1927年岩手県で生まれたシルバーです。三陸大津波については、1873年生まれの祖母から、
その悲惨さと心構えを子供の頃よく聞かされました。

当時世界から漸く認められた「日本国」は列強仲間に参入した事により、明治政府は「富国強兵」に力を入れました。
日清戦争が明治27年、明治三陸津波が明治29年ですから明治憲法発布、国会開会して数年後の事です。

 
            明治三陸大津波と軍国美談

明治三陸大津波
明治29年(1896年)死者行方不明者26,360人
            波の高さ38.2m(綾里)        
    明治27年 日清戦争
    明治37年 日露戦争

昭和三陸大津波
昭和 8年(1933年)死者行方不明者 2、995人 
            波の高さ23.1m(白浜)
 

軍国美談の虚実
ある村に、日清戦争から帰還したばかりの軍人がいた。ある日の夕方、軍人は村中に響き渡る轟音にきずき、家を飛び出した。
『すわ、敵艦隊来襲か!?』津波の音を軍艦と勘違いした軍人は、一目散に浜辺に向かい、 サーベルを抜いた。『私が相手だ!』津波に向かい叫ぶ軍人.。翌日、軍人は浜辺にて溺死体となって発見された。しかしその
手には、サーベルが握られたままだったと言う」 といったお話でした。

 警察官や軍人の美談には必ず「
死んでもサーベルを離しませんでした」と良く書かれました
 30mを超す大津波に立ち向かう事が不思議で、翌日、浜辺で溺死体を発見とは理解に苦しむ。5トン〜10トンの岩石が30m上の山に運ばれ
 た事を考えると無謀と言える。この地区は津波の常襲地帯で村人も津波の認識が皆無とは考えられない。


日清・日露戦争のさいには国民の愛国心を鼓吹するための忠勇美談が数多くつくられあおった。日清戦争では、死んでも口からラッパを離さなかったという「安城渡しのラッパ卒」白神源次郎のことが語られ、軍歌に歌われ、詩となり、アメリカの従軍記者さえも長詩を詠じてその忠勇を賛美した。
しかし、戦死した白神は現役のときにラッパ卒であったが、このときは予備役のため、実際にラッパ手を務めていたのは木口小平であったことが一年後に判明した。
そのため美談の主はいつのまにか木口小平となり、
木口小平は死んでもラッパを口からはなしませんでした」ということになった。
 
 日本の敗戦当時のことを振り返ってみると、文部省は占領軍の指令を受けたこともあって「国民学校教科書」に載っていた「軍事教材」を「全文削除」するようにとの通牒を、全国の小学校に発している。その頃の教科書には既に「一太郎やあい」は姿を消していたが、「広瀬中佐」「水兵の母」「水師営」など古くからの軍事教材の他「三勇士」「にいさんの入営」「不沈鑑の最後」「シンガポール陥落の夜」など比較的新しい教材がたくさん載っていた。そのすべてを削除せよというのである。そのため小学校の子どもたちは、先生の指導のもとに、教科書に墨を塗ったり、紙を貼ったりして、これらの教材を抹殺したのだった。世にこれを「墨塗り教科書」という。
  戦時中に軍国主義教育のため、小学校の教科書に麗々しく掲げられた数々の軍国美談の陰には、その内容とはおよそ似つかない裏話があったことは、こんにち明らかにされている。「一太郎やーい」もその例外ではなかった。

この項は完了。

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   日本最大の津波防潮堤
 
 
(岩手県田老町)
 総延長2,433m、高さ10mの津波防潮堤は、街を守る万里の長城のよう。
壁面には220mにわたってメルヘンチックな壁画が描かれています。
本当に見事な堤防です。長い年月をかけながら完成した努力には驚きです。
 
 
 
    ■昭和9年
・防潮堤築造に着手。
    ■昭和15年
・日中戦争の影響を受け、防潮堤工事を中断。
    ■昭和33年
・1,350メートルの防潮堤完成。
 

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