震災異聞

阪神大震災逸話集
【第3集】 国家装置と行政権力
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   1 防災担当省庁に当直なきこと
 こういう災害時の担当機関はそもそも国土庁でありその防災局である。ところが国土庁防災局は職員当直をおいていなかった。いたのは民間警備会社の夜警・ガードマンだけだった。気象庁の第一報を受け、連絡を取ったのは、国土庁の職員ではなくこのガードマン氏であるそうな。


   2 テレビで見ていた首相のこと
 行政の最高責任者である首相は社会の一大事の発生と同時に国家装置の指揮をとるポジションにある。首相以外にはその任に当たる者はいない。彼がさしあたりとった行動はどんなものか。
 地震発生当日の朝、首相は事の重大さを認識していなかった。彼は東京のふつうの市民と同様、テレビ局が流す震災特別番組を視ていた。「うれしいような、情けないような。複雑な気持ちです」とはあるテレビ関係者の感想。

【余 談】
Zこの国の総理大臣氏はテレビを見ていた。それは当事者能力の欠如を示すものだが、その根底にはリアリティの欠如がある。地震発生後、4時間たってもテレビは、警察庁公式発表の「死者22、負傷者200、倒壊家屋数百」という被害レポートを流していた。消防庁発表では死者1名だった。
Xむろんこれが、震災の規模を示すものだとすれば、明らかに誤報である。これが警察機構が確認できた死傷者数、しかも公式に発表してよいという数字であるとしても、あまりにも現実とはかけ離れていた。すでに倒壊建物は十数万棟に達していた。負傷者十万人近く、死者はすでに数千に及んでいた。空撮映像が示す建物の被害状況を見れば、おそらく地震発生後5分以内に数千人が死んだと推定できるし、実際その後の検視でも死亡推定時刻はそのようだった。
Y地震後4時間経っても死者数十とは、最も被害の大きい現場ほど状況報告ができないということだ。そういう被災地の状況を勘定に入れないから、誤報を怖れる臆病さを示す数字になる。災害情報ならば、推定死者何人・負傷者何人等々と推定値がなければ、正しい情報だとは言えない。だが誤報を怖れて推定値を排除したために、誤報を流したのだよ。だから警察庁が推定値を示せないなら、防災専門家の署名つきの推定値でよい。どの程度の災害かが初期動員を決定するとすれば、推定によって動く必要がある。確実な情報というものは結果であってプロセスではない。
X高速道路やRC造建物など、堅牢と思われていた建物の倒壊は、空中からの視認で確認できていたし、自衛隊機は無線で基地へも通報していた。それよりもテレビ映像だね。NHK神戸放送局の地震襲来時の映像は、比較的早く流れた。多少、地震や建築構造に知識のある者なら、これが尋常ではない地震だという事はただちに解る。テレビ等のマスメディアは千載一遇の大ニュースに興奮して、くだらない盛り上げ方をしていたが、それでもライブの映像で惨状を映していた。少なくとも現場は、災害の甚大さを通報し続けていたはずだ。
Zところで一方、国家装置にはマスメディアの情報とは異なる筋の情報網があったはずだな。つまり政府の組織する専用情報システムが。ところが報告が組織の階梯を上に上がるうちに、災害現場のリアリティは希薄化し、最後には臆病な数字だけになった。見かけほどの被害はないようじゃないか、という印象もあった。このとき「死者22人、負傷者数百」という数字は、誰が意図したわけでもないが、数字それ自体が欺きであり騙しだった。
Yたとえライブとはいえ、映像というものは決して正直ではない。それはコメント次第でどうにでもなるからだ。同じ映像でも背景の音楽一つで意味づけは正反対にもなる。悲しい音楽を背景にした映像は、そっくりそのまま楽しい音楽を背景にすれば、意味を一変する。同様に映像の文脈が映像の意味を規定する。見たこともないような光景を示す映像のそばで、スーパーインポーズの「死者20人…」という文字が流れると、それが映像の注釈になる。「阪神地区はこのような惨状だが、実際には被害は死者20人…で、あまり大したことはない」という意味になる。画面の端に現れては消えるつかの間の、あくまでも補足的な属性のものが全体の意味を決定する。
X重要なことは、その映像は何も隠していないということだ。事態はそこに露出していた。ところがそれを意味解釈の回路に引き渡そうとするから、意味不明の像となった。


   3 防衛庁内局で口論のこと
 地震当日、防衛庁次官は終日登庁せず。防衛局長の出勤は9時を回っていた。政策課長と運用課長の2人が自衛隊出動の是非をめぐって激論した。一人が、
 「知事要請がないのに部隊を動かせない。混乱するだけだ」
と言えば、他方は、
 「1000人は死んでいるぞ。知事の要請を待たずにすぐさま出動だ」
 「何を根拠に1000人だ。対策本部をつくるのは大変だ。いま、そこまでやる必要はない」
 「テレビを見ただろ。暢気なことを言っている場合じゃない」
という応酬。局長が出てきたので各自意見を述べ、局長は、
 「テレビの報道だとそんなひどい状況ではないようだ」
と言い、結局防衛庁内局としては県知事の派遣要請を待つべしということになった。局長はその旨長官に伝え、内局に2つの意見があることも付け加えた。
 長官は10時からの閣議に出席した。このころ、つまり地震発生後3時間余、すでに(日本ではなく)アメリカ市民の視ているテレビの画面では災害救援募金の払込案内が流れていたそうな。

【余 談】
Z防衛庁防衛局の情報も、これまたテレビだったというお粗末。どうも一般の錯覚だったのは、国家装置は何か特別な情報通信手段をもっているはずだということだ。要するに地震が暴露したのは国家装置が裸の王様だった、ということである。
X北海道南西沖地震のときは、地震発生後20分足らずで派遣要請が来た。今回の場合では、防衛庁は知事の要請を待っていたが、いつまでたっても来なかった。


   4 兵庫県知事登庁遅刻のこと
 知事はたまたま官舎にいたが地震後直ちに準備し迎えの車を待った。車はなかなか来なかった。官舎を出て、ようやく県庁に着いたのは8時半。
 ただし、官舎と県庁との距離は3キロていど、急いで歩けば30分、自転車にのれば15分もかかるまいということだそうな。彼は老人なので自分で走る脚もないのだろうとの皮肉しきり。
 ところが。それほど遅く知事が登庁したのだが、彼が召集してみると、県の幹部職員はまだ五、六人しか来ていなかった(来れなかった)らしい。

【余 談】
Z官舎にいて、車が動かないのなら走ってこい、ということだ。病院や企業の責任者は、乗った車が動かなくなると歩いたり走ったりして出勤してきたそうだ。あるいはカージャックまがいのことをしたり自転車で何十キロも走って駆けつけた豪の者もある。
Yこういう行動の遅滞はサイコロジックなものだ。彼の立場を想像すれば、知事はこの一大事に戸惑っていたのだ。その戸惑いが当事者としての行動の遅滞を結果した。自分がどこへ向かっていいのか、わからない呆然の状態だろう。


   5 自衛隊救援派遣要請うやむやのこと
 神戸の西方にある姫路の陸自第3特科連隊は、地震発生後早々に出動態勢を整え、連絡員を派遣していたが、一向に知事の要請がないことに苛立っていた。
 地震発生後4時間たって、県庁と電話連絡がついた。防災係長が出た。
 「こちらは出動準備ができていますが、そちらは大丈夫ですか」
 「はい」。
 この応答は「無事か」「無事だ」という問答のようにも受け取れる。しかし、
 「この電話連絡をもって派遣要請があったものとしたい」
と念をおして言うと、防災係長は、
 「よろしくお願いします」
と答えてしまった。係長はすぐに知事のところへ行って、この電話のことを伝えた。しかし、焦点の派遣要請はかくも曖昧な形式であり、かつ事後承諾だったそうな。

【余 談】
Y何であれ形式は事後的につくられる。時間は逆行さえできる。過去は未来である。震災が暴露したのは、日本の有能な行政官僚というのは嘘だったということ。彼らはルーチン・ワークなら得意だが、いざという肝心な時には無能ぶりを暴露してしまう。いつもすでにという形式の先例がなければ動けず、臨機応変の運動神経がない。
X被災地の役所は機能不全に陥った。そのとき「我々も被災者なのだから」という弁明があった。たしかにそうで、職員もまた被災者である。だが震災のセキュリティを保障するがごとき言説広報を行ってきた以上、組織責任がある。「一生懸命やっているのだから」というのは、現場の職員の言であっても、自治体の代表者としての知事や市長の言説スタイルではあり得ない。


   6 道路渋滞で救援部隊難渋のこと
 知事の要請がやっと出たので、姫路の特科連隊から車両数十を連ねて数百名の隊員が出発した。しかしその出発は遅すぎた。
 警察がまだ何の交通規制もしていなかったので道中渋滞に往生して、兵庫警察署(1階が潰れた)と長田警察署に到着したのは、午後になっていた。その頃にはすでに大火が拡大していた。

【余 談】
Z時すでに遅しか。初動が遅れると被害は何倍にもなる。しかしなあ、2次災害というべき火災がひどかった。全国から駆けつけた消防隊の諸君は、水が出ない、無線は使えないという最悪の状況の中でがんばっていた。
X阪神地区は海という無尽蔵の貯水槽を前にしているのに、海から水を引くのに難渋した。各県さまざまの自治体から消火に駆けつけた消防車は数珠繋ぎでホースを何キロもつないで送水しようとした。


   7 現場職員無念の涙のこと
 行政の災害時対応システム全体は機能麻痺に陥ったが、それでも現場の県市職員・消防署員・警察官・自衛隊員等の諸君は皆、各自の持ち場で可能な限りの力を振り絞って救援活動を行っている。
 それだけに、全力を尽くしてなお、途方もない現実の前に無力な自身を感じて、無念の涙を流す者もあるそうな。

【余 談】
Y現場職員の中には心労のあまり自殺した者もある。断水復旧が思うに任せず、責任を感じて自殺した水道局員もあった。そんなことで死んでくれるな、と言いたいが、本人にとっては罪責感の重荷は死ぬより重かったようだ。
X今回の震災で露呈したのは、倫理的な逆転だ。行政機構は上に行くほど無責任であり、逆に現場に近い末端ほど責任を感じる者が多いという現象がある。通常は上級幹部ほど責任が大きく、末端になるほど責任は軽いということのはずである。ところがそれはまったく逆だった。最高責任者である総理大臣の様子を見れば、この責任階梯の逆転は明らかだろう。
Zたぶん人間は「有事」あるいは非常時ほど等身大の責任しか果たせない。権力がある責任を実行することに関わるとすれば、権力とは「平時」のファンタジーにすぎない。


   8 幹部の不手際は部下の責任のこと
 今回の震災では、お役所、行政側が不手際ですいぶん叩かれた。しかし、幹部の不手際のしわ寄せは、末端に押しつけられる。苦しくても役所がマスコミに叩かれている状況だから、下手なことは言えない。職務とはいえ、これでは強制されたボランティアである、とのこと。

【余 談】
Z震災後その対応で指示系統が混乱するなど、従来の役所の組織が機能不全に陥った。しかし、そういう不手際を一番感じていたのは末端の職員だ。
X現場では職員は自分のできる範囲で不眠不休で働いている。はじめ数日は何も飲まず食わずだった。過労で倒れる者が出はじめた。これでは労働災害である。ボランティアは民間だけではない。
Y組織が瓦解して、だれもかれも裸の個人になった。それもネガティヴなことだけではない。明らかに権力装置の機構が壊れて、何か青空が見えたという感もあった。


   9 救援増員は死者数次第のこと
 地震発生後6時間たっても、自衛隊のプレゼンスは、近隣の姫路駐屯地などの部隊数百名だけだった。その後、日を追って1000人、2000人と「死者数」が増加するのに応じて、救援派遣部隊が増員された。

【余 談】
X死者数が増加するのに応じて、救援派遣部隊が増員された。これはニュートラルに見れば、ある意味で一見適切な対応をしたように見える。死者の数が災害の規模を示す指標であり、そしてこれが災害の規模に応じた適切な人員派遣という意味だとすればね。ところが、それは「適切」だとは誰も言えないアクションだった。なぜなら問題は死者数ではなく、現時点で、建物の下敷きになって救出を待っている生者の数だからだ。結果ではなく、現在進行中の災厄が焦眉の問題だからだ。
Y具体的な数字では、地震初日、生き埋めになって救助されたのは400人ほどだ。3日間で700人程度。この数は死者の数に照らして比較にならないほど小さい。しかもこの700人のうち相当数がその後死亡している。
 その後自衛隊が発表した数字では彼らが扱った仕事で、生き埋め救出は200足らず、遺体収容が2000という数字だ。残りは警察や地元住民らの仕事である。生き埋め救出は四分の一が自衛隊の手柄である。これを少ないと見るのは酷かもしれない。自衛隊の出動は遅れたからである。もっと早期かつ大規模にプレゼンスがあれば、1000人は救えたかもしれない。
Z自衛隊の出動が遅かったという感は、消防隊の到着と比較してだな。消防は全国から、即日やってきた。彼らは続々集まってきて消火活動に従事した。水はなく無線は使用不能という悪条件にもかかわらず、可能な限りの努力をした。自衛隊が遅いというのは、震災のように48時間以内が勝負という時に間に合わなかったからだ。自衛隊が到着しても彼らに重機はなく、シャベル、スコップ程度の装備である。倒壊した建物を相手にこんな装備では隊員らは泣いたね。屋根や梁を持ち上げる機器さえなくては、彼らの作業にも明らかな限界があった。不十分な装備しか与えず人海戦術で押し通そうというのは日本の官僚機構の悪習である。末端の兵らは、官僚らの犠牲になるだけだ。
Xそれはかつての戦争のときも同じだ。公式発表の死者数とはいったい何なのか。死者1000人といっても実際は5000の死体があった。この較差はどういうことなのか。
Y災害発生後の自衛隊・警察等の組織的な初動救援とは、そもそも人命を救出するために派遣されるものだ。人柱がないと動かない、という犠牲主義、供犠の祭政一致国家。それと、権力はいかに知に拘泥するかということ。権力は無知よってではなく、知を根拠として行使される。権力は無知の審級にあるのではなく、知の審級にある。
Xだから、知っていても動かない、というところに問題が露呈する。


   10 国土庁長官大ボケのこと
 地震発生後4時間たって、閣議の席で、国土庁長官に対し、「被災地へ飛んだらどうか」と言う意見が出た。すると彼は手帳を取り出し、
 「今日は予定があって、ちょっと…」
と躊躇の体だったらしい。
 「このボケが」と叱る者はいないのか、という声あり。

【余 談】
Zこれは大ボケだ。国土庁長官はその後更迭されたが、後任長官も国会答弁で「吹田」を「フキタ」と連呼し、国土庁長官が都市地名も知らぬと馬鹿にされる始末。いまひとつのようである。ついでにもう一つ。

   11 首相初体験のこと
 東京の首相は、震災への対応の拙さを突かれて、
 「何ぶん初めてのことで…」
と言い訳をした。失笑を買うことの多い彼の言動だが、今回のは一段と笑えるというので、彼は吉本興業の回し者ではないか、という話まである。

【余 談】
Z彼のボケぶりは天下一品である。ただ、国民にとっても彼自身にとっても不幸なのは、彼が内閣総理大臣だったということである。民間企業の社員であれば、窓際の係長程度の人材だという辛辣な批評もある。
Xけれども彼の機能には別の側面がある。おそらく古今東西、彼ほど国家権力が無能だということを暴露した政治家はいない。彼は「裸の王様」が裸だということを隠さない。パフォーマティヴな次元において、彼は反政治家(antipolitician)として機能している。いわば政治の無能ぶりを明白にすることにおいて、社会主義者・社会党左派の「革命性」をまっとうしている。
Yつまりね、国家批判は首相である彼が身をもって演じている。我々の政治的歩みは、この大いなるパラドックスを目撃するところまで来てしまっている。我々が問題と見誤ったものは、すでに答えだったのだよ。


   12 有事立法論のこと
 地震後の政府・自治体の対応の遅さ・拙さをみて、相当数の言論人が、ここぞとばかりに責め立て、私権が邪魔だとその制限をもちだし、挙げ句の果ては「有事立法」が必要だと言い立てている。

【余 談】
Y無責任な口舌の徒が何を言うか、だね。震災が暴露したのは、私権が公務を妨害するということではなく、公権が裸の王様だったということだ。こういう災難、他人の不幸に乗じて、国家権力に同一化しそれを強化しようとするのは戦前にもいたが、それはこういう言論人だった。何であれ二度目は喜劇であるという話。
Zこういう国家権力に同一化する輩は、首相の壊乱的な「革命性」に比べれば、きわめてリアクティヴ(反動的)である。つまり首相が内閣をお笑い軍団に変えてしまい、「王様は裸」という事実を暴露してしまったのに、それでも王様は裸じゃない、もっと厚着させろと言っているわけだ。
X連中が例にもち出すのは、アメリカのFEMAのシステム。それを見習って災害時にもっと国家組織が効率よく動けるようにしろという。「猿真似日本人」という外国人の眼はこの限りにおいて正しい。猿真似を推進したがるのは、いつもこういうおっちょこちょいの言論種族である。
Zしかし彼らの無意識的なレベルでの動きは、そういうことではない。彼らの啓蒙的な言説は、政治的世界に人々が無関心になることへの怖れにある。いわば喪失への危機感である。政治を問題化することで彼らは食っている。しかし政治が問題にされなくなることは、彼らの根拠の喪失である。国家権力に同一化する無意識的な知は、政治を問題化することでサバイバルしようとする。
Y自衛隊の初動を遅らせたとして首相あるいは知事の責任を問う意見が多い。だがそれは間違いである。便利屋のように安易に自衛隊を使うべきではない。隊員がかわいそうじゃないか。自衛隊は、かりそめにも軍隊であって、殺人技術を身につけた組織ではあって、災害救助を専門とする組織ではない。もっとそのことを防衛庁の高官が主張すべきである。


   13 建設業者徴発のこと
 建物が倒壊して生き埋めになった人々を緊急に掘り出すには、警察より自衛隊よりも、はるかに事情に通じた専門家集団がある。それは建物を造ることを専門とする組織だ。
 日本には一社で年間1兆円以上も工事を請け負っている世界最大級の建設会社はいくつもあるし、建設業に従事する人々は何百万人もいる。彼らはクレーンだろうがブルドーザーだろうが、十分な建設機械をもっている。
 彼らの能力は倒壊した阪神高速道路の撤去の迅速ぶりによって示された通りである。それは全く、あっという間だった。なぜ彼らの力をもっと使わないのか、という意見あり。

【余 談】
Xこれは冗談話と思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。震災前、ゼネコン(大手建設会社)の主たるものは「談合」の罪科で営業停止になっていた。しかし震災発生と同時に彼らの処分は解かれた。被災地の仕事を手伝ってくれ、という出動要請があったわけである。阪神地区でとくに仕事が多い竹中工務店などは、地震初日に、社員を神戸に3000人を送り込んだ。そのようにゼネコンの動きは速かった。自社工事分の建物安全調査が主眼である。それに倒壊した阪神高速道路の撤去作業は早かった。早すぎて証拠隠蔽工作ではないかという風評まであったほどだ。
Y道路等破損した公共施設の撤去に当たっては、予算措置が決定する以前に実行された。正式な発注形態ではない。それでも建設業者は解体撤去をさっさとやり遂げてしまう。
Zむろん無償では使えない。だが緊急時に被災地周辺の工事現場から建設機械をかき集め、何万人か建設業者を救援に投入しても、その「工事費」はたかが知れている。人命救助は初日から長くて3日以内が勝負であるからだ。自衛隊を維持するための人件費を年間何兆円も使っているのだよ。危険手当を十分にしても、それに比べれば安いものだな。
Xだから建設業者の有償ボランティア、これを組織できればそれが最も現実的である。談合だの何だのと、この業界は始終連絡しあって相互協力することに慣れているし、組織動員にかけては悪名高い下請けシステム以上のものはない。突貫工事は日常茶飯のことだから、迅速さにかけては文句はない。仕事となるとこの業界はフル稼働する。民間企業を役所の管理下におくことはできないとするのは、建設会社の日常の業務を知らん者や。建設業者ほど役所の管理下におかれている業種はないし、役所のOBなら掃いて捨てるほど抱えている。とりわけ政治家との清濁合わせ飲んだ連携は極めて緊密である。地方なら建設業者自身が議員になっている例は多い。
Y自衛隊に出動要請するのもいいが、建設業者に出動要請するのが一番である。自衛隊は、建設業者がもたない航空機や艦船を保有するのだから、輸送や救護活動等を担当すればよい。消防は火を消し、警察は道路の交通整理をする。警官に生き埋めの掘り出しなどさせるな、ということである。警官や自衛隊員を一種の賤民扱いにしているから、こんな「安い」使い方をする。それでも痛痒を感じない鈍感さが、バカげているというのだ。


   14 カリスマ起業家奮闘のこと
 ダイエーグループ総帥中内功氏は、テレビをみて状況の尋常ならぬことを察知し、6時半に出社。ただちに災害対策本部を設置し、被災地のみならず全国に指示を飛ばし、阪神地区への物資人員の輸送を手配するなど、獅子奮迅の働きをみせた。彼は、
 「マニュアルなどいくらあっても訓練など役には立たない。演習は演習にすぎない。問題は、現実にいかに素早く対応できるかだ」
という。ダイエーは500億の被害損失というが、さすがにこの俊敏さは商売人だけのことはある、首相や知事は見習え、という声あり。

【余 談】
Zローカルな商店街の「主婦の店」は、時流に乗って数十年後には小売業界の巨大企業になった。この企業創業者はさすがに動きが迅速だった。フェリーやヘリを調達しトラックを仕立て、海から空から陸から、阪神地区に物資を投入した。
Zリーダーシップの問題だというが、あいにく首相は政府組織の大株主ではない。たかだか雇われ社長の身分である。
Xただし現地では、ダイエー商法の抜け目なさに怒る声もある。一円たりとも販売価格を上げるなという指示だが、現場末端まで統制は及ばなかったらしい。
 (付記:その後のダイエーグループの凋落は、カリスマにも賞味期限がある、ということを示した)


   15 自衛隊空撮のこと
 大阪の八尾基地から偵察ヘリが飛んだのは午前八時前後である。地震発生後直ちに出動準備をして待機していたが、指令がないので、訓練という名目でこのヘリは出発した。
 ヘリは被災地上空を飛び被災状況を偵察視認した。そのとき空撮に使ったのは、隊員が携行したホームビデオカメラだったという。

【余 談】
Xあまりにもお粗末な自衛隊の装備と言わざるを得ない。現場の隊員が泣くわけでだ。
Zしかしシステム全体が動かなくても、現場ではこのように個別で臨機応変の行動があった。偵察ヘリを出動させるのはフライイング・スタートだったが、「訓練」という名目であったし、ヘリにはビデオ撮影機材の装備がないから、家庭用ビデオカメラで空撮した。
Y名目によってシステム全体を欺かねば、現場の行動が可能ではないという状況。自衛隊員の行動を阻害するものは、実は自衛隊の組織システムそのものだということ。
X訓練という名目だね。現実の行動がシミュレーションの名を借りて行われること。ここで我々は70年代的な思考に対する反証に遭遇する。現実はシミュラクルなのではない。逆に、現実がシミュラクルを騙る、シミュラクルのふりをするわけだ。


   16 社会党政権因果応報のこと
 因果応報説。自衛隊の出動の遅れを、日頃阪神地区の自治体が自衛隊を冷遇していた結果、震災でそのツケが回ってきたとする意見あり。

【余 談】
Yそれは違うだろう。もともと自衛隊の田舎臭さを嫌う都市的感覚があった。もともと関西にはこういう非常時でも「国家」をあてにする傾向はない。東京は田舎者の寄り合い所帯である。東京はこれを誤解したまま、国家権力の「責任」を問題にし、不毛な議論している。私権制限論などは愚の骨頂である。
X社会党は、自身が死んでいることを知らない父だし、無能な父を演じていた。都市型選挙のこととて保守党が脆弱であり、神戸市は与野党対立なき全与党議会となっていたという経緯がある。自衛隊冷遇は議会の総意であり、保革の差違はなかった。神戸のイメージに自衛隊はそぐわないとする感情はあった。神戸港に海上自衛隊の艦船は入港したことはなく、むろん近辺の駐屯地は姫路と伊丹にあるきりである。自衛隊は無用という感じだった。
Z震災時、内閣総理大臣は社会党委員長である。被災地の一角を地盤とする女性議員は元社会党委員長であり、最初の女性首相として候補にあがったほどで、そしていまや衆議院議長だ。ようするに真理はこうだ――「自衛隊は来るな」と言っていたのだから、字義通り来なかった。これが真理次元で生じたエフェクト(結果/効果)だな。


   17 震災は戦争なりという紋切型のこと
 震災は戦争である、という見解は凡庸な常套句のひとつである。ところが、枝葉を払えば、論理の筋道は、
 「震災は戦争なり、ゆえに自衛隊の出動を」
となるものらしい。しかし、これは明らかに間違った推論であるとのこと。

【余 談】
Y危機管理というのは、震災以前数年からあった言論の主題の一つで、うるさく言われてきたことだ。危機管理をテーマにした書物は書店にあふれていた。ところがその矢先の大震災である。危機管理論議はいったい何だったのか。ようするに言論は、自身の無効性を突きつけられた。
Zところが、危機管理論そのものは自身が無効だという事実に気がついていない。いわば自身が死んでいるということを知らない。かくして阪神大震災をめぐって言論情勢は活発だが、生きた議論ではなく、死んだ議論が展開されている。いまや行政の危機管理能力の欠如を指摘するのが言論の一般的基調である。そんな中でも、とくに震災は戦争だと心得よ、備えあれば憂いなし、行動マニュアルを作り日頃から訓練演習を欠かすな、という言説が多くなってきた。しかしこれはある種の官僚主義的言説である。行動をマニュアル化しても非常時には実際には役に立たない。災害等非常時、危機というのはもともとマニュアル通りにいかない事態をいうのだ。それが要求するのは、いわば事態に即応する一種の運動神経だ。
X半世紀前の戦争で、日本帝国が敗北したのは、米軍の物量や戦争テクノロジーに敗北したのではない。敗北の原因は帝国内部にあった。それは危機に遭遇して脆弱さを露呈する秀才たちが構成する官僚主義である。それと同様なことが今回も反復された。だからそういう意味では、震災は戦争なりというのは正しい。震災が露呈したものと戦災が露呈したものとが等しいからだ。


   18 皇室諫言のこと
 皇太子夫妻は地震直後にもかかわらず、中東訪問の旅に出かけた。この「国際親善」という公務は以前から予定されていたから出かけたとのことである。
 外遊先で歓迎の行事ににこやかに応じ、あるいは夫妻がゲームに興じる姿が報じられるに及び、国民の顰蹙をかった。この国賓ご一行を迎える相手国も、どんな顔をして迎えたらよいやら迷惑したという話である。

【余 談】
Z地震後の皇室の動向は、昭和天皇死後の天皇制を占う試金石だった。皇太子夫妻の旅行についてはこんな反応がある。――この外遊訪問は、たとえて言えば、自分の家が燃えている最中なのに、「前からの約束通り来ました」といってやってくる客の無神経さである。こういう客は歓迎されると思うのか。いったい宮内庁は天皇制をきちんと理解しているのか。自身の役割が分かっているのか。とくに言えば「日本赤十字総裁」は誰なのか。赤十字が救援に動いているのに、その代表者が不在とはどういうことか。ふだんは皇室のことは何も気にしていない者たちも、皇太子夫妻の国際親善の旅は、災厄への直面を回避して「海外逃亡」しやがった、という印象を多くの者が受けた。右翼はこれに対し何をしていたのか、腹を切ってでも諫止し阻止すべきだった、という意見すらある。
Y皇室の社会的機能、なかでも天皇の役目は、シンボリックな秩序維持に責任を有するというのが、天皇制の根本である。災厄が起これば、それを鎮撫するために尽力し、なおかつ天変地異等自然災害であろうと、これを自身の不徳のせいだとして、退位するなどして公に責任をとる。いわば常人とは違う非人間的な役割を負う。それが天皇である。人類学的な知見では王の究極的な機能は、自らが犠牲となって共同体の秩序を回復させることにある。天皇の役割の根本もそういうところにある。年頭、天皇は神々に今年一年の国家平安を祈念したのではなかったか。
X天皇の戦争責任という問題が、戦後長く議論されてきた。昭和天皇の死後、そういう声は国内では消えた。しかし天皇制の根本的機能に照らせば、「天皇の災害責任」という問題が立ってくる。「天皇が震災に責任があるだって? そんな荒唐無稽な。それこそ神話的言いがかりだ」――そう言うのが、近代政治空間の感覚だろうが、天皇制本来の古代的祭政の次元と照合すれば、それほど荒唐無稽な話ではあるまい。天変地異でさえ自身の責任とする。それが天皇制の極意である。そういうことになる。このことは皇室メンバーを除けば、国民のだれより天皇制護持を標榜する党派が承知すべきだな。
Yしかし宮内庁を擁護するつもりはないが、別の考え方もある。つまりここでのテーマが我々の社会のシンボリックな秩序は震災でどのように動いたか、という視点からすれば、違うことが言える。顕在的な意味合いでは不分明な話でも、無意識的な次元ではだれもがよく知っている事柄であろう。というのも、「海外逃亡」とすら言われた行為のパフォーマティヴな次元では、ひたすら、「この災厄は大したことはないのだよ」というメッセージを送るものだったからだ。ところが、この国際親善の名において実行された行為が、こんなに被災者が苦悩しているのに、「この災厄は大したことはない」というメッセージを送るものだと、これまた受け止められ、市民の顰蹙を買ってしまった。この一大事を何と心得て、中東なんぞに往ってしまったのか、と。ここには、言うまでもなく誤解がある。
Zひたすら「この災厄は大したことはない」というメッセージを送るものだった皇太子夫妻の海外出張行動は、第一に、誰に対してそういうメッセージを送ったのか。答えは、それは「人心」というものに対して、である。人心を慰撫するために否認のメッセージが必要なんだ。もう一つ、この否認行動は、家を失った市民の間で見られる否認と連続しているということだ。震災はなかった、早く家に帰ろう、という事実否認は、防衛メカニズムへの反応としての症状である。症状がそれ自体で語るところを見なければならないのは、個人も社会も同じだ。


   19 天皇皇后現地慰問のこと
 地震発生後2週間たって、天皇皇后両陛下の現地慰問があった。相変わらず美智子皇后の慰問ぶりは鄭重で、天皇よりも映像的に説得力があり、海外逃亡した息子夫婦の失点を少しは回復したのでは、という話。
 しかし被災者のほとんどは、テレビなど見ていないので、天皇皇后両陛下が、いつ来ていつ帰ったのか、知らなかったそうな。

【余 談】
X天皇皇后の被災地へのプレゼンスが遅かったのではないか、という意見もあった。けれども、天皇制のシステムからすれば、王権儀礼としての現地慰問は本当は被災者が対象ではない。慰問行為をマスメディアを通じて天下に知らしめることである。それによって慰撫されようとする対象は、「人心」である。彼ら天皇皇后はもう少しでスケープゴートになりそうな息子夫婦を救った。だがそのことで、「皇室と国民の間」には何となくすきま風が吹いてきたような感じである。君側の奸を排除し君臣の直接的関係を回復すれば、君主には何か別のことが可能になるという近代天皇制の幻想はもはや存在しない。
Yだから、王権儀礼のこのパフォーマティヴなメカニズムが暴露されてしまうと、その王は自身の力(威力)を失う、ということにはならない。というのも、臣下はむしろこのパフォーマティヴなメカニズムそのものを知っているからだ。言い換えれば、このパフォーマティヴなメカニズムそのものは決して隠されてはいない。逆にそれは露出する。
Z王はそれ自身で王ではありえず、必ずパフォーマティヴな儀礼を必要とする。そのことを知っているのは臣下自身じゃないか。もし天皇皇后の被災地へのプレゼンスが遅かったとすれば、臣下の無知、つまりは宮内庁のみならず国家官僚の無知による。そしてもし、天皇皇后の被災地へのプレゼンスが遅かったと思う意識があるとすれば、王を王にするパフォーマティヴなメカニズムの効果を期待してしまう臣下の意識である。あり得たはずの王権儀礼の効果を発揮する絶好の機会を逃したという意識だな。とすれば、この皇室パフォーマンスの失敗にも、ポジティヴな意味合いがある、というものだ。


   20 幹部躁転のこと
 誰とは言わぬが、天皇皇后の現地慰問を先導したある兵庫県幹部は、それまでと打って変わって元気になったのはよいが、こんどは何事にもブレーキが利かなくなってしまい、おかげで部下は迷惑しているとのこと。

【余 談】
Zこれは例の無能ぶりをさらした県知事氏のことだね。震災後の4月の統一地方選挙では、東京・大阪という東西の大都市で知事選があったところだ。当選したのはどちらも官僚あがりの候補ではなく、いわゆる「タレント議員」だった。建設業者の談合と同じようなことをやっている、与野党の見かけの対立さえ存在しない政党政治はもう終わりである。政党が担いだ候補は落選し、無党派の候補が知事になる。「馬鹿にするな」という怒りが投票結果に現れた。これが人民制(デモクラシー)、民主主義だ。
X愚弄された者らが無言で怒ったのだね。「あれかこれか」の選択は仮にそれがフィクションであっても、無いよりはましだった。そういう仮象(見かけ)の対立さえ演出しない政治儀礼のサービス低下はあまりにも有権者を馬鹿にしているわけだ。だから本当の怒りは、そういう見せかけさえ演じてくれない政治的談合の横柄さへの怒りである。しかしこれまでは、こういう怒りは選挙ボイコットという棄権行動で表現されていた。どうせ誰が当選しても同じだと。投票率20%などというのはそれだ。
Zけれども、非政治的な素人性を売物にした芸能者議員を知事にしたのは、阪神大震災の余波であろう。震災が暴露したのは、当事者・専門家として責任を負う者は存在しないということである。つまり、政治と行政は責任を負えないくせに責任を負えるふりをしてきただけだ、ということを暴露されてしまった。みんな責任を負えない「裸の王様」だった。プロフェッショナルを詐称してきただけだと。
Yそうすると素人でも誰でも良い。むしろ、「お前らは要するに、こういう素人にも劣る連中だ」と語るのが今回の東京・大阪の知事選の結果である。


   21 長田大火災放火犯のこと
 震災で長田地区は大火に見舞われた。「長田を丸焼けにしたのは、こいつらやないか」と放火の嫌疑がかけられたのは、神戸市の都市計画担当部門である。

【余 談】
Xむろんこれは冗談だろうが、そう言われるほど状況証拠があった。それは、地震発生後十日もしないうちに、焼亡地区の区画整理に基づく再建計画案を発表したことである。役所にしてはずいぶん手回しのいいことだが、地震以前から用意してあったものらしい。長田地区を神戸の恥部とする思考は根強くあり、一日も早くここを整理したいという都市プランナーたちの欲望があった。震災は彼らに口実を与え、まことに正直に念願の機会到来と小躍りして、真っ先に計画案を公表したものとみえる。
Y今回の震災では、市当局と御用建築家たちは「それみたことか」という具合である。長田地区などは30年前から都市計画事業に反対で一向に従おうとはしなかった。これであいつらも目が覚めただろうと。啓蒙に従わない者は、自分で自分の首を絞める。自分自身の暗愚で自殺的行為をする。――それが都市計画家たちの見解である。
Z一口に被災地といっても、阪神地区は異質な地域構成だな。芦屋や東灘区のようなブルジョア的な体裁を整えた成金の地域もあれば、長田から須磨にかけてのように零細民が暮らす町もある。大火のあった長田地区は被差別部落や在日朝鮮人、それに最近では東南アジアからの流入民などで、都市プロレタリアートの地区として神戸という都市の「底辺」を形成している。いわば異人館や北野というブルジョア的な神戸の顔を汚す汚れのように扱われてきた。長田はあれやこれやの住民運動のプチブル的論理では統御できない地域だよ。彼らは神戸の「都市の論理」に従わないアウトサイダーである。しかし神戸は、彼らを下部構造とし彼らを搾取して肥え太ってきた。港湾部の大企業の工業立地はもう時代遅れになったいまや、工場敷地をテーマパークに転換しようという時節である。神戸という都市が彼らを排除するのは忘恩行為である。
X震災で阪神地区は全域がアジール化したと言える。これは都市が発生状態に回帰したということだ。もし都市の発生を見たいのなら被災地に行くがよい。そこでは善悪を越えた彼岸としての起源がある。おそらく阪神大震災の教訓は、防災計画の名においてこういう都市の汚点を抹消べしというところに行き着くだろう。都市計画家たちは早速それを声高に主張しはじめた。震災の「教訓」として、神戸の長田地区のようになりたくなければ、我々の言うことを聞けという恫喝が、始まっている。


   22 助けてもらおうとは思っていないこと
 政治家連中が無責任だということは市民がよく知っていることである。被災者のだれも彼らに助けてもらおうとは思っていない。ただ税金泥棒に対し、我々が納めた税金分だけの働きはしろ、と言っているのだ。これはギヴ・アンド・テイク、商取引の問題だとの声。

【余 談】
Y国家に幻想があるわけではない。政治家は無責任で、いつも重要な出来事をうやむやにしてしまう。当然そんなことは最初から分かっていたことだ。しかし、そのように「そんなことは最初から分かっていたことだ。今さら取り立てて言うべきことではない」とシニカルに言って口を拭う論議が多いのだが、それはいかがなものか。こういうときに露呈するのは、そういうシニシズムの無能ぶりである。すべてのことにシニカルな距離をとる言説は70年代から20年もこの国のローカルな言論を支配してきた。シニシズムの馬鹿馬鹿しさは、自身のメタ言語のポジションは不可能だということに気づかないことにある。
Xここでの論理ははっきりしている。要求するものは要求すべきである。政治責任を免罪すべきではない。商取引の問題だというのはそこである。政治家と官僚たちが無責任だということ、それはどこから生まれるのか。それは我々国民が許してしまっているからだというのは間違いである。
Z行政権力行使そのものに強迫的性格がある。行動はぐずぐずと無限に時を逸し遅延する。それが結果として現在に対して無責任きわまりない行為となる。日本国首相以下、日本の政治家・官僚たちが、地震に遭遇して示したのは、単純に強迫的な行動パターンである。こういうシステマティックな強迫行動に対しては、諸君はいったい何を恐れているのかと、問うことだ。





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