飽満時代に警告 山茶花2003年12月
栄華盛衰       
わが家の昭和史第一部(戦前・戦中)
 
幼年期 1930年代 小学生時代
 
昭和 6年、「満州事変」…「十五年戦争」の発端
昭和 7年、「溥儀」を皇帝として、「満州国」を独立させ「王道楽土」「五族協和」を掲げたが戦後は「傀儡政権」国家であると云われた。
        「上海事変勃発」
      
 
小学校1年生

昭和 8年、「国際連盟」、外相「松岡洋右」が連盟を脱退 した。世界は日本の満州建国を認めなかった。
 
昭和6年(1932年)
凶作の追い打ち大不況と凶作と「満州事変」 
北海道――辛うじて飢えをしのぐ飢餓地獄
青森県――ワラビの根を掘って食料に
岩手県――茅の野原のような田んぼ
秋田県――収穫皆無地1300町歩
 
昭和7年(1932年)
悲惨、娘身売りと欠食児童。売られ行く娘たち。欠食児童全国20万。
 
昭和8年(1933年)           
三陸大津波 三陸海岸、壊滅状態、多数の死者。軍国美談の陰で厳寒と暁の大津波。
救農事業と「自力更生運動」 地主様と小作農民の悲哀

死者,行方不明者が二万二千人余りを数えた1896年の明治三陸大津波の時,綾里の白浜で駆け上がった津波の高さは38.2mにもなったと言われています。1933年の昭和三陸津波でも白浜で23mの波高を記録し「TUNAMI」を国際語にしてしまいました。
  
小学校2年生
昭和9年(1934年)
昭和の東北大凶作
恨みの「やませ」(風、北東気流、オホーツック高気圧) 死の東北を救え!
飢餓線上の凶作激甚地を行く
岩手県――深刻な飯米の欠乏 
青森県――娘たちを求めて人買い人が横行
秋田県――料金未納で電灯が消されていく
山形県――皮を食用にと裸にされた松の木
宮城県――凶作のうえに養蚕収入激滅の打撃
福島県――野獣対人間の木の実の争奪戦
 
重荷を背負った娘たち、空腹に泣く子どもたち「悲しみの身売り列車」走る。
食堂車からの恵みのパン。軍事予算に潰された農村救済。

身売りされ救世軍に引き取られた子供達。                  村の身売り相談所。(毎日新聞昭和史より)



昭和9年
 室戸台風、死者、行方不明3036人(9/21)。ベーブ・ルースら大リーガー来日(11/2)。
大凶作( 西日本干ばつ、関西風水害、東北冷害) 。
東北地方では、娘の身売り、欠食児童、自殺相次ぐ。
忠犬ハチ公の碑建つ。
プロ野球チーム(大日本東京野球倶楽部) 誕生(投手・沢村栄治、スタルヒン、水原茂、二塁手・三原、野手・中島治康、二出川延明ら)。
江戸川アパート( 暖房・エレベーター完備)
ヒット曲:「赤城の子守唄」「国境の町」(東海林太郎) 「ダイナ」
物 価:食パン1 斤16 銭
 
小学校4年生

 昭和11年、「二・二六事件」。若手将校たちが「昭和維新」をとなえ政治家を襲う。
小学校4年生の夏休みのある日のことです。8月初旬でしたが校庭は深く霧が立ち込め肌寒く、東風の暗い朝でした。この当時の東北地方はご存じの通り[やませ」の影響で冷害や凶作に悩まされた貧しい暮らしの時代でした。
ラジオ体操も終わりハンコを貰いますと、スピーカーからベルリンオリンピックの中継放送が流れて来ます。多分10分位でしょうか。子供心にも短波の威力に大変な興味を持ちました。当時は盛岡放送局はなく仙台放送局を聞いておりました。
軍国主義、統制管理がそろそろ厳しくなる頃ですが、一方では自由と娯楽文化を求め映画の全盛時代に入ります。フランス映画「格子無き牢獄」やアメリカ映画の「オーケストラの少女」等々日本映画も盛んなになります。「愛染かつら」の上原謙、田中絹代の時代でした。
後日、特にベルリンオリンピックの「美の祭典」「民族の祭典」は印象に残ります。

ベルリンオリンピック    水泳(前畑)                         5000メートル(村社)(毎日新聞昭和史より)

 

四方山話クリックして下さい。
 
宮沢賢治の活動、すなわち農学を学び農民指導に奔走した賢治の農業への思い、熱い思いはあまりにも有名です。
その詞、「雨ニモ負ケズ」の一節、「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」、これは冷害の常襲地を象徴する表現といえます。
昭和6年(1931)、7年(1932)、9年(1934)、10年(1935)と続いた冷害は、東北地域はもちろん、全国的に深刻な社会的影響を及ぼしました。
この冷害を契機に、近代的な冷害研究がわが国で一斉に始まりました。
(東北農業センターより)
 
 給食の無い時代、昼食の弁当を持って来ない子供も沢山おりました。女性は人身売買に等しい世の中での生活(工場労働者)、農家の次男三男は軍隊に志願するか、大陸に渡り満蒙の開拓に行きました。然しその反面花柳界は全盛時代でした。昔からあった官官接待です。
 
小学校5年生   

 昭和12年7月(1937年)日中戦争勃発(廬溝橋事件)
当時自家用車を所有してる家庭は極く少数で、特に地方の小都市でシトロエンの幌型オープンカーは珍しく、高官位の方々のパレードには必ず駆り出され、特に偉い軍人や宮様方の駅から宿舎までの市内通過にはこの車が必ず使われました。沿道には多くの小学生が日の丸旗を振り歓迎しました。
 然し、ガソリンの一滴は血の一滴と云われ自家用車1台にガソリンは毎月5ガロン(一斗缶)だけでした。その後ABC経済封鎖によりガソリンが輸入出来なくなりますと、不急不用の自家用車には配給停止となり自動車も供出(国に提供)となります。
 
 いよいよガソリンも配給停止になる前月、当時は珍しい最後の家族ドライブとなります。
この頃は舗装道路も少なく、長距離ドライブは不可能で、例えば盛岡から繋温泉に行く場合に雫石川に掛ってる木造人道橋は自動車が渡れませんでした。橋のたもとに自動車を置いて徒歩で行く事になります。又、国産自動車は日産の小型ダットサンとトラックのみで普通乗用車は全て輸入車で、多分中古車の方が多かったと思います。
 
 さて、最後のドライブの行き先は滝沢のヤナに行き鮎や山菜を食べた記憶と、渋民村の啄木の碑の前で全員の写真をとった事です。(写真の所在不明)
       
 やわらかに柳あおめる北上の
              岸辺眼に見ゆ泣けとごとくに
*歌碑を背にして岩手山が真正面にそびえます。
この最後のドライブは両親兄姉の揃った貴重な最後の機会となりました。(写真所在不明)

シトロエン後の「エセックス」当時としては大型自家用車



渋民村「啄木の碑」と北上川の吊り橋(1936年頃)
  

現在の渋民「啄木の碑」と 北上川の吊り橋は同じ場所(2003年)

  

戦前、南部中尉の銅像と現在の岩手公園



                                      
民法の解説(参考)
 封建時代の家族制度は「家を継ぐ」所謂、長男、長女の何れかが家督を相続する事が唯一の家を守る事であり、「家」中心が即国家主義であり、家督相続人同士の結婚は許されなかったのです。父親の認知した子供を「庶子」と云い母親の認知した子供を「私生児」と云います。
    
ある家の構成
     父  A家の家督相続戸主 長男
     母  B家の家督相続戸主 長女一人娘
男子はA家の姓を名乗り庶子、女子はB家の姓を名乗り私生児
旧民法時代の制度で、戸主の死亡または隠居等によって家督相続が開始しました。
家督相続は財産の相続だけではなく、戸主の法律上の地位の承継でもありました。
戸主としてその地位を承継できる者は、その家族のうちの直系卑属である男子を優先し、その男子のうちでも年長者を優先順位者としました。
子供に男子(認知された子も含む)がいない場合は、女子が戸主となりました。
 
*旧民法は家族制度で,夫婦の氏について直接規定を置くのではなく,夫婦ともに「家」の氏を称することを通じて同じ氏になるという考え方を採用しました 。
 
愛人について、当時の「お妾さん」
*次のことでもわかります。明治時代の黒岩涙香の『万朝報』が「名士蓄妾調べ」を掲載したことがあります。
世間の名士と目されていた四百数十名の人たちが囲っている愛人を、綿密に調査したものです。
当時のお金持ち、政治家、殆どの名士は明治、大正、昭和と愛人、所謂る「妾」を囲っておりました。
明治時代以降「畜妾」を理由に離婚が成立した例が沢山あります。
 
当時の世界情勢
昭和12年、北京郊外「廬構橋」に響いた一發の銃声が「日支事変」へ発展、泥沼の長期戦争へと発展して行く。
ヨーロッパでは、国民の圧倒的支持を得て、「ヒットラー」政権が台頭していた。
日・独・伊 防共協定締結。 南京陥落 
昭和14年、ドイツ軍 ポーランドへ進攻開始。「英・仏」対ドイツ宣戦布告。
「第二次世界大戦」始まる。
戦争突入の華やかな時代でした。小学校の教室には必ず中国の大地図が張られ日本軍の侵攻した場所には日章旗が掲げられました。そろそろ小学生の軍国主義教育が始まりました。
花柳界の料亭の師弟を人間の「クズ」と差別をする先生がおりました。
封建的な権力主義者、人間扱いのしないその先生の名前は今でも知っております。敗戦と同時に消え去った。
 
私のプロフイール

 家業は「割烹料理店三代目」(詳細はここをクリック)創業明治6年、3代以上続く個人企業は珍しい。
「製餅加工所四代目」、父親は「測量器械・眼鏡店」等々を営みその他数社の役員を務めていました。樽に詰まったアスフアルトの倉庫もあり色々な事業をやっておりました。
当時は地方の名家、金持ち?の三男末っ子として育ちました。
終戦(敗戦)と同時に没落と解釈します。

少年時代時代の得意な事
@市内行進の時、校旗を持つ A少年ながら岩手登山数回 Bカメラの名人
Cハーモニカ・アコーデオンの名演奏 D学芸会ではいつも大将 Eラッパ鼓隊の指揮
 
贅沢は敵と云われましたが、例えば買い物は年に2〜3回位家族の誰かが東京日本橋三越(子供の自転車まで三越マーク)高島屋・伊勢丹(花柳界の関係)で買い物、そして雅城園で食事、このスタイルが地方の一般的な金持ちです。
盛岡の食事は公会堂多賀・日盛軒(西洋料理)、すき焼き料理店、うなぎ店。当時、生姜町「むら八」のカウンターで食べたトンカツは忘れられない。

歌手・四谷文子、関 種子、関屋敏子・のクラシックレコードをよく聴いた。そして由利あけみの長崎物語。
昭和15年 全国小中学生発明発見展覧会(盛岡市教育会館) 1位入賞 作品「電光点滅器」手動ネオンサイン

 
旧制中学1年
昭和15年(紀元2600年)日本軍「北部仏印進駐」開始。
日・独・伊 三国同盟成立。
ヒットラーの野望、ヨーロッパ制圧蹂躙、ソ連第二の都市レニングラード攻略を虎視眈々狙っていた。

 
旧制中学2年
 間もなく暗黒の時代、戦争そして家庭破壊がやってきます。
昭和初期の金融恐慌、東北地方の冷害、満州事変、二二六事件、五一五事件
この時代の都市は徒弟制度の工場や商店の中小企業が多く、又、人身売買(前借り)に等しい子女も大勢働いていました。更に農家の次男三男は満州蒙古開拓で大陸に渡る人も多く、大陸へ、大陸へと、大陸の花嫁も沢山行きました。
食べるために軍隊志願者も多くなりました。海外移住移民の時代でもあります。

愛読した文学書 小説・若い人、天の夕顔、薔薇(横光利一)、啄木全集等々。

(東北の冷害とベルリンオリンピック ここをクリック)

   

中学2〜3年で私は三木 清の「人生論ノート」「禅の研究」やプラトーンのプラトニックラブに傾注、

盛岡放送局からハーモニカ「双頭の鷲のもとに」合奏の放送。

 旧制中学進学者は都会地で40%位で恵まれた限られた一部のサラリーマンか小資本家の子弟に過ぎません。自分の持家は殆どなく、長屋と称する小さな家を家主から借りて住んでおりました。中年の恵まれたサラリーマンの平均的月給30円(先生や警官)、家賃7円、乗用車1台1千円の時代です。勿論人力車の時代で、ある意味では安定した経済社会でした。

わが家で尽忠愛国号(戦闘機)に5千円を寄付し話題になった事を記憶しております。


 
 
昭和15年紀元2600年記念と世の中は大戦争に突入する前夜で心情は殺伐として、古い封建主義から軍国主義・全体主義に急速に移行する段階でした。
家業の料亭も官官接待、軍隊、出征、移動転勤等々で割烹料理店は凄く繁盛しておりました。数十人の芸妓さん達も空く暇もない状態でした。
(詳しくここをクリック

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本当に遭遇した座敷童について。当時「火事」の予言も可能であった。クリック。
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 11月、「紀元二千六百年」の祝典で国中大騒ぎ、「提灯行列」「旗行列」で人々は束の間のガス抜きを味わった。紅白の提灯を掲げ夜の巷を練り歩く、訳も分からず雑踏の中を下駄音高く歩き回った。
「金鵄輝く日の本の 栄えある光 身に 受けて 今こそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 ああ一億の胸は鳴る・・・」の歌声。
日本国第一代「神武天皇」の即位後二千六百年とか。
 
 昭和15年11月10日、皇居外苑で「紀元二千六百年式典」が開かれました。
勲1等以上の男子であれば、フロックコートかモーニングで参加することが条件です。高等官1等以下であれば、紋付き羽織袴でも大丈夫。軍人であれば、軍装の上、すべての勲章や記章をつけなければなりません。
 
 まず式典(昭和15年11月10日)の詳細ですが、式次第は以下の通り。
 
一.整列(式典中全員起立) 参列者一同
一.天皇皇后両陛下出御
      奏楽「君が代」 陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.諸員最敬礼
一.国歌「君が代」奉唱   参列者一同、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.寿詞(よごと)奏上   内閣総理大臣(近衛文麿)
一.勅語を賜ふ
一.紀元二千六百年頌歌斉唱 東京音楽学校生徒、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.万歳奉唱「三声」    参列者一同
一.諸員最敬礼
一.天皇皇后両陛下入御
      奏楽「君が代」 陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊
一.散会
 奉祝國民歌「紀元二千六百年」
内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定
増田好生 作詞/森義八郎 作曲
 
  金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
  いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
  あゝ 一億の胸はなる
  歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
  はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
  あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し
  荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
  感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
  あゝ報國の血は勇む
  潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
  世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
  あゝ燦爛(さんらん)のこの國威
  正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
  力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
  あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる
 
昭和16年、「松岡洋右」外相ヨーロッパ歴訪へ。熱狂的歓迎を受けヒットラーと会見、帰途、モスクワにて「日・ソ中立条約」調印。             
「独ソ開戦」日本軍「南部仏印進駐」開始。
米、日本資産凍結。
対日、石油輸出禁止、所謂経済封鎖。
 
 家には料亭女将の母親と東京の女専を卒業して間もない次女の姉そして私、祖母がおりました。長女は既に嫁ぎ、長男と次男は東京の学校に行っており5人兄姉です。
父親は多分「愛人」の所と思います。

 
 昭和16年12月3日、料亭と隣接してる家で、母親と私の2人だけの夕食を終えて間もなく、母親は突然脳溢血で倒れ帰らぬ人となりました。
翌朝、東京等から兄達が戻ってきました。
何分にも大料亭の女将の死亡は、新聞社会面を揺るがす大事件でした。
間違いなく脳溢血なのですが、「愛人」に悩まされ、苦しめられ死期を早めたと誰もが多くの人が公然と云っておりました。商工会議所議員他の多くの会社の役員でもある父親ですが、その存在は全く無視された状態で、母親の親戚や従業員の働きで、立派な葬儀も終わり営業も12月中旬から再開されました。
この後も「愛人騒動」が平成の世まで続きます。
 

盛岡の代表的な料亭


岩手日報の死亡記事
(内容に若干間違いあり)

東京日々新聞や都新聞等々に詳しく掲載された。


昭和十六年十二月四日 岩手日報朝刊の記事
( 東京日々新聞や都新聞に詳しく掲載された)


  
丸竹楼女将逝く間違いを訂正し要約しました。

本街料亭丸竹楼の女将○○みえさんは 三日午後十一時脳溢血にて急逝した。享年四十八才。
みえさんは非常に明朗な人で 本街二業組合長として業界刷新 に芸道のため芸妓の教養等につ とめ功労が多い。長男は東京の大学に在学の敬次(二十)、次男東京の高商在学の利夫、三男昭榮君のほか二女をのこし急逝を惜しまれている。葬儀は九日午後一時自宅出棺途中行列を廃し寺の下祇陀寺において執行する。

料亭女将のプロフイール

享年47歳(昭和16年12月3日)
東北高等女学校(現白百合)卒  常にフランス語辞書を持っていた。
フランス刺繍が得意、華道(草月流)、茶道、日本舞踊(若柳)、書道等々
花柳業界にあっては常にリーダとして発展に貢献した。
 
12月 8日、「大東亜戦争」勃発……
12月11日、ドイツ、イタリア 対米宣戦布告。
 
 「女将」あっての「料亭」であり、「女将」亡き後の「女将」の後継者が世間の大きな話題になりました。女将の母親である「祖母」は健在で「祖父」は昭和の初めに亡くなりましたが、「祖母」は財産もあり「料亭」についても、かなりの権力を持っていたのですが、明治6年生まれの封建的な昔の人であり考える視野も狭く、大問題の解決には無理な人でした。

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旧制中学2年から4年までは山岳部員として休日は山で過ごす。   山岳部クリック
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神仏や占いや「いたっこ」に頼り、その為に多くの間違った判断で自分を苦しめる事になります。
先ず女将の後継者を祖母の養女にし、父親の再婚となったのですが、念の入ったやり方でした。この料亭を存続させる事が最大の使命であると、元々祖母は従業員から見初められた経緯もあり無理も無いことです。この後継者を祖母が探してきました。ある病院の総婦長で若干32歳、後継者の継母は真面目な方でしたが花柳界の女将に相応しくない方であったと思います。女将と云うよりも祖母のお守りと解釈する方も多く、5人の子供達もそれぞれ教養も身につけ独立した人格も形成されておりましたので反対する人もなく、営業も順調に継続されましたが、(後妻)継母は愛人の存在は全く知らなかったようです。
 
昭和17年 長男が学卒と同時に出征  昭和20年戦死
昭和18年 次男も学卒と同時に出征   昭和20年復員 銀行勤務
昭和18年 企業整備により料亭の廃業

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コ和19年 私三男、学徒動員出動 クリック詳しく    昭和20年帰郷農専入学
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        暗黙の公然とした約束
長男 料亭を引き継ぐ
次男 眼鏡測量店を引き継ぐ
三男 餅店を引き継ぐ
 
ある人の記録
 昭和20年1月22日から東北地方の視察旅行に出た。何十年ぶりの東北冷害被害の状況について29日の日記で「盛岡にて零下22度の日あり。時計の油凍り、各駅の時計ほとんどその用をなし居るものなし。東北また飢ふ。食ほとんどなし。東北本線に機関車の恐るべく少なき見る。常ならば、いかなる駅にも二台や三台の機関車あるを見るにこの度は遊んでいるもの絶無。而も中小駅にはその姿をさえ見ざるはいかなる故か」と暗澹たる思いを綴った。旅行中に東京は大編隊の爆撃を受けた。




  

  
   
 
昭和18年以降は下記項目をクリックして下さい。
昭和18年頃の故郷
ラジオ四方山話(当時の放送に関わる記録)
学徒勤労動員

 
 
わが家の昭和史第二部(戦後)
 昭和20年8月15日第二次世界大戦は日本の降伏により終結した。所謂終戦です。
戦争の発端は日本の「満州国」建国と「中国」に対する侵攻であったが、その理念は「大東亜共栄圏」の確立と「八紘一宙」の日本的な東洋哲学でした。
国内需要の僅か1%に満たない国内生産の石油、99%の石油輸入を止められられたわけです。これが直接戦火を招きました。
米・英・仏・蘭に対して宣戦布告となりました。
当時アジアは日本とタイ及び中国(一部除く)を除き他は植民地で、軍事は勿論の事、日本を経済封鎖をしょうと欧米の植民地は完全に欧米の支配下にあって犠牲になっておりました。
アメリカ=フイリピン・・・イギリス=マレーシア、シンガポール、ビルマ・・・オランダ=インドネシア・・・フランス=ヴェトナム
 
 
無条件降伏した結果、日本の伝統文化が失われ虚偽のアメリカ的民主主義を与えられました。その典型は東京裁判の矛盾にありました。
 
昭和21年
料亭の建物は強制疎開で取り壊し既に無く、繁華街にあった眼鏡測量店は区画整理で土地は約四分の一に縮小しました。幸い大空襲は免れましたがたが市内は惨憺たる状況ででした。
当時の土地、その他財産も江戸時代末期から永々と100年以上に渡り先祖が築き上げたものと思います。
財産税、新円切り替え、農地解放等々一連の戦後改革で、
残ったのは「料亭跡地」「眼鏡店」「餅店」の3カ所だけとなったようです。民主主義、自由、女性の地位向上等の解放される社会に移行しますが、間違った自由が醜い人間関係を作ります。
後継女将、愛人の問題以下二部は次号と致します。

自分史次号 未完ですが次にお進み下さい。クリック


 70年前の面影は「上の橋」「石燈籠」「大銀杏」
   
上の橋周辺            今でも残ってる石燈籠                             丸竹餅店跡地の大銀杏

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 料亭丸竹楼の歴史