大政翼賛会
 
1940(昭和15)年10月12日〜1945(昭和20)年6月、近衞文麿とその側近によって組織された官製国民統制組織、各政党は解党してこれに参加、総裁には首相、各道府県支部長には知事が就任行政補助的役割を果たした。
第2次世界大戦の進展とともに国民統制力を強める。1942(昭和17)年4月の翼賛選挙を推進。6月 従来各省の管轄下にあった国民組織運動を傘下に収める。
1945(昭和20)年6月 鈴木貫太郎内閣の時、国民義勇隊が組織されると傘下の大日本翼賛壮年団、大日本産業報国会などとともに解散してこれに参加     
 
 
農地改革(農地解放)
農地の再配分
連合国軍総司令部 G H Q (General Head Quarters)の指令に基づき、農村における封建的社会制度を打破するために、敗戦後の昭和二十二年(1947年)から昭和二十五年(1950年)まで、三年間かけて、農地改革が行われました。
その要点としては政府が下記の1,2に該当する農地を、地主から安い価格で強制的に買いあげた後に、それをこれまで地主から借りて耕作していた小作人に安く売り渡す制度です。
即ち土地を持たなかった小作人に、土地を持たせる自作農家の創設ですその村に居住していない地主、いわゆる不在地主が所有する全ての貸付地。その村に住む在村地主の場合には、貸付地のうち内地では1町歩、北海道では4町歩までの土地の保有を認め、それ以外のすべての貸付地。
小作料の物納(収穫した農産物による支払い)を禁止し、全て金納(通貨による支払い)にする 。
これにより、過去何百年も続いてきた農村の地主、小作制度は完全に崩壊し、その結果自作農の数は農地改革以前の二百八十四万戸から五百四十一万戸へと飛躍的に増加しました。
この改革は、旧来の農村社会の仕組み、秩序、慣習を根本から変更する「土地(富)の再配分」であり、農村革命というべきもので、占領軍の指令という強力な外圧があって初めて可能になりました。
 
インフレーション
インフレ、この言葉自体はよく聞く言葉ですね。しかし、インフレーションと聞いても、どういうことかピンと来ない人もいるでしょう。というわけで、今回はインフレーションについてインフレの歴史と共に見てきましょう。
インフレというものが初めておこったのはいつの時代でしょうか?
一番最初かどうかはわかりませんが、かなり昔にもインフレは起こっていたそうです。例えば古代ローマ帝国でもインフレは起こっていたらしいですね。
と、ここまで普通に『インフレ』という言葉を使ってきましたが、この言葉の意味をまったく知らない人もいると思うので、ちょっと説明しておきましょうか。
インフレーション(inflation)
「持続的な物価上昇のこと」辞書的な意味はこれだけです。簡単ですね。
実際にインフレという言葉が使われるときは、「景気循環的な物価変動を越えて持続する物価上昇」という意味で使われます。
漢字ばかりで難しいですね。ちゃんと意味がわかる日本語にしてみましょう。
景気が良いときはその分モノの値段が上がる 、
景気が悪いときはその分モノの値段が下がる 、
簡単に言うと、これが景気循環の物価変動 ということです。
これを越えて持続する物価上昇、もっと簡単に言うと、たいして経済が成長してないのに、
なぜかモノの値段はものすごく高くなっているこういう状況です。
ではでは、なぜこういうことが起こるのか、それを考えます。
インフレが起こるときに多いのは戦争の時 です。戦争時、財政赤字をおぎなったり、戦費を作るために国は紙幣を大量に発行します。
ま、それで戦争のための武器やらなんやらを買うわけですが、逆にそういう軍事品以外のモノの供給は減ってしまいます。
政府が武器を買えば、その国全体として生活品から軍事品に材料(石油・鉄)などがシフトします。経済が成長しているわけではないのに、世の中のお金の総数は増えていきますね。で、ここからが重要です。
A国の経済がまったく成長してないのに、お金だけ増えるとどうなるかを考えます。
例えばA国の経済力が100で、お金の枚数が100枚だとします。
このとき、お金一枚でA国の1経済力になります。これが
経済力は100なのになぜかお金の枚数がいきなり10000枚になったらどうでしょう?
お金一枚あたりの経済力は0.01 になってしまいます。
もっと簡単に言い換えると、
今は1万円札一枚持っていたら100個のパンが買えたのに、明日になったら1個しか買えなくなった、こんな感じです。
でも、実際の世界にこんなに極端な話があるのでしょうか?
第二次世界大戦後のハンガリーの話なのですが、
1945年から1946年の一年間ですごい物価上昇を経験しています。
どのくらいすごいかというと、
物の値段の平均がこの一年間で3.8×1027倍になるほどです。
わかりにくかったら次のように考えても良いです。
1945年の時点で100円だったものが一年後の1946年になると
380000000000000000000000000000円
になっていた、ということです。
もうこれはお金の単位とはいえないくらいひどい値段ですね。逆にいうと、(このとき経済が拡大も縮小もしてないとすると)お金の価値が
3800000000000000000000000000分の1
になったということです。
しつこく例をだすと、
今まで1000円で1キロの牛肉が買えていたのに、1年後には1000円で
0.0000000000000000000001グラム
しか買えないということです。
ともかく、経済が成長してないのにものの値段が上がるのは危険だというのが今回のポイントです。
 
 
 
 
デイフレーション
 日本はかつて3度のデフレを経験した。最も古くは1881年(明治14)から約4年間の「松方デフレ」。その次が1927年(昭和2)から33年ごろまで続いた昭和恐慌の中でとられた政策で「井上デフレ」と呼ばれる。そして第二次世界大戦後の「ドッジ・ライン」がある。
 松方デフレも井上デフレもそれぞれ当時の大蔵大臣、松方正義と井上準之助の名前がついた。松方デフレは1877年に起きた西南戦争の戦費調達のため、政府がお札をたくさん発行し過ぎて極度のインフレを招き、これを是正するのが目的だった。井上デフレをもたらした要因の一つには第一次世界大戦による特需の反動がある。銀行の倒産が相次いで取り付け騒ぎが頻発し、社会不安が起きた。
 
 デフレ政策にかかわった浜口雄幸首相と井上準之助蔵相はいずれも暗殺された。世界大恐慌や関東大震災が重なったこともあるが、背景にはデフレがもたらす人心荒廃や社会の不満があり、それがいかに深刻であったかがうかがえる。
 
 ドッジ・ラインは第二次大戦中のインフレを収めるため、連合軍の要請で行われたデフレ政策だ。ドッジは連合軍総司令部(GHQ)経済顧問を務めた米デトロイト銀行の頭取だ。しかし間もなく、朝鮮戦争が起き、その特需で一気に好景気に突入した。
 
 目を外に転じると、1929年に始まった世界恐慌がデフレの代表格。需要減退による物価の下落と生産の縮小が、らせん状に悪循環するデフレ・スパイラルに陥った。
<どうなる>
 デフレ下の生活とはどんなものか。
「逓信省の局長だった父が1割減俸になり、小遣いを1割カットされた。それで毎月買っていた漫画を新本から古本にかえた。そのうち家の近くの本屋が2、3軒店を閉めたり経営者が代わったりした」。元日本銀行理事の吉野俊彦さんは、中学校時代のデフレ体験を自著でこのように紹介している。
 物価も下がり、給料も下がれば、買えるものは変わらない。生活を切り詰める必要はないはずだが、そうはいかないのが、人の心の不思議なところ。実質的な給料の値打ちは変わらないのに、名目で下がると錯覚を起こし、財布のひもを固くさせる。
 デフレはお金の価値が上がるから、住宅ローンなどの借金を抱えた人にとっては不利だ。返済の負担が重くなる。反対に、預貯金を持っていると、得になる。
 
 金利も通常、低い水準で推移するが、物価が下がり続ければ、相対的な金利(実質金利)は上昇することになる。企業はますます投資を抑制する。
 企業収益や個人所得が減るので税収は減少する。同時に、財政支出も減る。こうして国全体の経済が縮まっていく。
 
 
<現状は>
 現在の日本経済がすでにデフレになっているか、その入り口にあるとみるか、見方はさまざまだが、「デフレの懸念がある長期不況」という点では、ほぼ一致しているようだ。
 
 日銀がまとめた3月の国内卸売物価指数(95年平均=100)は、97・9と、前月比0・4%マイナスとなり、3か月連続して下落した。消費者物価指数の上昇率も鈍化している。統計はデフレの様相を示しつつある。
 
 その原因は、いくつかある。バブル崩壊による株価、地価という資産の下落、日本国内の金融不安、アジアの金融危機に伴う需要低迷、消費税率アップや特別減税の廃止による個人消費の冷え込み、財政支出の削減−−などだ。
 
 いずれにせよ、インフレでもデフレでも、極端な変動が経済や生活に大きなひずみをもたらす。「経済が活気ある状態を保つには1−2%のインフレがちょうど良いのではないか」(田中英俊・三和総合研究所調査部長)という意見もある。
 
 デフレ懸念がささやかれるいまこそ、日本をどんな国にするのかという、明確なビジョンが求められる。
 
読売新聞大阪本社編集局
「もの知りエース・素朴な疑問係」
 
 
学制改革実施に関する件
     昭和23年2月9日 閣議決定
 新学制の実施に伴い高等学校及び特殊教育について左の通り措置する。
一、高等学校
(一)新制高等学校は昭和二十三年度から実施する。
(二)新制高等学校の設置認可に際しては、旧制中等学校の現在の施設状況を基礎として   制定した暫定設置基準に依り、現に存する旧制中等学校がおおむね無理なくこれに   転換し得るよう措置を講ずる。
(三)勤労青年の教育のため、新制高等学校には、定時制(夜間を含む)の課程を設置す   る。
   公立の定時制高等学校については国庫補助の道を講ずる。
(四)従来の青年学校は、昭和二十二年度限りこれを廃止する。
   二、盲学校、ろう学校
(一)盲学校、ろう学校の義務制は、昭和二十三年度から小学部第一学年より逐年これを   実施する。
(二)義務制実施に必要な経費については、国庫補助の道を講ずる。
   右に関する予算については二十三年度に於て計上するものとする。 
 
 
 ワールドカップとナショナリズムについて
  はじめに
 サッカーのワールドカップも日本の好調ですごい盛り上がりをみせている。私自身はサッカーのさかんだった埼玉県の現さいたま市で生まれ育ったにも関らず、サッカーがへたくそでそのためによくいぢめられていたから、あんまりサッカーは好きではない。小学校時代の心的外傷をいまだにひきづっているのである。
 
 ところでサッカーの試合を見ていると、どこの国も自分の国に対する思い入れは大変なものである。ああいう類の人たちは日本の阪神ファンだけかと思っていたら、世界中の人たちがサッカーでの自国での勝敗に一喜一憂している。やはりナショナリズムというのは人間の本能なのであろう。自分の国を愛し、自分の郷土を愛する。自分の国から英雄がでることを欲し、自分の郷土の代表が活躍するのをまるで自分のことのように応援する。甲子園しかり、オリンピックしかり、ワールドカップしかり、人間の自然の発露としてのナショナリズムは本来非常に健全なものなのだ。
 
  ナショナリズムの否定の歴史
 戦後からの日本では、このナショナリズムが否定的に考えられた時代があった。おおもとはいうまでもなく、太平洋戦争後の進歩的知識人と呼ばれた人たちである。太平洋戦争中はさかんにナショナリズムが叫ばれた。鬼畜米英、日本は神国である、そのうち神風が吹く。徹底したナショナリズムである。そして戦争に負けた。
 
 戦後の知識人は考えた。日本はなぜあんな無謀な戦争をしたのだ。そうだ、日本が戦争をした原因は結局ナショナリズムである。自分の国さえよければ、というその感情が近隣諸国との摩擦を引き起こし、ひいてはアメリカなどと対立してしまった。悪いのはナショナリズムだ。自分の国だけでなく、全世界の国がみんな仲良くして暮らしていくことを考えなければいけない、と考えた。格好のお手本があった。 
 
 
 マルクスである。
 
 いうまでもなくマルクスはかの有名な「共産党宣言」において「万国の労働者よ、団結せよ」と書いた。これは明らかなナショナリズムの否定である。マルクスは、国境を越えて全世界の労働者が一体となって資本家との階級闘争を行うことを指令した。世界には労働者階級と資本家階級の二階級しかない、政府というものは資本家階級の維持のためにあるものである、したがって全世界の労働者が団結して共産主義革命を起こし、資本家階級を絶滅させてしまえば、政府というものも消滅する、政府がなくなれば国家というものもなくなる、というのがマルクス・エンゲルスの考えであった。国家がなくなってしまえばナショナリズムなども自然に消滅する、というわけである。政府や国家の代わりに労働者自身による何らかの組織をつくり、それを政府としよう、というものである。(たとえばその後ソ連を作ったレーニンはその組織の核としてソビエトを利用した)
 
 そうだ、このマルクス主義でもって日本のナショナリズムを押さえ込もう、そうすればもう日本は戦争を始めることはないだろう。
 
 こうして戦後の日本では岩波学派とでも称すべき進歩的知識人という人種が生まれた。私はたまたま昭和20〜30年代に岩波新書で出されたこうした進歩的知識人たちが書いた本を何冊か読んだことがあるが、それはそれは、今では想像もつかないくらいの、ソ連万歳、中国万歳、北朝鮮万歳、のオンパレードである。当時はまだスターリン時代の大粛清などは一般に知られていなかったが、さすがに彼等進歩的知識人はうわさでは知っていたらしく、自らの著書の中で、それらのうわさを懸命に否定しようとしているのがわかる。(ベリアの処刑に関してなど、ベリアはその罪により処刑されて当然である、などと書いてあるよ)
 
 この人たちはマルクス主義を吹聴することにより、ナショナリズムを否定していった。「オリンピックで国旗を揚げたり国歌を歌うなんてけしからん」というわけである。ニッキョーソというへんな先生の組織ができあがって教え子に「日本が戦争になるといけないから、日の丸は揚げちゃいけませんよ、君が代なんか歌っちゃいけませんよ」などとと教えだした。日本人は日本人らしく、と思ってはいけない、ということなんだな。ちなみに戦後のこの進歩的知識人たちの思想が後のニューレフトにつながり、ひいてはよど号事件、浅間山荘事件、そしてあの陰惨内輪もめによる集団リンチを生んだのである。彼ら進歩的知識人の責任は大きい。
 
  ナショナリズムは戦争の原因ではない
 さて、戦後の進歩的知識人たちは、ナショナリズムこそ戦争の原因である、としてこれを忌み嫌い、その思想的後ろ盾としてマルクス主義を持ってきて理論武装した。しかし本当にナショナリズムは戦争の原因なのだろうか。
 
 思うにこれは順序が逆なんじゃないかと思う。ナショナリズムがあるから国と国とが対立して戦争が起こるのではなく、国と国との対立関係ができてしまって、結果的にナショナリズムを助長せざるを得なくなった、ということなのではないだろうか。悪いのはあくまでも国家間の紛争そのものであり、ナショナリズムはそれに利用されているだけだ、ということだ。確かにインドとパキスタンの昔からの紛争など見ているとナショナリズムそのものが紛争の原因に見えてしまうこともある。しかし印パ紛争の原因だってもともとは宗教上の争いにかこつけた一部の人間の利権争いだろう。それにナショナリズムが利用されただけである。
 
 サッカーをみていればわかるが、ナショナリズムは人間が持っている自然感情である。これ自体はよいことである。アフリカのカメルーンは非常にサッカーがさかんなところであるが、そこの大統領の話では国民をひとつにまとめあげることができる力を持っているのはサッカーだけなのだという。サッカーに勝って国民がわいわい気分になれば国威も高揚し、国民がひとつになってさまざまな国家事業もなしとげることができる、ということらしい。こうなるとサッカーも単なるスポーツではなく、ひとつの政治力である。かつての日本の天皇みたいなもんである。
 
 ナショナリズムはたしかに一歩まちがうと悪用される危険を持っている。サッカーでも、フーリガンたちは要はサッカーという一種のナショナリズムを高揚させるスポーツにまぎれて日頃のうっぷんをはらしてやろう、という輩であろう。国家の問題においてもナショナリズムを利用して国家間の紛争を拡大してひともうけしてやろう、自分の権勢を拡大しよう、という輩はいっぱい過去にいたにちがいない。
 
 健全なナショナリズムを育てたいものである。
 
     http://www7.plala.or.jp/machikun/turezure.htm 
      上記インターネットより引用しました。

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