丸竹楼

937年頃(昭和10年)の絵はがき

 盛岡の代表的な料亭

 明治6年創業の老舗であったが太平洋戦争中、戦時統制の強化と軍需生産優先のため人手や物資の不足などによって企業整備法が発令され営業は中止し、従業員男女約30名は軍需工場に徴用となった。
東北地方では仙台市の「都川」と2軒がその対象となり廃業に至った。
この建物の特徴は、日本建築でありながら洋室があったこと、1階と3階にそれぞれ茶室があり屋内に人工庭園もあった。貯蔵庫の地下室もあり、構内電話の設備も当時は珍しかった。
1944年〜1945年頃(昭和19年〜20年)建物強制疎開でこの建物は取り壊しとなり一瞬の内に消滅した。
道路を拡張し、空襲の際重要構造物(県立中央病院-盛岡病院)を守るための建物強制疎開で、そのため道路の両向かいの民家を強制撤去、疎開させるというものであった。実際に空襲にあったら、その程度で延焼を防ごうとしても無理であった。
この強制疎開によって拡張された道路が、上の橋から本町に至る現在の道路であり、現在は上の橋緑地 帯の一角で市の駐車場になっている。(2002年)                                       


車は箱型エセックス(この車も軍に供出した)

昭和初期の盛岡市内丸本町の地図クリック

正面3階の洋室応接間、五味画伯の「裸婦」が掛かってあった。(現在県立美術館所蔵)
窓の外は農工銀行(第一勧業銀行)古いが立派な建物

この料亭の明治初期からの移り変わり
明治18年 盛岡に西洋料理店登場す(岩手日報)
「丸竹西洋料理店」 内丸公園地内
この西洋料理店に接し 「丸竹茶屋」があった。

丸竹楼の明治初期からの簡単な歴史クリック





大正時代〜昭和初期 丸竹楼玄関 
 

 60年前の盛岡(今昔)

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