震災異聞

阪神大震災逸話集
【第2集】 メディアはいかに機能したか
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   1 マスコミ取材陣横行のこと
 被災地に集結したマスメディアは途方もない数にのぼった。数千人が大挙して押し寄せ、取材合戦を演じた。
 彼らはあちこちに数十台も車両を並べて、道路を占領している。夜ともなれば、大阪のホテルに帰るので、その大名行列のような往復で、道が渋滞する。

【余 談】
X大震災で、日本中で何が一番興奮したかと言えば、それはマスメディアだな。何もかも放り投げて、東京から現地に突入してきよった。全国各地から集結した警察消防等の救援部隊よりも、その数が多かったという。
Zマスメディアは扇情的なレポートを被災地から発信し続けた。けれど、やつらはありのままを伝えていたのではない。いわば、眼前の光景をファンタジースクリーンとすり替えて、そこに露呈しているリアルなものを隠蔽した。その意味で、マスメディアは、総力を挙げて情報統制に努めたと言えるな。映像はありのままに物事を映すのではない。
Yたとえば、破壊された町並みや倒壊した建造物の映像。同じものが繰り返し流れたが、目を背けたくなるような無惨な死体は、一体でも映されることはなかったし、内臓が破裂したり背骨を折られたりした、瀕死の負傷者が登場することもなかった。痛ましい、そういう残酷な光景は、放送コードに抵触するのか。テレビは全国の茶の間向けに調整された濾過された統制映像を送った。
Z避難所で、勝手にカメラを回しはじめて追い出されたり、遺体安置所に断りもなく侵入して遺族に殴られた報道陣もいるな。無神経とはいえ、その根底には何をしても許される、というマスコミの特権意識がある。連中が欲しいのは映像であって、現実じゃない。
Xしかし同時に、別の情報操作もある。地震後数日経つと、マスメディアは、たちまち破壊映像にあきたか、トラウマティックな事件に遭遇して呆然としている被災者を後目に、早々に方向転換した。復興物語を無理にでも探し出して、現場一般の雰囲気を偽ったりする。
Z報道の前向きの明るさは、いわば情報操作の一面だな。その前向きな明るさの身振りは、冬の青空のように空々しい。いわばファシズムの明るさ。


   2 迷惑なハゲタカのこと
 被災地上空にいち早く現れたのは、マスコミ取材陣のヘリコプター。マスメディアは全国からヘリをこの阪神地区上空に集結させた。
 救援のヘリかと思うと、そうではない。彼らは上空から撮影しているだけである。それらの爆音がうるさくて迷惑した。
 「うるさいハゲタカやなあ」と空を見上げて、地上の被災者がうなる。思わず、空に向かって、怒鳴る者もあった。


   3 助けを求む声圧殺のこと
 生き埋めになって重傷を負っていたある被災者は、地震の翌日無事助けられた。
 手の届きそうなところを、人の足が通るのが見えて、何度も助けを求めて声を挙げた。けれど、上空から降ってくる騒音のために自分の声が届かず、危うく死ぬところだった。
 またある人は、生き埋めになった自分の肉親を助けようとしていた。
 潰れた家の下から聞こえる声だけがたよりだったのだが、空から降ってくる爆音のために、応答する声が聞こえなくなり、救出作業に難渋したという。

【余 談】
Y被災地上空を、報道取材のヘリコプターが、いっぱい飛んでいた。ここで、その「鳥」たちの意味だがな。被災現場では、まず救援のヘリかと期待された。その場合、この鳥たちは「ここや。もっと近くへ来い」と呼ばれる。ところが、一向に降りてこない。旋回するばかりで何もせず、ぐるぐる上空を飛んでいるだけ。
Xそれどころか、やっているのは、威圧的な騒音の洪水を上空からまき散らし続ける妨害的行為だった。この騒音の贈り物は、何よりも被災者を苛立たせた。空に向かって怒鳴る者もあった。そうしてこの鳥たちのステイタスは、敵対的なものになった。言い換えれば、何もしないで上から視ていることは、この状況では、敵対的な振る舞いの意味に転化する。
Z上空からの視線。これは何だ、超自我としての視線か。中立的で残酷な視線、猥褻な超自我だな。
Yスーパー・エゴセントリック、という意味も含めて、だな。死体の山に群がるハゲタカ、というイメージは現地では強かった。全国のテレビの観客は、こういうハゲタカの視線を通して映像を見ていた、というわけだ。
Y何とひどいことになっているではないかと、驚愕しつつ、TVを視ていた全国の視線=視聴者のポジションは、この敵対的な鳥たちに媒介されていたということ。それは記憶されるべき事実だ。
Xむろん被災地では、停電したままだから、テレビなど視ることはできない。いわば一方的に視られる対象、被災者という名の「対象」になってしまっていた。


   4 凡庸なる比喩のこと
 被災地レポートの紋切り型の台詞の一つに、
 「まるで戦争で爆撃を受けた跡のようです」というのがある。
 それがステレオタイプ化しているのが分かるのは、戦争を知るはずのない世代の者までが、ついそう言ってしまうところである。震災を戦災の比喩で語ってしまうのは、いかにも滑稽で自堕落だった。
 現地では、この比喩を笑う声がある。
 「これは戦災ではない。震災だ」と。

【余 談】
Y震災を戦災という比喩で語ってしまう、という紋切り型だね。自分が戦争を経験したことがないのに、震災を戦災の比喩で語ってしまうのは、いかにも不用意な話だ。それだけで、言説は空転して、パフォーマティヴな次元では嘘を言ってしまっている。
Z爆撃後の焼け跡に行ったとしたら彼らは、それをまるで何のようだと形容するのだろうかね。比喩は、横滑りするだけだ。
Xそれは、震災というリアルなものを直接表現する言葉が存在しないからだ。この場合、戦災という比喩は、それ自身をつなぎとめるものをもたずに社会空間を浮遊する、ただの饒舌である。それにしても、空疎な言語だな。
Zただし、こういう凡庸で空疎な言説形式を単純に嗤うことはできない。そこに秩序の裂け目が開いている。地震は言語表現の秩序まで亀裂を生じさせたとみえる。
Y本当は、言語は沈黙を強いられているにすぎない。


   5 啓蒙CM滑稽のこと
 地震後関西地区では民間放送のテレビCMが消えた。軽佻浮薄な調子のCMでは、さすがにぐあいが悪いと思ったのか、しかし、その代わりに、とんでもないCMが延々と反復された。
 それは埋め草に使った公共広告機構の啓蒙CM、ごみ捨ての公衆道徳キャンペーン。
 「ポイ捨て禁止!」と素っ頓狂な声で男が絶叫する。
 これは、ふつうのCMよりも、まだタチが悪い。こんなものを流すくらいなら、全く流さない方がよい。
 街が瓦礫と化しているのに「ごみのポイ捨て禁止!」とは、まったく悪質な冗談である。
 そんな悪質な冗談にしかならない啓蒙CMを垂れ流すTV業界の無神経さは、
 「このアホが」 と大いに顰蹙を買ったものである。

【余 談】
Zむろん、この公共広告機構の啓蒙CMが流されていた時、被災地は停電していたから、被災者はこれを視ていない。この話は、瓦礫の山と化した被災地へ救援に行き帰ってきた近隣地域の人たちが、我が家で視たテレビに登場したCMのことだね。
X小さな公衆道徳を説くこのCMは、当面これしかないというので、時間の埋め草に使ったようやが、大災害の時には、悲惨なほど間抜けで場違いなCMだったね。同じやるならこの際やから、「火事場泥棒禁止!」とか「レイプ禁止!」とか、ストレートにやった方がよかろうとかは、よほどまっとうな意見ではあった。
YこのCMのもう一つのヴァージョンは、中年男がゴミといっしょにゴミ袋に入って何かブツブツ言っているやつだな。被災者に対しては、こっちの方が冗談がキツかった。場違いなのではなく、まったく逆にハマり過ぎてたからな。
Zパフォーマティヴな次元では、災難に遭遇した人々を愚弄する意味になった。「あんた自身がゴミになる」とな。真理次元では、被災者は難民状態で、大量に発生した生ゴミのように避難所にかき集められている。そんな状況で、このCMは「大いに意味があった」ということだな。
X第三のヴァージョンは、震災後新たに制作したもののようで、関西系の作家(瀬戸内晴美)と評論家(森毅)が、それぞれ被災者に語りかけるCM。「がんばりましょう」と激励するのね。二人の人選には、制作側の考慮のあとが認められる。とはいうものの、それが繰り返し流されるようになると、どこか押しつけがましい、さらには、何か滑稽なものになっていった。子供たちが、からかい半分に彼らの口まねをしたり、「同情するなら金をくれ」という前年流行した言葉で応酬したりするようになって、彼ら出演者のパフォーマンスの深刻さはたちまち滑稽に反転した。
Zテレビというメディアは、それ自身が反復に耐えない一回性のメディアのようだ。それに、だいいち、被災者はTVを視る環境にはなかった。少なくとも停電していたし、そもそも家を亡くしてTV受像機がなかった。とすれば、あの激励CMは誰に対して語りかけていたのか。極めて奇妙な話である。
Y語りかけようとする対象がそれを視ていないのに、それに語りかける。ほとんど倒錯的な恥ずかしい振る舞いだった。それと、第二に、あの滑稽さは、被災者に語りかける人物が、災難そのものに対し、不相応で、まったく釣り合わないところからくるね。たぶん、どんな具体的な人物も、こんなひどい被災の傷を癒したりなだめたりはできないだろうが。
Z天皇・皇后をテレビに出して、被災地へ慰撫のメッセージを送るという企画は、一部に出なかったわけではない。それは結局は潰れたが、これは皇室が前面化することを避けたというよりも、実際は、テレビというメディアを通すと、そのパフォーマンスそれ自体が滑稽に転じるという、リスクが大きかった。
Y震災で露呈したのは、バブル後不景気が続く中で地味になった広告でさえ、震災後テレビに復活してみると、何か場違いで、浮いてしまっているということ。極限状況との直面で、ふだんは何も感じず見ているCMでさえ、その場にそぐわない違和感のあるものとなった。この落差は何か。まるごと裸になってみれば、現在の日本社会が、やたら厚着した、コテコテに厚化粧をした、いかに醜悪なものか、それがよくわかる。
Xこの震災で、「高度資本主義」とか「消費社会」とか言い合って、いい気になっていた「バブリー」な社会思想はとどめを刺された。


   6 ビデオショップ大繁盛のこと
 地震後二日目位から、被災地近隣の被害が少なく電気が通じていた地域では、レンタルビデオショップが繁盛するようになった。「テレビがおもしろくない」というわけである。

【余 談】
Yこれは昭和天皇崩御の時と同じ現象だな。被災地に近く震災の衝撃が強い地域ほど、今回の震災報道に憤りがあった。そうしてそのあげくが、「テレビがおもしろくない」。「役に立つ」情報は決してテレビでは流れなかった。
Z数千の人員を被災地に送り込んで、各局が組んだ特別報道番組では、どれも同じように被災現場の映像を垂れ流し、事件を評論するワイドショーだった。中には早速、「これが東京で起こったら」などという馬鹿話をしていた。アホな話だな。危機管理について政府の手抜かりを責め、建造物倒壊について技術的なアラ探しを繰り返す。どれもこれも、間抜けなプログラムばかり。
Xテレビの映像は、本心ではまるで「こんなおもしろいものはないだろ」という提示の仕方やな。寄ってたかって、愉しんでいる具合。震災に興奮して、テレビ映像を茶の間で愉しんだ全国の視線は、被災地近隣地域でさえ、ビデオショップが繁盛したということに、何事かを気づくべきだな。
Zそのことに関連して、一定の構造とメカニズムがある。それを構成するのが、テレビ映像による震災の虚構化・バーチャライズ、テレビ映像を視る視線自身の欲望、視聴者の視線を見返す被災者の視線、この3つだな。
Xそのあたりは、だれも分析してはいないな。NHK以下テレビ放送は、災害時の社会的役割において完全に失敗した。もっと悪いことに、失敗したことにすら気づいていない。東京の評論家たちの、愚にもつかない間抜けな震災談義に時間を割くなら、もっとすべきことがあったはずだ。
Y被災地ではテレビなど視るどころではなかったが、近隣周辺地域には、親族知人など関係者が多くいる。彼らが欲しい情報は一般的な映像ではなく、また地震のメカニズムがどうか、どうして建造物が倒れたかの詮索でもなく、まさに自分の親族知人等の関係者が無事かどうか、なんだ。被災地だけではなく、その周辺の広範囲にわたって電話回線がブレークダウンしてしまったのは、安否確認しようとする電話が殺到したためだった。そんなことはやっとるよ、死亡者リストを流しているんだから、と言うのは状況に無知な証拠だ。死亡報知は結果でしかない。取り返しのつかない結果だ。それより当面重要なことは、現在進行中のこと、つまりだれが未だ生きているか、どこに収容され避難しているか、どういう助けを求めているか、ということだ。
X一方通行・一回性の揮発性のメディアだから、テレビは同じ情報を反復して流さざるを得ない。そうなると、リアルな必要に答える情報ではなく、ごく一般的でオフィシャルな情報しか流せない。しかし、一方通行・一回性の揮発性のメディアだとはいえ、やれることはある。
Z被災地こそ、情報真空地帯だ。マスメディアのうち被災地が受信できたのは、電池で聞ける携帯ラジオか、車のカーラジオだけ。情報の揮発性、受け身の姿勢ということでは、テレビはラジオ以下やった。
Y電話回線が使用不可能、そうだからこそ、ワイヤレスのメディアが代行できることがある。それだのに、たとえば避難所に撮影に入ったカメラは、ナマの映像とはいえ「被災者」を撮影するが「個人」を撮影しない。ばかげたことである。テレビ画面で、だれか身内が「あの人、○○さんやないか」と気づいても、あっというまに映像は揮発してしまう。そんな誰の役にも立たない。無駄な映像ばかり垂れ流しておる。誰の役にも立たない映像。これはいったい誰に送っているのか。
X放送設備が現場に入っているのだから、自分の事情を知らせたい被災者の通信の用に供すべきだった。希望者一人一人を順にカメラの前に立たせて、そうして「自分はこの通り無事や、どこそこに避難しておる」と言わせたらよい。これはテレビの極私的使用であるが、パブリックな効用は最大だろ。電話がプライベートなメディアで、テレビは公器だからそんなことはできない、などと言っているのは、パラドクシカルな対処ができない阿呆だ。そういう極私的な使用にこそ、災害時の公器としての機能がある。


   7 震災観光客流入のこと
 地震直後から、テレビ映像にあきたらない物見高い連中が、多数震災現場見物にやってきた。それもテレビが紹介したポイントを重点的に回る。まるで名所巡りである。
 避難所を、まるで動物園のようにのぞき、焼跡の廃墟の前で、楽しそうに記念写真を撮っている。
 こういう震災観光客から入場料を取って、被災者支援資金にすればいい、という案もある。

【余 談】
Z用もないのに、見物にやってくる「震災観光客」が、全国から集まるようになった。被災地ツアーだな。「テレビで見るより、現場はすごいことになっている」と感動していたりする。とくに土曜日曜などは、ぞろぞろ被災地を見て歩く連中が列をなしている。
Yどうせ震災観光客を阻止できないのなら、しばらく被災地を丸ごと「震災テーマパーク」にして入場料をとれ、という意見もあったが、それはあながち見当はずれな話ではない。
Zそれともだな、「見たな」と言うて震災観光客を捕まえて、一週間ほど被災地で「強制労働」させたらよろし、という話まであったが、それはちょっとやりすぎかい。
X要するに、そんな穏やかではない話がでるのは、何の考えもなしに震災見物にやって来る者たちの、無邪気な視線こそが、パフォーマティヴな次元では、アグレッシヴで暴力的な効果を発揮するということだ。
Zそれは、相手を、見もの/見せ物に転化してしまう暴力的な視線ということ。


   8 仕分けキャンペーンのこと
 ある時からテレビは、ボランティアが救援物資の仕分けに苦労しているというキャンペーンを流しはじめた。
 一つのパックに多品種があると、それをいったん開封して、同じ品種にまとめ直さなければならない。それが大変な作業量になるということである。
 しかし避難所やテント村での話はそうではない。そのまま送ってくれたらよい、自分たちで仕訳管理して分配するのに、と言っている。

【余 談】
Xこの仕分け発送キャンペーンというのが曲者だ。ボランティア活躍キャンペーンともいうべき映像の展開だが、ボランティアの苦労話に焦点が当てられた反面、肝心の避難所の被災者は、主体ではなく対象にすぎない。そこで、エンドユーザーともいうべき被災者には何が可能か、ということなどお構いなしに、勝手に話が進んでおる。
Zまったく、そんないい加減な話だ。救援物資を開封して仕分けする必要が、どこにあろうか。そんなことは、五百人も千人もいる避難所に運び込めば、あとは被災者自身が処理するよ。全国から集まる救援物資は、たいていの場合、もろもろ多品種を一つのパックにして送ってくる。それは、「あれも必要だろう、これも必要だろう」と配慮して、個人が個人に送る形式。だからね、その場合、顔も名前も知らないが、宛先は具体的な個人であって、「被災者」という抽象的な対象ではない。
Y災害時のテレビの機能は、被災地外部での情報組織化にある。たとえば、ボランティア募集。この点に関してテレビは、完全に混乱を引き起こしたね。いつまでたっても、神戸市をはじめ、役所をボランティア窓口とする情報を流したために、役所に応募が殺到して、対応できない状態になった。そもそも、役所の公的任務とは異なるからこそのボランティアである。地震後現地で、実に多様なボランティア組織が自然発生的に生まれたが、そういう組織には、特定のものを除いてマスメディアはアクセスしなかった。
Zそれに、テレビが取材する避難所は、どういうわけか、特定の避難所に限られていて、それが何度も繰り返し報道されるので、救援物資がそこに集中した。そこでは、物が有り余って山積されていたが、すぐ隣の避難所では、物資が届かず不自由しているという状態だな。
Xテレビが場所を明示して報道すれば、そこに救援物資が集中する。ということは、情報を流さないというネガティヴな操作によって、いかにテレビが視聴者の行動を管制しうるか、ということだ。ネガティヴな操作でポジティヴな効果を生む。
Zポジティヴな効果ということでは、テレビは情報メディアとしては機能しなかった。救援に必要な情報をもたらさず混乱を生むに終始した。被災者は個人的私的なネットワークが頼りだった。役所を通じたネットワークは、崩壊しているからだ。ボランティアを市役所に登録しろと言うておるが、役所は、どこで何が不足し必要とされているか、把握していない。需要供給のバランスは取りようがない。だから役所へ行っても受け皿が(分から)ないので、ボランティアたちは、どこへ行けばいいか分からず、路頭に迷う。
Y役所は役所で、需要がないと見なして、こちらはもう十分だなどと告知してしまう。ボランティアであろうと、救援物資の送付であろうと、個人的私的なネットワークに依拠すべきだな。
Z今回でよくわかったが、救援拠点は、被災地周辺に配置すべきだ。被災地は、あらゆることが混乱している。そこをめがけて一斉に集中してくるから、人と物と情報の流れが乱流を生じている。拠点が拠点として機能できない。人・物・情報の分配を統御したいなら、支援拠点は、被災地の周辺に配置して、そこから人と物流れをコントロールするべきだ。


   9 テレビ御用学者虚言のこと
 地震後、関東大震災の時のようなパニックが起きなかったことについて、テレビ御用学者の中には、今はテレビというメディアがあり、それが十分な情報を流していたからパニックを防止できたという珍説を披露する者があった。
 大笑いである。だいいち被災地では、テレビなど視ることができるはずがない。とんでもないデタラメを言うものだ。

【余 談】
Zたしかに、ばかなメディア論者が、そんなことを言いふらしていたな。
Y根拠が何もない、全くの虚言だね。テレビなどしばらく見ていない、というのが被災者の実態や。家が壊れたり停電したりしているのだから、テレビなど視ることができるものじゃない。生きているテレビは、自動車搭載の受像機だけだ。
Xこういう虚言のもとは、イマジナリーなものだ。被災者が自分と同じようにテレビを視ていると勘違いしているにすぎない。被災地は、根本的に情報真空地帯。そこでの情報流通手段は、口コミと貼り紙しかない、という事態が少なくとも2週間は続いていた。
Yテレビは情報メディアとしては機能しなかった。被災救援に必要な情報をもたらさず、現場に混乱を生むに終始した。その一方で、被災市民たちは、パニックも起こさず平穏に秩序を維持して、当面のサバイバルのための努力を持続している。
Z関東大震災から70年以上、日本国民も成熟したとか、阿呆な話があるがな、茫然自失の深さは言うまでもない、パニックを起こす気力さえない有様だ。パニックがないのは、ある意味で、コミュニティが徹底的に解体されているからだ。震災によって自然発生する自警団をはじめ、コミュニティ形成がほとんどないのが実状。
X被災者はバラバラのまま、主体の次元を剥奪され、テレビ映像の「被災者」という抽象的な対象というステイタスに封じ込められている。それが関東大震災との違い。それでも、テレビの支配力から解放されている、という稀有な事態が生じた。


   10 被災者賞賛のこと
 地震被災者が、パニックに陥らず、きわめて秩序ある態度を維持しているというので、海外のメディアがまず賞賛した。
 すると「なるほど、これは素晴らしいことなのか」と気がついて、国内の言説も、被災者の態度を賞賛するようになった。
 しかし現地では、「あいつらは何を期待しているのか」と嗤う声もある。

【余 談】
Xおそらく、こうした秩序維持のことは50年前も同様だったろう。戦争敗北後、被災者がきわめて秩序ある態度を取っているというので、海外のメディアは不審の面もちで、首をひねっておった。不思議の国・日本という「シーニュの帝国」の物語は反復される。これも紋切り型にすぎないが。
Z外国メディアの賛嘆の内容は、おおむねはこうだ――災害時の日本人社会の秩序治安、被災者の忍耐力あるいは精神力、生き埋め者救出に協力する共同体。しかし、こういう美化の内容は、外部の視線によるある種のプロジェクションである。字義通り「彼岸」としてのイメージもある。受苦にじっと堪える人々の振る舞いを、民族性に還元するのは、明らかな錯誤だ。共同体のシンボリックな秩序が解体したとき、裸になった諸個人は表現を失う。主体は言語存在を宙吊りにする。それは日本人というファンタジーの、シンボリック・アイデンティティなどとは無関係な存在である。
Y震災の現場ほど「日本人」だの「関西人」だのという言葉が空虚だった場所はない。シンボリックなアイデンティティなど崩壊していた。この驚嘆の身振りが示すのは、なぜパニックにならないのか、ということね。まさしくこれは「やつらは何を期待しているのか」という問題だよ。期待されているのは、それこそ無意識的な次元では、秩序ある態度の方ではない。無意識的な次元で期待されているのは、むしろ逆に、暴動略奪という2次的な災厄、社会的な破局だ。
Y被災者たちはその意味で、見事に期待を裏切ったわけや。邪悪な中立的な視線を却下した。
Z賞賛は、期待はずれの失望の裏返しだ。
X警察庁発表の死者数が日々増加している。それは日々期待に応えているということでもある。「そんなものじゃないだろ」という感覚は、「もっと悪い」事態を期待している。だけど、残念ならがら、そういう期待には応えられない。


   11 朝鮮人襲撃はなかったこと
 震災後危惧されたのは、関東大震災時のような流言による朝鮮人等在日外国人への襲撃である。それはなかった。
 「だれがそんなことをするんじゃ」と現地の声。
 「そんなことはさせん」とある極道幹部。

【余 談】
Zこれも無意識的に期待されたことだ。「ないこと」を語るポジションの無意識的な期待があった。
Yそれ(ないこと)が、「ない」ということに不満を感じている欲望。無が無だったと語る言説の不毛。そんな他者の欲望には応じられない。


   12 国会議員流言のこと
 関西選出のタレント議員が、国会質問で、在日コーリアンが放火等不逞行為を働いているらしいとの発言をした。これは根も葉もないことで、しかもある報道テレビ番組のコメントの一部を勘違いして受け取ったということらしい。
「知事もアホやが、こいつもアホやで。大阪はろくな奴がおらん」
とは、神戸っ子の言。

【余 談】
Zアホなことを言うやつだ。このラジオ・パーソナリティあがりのタレント議員、阪神タイガースファンを売物にして当選はしたものの、思わず馬脚をあらわしたということ。
Y流言には京都で大地震が某日に起きるというのもあった。もっとも、大阪の知事は後援会政治資金スキャンダルで失脚同然の身、しかるに彼は被災地の事情も知らず、周知のような放言をして「誤解を招き」、大いに顰蹙をかった。


   13 備えあれば無役のこと
 今回の震災のような非常時に備え、地元ではちゃんとヘリポートを十数ヶ所設置していたが、実際に使えたのはほとんどなかった。県警本部は非常時のためにポートアイランドの一角に総合司令センターを設置していたが、地盤の液状化で施設が使用不能、またそこへ渡る橋が通行できず、やむなく生田署に本部を開設した。


   14 衛星通信システム無益のこと
 兵庫県では災害等非常時に備えて、通信衛星を利用した情報通信システムを、80億円をかけて導入していた。地上局がやられてしまう場合を考えれば、NTT電話回線という通常手段によらないのは正解で、さぞや活躍したろうにと思うと、そうではなかった。
 非常用の自家発電装置が壊れてしまって、この鳴り物入りの通信システムは稼働しなかった。しかたがないので電話で各方面に連絡を取ろうとしたが、案の定一向に通じなかった。
 「80億とはえらく高い玩具だったなあ」
と笑いものになっているそうな。

【余 談】
Yそうしてみるとこのシステムは役人のガジェットであるにすぎなかった。県の衛星通信が機能不全に陥っていたのとは対照的に、関西系スーパー大手のジャスコは、通信衛星(JAST)による情報ネットワークで、地震当日の午前9時には全店舗の被害状況を把握していたという。
Z「権力の装備」という点からすれば、その装備には古来種々のものがある。裸の王様だから厚着をしたがる。軍備もその一つで、虚仮威しに近いものになる。戦前なら軍艦がそれで、戦艦大和・武蔵という当時のテクノロジーの精華も、役立たずで沈んでしまった。いわば権力の装備は見せかけに属するものである。今なら通信衛星を使った情報システムが権力の偏愛する最先端技術装備で、万が一の時に役に立って人々を助けるはずだった。
X国土庁や県の防災無線システムは体系的に構築されていたはずだね。それが必要なときに稼働しなかった。東京/中央では首相以下責任者は、テレビという別の情報システムをみていた。だからとはいえ、権力の装備はいつも玩具であるにすぎないとは言えない。湾岸戦争時の米軍の武器使用は在庫一掃処分ふうな蕩尽的な行為だった。まさにバクダッドは武器の実験場となった。玩具が多数の人間を実際に殺傷する。とくにコンピュータゲームの乗りで、途方もない破壊行為が実行された。ヴァーチャルリアリティが現に人間を殺傷する。戦前原爆開発に当たった科学者も同様で、原爆の破壊力を知っていたが、それが人間にどういう災難を引き起こすか、考えることはなかった。
Z今回震災時の兵庫県の情報通信システムの場合、それが初期に稼働しなかったために、緊急を要する対応が遅れる一因ともなった。そうして失われた人命も多かったはずだね。玩具はそれが玩具にすぎないことを露呈したとき、同時に、より悪い事態を招く。けれどももう一つ重要なことは、権力の装備が役立たず、笑いものになったのはよいとしても、このために権力の装備の更新がなされることだ。この失敗を教訓に万全の備えをしなければならない、とする「建設的」な意見が明らかに支配的になる。失敗が教訓にされたとき、やがて続くのはより大きな失敗であろう。
Yそこでは、権力の装備の実効性それ自体は疑われていない。むしろ装備の改善充実は、装備の無効性さらに言えば権力の無能性そのものを隠蔽するためにある。王様は裸という事実の隠蔽だ。


   15 パソコン通信自画自賛のこと
 震災にあってパソコン通信が、従来にない活躍をみせたというので評判になったが、これはどうも眉唾ものらしい。
 被災地とその周辺では、地震後数日電話がほとんど通じなかった。電話回線を使用するパソコン通信も同様で、被災地とその周辺部ではその間まったく機能しなかった。
 パソコン通信の活躍は、実は自画自賛で、結果的に妨害行動にすぎなかったそうな。

【余 談】
Z震災後、いわば事実の捏造というべきものが見る見るうちに始まった。たとえば、その一つがパソコン通信をめぐるものだな。大手商用ネットや情報の草の根ネットワークであるパソコン通信はここ数年急速に普及した。パソコン通信という新しいメディアは、こういう膨大に発生したPCユーザーの分厚い層によって支えられている。それが震災でどう動いたかということ。
X事実は、被災地とその周辺の兵庫県南部では地震後数日電話がほとんど通じなかったし、だから電話回線を使用するパソコン通信も、被災地とその周辺部ではまったく機能しなかった。とくに被災地ではパソコンも壊れたし電話会社の交換機も潰れたし、肝腎の電気も停電状態だから、現場の情報をパソコンでやりとりできるものではなかった。パソコン通信が「活躍」していたのは被災地以外の地域である。いわば野次馬が騒いでいただけだ。
Yとくに大手ネット事業者が、震災を理由に途中から課金無料としたケースもあって、よけい事態は悪化した。ただでさえ電話がかかりにくい状態なのに、地震情報に浮かれた連中が愚にもつかないチャットで電話回線を占領するために、ますます電話がかかりにくいという状態が続いた。
X確かに震災発生とともに被災地はむろん、近隣地域でも電話が通じなかった。断線しているのではなく、混み合っているから待てという応答ばかりだった。それは市外電話ではない。市内電話さえ通じなかった。FAXも同様、そしてパソコン通信も同じ不通状態だ。だから、話があると、出かけていって直接面談するという始末で、face-to-faceのプライマリーなコミュニケーション・モードに回帰してしまった。おかげで道路は大混雑だった。被災地を含む近隣地域の情報ネットワークは全面的に崩壊して、直接面会以外には手はないという事態になっていた。それが事実だ。
Z神戸の日銀でも、管轄区域の各金融機関に災害臨時措置を伝達するために、職員を自転車やバイクで走らせる始末だった。被災地の様子を知っている人ならご存じだが、そこはビラ・チラシの貼り紙類の洪水状態。張れる余地のある限り張り出された紙が満開の桜のように咲いて舞っている。通信手段は震災後こういう紙に文字を書くというプリミティヴなものへ回帰している。電子メールも電子掲示板も、どこの世界の話かという状況だ。
Xパソコン通信が可能なのは最低次の三条件がともに満足される場合のみである。(1)パソコン本体やモデム等機器が無事であること。(2)電話回線が利用可能なこと。(3)機器が動く電源が供給されていること。だから被災地ではパソコン通信は必要なときに役に立たなかった。
YノートパソコンなどポータブルPCに携帯電話を接続してみた者もあるが、電話回線の中継局がやられているので通じなかった。もし通じたとしても、いまのノートパソコンではあっという間にバッテリーが切れて、使いものにはならない。


   16 情報より議論のこと
 パソコンネットが騒然としている中、情報より議論が多かった。けしからん書き込みも少なくなかった。
 「みんな死ね」
と書き込む奴もいた。
 「こういう馬鹿が結構いるんだ」
とは、ある会議室主催者の話。

【余 談】
X被害が小さかった近隣地域でさえ、パソコン通信が通じるようになったのは、地震後何日か経ってからだ。パソコンネットが大にぎわいだったのは、被災地以外の地域で、震災というチャットのテーマが出現して皆が興奮してしまったからだ。前年秋にはインテルのCPU、ペンティアムのバグで一騒動あったところだ。いわば流言飛語を防止するというより、口コミの書き込みで賑わうという流言飛語の世界そのものだな。
Zそれにこの情報ネットワークは興奮しやすい。悪口雑言・喧嘩などは日常茶飯のことである。それぞれIDでさえ明かさない匿名システムだから人格が変わる。ふだんは大人しい人間も掲示板に書き込むととたんにアグレッシヴになる。「みんな死ね」と書き込むのもそういう連中だ。
Xパソコン通信はこの震災時、急に「いい子」になったのだが、マスメディアによらないパーソナルな流言飛語の世界、またある時期のダイアルQ2のように、やくざでいかがわしいところがあるのが取り柄。顔の見えない者同士で喧嘩もするし、仕掛け合うという局面もある。
Yいつだったか、こういうことがあった。――ある掲示板に「Hをしたいから連絡を欲しい」という女の子のメッセージがでた。今までのところパソコン通信の世界では女性メンバーは稀少価値だ。それでこの誘惑にのった連中が、セックスのボランティア(志願者)として、我も我もと彼女にメールを送り名のり出た。このメールは本来彼女だけが見ることができるものだから、それを前提に皆がここに連絡をくれと、匿名ではなくIDや実名、それに電話番号まで彼女に知らせた。そうして相当な数のボランティア・リストを得た彼女は、これを丸ごと掲示板に公表してしまった。つまりセックス・ボランティア・リストが公開されることにより、匿名で彼女とコトを行おうとした者たちは自身の正体を暴露されてしまったというわけ。この遊戯を仕掛けた主は周到にも別のIDを盗んでいたらしく匿名のままであり、たぶん女性ではなく女性名をかたった男性だろう、ということだ。公開されたボランティア・リストを見て恥じ入った者もそれを見て嗤った者も、ともに笑いものになった。彼女/彼は匿名者の正体をバラすことで、パソコン通信の秩序空間を壊乱した。
Xようするに、パソコン通信はそんな自己壊乱的な契機ももっているということだな。それが、この規制以前のよちよち歩きのメディアの取り柄。電話は一般に中継回線を選べない。回線がつながらなければ、それまでである。パソコン通信なら回線が混んでいても、遠くのAP(アクセスポイント)を選べばそれを通じて通信できる。多少電話代がかさむけれど、興奮しているから気が大きくなっているので何のことはない。外野席で騒いでいたというのは、こういうAP選択ができるからね。ところが被災地からの情報は発信されなかった。そもそも情報インフラが崩壊していたから。ネットユーザーは一部のオピニオンリーダーらのフィクションによって自得しているが、自分たちの世界の基盤がどれほど脆弱であるか、そのことに気づかなければならない。
Z最初大手ネットの掲示板は利用有料としていたが、「この非常時に稼ごうとするな」という非難があって即日無料に切り替えた。電話代はかかるとはいえ、いわば通信マニアには天国状態。死亡者リスト、安否情報、交通情報、ボランティア情報等々の情報が掲示されたのだが、無用な議論が占領していて肝心の情報が埋もれてしまうという事態にもなった。
Y電話が通じないので、全国から安否を訊ねる問い合わせが掲示板を全面的に覆い尽くすという有様だった。しかし肝心の被災地からはレスポンスが出てこない。問いばかりで答えがない状態だった。
X大手ネットのパソコン通信が「活躍」するようになったのは地震後一週間ほどたってからだ。テレビにはないパソコン通信の機能として、たとえば死亡者等情報リストの検索機能があげられる。しかしそんなものを検索するのなら、新聞でもできる。


   17 インターネットで世界発信のこと
 前年爆発的に話題になったインターネット。これも震災で「活躍」したことになっている。
 しかしそれは、テレビ情報を英訳して流すだけのことで、威張ったわりには大したことはなかったそうな。総理官邸にもインターネットが接続されているはずだが、それが機能したとは寡聞にして聞かない。けれど国内では、
 「おれも英語ができたら世界に情報発信できたのに」
と悔しがる向きもあるとのこと。

【余 談】
Yインターネットは、一種のエリートの道具、パソコン通信の分野で欲望をかきたてる。WWW(World Wide Web)の田舎者が出世できそうということか。
X現在インターネットを個人的に活用できるのは、ごく限定された層だね。第一に、英語を自在に読み書きできる語学能力。それより重要な要件は、高額な電話代金を支払える収入があること。いまの日本の電話料金システムだと、インターネットをやっていると平均的な勤労者の月収が丸ごと消える。だから、パソコン通信じゃなくて、インターネットだというと自慢できるという。そういうわけで、インターネットは、ほとんど何の働きもしなかった。
 (付記:この当時はインターネットは高嶺の花だった)


   18 テレビ活用案のこと
 テレビは無駄な解説や議論に時間を割くよりも、被災者の安否情報を流すべきだとする意見あり。安否を告知したい被災者に公共の電波を提供し、彼ら自身をしてカメラの前に登場させ語らせるべし、とする案がある。

【余 談】
Yマスメディアは即日現地に乗り込んできたが、震災という事件報道とその解説ばかりで、自身を救援に活用することを知らない。事件のメディア化というよりも、メタ言語は存在しないことへの無知だね。
Z自身のポジションを譲らない、そういう頑なさがある。死亡者リストは時々刻々テレビが掲示した。しかしテレビは生存者がどこにいて、どういう状態か、それを知らせるわけではない。各局どれも似たような番組を流しているが、電話回線をブレークダウンさせるほどの、安否を知りたいというニーズに応えるものはなかった。死亡者の氏名、死者の名、これはシンボリックな秩序に回収されるもの。しかし生存は、震災によってこの秩序の外部に出てしまった。
X地域メディアとしてのCATVは、停電断線という状況下では壊滅している。テレビが少なくともリアルタイムで情報を流せる媒体である以上、それを活用すべきだ。求められているのは、個人の安否など、生存者の極私的な情報であって、マスメディアは、ここで極私的なメディアとなってもよかった。


   19 地元新聞苦境のこと
 阪神大震災では地元ローカル紙・神戸新聞は社屋が大破し甚大な被害をこうむった。新聞発行は京都新聞の支援を受けて維持されている。
 ところが、震災のどさくさに紛れて、
 「神戸新聞は震災で発行休止」
という風評を流し、読売朝日など大新聞が販売拡大をねらう動きがあるとのこと。

【余 談】
Zようするに、文字通り、火事場泥棒だね。


   20 地元テレビ面目なきこと
 神戸のローカルテレビ局は、地震で停電したり放送機器が壊れたりして機能不全の状態だったが、それでも震災情報を中心に放送活動は維持していた。
 ところがある日、東京からテレビ朝日の看板報道番組がここに乗り込んできて、ここから特別番組を全国に発信するという仕儀に出た。地元では、
 「何様のつもりか、いい気なものだ」
と、この怪挙は反発を買った。

【余 談】
X神戸にはサンテレビというマイナーなテレビ局が存在する。ここが全国に発信できるのは地元のラブホテルをスポンサーとする「おとなの時間」というH番組くらいなものだと言われているテレビ局。これが、地震で機能不全の状態だったが、震災情報を中心に放送活動は維持していた。
Yこれで思い起こすのは、明治新政府が誕生のおり、支配階級として「田舎者」が大挙東京に侵入してきたとき、江戸っ子たちが感じたという嫌悪感だね。たぶんこれらに共通するのは礼儀を欠く下品な振る舞いであって、要するに「上品」とはいえない話だ。今回の震災で露呈したのは、マスメディアの東京一極集中が極端なまでに進行していたということ。いわば、マスメディアの中央集権による支配構造が露出したことである。TVネットワークを例にとってみれば、ヒエラルキーは3段階になっている。被災地(阪神地区)→大阪(関西地域センター)→東京(全国センター)。阪神大震災では、大阪も死者20数人がでるなどして被害は小さくはなかったが、それでも阪神地区と比較すれば被害は相対的に軽微ですぐさま日常の活動を回復できた。大災害の近隣地域で、しかも被災地を含む関西地域のセンターであることからすれば、この大阪のTV局が大活躍してしかるべきだった。ところが奇妙なことに、地震当日から震災特別番組の主体は東京にあり、大阪はその走り使いの有様だった。TVは東京のスタジオからの番組がほとんどで、トップダウンの形式で報道していた。司会/司祭は東京であり、大阪は被災地に近い局としてニュースを上申し、それを東京はあれやこれやと議論する、というスタイル。震災について認識し把握し思考するのは、東京である。全国の視聴者は、たぶん大した疑問もなく「それ」を視ていた。
X関西で震災を免れた地域の人々は、TVの震災報道がなぜか東京の番組であることに奇怪な印象をもった。被災地の被害は大きかったから、地元神戸のTV局はそのダメージで機能不全に陥ってしまう。それは分かる。しかし大して被害の無かった大阪のTV局まで機能不全の様子をみせているのが不思議だった。ところが後で分かったのは、このとき大阪のTV局は、震災報道番組に関し東京のコントロール下に入っていたという。番組を主宰するのは東京であり、被災地に最も近い大阪はいわば「接収」されて、この主人に取材したニュースを挙げていた。もっとも、「こんな重大な事件を地方局にまかせられるか」ということであり、つまりは「こんなおいしい話をよそに譲れるか」ということだろう。
Zただ、そのように東京を報道センターとする体制は、全国的な救援活動を喚起するのに大いに役立ったことは認めなければならない。しかし、この形態がとられたことによって、被災地近隣の関西地区の情報メディアとしてはひどく一般的なものになってしまった。つまり被災地に隣接する地域は、ローカルな情報、具体的個別的な情報が必要だったが、そういう隣接する地域による救援活動に対し、有効なメディアとして機能しなかった。もっぱら近隣地域は口コミによって活動をしていた。
Yだから、TVを視ることができた近隣地域は、「TVは何をやっているのか」と怒っていた。TVというメディア空間は、愚にもつかない評論家どもの議論や、地震発生のメカニズムの解説やら、そのとき「対岸の火事」談義に占拠されている。
X一番あきれたのは、「もしこれが首都東京で起こったら」というトーキョーセントリック(東京中心主義的)な話題へ流れたこと。もっとひどい話は、鳥越某というキャスターが現場中継で、つまり被災地の真ん中で、「もし東京だったら」というエゴセントリックな発言をつい漏らしてしまったことだね。それは東京住民の切実な話であるかもしれないが、少なくとも震災渦中の関西で流れるべき筋合いの議論ではない。
Y災害時には被災地近隣のTV局は、徹底してローカルであるべきだ。大阪のTV局はその任務を放棄した。そして、東京の全国ネットワークの走狗になりきって全国に情報発信をしたが、関西ローカルエリアに必要な情報は流さなかった。中央のインタレスト(関心/利害)のメカニズムに奉仕した。その端的な事例が「もしこれが東京で起こったら」という議論を、被災地支援に向おうとする近隣の関西人に見せてしまったことだよ。そんな議論を流すくらいなら、その時間をローカルに必要な情報を流すために使えと、関西の視聴者は怒ったのだ。
Z明らかにメディアの情報空間は時間的に有限で、その時間=空間は、エクスクルーシヴ(排他的)な性格をもっている。だから、そこに何が登場するかという問題よりも、そこから何が排除されているのか、何が抑圧されているのかという問題が重要である。これはTVメディアという権力の問題だな。日頃何気なく思っていたのに、震災で一挙に露呈したことは多い。こういう東京中心主義によるメディア帝国主義、それによる情報空間の占領もその一つである。しかし、停電やテレビがなくて、被災者にはテレビなど視聴できない状態だったのだよ。

   21 ニュースキャスター天下りのこと
 地震当日、早速東京から報道番組のニュースキャスターが、ヘリコプターで被災地にやってきて、現場からレポートした。
 「あいつら天下りやな」
とは関西の視聴者たちの批評。

【余 談】
X阪神大震災で、大阪のTV局が東京の走狗と化したということは、一面ではTVネットワークの階層構造の中間を占める大阪が排除されたということだね。大阪が司会/主宰して報道するのではなく、全国ネット向けの単なる記者の役割に貶められたということ。ここには権力/知の構図がある。――お前たちは我々に知らせろ。我々だけが知の主体であると。この知の主体のポジションは排他的で、主のポジションである。そしてメディアにおいては、知の主体だけが知=情報を分配できる。全国ネットの震災報道番組を視ていた全国の視聴者は、この独占的な知の主体から映像情報を分与されていた。
Zだから、「しろしめす」のは、いまやマスメディアだ。総理大臣だってTVから情報をとる始末。このネットワーク構造は、実は諸ポイントが同等に関係し合うという定義の「ネットワーク」ではなく、東京を頂点とする垂直的なピラミッド構造をもっている。TVというメディアは樹状のパラノイアックな構造をもつ。すべての情報は、まず中央に集積されなければならず、中央が情報の配分と流れのコントロールを実施する。事態はそこまで進行していたのかと、誰しもが唖然となった。
Yそういう始末だから、東京のニュースキャスターが、大阪のTV局を差し置いて現地レポートしに来ても不思議はない。メディア空間は中央が支配しているからだ。彼らはヘリコプターで「天下り」をしてきたというのが、マスメディアという権力の、露骨なスキャンダラスな構図だね。
X毛皮のロングコートというパーティ帰りのような衣装で、東京から天下って現場に登場した女性キャスターもあった。これはマスメディアにおける中央/地方の支配関係を示す象徴的構図だな。
Zむしろ被災地現場は、連中にとってパーティ会場なのさ。ようするに、高級官僚の天下りを批判する連中が、自分が天下りしてくる。これは言行不一致ということではない。もう少し込み入った話だ。つまりメタ言語は存在しない。そしてメディアの主体は、裏返しの形態で(自身が否定する)行為を反復する。


   22 住宅メーカー大キャンペーン
 震災を好機とみた住宅メーカーは、在来工法は潰れたが自社物件は地震に強いというPRにこれ勤めた。馬鹿なマスコミは、これを転載し、在来工法は危ないというキャンペーンの片棒を担いだ。

【余 談】
Z住宅メーカーは、ご丁寧にも証拠写真をマスコミに配布して、同じ画面で左は潰れ家、右は立派に建っているプレハブ工法、という比較対照。これを見せ付けておったな。
Xところが被災地では逆のパターンの例も少なくない。隣接地で建物の被害状況が全く異なる事例は無数にある。地震は面的に一律ではなく、地盤や立地等わずか数メートルの違いでも、ミクロな局所条件によって地振動の様相は差が出た。在来工法は危ないというキャンペーンも、マスコミが流したデマの一種だ。


   23 淡路瓦災難のこと
 淡路島は「阪神」大震災で大きな被害を受けた。しかし本当の被害は地震ではなかった。というのも、重い瓦屋根を乗せた建物は地震に弱いというプロパガンダが浸透してしまったからだ。
 おかげでスレート屋根材の建材メーカーには有利な宣伝になったが、淡路瓦の産地は大いに迷惑しているとのこと。

【余 談】
Yいわゆる「防災屋」のデマにのって、テレビ各局は、わざわざコンピュータ・シミュレーションまでやってみせて啓蒙した。
Xこれもとんでもない話で、重い屋根は地震時の引抜き力に抵抗するというポジティヴな機能があるのを、まったく無視した偏向的説話だよ。これが、淡路瓦の産地に壊滅的な打撃を与えた。建材メーカーに有利な宣伝をしているという意識は、もちろんマスコミにはない。






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