丸 竹 の 歴 史
もりおか物語(熊谷印刷刊行)参照
明治6年
与の字橋の角目、いまの県民会館のあたりですが、大平さんの丸竹餅屋と米屋があった。
「ふくべっこ山」の小公園が近くにあったので、市民がよく休憩に来るから、「あべ川餅」などよく売れてはやった。
一皿二銭で、氷もあった。
明治9年御巡幸の時、内丸で蔚の茶屋かけで、丸竹(大平竹松)が岩手山の雪を取り寄せ、たたきくだいて、白砂糖をかけ、白雪″と名づけて売り出し、大いにもうけたるを初めとす。
柿正三著「明治舶来つくし」より
丸竹の由来 内丸(地名)の大平竹松(氏名) 丸と竹 で呼ぶようになった。
丸竹初代 大平竹松
その当時、氷を使うということはまだ誰も知らなかったようです。
明治18年
盛岡に西洋料理店登場す(岩手新聞)
「丸竹西洋料理店」 内丸公園地内
丸竹二代目 大平栄次郎
この西洋料理店に接し「丸竹茶屋」があった。
丸竹西洋料理店の広告 明治18年10月 盛岡初の洋食店の開業
明治時代の上ノ橋
丸竹料理店の岩手日報新聞広告
「謹賀新年」全員親戚(出所不明)1906年
明治43年盛岡大洪水
この家(丸竹)は明治の初期に建てられ何回も移動や修理をしておりました。
明治時代のある日の事、お告げがありました。
@地震か A洪水か B火災か C主の死亡
に遭遇するから、神仏を祭り供養しなさいと。その時、洪水はどうしても考えられなかったそうです。
このお告げは誰のお告げか不明ですが無視した結果、明治43年9月3日中津川の氾濫による大洪水で莫大な損害を被ったと云われます。
その結果神仏の集会の行われると云われる裏庭に「八幡宮」「不動尊」「地蔵尊」をお祀りし神殿等を建立しました、その後は商売繁盛、事故もなく昭和中期まで順調に発展の一途を辿ります。
もりおか物語
明治四十三年(1910)九月には、明治期最大の大洪水があった。被害激甚をきわめたというほかない。市政施行して二十年、盛岡市民ほ全力をあげてこの復興に努力した。
<資料>
明治四十三年の大洪水
そもそも明治四十三年(1910)八月は、全国各地に洪水ありたることとて、まず東海道方面より次第に関東諸国に及び、東京市のごときもっとも惨状をきわめ、次に茨城・埼玉・宮城の各県またおびただしき被害ありたるも、岩手県↑ほ比較的無事に経過し、盛岡のごと きは全く無事平穏にして、少しばかりの降雨を見たるに過ぎず。
かくして八月は経過し、九月に入りて、二日の夕刻より降り出したる雨は、次第に量を増し勢を添えて、夜半のころにはあたかも束篠を(つかしの)突くがごとく(注・雨がはげしく降るさま)、ついに180ミリ(一坪の雨量三石三斗二升七合)をかぞえらるるに至れり。
○中津川
今回の降雨は盛岡を中心として多く中津川の流域に降りたるものなるべし。
三日朝四時ごろから刻一刻と増水しきたりて、ついに橋を落し家を流し崖を崩し樹を倒し、巨木大石家屋財物等を混じて流下する光景は、せいそうさんれつ(凄蒼惨烈)名状すべからざるものありたり。かくして午後三時半、水量は最高に達し、平水より多きこと約十三尺に及びたり。
中津川は、上流において高原状の地勢をなし、両流域の山林原野田畑宅地を合して水平面撃方七百町歩、この地表に降下したる雨量は、専門家の計算によりて約十三億四千二百七十二立方尺におよぶ。
この水量が盛岡市中を激奔して下橋際より新たに大支流をつくり、多賀・川原町方面に湛えて大潮となり、神子田を経て北上川の氾濫を合せるもの倍々として大海のごとき、これ洪水当時の実況たり。
○諸橋梁
中津川は盛岡市の中央を貫流することとて、これに架設せる橋梁は六個あり、このうち市設にかかるもの五個、県設のもの一個、ほかに北上川に架したる県設橋梁一個、いずれも流失せり。
いまその状況を記せば、中津川上流なる浅岸にて穿師橋・北瀬橋・板橋等の小橋はいずれも落下し流れきたりして、川止橋の右たもとを越え、市内三橋の一なる上の橋に押しかかる。しかし、橋上に土俵石材等を載積して重量を添えたるも防止することあたわず、ただ橋欄に冠したる擬宝珠を取りたるのみにて、梼は見るまに中断して、渦巻く濁流中に没したり。時に午前八時過ぎなり。
丸竹 大平栄次郎 組頭として活躍(加筆)
よの字橋は、上の橋に先だてて流失し、毘抄門橋は午前九時ごろ流失して、その下流なる盛岡三橋の一なる下の橋に停滞したるため、下の橋は午前九時過ぎその半ばを失い、さらに十一時過ぎ全部を流失し終れり。
かくて市中の橋梁は中の橋を存するのみ。時あたかもよし工兵隊の来援せるありて、あらゆる方法を尽し流失防禦につとめたるも、ついに人力の及ばず、午後二時二十五分♯然たる響きとともに落下流失す。
これより先、二時ごろとおぼしきとき、上流にありたる川止橋も流失し、市内の橋梁全部を失う。これらの諸橋梁・家屋・樹木等が無数に流下して北上川に入りたるをもって、盛岡最大の橋たる明治橋ほ半ばを流失し、一市は三区に分割さる。通信機閑として、ただわずかに電話の存在せるをもって。。。。。。。。。
丸竹正面玄関から見た本町通り 農工銀行前 水害前の木造上の橋 農工銀行と岩手山が見える
大正時代の本町通りと平成の本庁通り
料亭 丸竹楼 大正時代〜昭和初期
丸竹 三代目 昭和16年12月 病死
丸竹 四代目 昭和20年 7月 戦死
昭和10年頃から昭和20年迄
当時の代表的な純木造建築であった。
昭和10年10月 上の橋 竣工渡り初めの日
西方本町方面 高い建物 料亭 丸竹楼
本街芸妓一覧表
もりおか物語
本街の賑わい
芸妓さんの街
本町通りは、いわゆる本街といわれて芸者さんたちもたくさんおりまして、多いころには八十人ぐらいはいたと思います。
芸者さんたちは、函番に詰めていたンですが、その函番ほ小林旅館のちかくの玉穂さんの二階にあり、
それからつぎつぎに移り、最後には森政さんのとなりのあの高い建物です。これは置屋さんたちが共同で建てたもので、芸者さんたちほ、ここで踊りの椿古をしたり、三味線の稽古をしていた。だから本町を昼に通れば、三味線の音が聴こえたのです。
本町の芸者さんというのは、「器量よし・芸よし・人情よし」といわれて、中央の顕官からも大へん評判がよかったといいます。
盛岡の花柳界は幡街と本街の芸者さんがたの人数はだいたい同じぐらいで、互いにしのぎをけずっておったもので、とくに芸事のことも競争が激しかったようです。
大正時代だったと思いますが、いつか盛岡劇場で、幡街・本街合同の(おさらい会)がありあり、そのとき人数割のことだったか出演の順番のことだったかで、本街代表のかたが、「もう我慢ができない」ということで、芸者さんたち全員、会場から引き揚げようとしたことがありありました。
そしたら幡街のほうでも、代表やお師匠さんたちも出てきて、あわやケンカしそうな恐しい空気になりおまわりさんもおりましたが、とてもおさまりそうもなく、それだけ意地と誇り、芸事の修行の厳しさがありました。
「花月」さんでは、来るお客さんについても、お座敷に入れたり入れなかったりしたそうです。それは下級官吏さんは相手にしないというお女将さんのプライドのようなものでした。
わたしたちは、大衆向きな「丸竹」さんがよくて、よく丸竹さんからご指名をいただきました。そうなりますと、こっちも嬉しいものですから、自然と心もおちつき、お客さんともお話ができました。
それに反して「花月」さんのときは、約束時間だから帰りたいと思っても、お女将さんが許してくれないのです。
お客さんをおいて先に帰るようなことではいけないというわけです。他のお座敷から指名になっても、行ってはいけないという厳しいものでした。
思い出のお客さんといえば、やっぱり若いころのお客さんです。ありがたいことで、もう四十年以上も前のことだというのに、いまだに忘れないでくださって、その集まりには声をかけてくださる方がたがあります。むかしの高等農林の学生さんたちで。高等農林学校には全国から学生さんが釆てましたが、その方がたのクラス会にお招ばれしたのがご縁になり、その後もクラス会のときに招ばれたことがありました。それがなッす、高等農林学校の六十周年記念の同級会に、四十年ぶりでまた招ばれて行きあソした。もちろんわたしも仕事をやめて家に引っ込んでからでした。
昭和20年(1945年)以降はこちらにお回り下さい。