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ま え が き

 

 ロケーションの良い海岸や山野を走り回った何十年も前の思い出を楽しむ七十余才の老体になりました。そこで思いついたのは、焦らず急がず気ままに過去に遡り、「ラジオ四方山話」を再編集しょうと、今流行の「自分史」的性格の日記帳を「惚け」ないうちに纏めて置こうと重大な決意をしたわけです。

纏める意味は単純なパソコン遊びの趣味である事をご理解下さい。

 少年時代から青春時代は満州事変から太平洋戦争終結までの期間で、あらゆる意味で最も過酷な時代です。この頃の事は断片的に雑誌等々500kHzクラブに投稿掲載された内容です。
 

それに加筆訂正し、新たに書き下ろしと言ったところです。

順を追って年代別に

第一部  戦前の1935年頃、から1946年頃まで「戦中そして戦後の混乱期」


第二部  1977年頃、「BCLブーム」

 
第三部   最近の1985年、 以降、


大きく分類すると3部作になります。何れも愛用受信機を主体に当時の世相環境も取り上げて進めます。



当時の残っている実写真や、最近の広告写真(読売広告)を貼付します。
年代は多少前後します。



 

ベルリンオリンピック中継放送と東北の冷害

昭和11年 1936年
 小学校4年生の夏休みのある日のことです。8月初旬でしたが校庭は深く霧が立ち込め肌寒く、東風の暗い朝でした。この当時の東北地方はご存じの通り[やませ」の影響で冷害や凶作に悩まされた貧しい暮らしの時代でした。
宮沢賢治の活動、すなわち農学を学び農民指導に奔走した賢治の農業への思い、熱い思いはあまりにも有名です。その詞、「雨ニモ負ケズ」の一節、「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」、これは冷害の常襲地を象徴する表現といえます。
昭和(1931)6年、7(1932)年、9(1934)年、10(1935)年と続いた冷害は、東北地域はもちろん、全国的に深刻な社会的影響を及ぼしました。この冷害を契機に、近代的な冷害研究がわが国で一斉に始まった。(東北農業センターより)

 給食の無い時代、昼食の弁当を持って来ない子供も沢山おりました。女性は人身売買に等しい世の中での生活(工場労働者)、農家の次男三男は軍隊に志願するか、大陸に渡り満蒙の開拓に行きました。遊郭の全盛時代もこの頃です。

ラジオ体操も終わりハンコを貰いますと、スピーカーからベルリンオリンピックの中継放送が流れて来ます。多分10分位でしょうか。子供心にも短波の威力に大変な興味を持ちました。当時は盛岡放送局はなく仙台放送局を聞いておりました。軍国主義、統制管理がそろそろ厳しくなる頃ですが、一方では自由と娯楽文化を求め映画の全盛時代に入ります。フランス映画「格子無き牢獄」やアメリカ映画の「オーケストラの少女」等々日本映画も盛んなになります。「愛染かつら」の上原謙、田中絹代の時代でした。
特にベルリンオリンピックの「美の祭典」「民族の祭典」は印象に残ります。



今回は第一部

****リスナー四方山話** 1
 

[耳探り]

 手探り]はよく聞きますが[耳探り]はあまり使われませんが、老体未熟者には正に500kHzのワッチは暗中模索と言いますか[耳探り]の状態です。録音したテープの再生は、すり切れたりワカメ状になるかと、何回も繰り返し、スピ−ドを下げたり、音量を大きくしたり、時には虎の巻を引張り出したり、結構楽しいのですが正直苦痛です。
ベテラン諸先輩の偉大な技と忍耐には心から敬服致します。

[CWとの出会い]

 CWとの因縁は50年以上前、モ−ルス信号の習得は軍国少年の必須科目でした。クラブ活動は軍事科学班に入り鉱石ラジオや電池式再生ラジオの組み立てに終始しました。コイルの巻数を加減して短波放送を受信しようと頑張りましたが失敗に終り、入ってくるのはモ−ルス信号だけでした。この時代は有線とCWの全盛時代であったと思います。更に初級グライダー訓練、軍事教練も必須科目でした。この頃の代表的な歌謡曲は「湖畔の宿」でした。


[1940年頃]

少年時代 後期

昭和17〜18年頃(1942年頃) 陸軍通信部隊の一般公開がありました。はっきりとは覚えてませんが、コイルの大きなパックを抜き差しして周波数を変える通信機で、操作してる上等兵が、面白いものを聞かせてやると言いアメリカ放送のジャズ音楽を流してくれました。軍歌万能時代に僅か2〜3分でしが、その時の通信機とこの放送、そして上等兵の印象は忘れられません。そして澄み切った秋空の練兵場には手動発電機や有線通信機が展示されて居りました。多感な少年時代の印象がもう一つ秀麗岩手山の姿でした。


通信部隊./練兵場 岩手山麓 自衛隊演習場
 


当時のアマチア無線の資格をもって居られる方は田舎の5万都市で数人位で、当時私達の無線機の障りと言えば家庭用の高級な高二や、並四とか普及型ラジオでした。軍国科学少年の唯一の[科学する心]実はこのラジオにありました。国内放送より,DXのワッチに専念しアンテナを高く長く張り、主に上海や南京等中国放送を聞いて居りました。又、普通の中波放送帯にモ−ルス信号が、かなり混信して入ってきた記憶があります。CWは陸上内陸でも数多く使用された全盛時代です。



当時の標準的なラジオ

 その後についてはAD93に投稿掲載した通りです。旧制中学に入り、おぼろげにモ−ルスを覚えますと、先ず試験のカンニングに利用しようと具体的に取り組み、発想は良かったのですが、成功確立は20%位で、あまり役には立ちませんでした。

 無線知識の仕入れはラジオ屋さんでした。トランスやコイルの巻線機械で自作(ラジオ屋)して居りましたが、年の取った方が多いようで親切に教えてくれました。若い人は軍隊かな?

その頃海軍の予科練や陸軍の少年飛行兵に志願した同級生が休暇で郷里に帰って来ますと、モ−ルス信号は完全にマスタ−し、かなりの差を付けられたことに記憶があります。

この時代は多くの人がCWを習得して居りましたが、電鍵は随分高いものでした。今でも?戦争が終ると同時に多くの人はイロハCWを忘れ去り、老体もその一人でした。

当時の優秀な無線好きな人達の進学は、難しい官立逓信講習所や軍隊の通信学校でした。老体は空襲の激しい時期は神奈川県相模原の戦車工場に居りましたが、どうしても郷里に帰りたい一心から農学部に入り、徴兵が延期(医学部・工学部・農学部)になったのです。

学徒勤労動員をご覧ください(クリック)

昭和20年(1945年) 郷里では普通のラジオで各地の正確な空襲情報とアメリカ(サイパン)、モスクワの対日放送を聞いて居りました。 以上CWとの触れ合い55年前のことでした。500kHzかわら版でふじひろし先生の伝記の一部を拝見し、戦後の一時期の様子が良く理解でき、CWの歴史と共に歩まれた偉大な尊敬する先生であることを再認識致しました。今後も継続掲載をお願いしたいと思います。

 

**放送四方山話**  2


昭和17年頃(1942年) 前回は[CWとの出会い55年前]を投稿させて頂きましたが、今回も同年代の印象に残った放送について記憶を辿って見ます。尚、WJDCに投稿した原稿を基礎に書き換え[昭和テレビ放送史]を参考にして居ります。


−−−戦時中の記憶にのこっている放送−−−その1


 テーマ音楽はハイケンスの<セレナード>パイプオルガンのソロです。今から50余年前の1943年(昭和18年)1月 午後8時 NHKから最初の<前線に送る夕べ>が放送されました。

当時は軍歌全盛時代で私は中学3年、今と違い最も感受性の強い少年であり、このテーマ音楽は正に画期的な文化の香りとほのかなロマンを誘いました。出演も超一流スターの高峰三枝子、轟夕起子他豪華な番組でした。この放送は日本国内をはじめ外地や占領全地域に放送され、戦場と国内をラジオで結び同時性の機能を生かし、一方的に送るだけではなく前線の反響を貰う希にみる企画が大成功したそうです。短波放送の受信が禁止されて居りますので、戦場では長崎送信所から短波で送り、外地ではそれをキャッチして再び中波にして聞かせたと言われます。現在のテレビ衛星中継のような手法で録音盤使用の当時としては凄いアイデアであったと思います。

この放送は終戦の年まで2年間続けられました。

 
−−−戦時中の記憶にのこっている放送−−−その2−2



昭和20年  NHK第二放送はジャミング専門局となり第一放送は全国同一周波数となり出力も最小に押さえられたと聞いて居ります。だいぶ前から天気予報も放送されておりません。

東部軍管区情報] 空襲情報です。多く語られてないように思いますで、記憶だけを便りに再現してみます。


盛岡市で聞いて居りました。並四ラジオで。





   内容    機数

          本土上に到着前にかなり正確な機数

   梯団

          編隊、飛行機の群数、通過位置

          空襲されると思われる都市の事前警戒  B29
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  *仙台空襲の場合 昭和20年7月10日(1945年)

 例  [第一梯団、約60機 鹿島灘沿岸北上中]

    [仙台方面厳重警戒] [仙台の警戒体制は官民一体で完璧]
    [仙台中心部炎上中  官民活動中] 仙台市役所から三越方面 市内中心部(仙台復興記念館より
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  *青森空襲の場合 昭和20年7月28日(1945年)

 例  [北上川 北上(ほくじょう)中][盛岡厳重警戒] その後B29の轟音

    [盛岡上空通過中]

 


    青森空襲後 同じコ−スを南下、再びB29の轟音

 まあ、ざっとこんな具合で、飛行機を見張る監視所はあったのですが、本土到着前に機数や群団まで判明したのはレーダーの発達によるものと思いますが、五十数年前のことですから間違いはご勘弁願います。最近流行の傍受や交通情報とは違い身に迫る切実なことで緊張して聞いて居りました。

 唯一の情報源のラジオ放送は徐々に縮小され官公庁の通達連絡事項と空襲情報専門放送になったようでした。このような激しい空襲下にあっても東北の片田舎は日常生活に混乱もなく、交通機関も正常に運行され、食料や燃料不足による社会不安は全くありませんでした。戦後の方が酷かったように思います。

                                           
学徒勤労動員 

−−−戦時中の記憶にのこっている放送−−−その2−3




<昭和テレビ放送史>によると

昭和20年 8月15日 午前11時45分(1945年)

[東部軍管区情報 只今、本土上空に敵機なし] この放送を最後に空襲は終わりました。

正午、天皇の玉音放送で戦後となります。皆さんご存じの通りです。

その時、私は岩手県の山深い小さな町の味噌醤油工場に動員されて居りました。早速学校から電話があり、即刻学校に帰るよう授業開始の指示があったのですが、盛岡から北約90kmで当時は直ぐとは参りません。ここの工場は軍の管轄で威張る下士官の兵隊が居りました。工場長は地元の有力者で当時はお巡りさんよりも権力のある消防団長です。その人から明日盛岡へ行くから[消防車で送る]とのことで、その日の夜は自家製造の酒を飲みながら離散送別会でした。

 翌々日頃、装備の外された赤い消防車に乗り込み舗装されてないガタガタ道を盛岡へと向かいました。消防車は何の目的で一路盛岡へ向かったのでしょうか?途中盛岡から十数キロ手前で岩手山麓の広大な戦車隊の演習場に到着しました。正に吃驚仰天の表現通り唖然としました。松林の遥か遠くまで続く幾千〜幾万ともしれないガソリンの入ったドラム缶の山です。若い方々には物資欠乏の実態は経験もなく、想像もできないでしょう。この時期にドラム缶の山を見たら誰でも吃驚します。[極秘だよ]と念を押されましたが、近県の消防や警察の車両に混乱もなく直ちに[詰め込めるだけ積込み]持ち帰らせた終戦行政の手腕は適正な処理であったと感心致します。アメリカ軍がここに進駐したのは1ケ月後でした。

 感心したことがもう一つあります。各地に分散動員されて居たクラスメート、一科全員二十数名か続々と登校し早速授業再開です。終戦の衝撃も食料不足や交通混乱も全く関係なく、授業は淡々と進められます。更に遅れ分を取り戻すために暗くなるまで延長です。

校舎は進駐軍に接収されることもなく環境に恵まれた学校でした。勉強嫌いの私は趣味の古巣にも戻り、ある日突然船舶用短波受信機を入手したことから戦後が始まります。何れお話する機会を作ります。


学徒勤労動員

 
**放送四方山話**  3



右側の真空管は45出力管





12F,80真空管は交流電源受信機に古くから使用した整流管です。

冒頭にこの真空管を出したのは、終戦時の昭和20年に溯って頂くためです,出力管の47Bや今でもある高級管2A3等は私にとってはついこの間のような気がします。

さて、当時庶民のラジオはこの球を使わないトランスレスラジオの全盛時代でトランスのない、所謂資材を使わない電力も食わない国策ラジオとして普及しました。印象に残って居るのはダルマ真空管とも違い若干長めで太くはなくフイラメントがゆらゆらし、熱がでて木のキャビネットが熱くなるようでした。当時の電圧は一般家庭用でも90V以下で、そして物の不足が限界にありました。普通の人は短波放送を聞くことは禁じられて居ります。

 昭和20年の夏に戦争も終り秋になりますと地方都市にもアメリカ軍が進駐し、アメリカ兵は格好のよい小型の短波ラジオを使い良い音で楽しそうにジャズを聞いて居ります。これは使役として進駐軍に狩りだされたときに兵舎で見ました。なによりも興味を引いたのはジープでした。何故か鮮明に記憶に残ってるか不明ですが、これでこの時代背景はご想像願えると思います。

 [船舶用直流短波受信機] 正真正銘の日本製で立派な青い金属キャビネットの新品を偶然入手する機会に恵まれました。短波通信や放送のことは良く知ってましたが実際に自分の手で聞いたことはないのです。直流電源と言えば電池とかバッテリ−、整流管を使う程度しか解らない少年後期の年齢です。5球スーパーオールウエーブラジオの自作や市販されたのはこの4〜5年位後になります。

 インフレも激しくなり物々交換がより価値があり、パワートランス1個が食用油2升位(1升1.8リットル)このトランスも既製品はなくラジオ屋さんが巻線機械で自作するわけです。元々出力管は42×2でした。当時CWを聞くときは再生ラジオが原形みたいなものと記憶して居りますが、初めて見るスーパー方式の[船舶用直流短波受信機]は短波放送を専門に聞く受信機のようで今のBFO等は付いていませんでした。

 兎に角整流管80とパワートランスの組み込みをラジオ屋さんにお願いし完成となります。並四とかトランスレスラジオの時代にこの受信機の出現は驚きと興味で一杯でした。

船舶用短波受信機の詳細はここをクリックして下さい。


 
 

**リスナー放送四方山話**4
 
[鉱石ラジオ]




開局当時の盛岡放送局と岩手山(絵はがき)
昭和13年10月(1938年)


 戦中初期の少年時代、地方にもできた放送局の放送を聞くための鉱石ラジオや電池式ラジオの製作が流行しました。遥か遠い少年時代を思い起こして下さい。スパイダーコイルのゲルマニューム検波ラジオキットは今でも売り出されて居ります。どのようなキットか解りませんが、1938年頃、市販されている鉱石ラジオは次のように記憶して居ります。

ヒューズ管の大きめの管(絶縁帯)の左側に鉱石が入ってまして、それを細いスプリングの針金でつついて、一番良く聞こえる点を探し当てて固定します。お互いが電極です。

子供にはなかなか面倒で、ラジオ屋で聞こえても、家に持って来ると聞こえなくなります。勿論、バリコンもボリュームもありません。スパイダーコイルとはクモの巣のことで、コイルを放射線状に奇数本数の持った堅い紙の枠に綿線を編むようにまいたものでした。

 

[電池式組み立てラジオ]
昭和17年頃(1942年)」



 当時一般的には電池式ラジオの市販は記憶にありません。どうしても短波放送を聞きたい一心から、雑誌か本にラジオの組み立て記事を見て短波ラジオの製作に挑戦したことでした。子供の小使銭では全ての部品は高価なもので、電池も高く消耗も激しく、失敗しても何回もやり直すことは無理で、途中で挫折したのが私の場合でした。その短波ですが、基礎知識もなく計算することもなく、単純な衝動で、無謀にもコイルの巻数やエナメル線の太さを加減したら短波が受かるだろうと、散々いじくった結果はCWが入ったことでした。詳しい内容は忘れましたが、短波に対する執念は強く、聞くことができない当時として、失敗した無念さは今でも忘れません。そして、前回の[船舶用短波受信機]に引きつがれました

 

[並三、並四]



 一般庶民のラジオはこの他に高一、高二がありました。縦型の七欧無線のナナオラ、その後、横型の早川金属工業のシャープが記憶にあります。どうしても印象の残るのは当時の真空管の名称でした。 UX−112A,UY−227,UX−11B,そして24B,47B,12B,の再生検並3球式です。マグネチックスピ−カからダイナミックスピ−カ−、更に57−58−2A5−80と高周波付ダイナミックスピ−カ−と発展します。これが昭和10年頃から13年頃までのスタイルでした。何分にも子供の記憶で確かではありませんが、常にラジオの側で、暇さえあればラジオを聞くのではなく、いじくっていました。戦争中はトランスレスラジオの普及となりますが、これは誠に粗末なものでした。駆け足で前に進みます。戦時中や終戦直後を飛ばしましてスーパー時代の到来となります。

 
太平洋戦争末期の中波対日放送
 
昭和20年 1945年
 当時は特殊な人を除き短波ラジオは勿論のこと高周波二段付の中波高級ラジオの所持使用も禁止されていましたが、高一中波ラジオに20〜30mのロングワイヤーを使い、東部軍管区の空襲情報を聞きながらジャミングのなかから対日放送を聞いて居りました。
 
 これは大変な勇気と根気が必要で一般の人は殆ど聞いていなかったと思います。なぜならばもし聞いてる事が判明しますと、非国民として警察や憲兵に連行され酷い目に遭うからです。又、当時の電圧は90V前後で満足な受信も出来ない状態でした。
 
 アメリカ サイパン陥落後に開始されました。
【貴方がたは私達の友人であり一部の軍閥に騙されている。日本の国民は私達の敵ではない】と。
この軍閥とか財閥の意味が理解出来なくて困りました。周波数は1000kHz前後と記憶しています。音楽は軍歌全盛時代に懐かしい昔の「童謡」をふんだんに掛けておりました。
 
 重慶放送 大陸を主題にした映画は
【謀略的、戦略的内容で戦犯である]俳優や監督も戦争犯罪人であると。
今考えると中波で重慶から直接良く入感したものです。
 
モスクワ放送 謀略、戦略放送ではなく、難しく理解出来ないマルクス理論やソ連の紹介、コーラスが多かったように思います。周波数は600〜700kHz位でした。電波は強力なのですが極めて悪い音質でした。
 当時の政策でしょうか、一般的にはトランレスラジオはかなり普及して居りました。消費電力が少なく、貴重な部品材料も少なくてすむからでしょう。
参考書はNHKの【00読本】でラジオの基礎を学びましたが、CWと手旗信号、さらに初級グライダーは中学の必修科目でした。

ラジオの制作「日本語放送の歴史」より

◆モスクワ放送
 最初の定時放送をはじめたのはモスクワ放送局です。1942年,昭和17年4月14日に毎日30分間の日本語放送を開始したのです。ドナエフスキー作曲「祖国の歌」の音楽が流れたあと「こちらはモスクワ放送局です」という女性アナウンスではじまりました。当時は女性アナウンサーがただ1人で放送していました。その女性は野坂龍さんです。野坂龍さんは日本共産党の野坂参三氏の夫人で,1971年に亡くなりました。
 当時の日本語スタッフだったステパン・コルムイコフ氏は初日の放送をつぎのように回想しています。
「日本語放送で主要を地位を占めていたのは,ヒトラ ー.ドイツとの大祖国戦争の戦況報告でした。私はアブコフと2人で放送原稿を作りました。アゴコフはいまソ連科学アカデミー,東洋学研究所員です。
 それから原稿をゴーリキー街にあるリュクス・ホテルの野坂龍さんのもとに持って行きました。部屋は寒かったのですが,野坂さんはグチひとつこぼしませんでした。彼女は毛布にくるまって,わたしたちの放送原稿を訳しました。
翻訳では特に軍事用語で苦労したものです。なにしろ私たちはみんなずぶの素人でしたから」
 
◆アメリカの声
 1941年(昭和16年)12月9日にアメリカの声が日本語放送を開始しました。これは2世のフランク馬場日本語課長の指揮のもとに放送されていました。太平洋諸島をわたりながら戦時下進駐してくるにしたがって中波でもおこなわれるようにをりました。選ばれた周波数は現在朝日放送が使っている1010kHz(サイパン島のKSAI)でした。夜から深夜にかけてのこの1010kHzの日本語放送は日本全国各地で聴取されました。戦争で日本軍が負けているという真実を知られてはこまる日本政府は,日本中の中波送信機を働かせて,妨害電波をかけました。
当時は地方都市にもNHK中波の送信所が設置されてい
ました。たとえばを前橋,水戸,熱海,銚子,館山,宇都宮,日立,栃木,桐生,鴫川に出力50〜500Wの放送局がありました。


[5球スーパー時代の到来]




 6WC5−6D6−6ZDH3A−42−12F 皆さんご存じの昭和24年頃の標準的ラインです。ヴィンテーラジオ物語から引用し要約しますと[アメリカ軍は妨害電波の多さに困り日本の家庭にある再生式ラジオに原因があるとし、製造を中止させ、スーパーヘテロダイン方式のみの製造を認める]と言う指令だったそうです。スーパー製造に必要な中間周波トランスのフエライトコアの製造が間に合わない状態で随分苦労したとあります。

 部品の生産も上がり順調になりますと、自作アルバイトが大流行となります。ダイヤル面が丸型や四角から縦型の上下に移りしました。この頃は全てST管でしたがGT管、そして十年後はMT管となり、B電源45Vの本格的な携帯ラジオの普及となり、間もなくトランジスター時代となりますが、フタバ、マツダ、テンのST管は忘れられない銘柄です。

 私も漸く青年期に入り、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機の電化ブームとなり、アマチュア無線再開となりましたが、ラジオや無線から遠ざかることになりました。その後は細々とトリオの6−R4型で聞いて居りました。

 これで戦前、戦中、戦争直後の思いで話は終わりと致します。

 

                    **リスナー放送四方山話** 5
 

 放送に関する資料や歴史的な過程や、BCLに就いては色々な書籍が出て居りますが、UTILITYリスナーに関する古い時代の資料は、あまり見かけません。60年以上前の業務局とか、どのようなリスニングであったのか興味が持たれます。

 一般庶民は1939年(昭和14)年以降1946年(昭和20年)迄は短波を聞くことは全く出来ませんでした。短波受信機は封印されたそうです。従ってUTILITYリスナーの活動は真面目に考えますと、この期間は業務に携わってる方やアマチュア無線家は別として除かなければなりません。例え何かを聞くことが出来たとしても、ジャミングと、わけの分からない符号もあったでしょうが、業務通信は最高に花やかな時代と思います。UTILITYの歴史は、私なりに戦後から始まったものと思います。戦前の活動はアマチュア無線家によるところが多かったと想像します。

 歴史を溯り、マルコニーがの実験が成功すると日本でも直ちに研究を開始し、明治37年(1904年)安中電機(アンリツ)が全軍艦に無線電信機を設置したとあります。

そして鉱石検波器が発見され、スパークトランスミッターはアマチュア無線も盛んにしたと言われます。

 当時の安中電機の年表を見ますと

 1900年 明治33年 安中電機製作所設立

 1912年 明治45年 逓信省電機試験場TYK式無線電話機完成

 1917年 大正 6年 真空管の製造開始

 1924年 大正13年 最初の型式証明ラジオ

 1925年 大正14年 東京中央放送愛宕山 送信機製作

 

 因みに昭和初期の外国向け短波放送の開始を年代別に分けましたが(別欄通り)子供の頃、印象に強く残るのはベルリンオリンピックの中継放送で、それは1936年のことでした。

リスナーにとり暗黒時代の到来も同じ1936年、短波ラジオの取締強化で登録制となり、そして1939年、昭和14年には短波の受信は全て禁止されました。

 1927年 昭和 2年 オランダ インドネシア向け試験放送

            (日本でも受信記録)

 1929年    4  ドイツ  ドイツ世界放送

 1929年    4  モスクワ 外国向け

 1930年    5  ローマ  外国向け

 1930年    5  フランス 当時の植民地向け

 1932年    7  BBC   当時の植民地向け

 1934年    9  NHK  国内放送 翌年アメリカ向け開始

 1942年   18  VOA  日本語放送開始

(1946年WRTVH 初版)

 例え放送であったとしても、1920年台に受信された方は、特別な方であったと思います。

 私が初めてUTILITYを聞いたのは、トランジスター時代に入ってからです。多分漁業無線用に開発されたと思われるナショナルの携帯型ラジオです。

周波数は1MHzから3MHzの中短波で、BFOもなく普通の携帯ラジオでした。昭和30年台中期と思います。残念ながら内陸に居りましたので漁業無線は入りませんが、このラジオで消防無線を受信した記憶があります。

 当時の周波数割り当ても解らないのですが、この記憶しかありません。中波帯と短波帯のみの受信ですから、止む得ないことでした。それ以前は食べることが精一杯の時代でした。戦後については、ふじひろし先生の自叙伝で当時の様子は詳しく説明して居られます。

私にとっては正に無線空白時代の最中で全く解りません。辛うじて短波放送を聞いていたに過ぎません。60才の手習いと申しますか数年前[ラジオライフ]や[ラ製で]でふじひろし先生の記事を拝見し三十年振りに再スタートしたような次第です。

                                        (ヴィンテージラジオ物語参照)

第二部は未定

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