自分史 第2部
2006年10月
自分史を充実させようと岩手県図書館の蔵書を検索したが、目的の著書は見つからなかった。
試みに宮城県図書館で検索すると、盛岡芸者に関する著書等々が偶然検索できた。
「丸竹」に関連ある項目と少年時代を懐古し「自分史」第二部とし常時更新します。
屋号「料亭 丸竹」明治時代(明治6年)1873年に創業
私の生まれたのは、昭和2年(1927年)
参考文献(宮城県図書館蔵)
盛岡市役所発行 「盛岡市史」第12分冊 生活
昭和34年発行 盛岡市史編纂委員会
食生活
西洋料理は、内丸の公園地、中津川畔の「丸竹」は、明治二十七年には料理は和洋折衷したものであつた。
秀清軒で洋食のみを扱つたのは明治三十六年ころであろう。ひきつずき、目盛軒・大洋軒が出、多賀は公会堂に
フランス料理、昭和12年味のデパーとは和洋・支那料理をかねた。
いま市中に大小数えきれぬほどある。
盛岡にカフェーが出たのは、大正末期で、肴町に、カフェー・レストランというのが出た。女給が何人かいて、鳥鍋四
十銭と云うのが人気をよび、料理は二の次であつた。それからカフェー文化・カフエー大安などがつずいた。
建物
明治二十九年の「盛岡市実地明細図」を見るに、市内の店舗はみな和様で、停車場・警察・物産陳列所・学校等
のほか、活版と番籍販売の堀内九皐堂、和洋料理の「丸竹」等が硝子窓を持った洋風まがいの様式であるに
過ぎない。二十二年に新新築された停車場の機関庫が煉瓦であったのが目立つ。
丸竹の洋風建物
参考文献 (宮城県図書館蔵) ひだりづま 盛岡芸者いまむかし 及川和哉著
本街芸者の簡単な年表と「丸竹」
○本町組合函番(明治41年1月1日現在)1908年、函番とは見番、検番の意味
<料理店>
多賀 甲子 鶴泉 秀清閣 勢可波
常磐 細川 「丸竹楼」 かめ屋 武藏屋
山口屋 田中屋 芳田屋 内田屋 松川亭
櫻雲閣 末広
<芸妓>
はつ うた 松きん 金太 艶子 丸よし
三吉 小てる 久松 よろじ むつ子 のぶ子芳治 芳松 大吉 万歳 きく子 ゑん 助六 今助
牡丹 太郎 芳美 小芳
芳爾 いね 五郎 梅香 桃太郎 たつ子 又奴 きわ子
※この年1月、幡街不況。
2月22・23・24の3日間、幡衝芸妓の大さらい会、藤沢座で開かれ大盛況。5月、肴町の日出館から美人絵葉書
(芸妓)売り出される。
手前の橋が「よの字橋」左側が市役所、奥が上の橋と愛宕山
明治41年(1908年) 福島市で開かれた東北6県連合共進会出演の本街芸者
仙台芸者や福島芸者と華やかな火花を散らしたが、盛岡に軍配が上がり優勝旗が送られた。
他県の芸者は地元出身者が少ないが、盛岡芸者の多くは地元盛岡出身と云われる。
又、芸修業の厳しさも有名でであった。
「丸竹」 玄関 明治41年頃(1908年)
この写真の時代は不明ですが明治41年(1908年)本町組合函番の名簿に記載されてる方です。絵はがきと思う。
万歳さんは大正9年(1920年)の名簿に載ってます。
参考文献 「盛岡写真帳」下巻 監修 盛岡市立図書館 (宮城県図書館蔵)
花柳界・幡本両街
大正年代盛岡の花柳界は、市の中央部を流れる中津川を以って南北にわかれ、河南の八幡を「幡街」といい、
河北の本町を「本街」とよんだ。芸技の数は幡街六十人、本街五十人ほどで、本街は県庁、市役所に近く勢い役
人の多くが出入し、幡街には概して実業界の人びとが遊んだ。
料亭の主なものに中ノ橋側の秀清閣があり、県令島惟精の豪華な邸宅を襲用したもので、山善ともいった。二階
に大広間があり盛岡一番の大宴会場といわれた。幡街は三上亭、沢田屋、瀬川屋に次いで藤屋、小原屋、悦楽、
三桝、谷星、いろはがあった。
本街には芳田屋、丸竹、桜雲閣、花芳久、菊屋、それに次いで辰巳、常盤、末広、松島家、片富士、扇星、かめ
や、藤沢などが挙げられた。
両街のほかに俗塵とよばれた多賀細川、岩手公園下の鶴家、山岸の岩谷温泉、大慈寺町の老梅園、川鉄など
の割烹店があった。こうした静かな料亭で、それぞれ特長のある調理を味わう人も多かった。
遊郭は幡街にあった。文化七年藩令によって、盛岡市外一里、紫波郡津志田に移転したが、文政六年許されて
この地に復帰したものだった。生姜町通りを経て八幡に至る八幡町 かいわい、そこに十数軒の貸座敷が軒をつら
ねて客をひいた
主な店は玉楼、第二玉楼、第玉楼、田中楼、
○大正3年頃(1914年)の<本街料理店><本街芸妓>
芸妓置屋がない時代、料亭が芸者を抱えた。
<本街料理店>
花芳久 丸竹 花月 扇屋 芳田屋 菊屋 細川 片富士 富士屋
亀屋 桝屋 銀鍋 目盛軒 勢可波 精養軒
<本街芸妓>
(菊の家) 小竹 あづま 友葉 小園 小柴
(越後屋) 梅八 又奴 みや子
(狩衣家) 五郎 勇 みつる
(竹の家) みよ吉
(山城家) 絹子
(菊 家) 栄子 小菊
(旭 家) とんこ 幾代 小力 三七 小七 富久三
(常 盤) 君まつ
(河内尾) 梅鶴 ′ 梅見
(亀 屋) 千鳥 きよ見
(新亀家) 彩見 東香 彩葉
(松の家) 八千代
(岩崎屋) 今勇 今千代 吉勇 あさ子 おはん
(千代本) 桃千代 民子 秀松
(丸 竹) 花香 小豊 寓久丸 小染 小松 君多郎 まつ子 友奴 小きん
(花咲家) 七五三子
(扇 屋) 福子 さわ子 貞奴 やま子 敦丸 丸柴 みどり
(富士屋) 玉蚊
(新 咲) 富香
(花芳久) 蔦柴 牡丹 桃奴 老松
(三浦家) 菊丸
(松嶋屋) 福栄 駒龍
(芳田屋) 豊香 等子
(片富士) 千代菊
(勢可波) 久巣
今勇さん昭和49年(1974年)79歳で死去
<街外料理店>
秀清閣 大清水多賀 夕顔瀬多賀 公舎堂多賀 秀清軒 川鐵 鶴泉亭
写真資料 「盛岡写真帳」昭和50年 杜陵印刷(宮城県図書館蔵)
大正時代〜昭和初期の「丸竹楼」玄関
「丸竹」の裏庭(年代不明) 全国的にも有名な「石燈籠」現存
現、上の橋「市」観光駐車場
「丸竹」の自家用車 シトロエン 昭和初期
上の橋と盛岡病院・右側が「丸竹」と農工銀行(勧銀)
上の橋通り 左側 盛岡病院 右 丸竹 傘をさしてるのが本街芸者
○大正9年(1920年)
<本街芸妓>
たき ゑき 小竹 絹子 栄子 萬歳 あづま 八千代
梅八 五朗 才八 みよ吉 小谷 又奴
梅奴 とんこ 金八 君まつ 国花 園江 幾代 今勇 桃千代 今千代
富香 亀吉 蔦柴
富久松 豊香春枝 二三 富士龍
さわ子 小豊 長吉 いさむ 菊丸 きち子 菊助 ぱたん いろ子 勝子
叶 玉煤 福榮 桃奴
丸よし 花香 千鳥 さざ浪 百々榮
<半玉>
三七 八重子 駒龍 優子 小そめ 清治 富榮 千代菊
不鮮明な画像ですが、 昭和初期 高松の池 、
昭和初期 黄金競馬場(古い盛岡競馬場)
丸竹では高松の池と黄金競馬場にそれぞれ独立した出店(建物)があり、シーズン中は兄弟で
よく遊び行きました。当時珍しかったチーズ、ソーセージ、ハムが美味しかった、
距離にして約4キロ往復8キロ歩いて帰ってきますと疲労困憊、小学生低学年頃です。
昭和10年頃(1935年) 「割烹丸竹楼」全盛時代
3階応接間
昭和2年から昭和18年の廃業までの間ここで育った。幼少の頃から花柳界の世界に
生き多くの人々のなかで育った、独立した自前芸者さんの家に時々遊びに行きました。
今でも記憶に残ってる方は
小そめ、小きん、 花香、小松、友奴 場所は 不来方町、下小路、大手先裏 等々近所
に住んでる方々で優雅な暮らしをしていました。
本街(本町)の場合は官庁、県会議員、軍隊、高専のお客が圧倒的多く幡街(八幡町)は
お金持ちの旦那が多かったと思います。
○昭和10年(1935年)の本街芸妓
五朗 みよ吉 絹子 富香 蔦柴 福菓子 みや子 等子 ま子 おはん 小園
太郎 次郎 恵美香 富三 勝太郎 市奴
絹子 榮子 君多郎 久柴 秀子 蔦代 八千代 金八 駒龍 牡丹 友奴 音丸 今勇
小そめ 小きん 花香 小松 丸榮 美榮子
てい子 竹駒 染千代 小静 富貴子 君若
富美勇 濱勇 市助 〆子 千鳥 やま子
あさ 美どり 勝子 千代丸 登志丸 筆子
梅子 瑠美子 〆三 濱千代
参考 昭和10年(1935年) 9歳
昭和12年(1937年)11歳
昭和18年(1943年)17歳
母親は丸竹の女将で、私は祖母に育てられました。その祖母は独立した製餅工場を経営し、ここに
も遊びに行きます。遊びに行く場所が一杯あり、あらゆる意味で不足不満のない子供時代でしたが!

楽しみだけではありません。小学校では花柳界の子弟を蔑視し公然と軽蔑する先生が1人おりました。
子供心に耐えられない屈辱を受けました。戦時体制が強化されると一部の人々から現在のイジメが多
くなりました。
昭和12年日中戦争が始まり、芸者さん方の中国慰問団(旧満州)が派遣されました。皆さん芸達者な
盛岡芸者の代表的方々でした。
昭和15年以降は軍人と出征兵士を送る宴会が多く配給制度のなかで徐々に体制が強化され昭和18
年、企業整備令により東北では
盛岡の「丸竹」と仙台の「都川」は強制的に廃業させられました。
従業員男女二十数名でしたが、最後の離散会は記憶に残っております。皆さんは市内の工場に勤め
るようになり、この料亭の建物は国鉄の寮となり後日、昭和20年建物強制疎開で破壊撤去となりまし
た。
戦後間もなく復帰した本街の芸者さん。
今勇 小染 おはん 千代丸 恵美香 秀子 富志丸 富喜子 勝榮 秀雄 信子

昭和21年頃(1946年) 明治6年(1873年)生まれの祖母所有の黒いタンスに明治中期以降昭
和中期までの写真が数多く幾百枚と大切に保存されておりました。この写真は現存してるのかどうか不明
ですが、かなりの価値があった思います。「ひだりづま」や「盛岡写真帳」に劣らない数々の写真が記憶に
残っております。
災害にも遭いませんので、故意に捨てない限り何処かにあると思います。
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盛岡芸者今昔 ひだりづま より
花柳界超一流、京都祇園でも盛岡芸者の評判を聞く