船舶用短波受信機とBCL
1945年〜1946年 思い出話


  問題の[船舶用短波受信機]ですが、80真空管は良いとして、パワートランスを何処からか調達しなければなりません。物資不足の時代で部品を売ってる店はありません。結局はラジオ屋で作ってもらうことにしました。計算は海軍の通信出身のベテランのラジオ屋で、巻線機械もあったことから、材料は古いトランス鉄片を使いエナメル線を巻き直すことにしました。今と違い当時は部品交換のようなことはなく、すべてが手作り修理で、性能の劣化した真空管を火に炙り何日か持たせたのも、当たり前のことでした。ご理解できますか?
電気パン焼機、かなりの年配の方はご存じと思いますが、木箱にニクローム線をいれて、小麦粉を解いた軟液状体を直接入れて通電しパンと称すものを作った時代です。

 鍋や釜の生活必需品も不足し鉄兜を鍋代わりに使用してる時に、田舎での短波受信機の趣味は、お金の掛る、贅沢な遊び位に思われて居りました。このトランスと真空管、組み立て料が締めて食用油2升と何?円かでした。然し、まだ誰も持っていない短波受信機に悪友達が大勢訪れ珍しがり、又、得意になったものです。
その後、80や2A3真空管を使用するのは、立体的な箱型電蓄で78回転プレヤーで、レコードは注文しても3ヵ月後でなければ手にはいりませんでした。紅茶一杯15円の頃です。昭和20年〜21年頃。              さて、いよいよ交流の短波受信機に生まれ変わり、戦争直後、BCLとは言いませんでしたが、ワッチが始まりました。ざっと50年前ですが、語学力(英語)は0。それは戦争中に学校で敵国の語学を排除、所謂、英語は学校で教えなくなりました。その代わりとは変ですが、CW、手旗信号、初級グライダー、そして中国語が加わりました。


 戦争が終わると同時に日本の海外短波放送(ラジオ東京−東京ローズ)や日本向けの短波放送も廃止され、殆どが国外の英語による放送のなかで、確かVOAの日本語放送が少しの期間だけ聞いたような気がします。勿論、番組表もなく情報も皆無ですから、自分の手で捜す以外に方法はありません。中学2年以下の語学力では放送の内容を理解することは困難でしたが、VOA,BBC,ABC等を良く聞いて居りました。[KHBIサンフランシコ]このアナウンスのイントネションや受信機の音質、変調の深い、今まで聞いたことのない放送、何と申しますか、この感激はご想像願えないと思います。すっかり短波放送の虜になりましたが、現代風のカードを貰うとか、クラブ、サークルのない時代のBCLは孤独なワッチでした。数少ない大先輩のアマチャ無線家の方々を遠くから羨ましく見て居りましたが、交信も不許可で何かと苦労されたでしょう。  振り返って見ますと、終戦直後、軍隊から流れてきたと思われる不格好な通信機は良くありましたが、この[船舶用短波受信機]は現在の業務用受信機より、実にスマートで青色の金属キャビネットやパネル面の感覚、内部の構造的な強さは劣っていない感じでした。残念ながら、銘版もなく正体は不明ですが、敗戦直後によく残っていたと、又、生産もされていたと感心します。

 前にも触れましたが、戦争の影響でCWやグライダーも少しは覚え、学徒動員では戦車工場に居りましたが、その工場は全てドイツ、アメリカ製の自動工作機械であったことを思えば、通信機分野でも頷ける点もあります。飛躍しますが、富士山上のレーダーの威力も伝説ではないと思います。それはサイパンから発進するB29の機数までキャッチできたことでした。テレビ放映の[Uボート]のウランの輸送とか、日本潜水艦のドイツ往復、そして戦後の焼け跡整理に大活躍した6トンブルトーザは日本軍の軽戦車でした。このように、総力を上げ技術を駆使して来たのでしょう。この受信機は6MHzから18MHzまでの放送波帯を主体にした周波数で電波の銀座通りはカバーして居りました。戦争が終わってからは、各国の対外放送は殆ど中止になり、何れ三十年後、花やかにBCLは復活しますが、この頃はジャミングや混信もなく、本当に静かなバンドで奇麗に受信出来ました。

 こうして約1年、十分に楽しませて貰いましたが、トランスがだんだん熱を持ち始め、特有の電気臭く?なって来ました。多分パワー不足か不良材料に原因があったのでしょう。間もなく、この受信機の返還を求められました。終戦のどさくさに軍隊等から物資を勝手に持ち出した人々(私ではありません)は全部返さなければなりません。隠匿物資の摘発も行われました。あえなく返すはめになり、[船舶用短波受信機]もアッケなく、BCLも終結となりました。
以上、終戦直後のBCLでした。
                           

四方山話続