住んでる近くの名勝を紹介致します。
この写真はコンパクトカメラで写したもので高度な画像ではありません。

仙台市青葉区小松島「高山樗牛瞑想の松」から市街地を眺む  右下が最近の画像

 

━‐ちょぎゅう(‥チョギウ)【高山樗牛】

 文芸評論家。山形県鶴岡出身。本名林次郎。東大哲学科卒。明治二八年東大在学中、
上田敏らと「帝国文学」を創刊、編集に従事。同二九年、卒業と同時に第二高等学校の教授となる。のち退いて「太陽」を主宰。
はじめ日本主義を唱え、ニーチェ主義を経て晩年は日蓮に傾倒。著「滝口入道」「美的生活論」など。(一八七一〜一九〇二)
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.

瞑想の松


瞑想の松 石碑 右が最近の画像

 

露無の里
○雨も降れ、風の吹くをも厭はねど、今宵一夜は露無(つゆなし)の里    小萩
 小萩女の残したこの歌により、後世この地を「露無の里」といふ。(福沢神社由緒)

 


仙台東照宮

仙台藩2代藩主伊達忠宗公は徳川幕府への尊崇・感謝の標として、1649(慶安2)年5月28日、
3代将軍徳川家光公に東照大権現の仙台勧請を願い出て許しを受け、同年8月17日普請始(着工式)を行った。
この地は玉手崎と呼ばれ、1591(天正19)年10月、徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終えて江戸へ戻る途中、
藩祖伊達正宗公と宿陣された所で、祭神(徳川家康公)縁の場所として社地に選ばれたという。
なお、この地にあった天神社は東隣に移され、1667(寛文7)年、榴ヶ岡に移された(現在の榴岡天満宮)。
昭和10年8月6日早朝、失火により幣拝殿が焼失し、貴重な文化財が烏有に帰したが、昭和39年11月17日原形に
復興された。本殿・唐門・透塀・随身門・石燈篭・石鳥居は国指定重要文化財に、手水舎は県指定有形文化財に、それぞ
れ指定されている。(インターネットホームページより)
http://www.ishicoro.com/bunkazai/sendai/tosyogu.htm(参考資料)

詳細なスライド写真をご覧下さい。


仙岳院(東照宮前)

1654年(承応3年)仙台藩2代藩主伊達忠宗公が、徳川幕府に願って東照宮を勧請。その別当寺として康国寺
(東叡山寛永寺末)を創建しました。仙岳院はこの康国寺の塔頭寺院でした。従って正式には眺海山康国寺 仙岳院と称
すべきなのですが、藩政当時から康国寺を仙岳院と呼び習わしていたようです。子院として延寿院(現存)、宝蔵院、
成就院、吉祥院、それに徳川将軍家位牌所の真浄殿がありました。創建当時、東照宮の祭祀料として50貫文(500
石)、仙岳院関係に50貫文、合計100貫文(1,000石)を忠宗公は仙岳院に管理させました。後には東照宮64
貫500文(645石)、仙岳院64貫500文7人扶持と真浄殿供養料に150石、総計1,440石となっています。
忠宗公をはじめ歴代藩主のお墨付きも現存しています。
東照宮遷座式には伊達騒動の立役者の原田甲斐守が奉行を勤め、その時の布施は二万両でした。これらの事は、仙台藩が
いかに幕府に気を使ったかを教えています。
開山、最教院僧正晃海大和尚(天海僧正の法嗣・東叡山寛永寺本覚院開山)以来、歴代、平泉中尊寺別当を兼ね、仙台藩
一門格筆頭寺院として明治に至り、神仏分離により東照宮と分かれました。(インターネットホームページより)

仙岳院スライド写真はこちらより(クリック)


小松島公園


小松島公園と瞑想の松 最近の写真スライド クリック

庭の花 10センチ接写




庭の写真スライド クリック

家の月下美人




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