたら、それこそただのたんぱく質と骨とゼラチンしかありません。

体脂肪10%以下・・・・。これを塩と米と一緒に漬け込めば魚醤が出来るのです。

たんぱく質が分解されてアミノ酸になり、やせ細った鮭は臭みも少なくとてもコクのある調味料が出来上がります。

安曇氏が膳部として活躍できたのもむべなるかなという事です。

神明原  5/17 2006


乳川が大きく方向転換して南に向きを変える地域を神明原という。

ここはかつては荒地で、人は住めなかった。

鉄砲水が襲い、洪水をもたらす場所であった。しかし名は神明原という名を持っている。

乳川が乳のような水を流したので乳川と名づけたといういわれはどこかで聞いたことがあるが

うろ覚えである。しかし私の頭の中では血の川ではないかと思えるのである。

血とは祖先を表わすがそれと赤という色も示す。千田、茅野、乳川である。

見てみれば乳川の河床のほとんどの花崗岩は赤茶けている。高瀬川のそれとはまったく違うのである。

そしてその神明原の南に石の坪があって鏡があって、その南に大和田神社があるのである。

大和田神社の西には古い寺跡がのこる。

弥生時代  5/162006

ここ安曇野の地は槍ヶ岳から北回りで高瀬川が流れ出て、明科(あかしな)という低地に南流している。

この川が中央地溝帯を礫で埋め膨大な地下水脈を持っている。私たちが見ているのはその伏流水の

ほんの表層部の水である。

穂高のワサビ畑の湧水は地表からわずか3mくらい掘れば出てくる。しかし実際は最深300mはある。

海抜600m〜700mの安曇盆地の地下300mに中央地溝帯の断層があり、岩盤がある。

水はその盆地から出ることなく地下水脈となって溜まっている。

この北アルプスからの水を運ぶ高瀬川の西は花崗岩質の土砂が流れ出た扇状地で、

水は伏流水となってしまい、稲作にはあまり適さない地である。

わずかに沢水を利用して棚田が出来るくらいか。

一方、高瀬川の東側は、かつて日本海がいり込んでいた海底だったため、粘土質で保水力はあった。

したがって稲作の始まりは高瀬川の東側に特に発達した。

2世紀に丹生一族が種米を持ってこの地に入植し、朱砂を採掘したときも、

東側の河岸段丘に沢水を引いて棚田を作ったのである。居住地はその北側の松崎という地籍だった。

松川の地には面白い地名が残っている。

ひとつは、鏡、もうひとつは石の坪である。両方とも青銅に関連する地名である。

北九州でも石の鋳型が多く発見されている。石で坩堝を作った可能性があるのである。

2世紀といえば、邪馬台国の時代である。卑弥呼は帯方郡を通じて魏の国と交流していた。

当時としては日本の最先端技術が北九州に集中していた。(大和の纒向はまだ遅れていた)

したがって、北九州、特に安曇氏はこの安曇野の地へ鉱物の採掘のために入植した可能性は大きい。

この安曇野は2世紀ころは北九州と密な交流があったと考えてもいいのじゃないだろうか。

養蚕と水銀、麻、燃料や造船のための材木や製鉄用の炭。信濃川を下り弥彦神社あたりで集結している。

水銀の精錬法  5/13  2006


水銀の抽出は、朱砂、あるいは辰砂 という赤色の砂を土器に入れてそれを蒸留する方法です。

土器は丸底で口がロート状に広がったものを使います。この土器に朱砂を入れ、上からもう一回り

小ぶりの同形の土器をかぶせ、粘土で空気の漏れがないように密封します。

上からかぶせた土器に穴を開け、そこから管を通し、水を満たした土器に導きます。

この管は竹筒を節を刳り貫いて使用したのでしょう、ほとんど現存しません。

そして朱砂を加熱してゆきますと、水を張った土器の中にコロコロと水銀がたまってゆく。

これを集めて、丹生氏、あるいは壬生氏へ納められたと思います。

これらの水銀や、それによって精錬された金などは、当時の倭国にとって重要な朝貢供物であったと考えられます。

7世紀、8世紀、遣隋使や遣唐使が何年にもわたって中国の文化を学ぶことが出来たのも、

彼らが持っていった金や水銀を資金にして実現したもので、決して煬帝などの善意だけではなかった

はずです。長安の城壁の中では大きな市場が立ち、物々交換や、貨幣経済が発展していましたから

生活物資や、紙、筆を手に入れるのにも、日本人はこれを購入する必要があったし、

科挙試験にもそれなりの賄賂が必要であったと考えます。

空海が唐から持ち帰ったさまざまな知識の中にも水銀を使ったものがあったはずです。

彼は高野山に結界を造りますが、ここは伊勢、和歌山、阿波、四国の日本列島地溝帯の上に存在します。

彼が歩いた四国霊場も、何か理由があってのことでしょう。

そして最後に空海は即身成仏を決行します。つまり肉体を永遠に保存して死ぬことです。

体中から10年にわたって五穀、十穀を絶ち、脂肪を抜き去り、水銀を多量に含んだ野菜だけで生きて

そうして最後はそれも絶ち、栄養を遮断し、水銀の丸薬のみで洞穴に篭り、死を待つのです。

空海はそうしてミイラとなり、弥勒菩薩の降臨を待つこととなったわけです。

水銀は防腐剤にもなり、かつ精神安定剤にもなり、ある量を超えれば意識混濁が起こります。

丹生  5/12 2006


朱を塗る習慣が安曇族にはありました。埴輪などにも目の下に朱を塗っているものがあります。

この朱は硫化水銀ではないかということが言われています。

基本的には有機水銀は猛毒ですが無機水銀については微量であれば新陳代謝を促す薬効があります。

仁丹などは今でこそ銀色ですが昔は朱だったと聞いています。つまり硫化水銀の膜を施してあった。

はるか昔、秦の始皇帝の命令で、徐福が3000人の若者を連れて不老長寿の薬草を探しに

東の海のかなたへ旅立って、そのまま帰らなかったという歴史があります。

徐福は道教を持って北九州へたどり着いていたかもしれません。そこで安曇族との何らかの交流が

あって、奴国が出来上がってきたとも考えられます。このときに水銀の薬効や精錬の仕方

そして錬金術を学んだ可能性があるのです。

日本全国にちらばっている丹生に関わる神社はすべてが、水銀の鉱脈の上に存在しているそうです。

長野県は中央地溝帯の断層がありますが、静岡、和歌山、四国、そして岩手県等にも

そういう断層が走っています。そこから水銀が噴出しているのです。

したがってそれらの谷間に丹生の名を持つ神社が帯状に点在するのです。

金の精錬はアマルガム法があります。もちろん砂金採集もありますが、

金鉱石を臼で細かく砕き水銀で洗うと、金だけが水銀に溶け込みます。

この金と水銀の合金をアマルガムといいます。この合金を仏像に塗り、炭火(熾)をかざして

水銀だけを蒸発させれば金だけ仏像の表面に残ります。この様に仏像は塗金されています。

金を抽出する方法も同様です。この技術を丹生に働く民は知っていたことになります。

長野県大町市の丹生は2,3世紀頃に栄えているようです。(考古学発掘による)

これらの民は何らかの要請があってここに入植したのではないでしょうか。

位置的にみますと、糸魚川から姫川を遡上してきたことが考えられます。

この事跡は北九州に残っていて、時代が下るたびに安曇族はこの地に波状的に入植を試みて

来たのではないでしょうか。

2世紀 の 稲作  5/6  2006


安曇野はフォサマグナの入り込んだ地質である。北アルプス連山は花崗岩質の岩山で地層は相当古い。

一方東側はかつての海底が隆起してせいぜい10万年くらいの地質で、貝やサメの化石も採れる。

したがって砂岩や、粘土質の地形である。そして中央地溝帯が走り

古い花崗岩質と新しい安山岩質や砂岩、粘土層との断層をつくっている。

水銀の噴出する層はそういった断層の真上に当たるあたりに存在する。

また少し北に松崎という地籍だが後期弥生の住居跡や、土器などが発掘されている。

丹生の里はどうやら彼らが採掘したらしい。時代は3世紀に当たる。

水銀の蒸留に使用した土器さえ見つかれば面白いのだが・・・・。

また砂岩層からは時折、質の悪い石炭層が露呈している。

彼らは谷間に流れ落ちる川を利用して田を作っていた。かなり上流まで棚田になっている。

鉄の利用  5/5 2006


=鉄の利用=
ちょうなのような物で木を薄く削り、板を作っていた。これらの板は竪穴式住居の内壁を作ったり、

田のあぜを作るのに使われていた。あるいはあぜもぬかるむ為に、板を敷いて歩道にしていたようだ。

当時の田、1,2畝位の広さでかなりぬかるんでいたことが想像できた。

また丸木舟を作り近くの安倍川で漁をしていたことがわかる。

しかし板を作る能力があったが、その板を寄せて大きな船を建造するところまでの能力は

この地には残っていなかったようだ。

九州の国々   4/29


奴国以外の魏志倭人伝に出てくる国々。帯方郡からの道程。

奴国は狗邪韓国や壱岐とほとんど同等の民族でかつ同等の文化を持っていたようです。

甕棺による埋葬と日本産の鉾剣鏡を祭器に使っていました。対馬国(1千余戸)は対馬だし、

一支国(三千戸)は壱岐。

末廬国(四千戸)は松浦川河口菜畑遺跡(ここで日本で最古のジャポニカの炭化米が発見されている)

潜水による漁の形跡もある。(鉄製のあわび起こし。)

次に伊都国(千余戸)糸島半島三雲南小路遺跡。平原遺跡。ここは中国製銅鏡多数出土している。

この伊都国は人口は少なかったが代々「一大卒」がおかれていた。

これはこれより南に位置する邪馬台国の派遣した監督官であり、または魏より派遣された刺史だったかもしれない。

そして奴国の登場である。戸数二万戸。伊都国の東南に位置するとされている。

福岡平野東半、および春日丘陵一帯。須玖岡本遺跡。前漢の鏡が発見されている。

そしてここには青銅器工房とガラス工房(須玖五反田遺跡)があった。

他にはこの地帯、大南遺跡、高辻遺跡がある。

安曇野の安曇族

どうも安曇野に住んでいる人たちの顔を観察してみると特徴的には一重まぶたが多いし、頬骨も発達している。どちらかというと朝鮮半島系の顔が多い。もし安曇族が華南の呉や越人だったとすると、もう少し色は浅黒くて、彫りも深く、鼻の高い顔でなくてはならないんじゃないかな。今のベトナムやミャンマー人のように。
幾重にも波状的に移民は起こっているから、安曇族が今の安曇野に残っているはずはないけれど、もう少し面影が残っていそうなものだ。たとえば宮城県へ行けば、白系ロシアかアイヌとの混血か、というようなすごい美人に遭遇することがある。でもまったくの日本人なのだが。
だからこの安曇野の歴史は一筋縄ではいかないのだろうが。

土蜘蛛と安曇族

日本書紀などにも縄文人が出てくる。いわゆる竪穴式住居にすむ土蜘蛛といわれる民族である。彼らは小高い丘の水捌けの良いところに住居を営む。そして焼畑をやっていた。したがってその地は今われわれが見るような雑木林に覆われてはいなかったと思う。
安曇族と言うのは今から2400年くらい前の越人で今のベトナムやミャンマーの人種と同属である。彼らは船を上手に扱いながら、船上に住む商人だった。それが東シナ海や黄海を自由に航行し、遼東半島や朝鮮半島の東岸に住み着いていった。もちろん米は彼らが伝播していったのである。、始皇帝が秦帝国を統一することによって、大量の移民が黄河河口付近につれてこられたため、そこを追われ、そして最も近いところでは洛東江の河口付近のいわゆる任那の地に到達し、そして北九州へとたどり着いた。
もともと彼らは高床式住居を作り、土蜘蛛族とはすむ場所が違っていたために、生活圏が衝突することなく次第にお互いの文化の秀でたところを受け入れながら同化していったのである。

塩の道


塩の道は日本列島くまなく浜から渓谷への道が続いています。
この安曇野も大きく分けて4本くらいのルートが存在したようです。日本海に向かっては安曇盆地を北上して仁科3湖を通り姫川沿いに糸魚川へ抜けるルートです。このルートは佐野坂峠という分水嶺を通過する必要がありますから、現在の大町市池田松川安曇野市への直接ルートとしては大量輸送には不向きです。しかしこの千国街道は塩の道としては有名で、上杉謙信が武田へ塩を送ったことで有名な塩の道です。江戸時代まで松本藩へこの道を通り塩を運んでいました。
また犀川を北上するルートがありました。これは主に鉄の材料を送り込んだルートではなかったのかと想像できます。この川の河口は鉄で有名な三条市。燕市があります。そしてこの河口付近に弥彦神社があるのです。それ以外には岡崎へ出るルート、そして名古屋へ出るルート、また甲府経由では静岡の富士見へ出るルートがあります。

卑弥呼の時代

漢の奴国王の印をもつ奴国を制圧して発生した親魏倭王である卑弥呼の時代は189年頃の魏の起こりから313年頃の晋の滅亡と一致しています。纏向に起こった邪馬台国は、漢が滅びた結果、通商業権を失ってしまった奴国に代わって魏との交易をするようになりました。したがって奴国はその通商の代理人として壱岐、対馬に駐屯した、1将軍に過ぎない存在になったわけです。
 しかし100年間以上続いた交易のノウハウは熟知していたため日本列島の各地に基地を設け、貿易の産物を集めたと思われます。すべては鉄という貨幣を媒体にして行われています。つまりこの当時は鉄さえあれば、豊臣や徳川が金山に固執したように権力の維持が出来たのです。
信州安曇の地も川の流域には豊かな砂鉄が取れるわけです。アルプスの山麓には堀金という地名もあって、また海の神である住吉神社も祭られています。もちろん鉄だけではなく毛皮や、魚醤や、生糸、麻、獣の肉の燻製などを得ていたと思われます。
安曇氏は奈良時代に至るまで、天皇の膳部であり続けたのはこの頃の卑弥呼に仕えた時代から始まったと思われます。
また安曇野には蛇や竜にまつわる伝説が残されています。これは揚子江の周辺や、その上流に興った文明の名残かもしれません。河そのものが龍のうねりなのです。氾濫し牙をむきますが、とおとおと流れ、交通の要であり、豊かさの象徴でもありました。
中国大陸では揚子江以南は川の名前を「江」とあらわし、黄河以北は「河」とあらわします。
民族が異なるし、言葉も異なっていたからです。日本には揚子江からやってきた民族の言葉が多く残っています。

大陸の影響下にあった日本の歴史

紀元57年に漢の光武帝から倭の奴国王金印を受領しそれ以来130年に渡って交易の実権をほしいままにしてきました。しかし漢の衰退、184年黄巾の乱によってついに大陸のも政権の乱れが生じ、ひいては漢に依存していた利権を失った奴国王から多くの国が離れ、独自に交易のルートを探ろうとして倭国も国同士が乱れました。その利権のぶつかり合いによる抗争のおろかさを訴えた卑弥呼によって国々はまとまった。このまとまりは匈奴が大陸の中で台頭し漢民族を抑えて魏が出来上がったことと平行に進んだ輪国内の減少でした。欲が自らを滅ぼすという五斗米道によって卑弥呼の鬼道はささえられた。そして曹操が死に、後漢が滅び、さらに蜀の諸葛孔明がしぬと魏が次第に大陸に力をつけて行き、238年ころ親魏倭王として卑弥呼を認めるにいたった。これが最初にまき向に起こった豪族集団による連合であった。この五斗米道とは漢が滅びるきっかけとなった黄巾の乱にも通ずる思想です。五斗(5升)の米を寄進すれば誰でも信徒になれたことから呼ばれる道教の思想です。この教祖・張魯は義舎を建ててそこに寄進された米を貯蔵し、これを神の所有として、必要な者には自由に取らせ、余裕が持てたら返す。必要以上に取る者には神罰が当たり、病気になると説きました。この慈愛に満ちた救済の伝統が卑弥呼の鬼道にはあったのでしょう。そのことが三国志に残されています。

安曇氏は奴国の中枢にいて中国との交易の利権を握っていました。われわれは瓶棺の埋葬習慣を持って,
紀元前1世紀に福岡の地へ入植し、青銅器の祭器と鉄器による農具や武器を使いました。
そしてわれわれ越人を追い払った前漢とは義をすてて、交易によって利を取りました。それを保証したのが委奴国王之印です。それらの交易で独占権を得ることで、九州各地の首領たちを支配するようになっていきました。
しかし前漢の滅亡と共に奴国は倭の他の豪族たちとの権力争いに敗れることになる。それが日向の地から発展した邪馬台国なのでは無かったのでしょうか。

福建省の鮭汁(kechiap)がナマってケチャップ・・・・なんて説があった。

僕は何故安曇野の鮭が,膳部として安曇比羅夫の大和朝廷での地位を維持していたかを考えていた。
そして思い当たったのが魚醤の中の鮭汁(けちゃっぷ)だった。鮭の干物にあわや米の麹を混ぜて発酵させる。こうすると、たんぱく質が分解されてアミノ酸といううまみ成分が抽出される。
勿論この時代は中国や朝鮮半島から穀物醤油も広まっていたけれど、味の深みや、コクを出すのには魚醤が必要だったのではなかっただろうか。他にはこの鮭汁に鮭肉を浸して干した物などはうまみ成分たっぷりで保存食にもなり、朝廷の宴には欠かせない食材であったのではないだろうか。
もっともこの説はまったく裏づけが無いけれど、油分のぬけたやせ細った鮭のうまい料理法といえばこれしかないといえよう。  ちょっとこじつけかな?料理人が興味を持って再現していただくのを待つのみである。

なぜ安曇野の鮭などがヤマト朝廷へ供せられたのか。

信濃川千曲川犀川は長い、ましてや海抜500m上昇するためのエネルギー消費は鮭に蓄えられた脂肪のすべてを燃焼しつくす。この白子とイクラと筋肉だけになった鮭を捕らえて、塩漬けにする。
寒さの激しいこの季節の中で塩鮭は凍り、数ヶ月を経て、荒巻きされた鮭の凍った水分が乾燥されて、純粋のたんぱく質は熟成されてアミノ酸という うまみ成分に変わってゆく。
これはひょっとして土佐のかつお干しよりうまい出汁が取れるんじゃないか。と思えるのである。

犀竜小太郎  12/10 2005


その昔、竜であるのに、自分の額に角がはえていて、その醜さを恥じて隠れ住んでいた河を犀川という。
このころ、安曇野の一帯はひろい葦の生い茂る湖沼であった。この地を流れる犀川が山清路の大岩で堰き止められていたのが原因だったが、この地で育った泉小太郎(実は竜の子供であった)が、母竜の背に乗ってその大岩を母竜の角で砕いた。安曇平に堰き止められていた水が一気に引いて広大な稲作農地が出現したという物語である。
安曇平は実際のところ、北アルプス侵食によって出来た平地である。北からは高瀬川(槍ヶ岳を削っている)西は梓川(燕岳、常念)南は女鳥羽川が合流する場所が明科という。氷河が山を侵食して中央地溝帯を埋め尽くした。砂礫の深さは300mある。此処の海抜は600mだから、実際の谷は海抜300mだった。ここは満々とアルプスから集めた水を湛える水がめなのである。

じつはこの犀竜と泉小太郎物語に良く似た物語は海人族の間ではよく聞かれる。実際大和の箸墓の古墳でも出雲の神が実は蛇であり、身を隠していたとか、ほかにもある。
おそらく安曇族がこの地を切り開くときに持ってきた話であろうと察する。

阿曇眼  11/29 2005

文身(イレズミ)日本書紀履中天皇の条「その目にめさききざ(黥)む。これによりて阿曇目という。」
目の縁の刺青は安曇族独特で、これによって「目」の持つ魔力を強化するための呪術て、習慣であった。
既にこの時代、安曇族は倭大王に従属していた。

死者への考え方  11/15   2005

縄文式時代は狩猟民族独特の神の国と我々のいる現世があって、すべては神からの贈り物であった。
アイヌのイヨマンテ(熊送り)にしても春に捕った熊を育てて秋には殺して神の国へ返す。
死者は墓を作ることも無く住居周りの貝塚へ放置された。死者は神の国へ帰ってゆくのである。
墓を作る習慣は弥生時代から始まっている。この時から死者は神となって現世の人々の安寧を守ると考えるようになる。従って、天災などが起こるとそれは神である祖先からのしっぺ返し、いわゆる祟りであると恐れるようになる。これを鎮めるために墓は大きくもなるし、副葬品も死後不自由の無いことを願うようになってゆく。この埋葬の思想は米と一緒に中国の江南からやってきた。弥生時代の始まりである。
死者の中でもその集落に多大な利得を与えた者が指導者になりまた死んで守護神になっていった。
そしてこの時代は農耕による定住者より移動可能な海洋民族の方が世界の先進の情報をつかみえたわけで、彼らが鉄器を運び込み、牛馬を運び込んだのだと思う。
仏教伝来  11/15  2005


仏教の伝来は欽明天皇13年(552年)10月となっている。百済聖明王が致契をつかわして釈迦金銅仏像と経典と幡蓋を献上したとある。(書紀)これを欽明天皇は蘇我の稲目に渡した。稲目はこれを堅塩姫の住まいであった小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺とした。ということである。
これが日本で最初の公式の仏教伝来である。しかし実際はそれよりもずっと前に帰化人たちが仏教を信じていたと思われる。
この公式の寺の出現で帰化人たちは向原に通うようになっていった。
このことは稲目は今漢人の集団を取り込むことになってゆくのである。その集団の要が秦氏と東漢人であった。

 秦氏は応神天皇の御世120こおりの人々を連れて百済から帰化し、また東漢氏の祖、阿知の使主(アチノオミ)、都加使主(ツカノオミ)が朝鮮半島北部17こおりの人々を引き連れてやってきたと書紀が伝えています。その後は5世紀の末(雄略朝)までこの東漢と秦氏が帰化人たちの受け皿となっていた。したがって仏教の受容もこの2氏が先んじて行っていたことは否定できない。

大黒天 と 道祖神


安曇野には多くの大黒天の石像と道祖神の石像があります。
朝鮮半島の南にもずいぶん石像の文化が残っていますね。
また筑後にも岩戸山古墳に見られるように多くの石人、石馬、
石盾などの石の文化があった。
大黒天は架空の人物ですが、大国主の命は出雲の王でした。
後になって大国主が大黒天と同一に言われるようになっています。
農耕と縁結びの神として祭られている。
いまでも10月は出雲では神有月と称し、祭事の根幹を成す地域と
なっていて、天皇家でさえもその地域に一目おかねばならない場所です。

さて大国主の命は素戔鳴尊(スサノオノミコト)の娘の婿ですが、
彼と高志沼河比賣神(越のヌナカワヒメ)の子に健御名方主命がおりました、
220年ころ九州を支配していた義弟コトシロヌシに出雲を追われ
この諏訪に逃れました。御柱は社の本殿を囲むように4本立てるのですが
なぜが四隅突出型古墳の形式の様でもあると感じます