明治三陸津波と軍国美談
宮城県沖、20年以内に大地震の可能性,詳しくジャンプ
阪神大震災と放送、詳しくジャンプ
2011/05/25記
全国各地の揺れは暫くは続く見込みとの情報です。
激震後まもなく3ヶ月経ちますが、4月7日深夜の6強の余震が致命的でした。津波は無かったのですが、建物の損傷は仙台市内の各所に見受けられました。
現在もビルに
「危険」と表示され閉鎖し、住宅地でも
青いシートで囲ってる家が見受けられます。
被害者を除き生活はほぼ正常に戻りましたが、生産性のマイナス要因による不安定な経済指数と政治的な問題でここ数年最大の不況を悖らすと思います?
(東北を蔑視した財務関連大臣の発言や、一方的提案等々)
今回は地震後、津波が押し寄せるまで最長数十分の余裕があったにも関わらず多くの遭難者がでた事は人災とも云えます。単純に考えて普段の訓練が全てを決したと思います。日常の訓練が咄嗟の場合の判断の違いで運命を分けました。
東北の、冷害飢饉、三陸津波、洪水等々は常習地帯の日常生活のなかに溶け込んでいるはずでしが、教育、訓練、躾けが及ばなかったのでしょう。小学校児童の避難で宮城石巻と岩手釜石で大変な差がありました。又、宮城の防災マップや高規格道路の避難場所指定問題、ゼロメートル地帯の住宅地等々指摘されてる事項が沢山ありました。岩手の三陸国道事務所の考えと大きな違いです
「 地震 消火 高台へ」岩手生まれの子供達に躾けられました。昭和初期生まれ。
「国道45号沿線津波痕跡マップ」過去の津波から学ぶ未来の三陸づくり「国土交通省東北整備局三陸国道事務所」発行の写真入れの小冊子の中に次ぎ記述があります。数年前に発行、無償で入手しました。
「私がこの冊子の作成に向けて調査をしていた2003年は、昭和三陸大津波(1933年)からちょうど70年目の年でした。過去の大津波が遠い昔の話になる中で、書籍や講演を通じて啓蒙を続けている方、津波体験者の思い出を語り合う場を設けた方など多くの方が、
「津波の記憶」を残そうと努力され将来必ず起こる大津波の被害を少しでも減らしたいと、切に願っている気持ちがよくわかりました。また、今回インタビューをさせていただいた皆様が、「津波の記憶」を鮮明に持っていることにも驚きました。調査の際に大変印象的でした。津波に対する知識や心構えを持つよう子孫に訴えかけることで、ご本人の記憶力の良さを感じるとともに、津波が人生に与えた影響の大きさを推し量りました。この冊子がそのような「津波の記憶」を残すことに少しでも役立てば、大変喜ばしく思います」
明治以降の津波を伴った地震 三陸沖(東北太平洋岸)青森、岩手、宮城、福島
1896年 6月 明治29年 明治三陸地震津波M8.5岩手 38,5メートル
1897年 8月 明治30年 仙台沖:三陸沿岸 M7.7宮城
1901年 8月 明治34年 八戸地方 M7.2青森
1933年 3月 昭和 8年 三陸地震津波 M8.1岩手
1936年11月 昭和11年 金華山沖 M7.5宮城
1938年 5月 昭和13年 塩谷崎沖:小名浜 M7.0福島
1938年11月 昭和13年 福島県東方沖地震M7.5福島
1968年 5月 昭和43年 青森東方沖 M7.9青森
2011年 3月 平成22年 東北太平洋岸 M9.0青森岩手宮城福島
津波は周期に来るようです。古くは貞観、慶長三陸,宮城県沖等々の大津波。
全国的に津波は珍しい現象ではありません。特に三陸沖は明治以降3度も襲っております。
地震、津波、の常習地に原子力発電所の建設は想定外を認識しないと大変な事になります。
東北太平洋岸には福島、女川、東通り、大間等の建設、稼働中の原発があります。
青森、下北六カ所は原始力のメッカです。放射能漏れした場合のマップを見たことがあります。
「天災は忘れた頃に来る」寺田寅彦
◎その時 何が奇跡の避難 岩手(釜石)鵜住居小学校
◎教え通りひた走る/在校の子ら犠牲ゼロ
死者・行方不明者が約1300人に上る釜石市。大槌湾に面した鵜住居(うのすまい)地区は津波で壊滅状態となったが、鵜住居小と釜石東中にいた児童、生徒計約570人は全員無事だった。中学生や小学校の上級生が小さな子どもたちの手を引いて逃げるなど、両校の迅速な避難劇は「奇跡」とも言われている。3月31日の朝刊は、前日の釜石東中の卒業式で平野憲校長(53)が「君たちは誇りだ」との言葉を贈ったと伝えている。
あと4分、5時間目の授業が終わるのはもうすぐだった。激震に見舞われた午後2時46分。鵜住居小には1〜6年生の児童約360人がいた。
「恐怖のあまり、泣いている子もいた」。当時6年生のクラスを受け持っていた横沢大教諭(28)が振り返る。
指示はすぐ飛んだ。3〜6年生は最上階の3階へ集まり、1、2年生は校庭へ出た。真壁信義副校長(49)は「申し合わせ通りの動き」と話す。
尋常ではない揺れ。外を見れば、隣接する釜石東中の生徒たちがバラバラになって南へ走っている。教師たちは即座に「逃げろ」と号令を掛けた。時計は午後3時を指す直前だった。
停電で放送機器は使えない。約20人の教職員は声を張り上げ続けた。「走るんだ!」。目指したのは南へ約600メートル離れた民間の介護施設「ございしょの里」。泣きじゃくる1、2年生の手を上級生が引いた。
釜石東中の生徒約210人ら、介護施設に集まった両校の児童生徒は約570人。そこは指定避難所でもあった。施設の入所者や職員、近所の住民も加えると700人はいた。突然、中学校の教員が叫んだ。「裏の山林が崩れそうだ」
子どもたちはまた、走った。目指したのは南に約400メートルの「やまざき機能訓練デイサービスセンター」。中学生は小学生と手をつないだ。大人も逃げた。
ございしょの里に小学1年と4年の娘2人を迎えに来たパート及川真美子さん(32)は「迎えに来た親たちも、一緒に逃げた」と言う。
午後3時20分ごろ。学校の方角を見ると、十数メートルの高さの津波が両校の校舎を丸ごとのみ、介護施設も襲い、迫ってきた。「逃げないと危ない」。誰彼となく悲鳴のような声が上がった。
児童の一部はデイサービスセンター東側の山林を駆け上がり、残りはさらに南へ、走った。
津波はデイサービスセンターの手前で止まった。想定浸水区域から1キロ先にまで達していた。
鵜住居はすり鉢の底にあるような街だ。両校の北には大槌湾に注ぐ鵜住居川河口があり、南は山林が迫る。西はわずかに平地があり、高い建物などない。
同地区では7割近い建物、市の被災全体の4割に上る約1800戸が被災したが、小中学校では一人の犠牲者も出さなかった。
釜石東中の村上洋子副校長(53)は「日ごろの防災教育のおかげ」と語る。4年前から群馬大などと協力し津波防災教育を授業に導入した。2年前からは年に1度、鵜住居小と合同訓練も実施。「小学生を先導する」「まず高台に逃げる」との教えを徹底してきた。
三陸地方には、津波が来たら取る物も取らずてんでばらばらに逃げるという「てんでんこ」の言い伝えがある。
「『てんでんこ』が大事だって何度も教わっていた。思いっきり走った」と、3年生の佐野凌太君(15)は言う。
当日、欠席などしていた両校の3人は津波の犠牲になった。「奇跡」の裏には悲しみもあった。
(山口達也)
2011年05月19日木曜日 河北新報
◎あの時。何を、どうすれば… 宮城(石巻)大川小学校、
東日本大震災で、石巻市の大川小は全校児童108人のうち65人が死亡し、9人が行方不明(22日現在)になった。大津波が引き起こした過酷な現実が、親たちに重くのしかかる。教職員も10人が死亡・行方不明に。学校であの時、何が起きていたのか。備えは十分だったのか。(佐藤崇、成田浩二)
3月11日午後2時46分、5年生の教室では帰りの会が終わろうとしていた。「さようなら」。みんなで声を合わせた瞬間、強い揺れが襲った。急いで机の下に隠れ、全員が校庭に避難した。
男子児童の母親(40)は、下校を待つため校庭近くに車を止めていた。携帯電話に緊急地震速報のメールが来た。車の外に出ると、立っていられないほどの揺れ。子どもたちが校舎を出てくるのを見て校庭に入った。点呼が始まる。子どもたちの表情は硬かった。 近所のおばあさんが避難してきた。暖を取るため火をたこうとしていた先生の姿も覚えている。「津波だっつうど。なんぼでも高い所に逃げろ」。しばらくして校庭にいた年配の男性の声が聞こえた。母親は「山育ちの自分は、余震で建物が崩れることしか頭にない。誰も逃げようともせず、男性の話も立ち話程度にしか感じなかった」と振り返る。
それでも「高い所」という言葉は耳に残った。子どもを連れて学校を離れ、津波に追い立てられるように車で峠方面に逃げた。
別の母親(37)が車で学校に着いたのは午後3時15分ごろだった。「しばらくは校庭にいた方が安全。道路が壊れているかもしれない」。教師はそう助言したが「とにかく自宅に帰ろう」と子ども2人を連れ、5分ほどで学校を後にした。
大津波警報が発令されたのは地震の3分後。市教委によると、校庭にいる間、学校は避難先を検討していた。学校にいた教職員11人のうち唯一、助かった男性教諭らからの聞き取りを基にした説明だ。
学校は、裏山は倒木の危険性、校舎は余震で物が落下する恐れがあると判断したという。最終的に目指したのが、約200メートルほど離れた新北上大橋のたもとの交差点。校庭より6、7メートル高く「三角地帯」と呼ばれる場所だった。
5年生の男子児童(11)は、1、2年生が手をつないで歩いていたのを記憶している。前方の大橋付近で水しぶきが上がり、波が向かってきた。みんな逃げようとしたが、一気に水をかぶった。
津波に流されながら必死にすぐそばの山に上がろうとした。雪のためか、周りの友達も足が滑ってなかなか上がれない。「もう駄目だ」。生えていた木につかまると、何かが目にぶつかった。気が付くと斜面に体半分が埋まっていた。同級生が引きずり出してくれた。 男子児童と同級生は、津波が襲う直前まで三角地帯で車両の誘導に当たり、山に逃げ込んだ市職員の佐藤幸徳さん(51)に保護された。
住民ら16人でたき火を囲み、明け方を待った。子どもは中学生1人を含め4人。「寝たら死ぬぞ」。大人は声をかけたが、疲れた子どもたちは寒さに震えながら、何度となく短い眠りに落ちた。
河北新報社
◎「なぜ多くの犠牲」/保護者ら膨らむ疑問(宮城、石巻)
津波で多数の児童が犠牲になった石巻市大川小。最愛のわが子を奪われた親は、がれきに埋もれた校舎や避難所で29日を迎えた。頭をよぎるのは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったのか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。
大川小周辺では29日も、消防団や自衛隊、警察など数十人態勢での捜索活動が続いた。子どもが行方不明になっている親たちも連日、捜索に加わっている。
3姉妹の末娘の6年生愛さん(12)が行方不明になっている会社員狩野孝雄さん(42)も、毎日のように現場を歩く。「学校にいれば大丈夫、校舎の2階にでも避難していると思っていた」という。なぜこれほどの犠牲が出たのか、裏山に避難できなかったのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。
捜索活動は校舎周辺がほぼ終わり、29日は校舎東側の沼で行われた。「見つからないかもしれない」と狩野さん。「下校中、一人で被害に遭わなかっただけよかった。友達と一緒だったから」
3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは、当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人一人に説明すべきだ」と憤る。
「今頃は卒業しているはずだったのに」と話すのは、6年生の息子を失った30代の母親。自宅は津波に流され、避難所に身を寄せる。「卒業証書でも、卒業アルバムでも、息子の思い出が欲しいが、子どもを失った親に学校からの連絡はない」と涙を浮かべた。
6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。「誰が悪いではなく徹底的に検証してほしい。今後のために子どもたちの死を無駄にしてほしくない」と語気を強め
災害県で生まれ育った幼少時代を振り返り、特に印象に残った河北新報の記事を掲載しました。まだまだ議論はは果てしな続いてます。
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