神々と人間の間に取り決められた「約束」 

~奈良県「三輪山」の登拝から考える(なぜ古来の「禁」を破ったか)

 

 

2015,04,03 生霊を祓い鎮める神のご出現

三輪山の媛神「天美倭媛大神」と、

「天静倉媛大神・天滴媛大神・綾古大神」

 

 

アチメ オオオ オオオ オオオ

美倭山ニ 天美倭媛ノ命ヤ 静倉ヤ 滴垂セヤ 綾古帰ラム

(平成27年4月4日 於:正神之会大阪祈祷所 神璽により)

 

 

 

私は、大阪祈祷所を開設して以来、関西・近畿圏の神社や、お城、お寺、神々が籠る山、また海など、様々なところへ行ってまいりました。

 

関西近畿には、かつて、日本の「都」が、ありました。画像はウイキペディア 

日本の文化文明の、発祥の地といっても、過言ではありません。

 

九州人の私が、「祈祷師・審神者(さにわ)」の仕事をさせていただくようになって、日本人の信仰心の礎をつくり、先導してきたこの地域に、ご縁を賜りましたのは、きっと、私の「導きの神」の、お仕組みに違いありません。

 

また、関西近畿圏への進出は、私の前世に絡んでいると、私の導きの神より、教えてもらいました。

 

 

私が、今世にて、関西・近畿の土地に縁ができたのは、神霊や不可視な世界を、より正しくとらえ、解明して、たくさんの人に、「正神界」に在る神様の「御神意」を、わかりやすくご説明することを、世の私の「使命」として使わされているのだと、思います。

 

毎回毎回、意味深な「テーマ」にそっていて、私の魂の「霊的成長」に則しており、しかもそれは、以前より、このタイミングで行くようになっており、実に用意周到に仕組まれたものであります。

また私は、それらの場所へ行く際には、一切、下調べなどいたしません。
神社の由緒やご祭神とか、伝説、歴史等々全てを、事前に知る努力は、一切致しません。
ただ唯一事前にやるのは、せいぜい、マップで位置確認を行い、距離と移動時間を調べるのみです。


由緒書きや伝説などというものは、所詮、人間サイドで作られたものであり、関係者や特定人物の「利権」に応じて作られ、希望的な要素を含んで作られたお話が、さも当たり前かのように、伝わっているのです。


それらは、当地に遥か昔から存在し得る、土地の神や精霊の本来の意志とは、関係が無いところで作られて、人間の発した言葉ばかりがもてはやされて、一人歩きしているのです。

ですから、事前にそれらを調べ把握した上で詣でますと、現地の神々や霊魂などを、魂(心)で捉えるために駆使する私の霊的感覚に、何かと支障を及ぼすのです。

事前知識を得ること無く、真っさらな思いと純粋な気持ちで取り組まねば、本当に大事な要素を、見失ってしまうのです。


世の中の人達には、どこからか聞いたことや、他から知り得た知識を、さも自分の霊感で知り得たものであるようにおっしゃる方も、多いですね。

また蛇足ですが、神術や霊的思考の行い方を説いてある書籍やインターネットなどの情報を読み漁って、その知識を使用することが、さも自分の「霊能力」であるかのように捉えている方など、「霊能力」というものを、誤解なさっている方も、大変多いように思います。


また、自称霊能者などに騙されて、大金を失い、邪気にまみれて、邪霊や邪神に憑りつかれて、別の新たな苦しみが始まり、結果、人生を台無しにされた方の悲痛な叫びも、よく聞かされるところであります。


心霊のことは、目に見えない世界であるからこそ、慎重性が求められますが、いかんせん、目に見えないものでありますから、ご相談される方は、どこをどう信じて良いかに、悩まされます。

あろうことか、ご相談者にアドバイスする、霊感者や霊能者さえも、自分自身に、本当の霊感があるのかどうか理解できないまま、「妄想」を「霊感」だと勘違いして、悩み苦しんでいる人に、霊的なアドバイスを行っている者も多くおりますから、大変怖いものです。


場合によっては、霊能者だと信じて頼ったとしても、実は、全くの「素人」であった、ということも、あるのです。

テレビや雑誌で有名な、ある女性霊能者は、面談時間はわずか数分で、「それは霊障じゃないから病院に行きなさい」と言って、終わるのだそうです。

助かるためのきっかけを求めに、遠路からはるばる、北のはずれまで来たのに、これでは、納得いかない・・・と、正神之会にいらっしゃった、ある女性のご相談者が、漏らしておられました。

また、あるご夫妻は、相談に行った先の霊能者から、大変強い霊体が憑りついているから、除霊にお金がかかる、と言われ、家が一軒建つ程の大金を払わされたそうです。

残念ながら、いずれのケースも、その霊能者の元ではお悩みの改善には至らなく、私のところへ、ご相談にいらしたのです。

苦しんでいる方々はみな、藁をもつかむ思いです、
それらの自称霊能者の行いは、先々、ご相談者の「弱り目」に、「祟り目」となって、重くのしかかってくるのです。


ご相談者は、それらの霊能者などには常に、冷静な目をもって、慎重に見極めることが、肝要であります。



あくまでも、目の前に提示してある伝説や由緒書きが、100%正しいなどとは、言えません。


日本書紀や古事記などが説明する、日本古来の神々の神格(性格)のとらえ方と、神々と日本人の関わりも、それらを編纂編集された時代の、事情や背景によって、捉える感覚に違いが生じたり、また、どなたかの都合の良いように書き換えたり、戦争などの目的で、一般人の心を掌握するための、社会的勢力によって書き換えられて、現在に至っていると考えております。

人間の側に立って作られた、それらの神話や伝説や由緒書きを、安に信用して、それらを基本にして考えるのではなく、
当地にお座します、神々や精霊などの「意思」に、素直な「心」で向かい合い、人間の思考を超えた存在である、神々の御意志に添い奉ることを、信条として、目や耳や肌などの「五感」で感じることだけに心囚われないよう、日々の心掛けが、大事なのです。


私は、そのような日頃の信念が、その地の神霊や精霊との「ご縁」を、正しく結びつける方法だと、考えております。

「祝詞」や「秘術」・「霊術」というような「形式」に頼るのではなく、神様など、目に見えない存在には、「心」で交わり通うように、勤めるのです。

そのために、人間の都合の良いように書き換えられた、それらのものに心を支配されないように、「心の眼」で、捉えるように努めるのです。

 


いつでしたか、偶然見つけたインターネット上の、ある大手サイトの「質問コーナー」で、私に関する質問がありました。
「中村建日は信用できるのか、実際に会って来られた方の意見を求む」という趣旨の内容だったと思いますが、
複数人のアンサーがあった中で、ある人物が、こう、書いておりました。
「私は会ったことはないが、中村建日のサイトを読んだところ、他のどこにも書いていない、誰も言わないような、奇想天外な内容を書いているので、信用しない方が良い」と、書いてありました。
私は、この人の意見を見て、苦笑致しました。
こういう考えで人の優劣をつけて、見ず知らずの人にアドバイスするって、どういうつもりなのか。
この人の、他人を評価する基準って、一体どこにあるんだろうか?

確かに私は、神道や仏教や、既成宗教の説く教えである「王道」というラインからは、大きく外れているかもしれません。
私を信用しない方が良いとアドバイスされたこの人からすると、私は「邪道」なのかもしれません。


しかし、私は、今日まで、毎日たくさんのお悩みを持った方々と、面談をしてまいりました。
どなたも、全てが重い悩みを持った方々ばかりです。
私は、そんな方達のお悩みの解消にあたりたいと、一生懸命、真摯に取り組んでまいりました。
どなたのお悩みも、解決は簡単ではありません。
確かに、これまで紆余曲折あって、中には、改善しなかったと、途中で諦めた方もいらっしゃいました。
その度に、私は心潰しておりました。
「どうすれば良いのだろう」
「どのような方法を取れば、この方は救われたのだろう」
そんな思いの連続でした。

その当時の私も、御多分に洩れず、聞きかじった「宗教家」の教えや、神道や仏教などの既成宗教が教える、「心霊の捉え方」を基本にして、祝詞を奏上したり、お経を唱えたり、霊術を施したりしておりました。
しかし、それらを必死でやっても、思ったような効果はありませんでした。

本当に、いろいろと悩み考えました。
時には、挫折しそうでしたし、願いとは全く違う、真逆な結果に至った時には、真っ逆さまに谷底へ落ちてしまうような感覚を覚え、私自身の失墜の念にかられて、辛い経験も致しました。

しかし、私は、決して諦めることはありませんでした。
きっと、かならず、私の願いが叶う日が来るに違いない
と、必死になりました。

 

そんな中で、得た答えが「既成に囚われない」という、機転の発想でした。
私は、仕事人なのだ。
いわゆる「職人」なんだと。
「職人」であるからには、一から造る努力がいるのだ。
いや、ゼロから創り出さねば、きっとダメなんだ。


そういう風に考えるようになりますと、何やら、「無限の可能性」が、見えて来たような気になりまして、すごくワクワクしたことを覚えております。


そして、これまで自分なりに学んだ知識を捨ててみることにしました。
そうしますと、私の心の扉が、音を立てて開いたように思い、扉の向こうから、朝日が燦々と差し込んで照りだしたように感じられて、途端に気持ちが楽になりました。

そこで、堰を切ったかのように、私の「導きの神」が、次々にお出ましになり、様々な教えごとをいただくようになりました。
そして、次第に、御神事の精度が上がってきたのです。
以前よりも、祈願祈祷の内容が、現実化するようになりました。
これまでの神事との違いを、実感するようになりました。

神道や仏教などの、既成宗教の教えから、全ての呪縛を外して、心が解放されますと、目に見えないものを捉える私の心が、とても「自由」な感覚へと変化致しました。


今日まで、既成宗教の教えに従って縛られた、本来あるべき人間の自由な心が、戻って来たような気になり、開放感を得ることができました。
現代に伝わる既成宗教が、いかにして、私達の心の自由を奪って来たか、が、実感で捉えられるようになりました。

世の中は、平等であるようで、平等ではない、
人は、自由なようで、自由ではない、
人を、大切にしていると言うが、大切にしていない
好きなことだけして生きて良い、と言うが、好きな通りに生きていけない
ありのままの自分を好きになれ、と言うが、どうしても好きになれない


これらは、「理想」ばかりの「空想世界」を、宗教や、スピリチュアルカウンセラー、心理カウンセラーの書いた本などが、教えているわけですが、
教えられた側は、この時ばかりは、何か希望の光を見出したようで、救われたような気持ちになれますが、
それを、自分の環境や状況におきかえても、理想の通りに、なかなかいかなくて、だんだんと、理想と現実の狭間に、ストレスを感じてきて、あろうことか、それを学ぶ前よりも、ますます沈んだ、暗い気持に陥るものです。

人間は、一人一人、置かれている状況や立場、環境が違います。
実に様々で、まさに三者三様です。
家族構成、親子関係、兄弟関係、職場環境、人間関係、社会人、学生、表現方法の違い(個性)、住んでいる地域性、文化や宗教
そこを全部無視して、平均的理論の理屈で、聞こえの良い理想ばかりを教え込んで行きますと、それを実現出来なかった側は、これまで以上の、深い苦しみが待っているのです。

そういった観点で、正しく、現実世界に自分の目をしっかと向けて歩むことと、また、現実に沿わない、理想ばかりの事を教える、宗教やスピリチュアルや心理カウンセラーが書いた本などを読みふけって、立ち向かうべき、解決すべき、現実の問題を、先送りにしないようにすることが、大切です。

世の中は「現実と理想」の中で、のたうちまわる人が、大変多くなっています。
これは、いわゆる「現代病」でして、現代人が多く抱える、「心の闇」なのです。

前述で説明しました、「王道」と、「邪道」。

「王道に沿っていないから、だからそういった人物は信用できない」
そういう思いの輩が多いのも、この世の現実でもあります。



そんな中、先日(43日)に、奈良県「三輪山」にあります「大神神社」と「狭井神社」に、詣でてまいりました。

 

~事前におことわりです~

以下の内容は、三輪山を熱心にご信奉なさる方や、神社ご関係者の方には、大変不愉快な内容であるかもしれません。

あらかじめ、おことわりいたします。

私は、私の、信条信念として、日頃から真摯な気持ちをもって、ご神仏に向かい、各種の神事に取り組んでおります。

もしも、ご不快なお気持ちになった方がいらっしゃいましたら、謹んでお詫び申し上げます。

 

さて、今回の「三輪山」詣では、人生二度目となります。
初回は、昨年の6月でした。

初めて詣でたこの時は、大神神社の境内までまいりまして、神前に向かって手を合わせ、お賽銭をさせていただいて、足早に、まるで逃げるようにして、三輪山を後にいたしました。
画像はウイキペディアより

 

そもそも、この時、なぜ三輪山に参ろうかと思ったかと申しますと、正神之会大阪祈祷所にお見えになる方のうち、どういうわけか、三輪山を日頃から信仰なさる方が、集中的に多くいらっしゃいまして、
それらの方々が口を揃えて、「巳(みい)さん巳(みい)さん」と、連呼なさるものですから、「一体どんなところなのだろう」と、興味をそそられたからなのです。

動機が不純だったからでしょうか。
それとも、私の心掛けに問題があったからなのでしょうか。
はたまた、三輪山と私の神縁を結ぶ事を邪魔する、何か良からぬモノの憑依があったからなのでしょうか。
とにかくこの時は、三輪山に、得体の知れない「邪気」がはびこっており、とてつもなく大きな黒い塊が、私の進入を嫌って、災いをもたらそうとしているように感じたものです。
そんなわけで、早々に三輪山を離れたのです。

この時は「二度と行くまい」と、心に誓ったのです。

しかし、今にして思えば、この時の私は、未熟者でありました。
その時の、心ざわめく邪気の正体を、見極めることができなかったのです。
その当時の私を「不甲斐ない」と思い知ったのは、つい先日(平成273月下旬)のことでした。
その日朝から思うところがあり、自己浄霊を執り行ったところ、ある神霊のご出現がありました。
素性をお尋ねしましたが、ただただ、怒りの念が伝わって参ります。
すぐさま、「穢れた神霊」である事が判明しました。
判明したと同時に、昨年6月に伺った際の、大神神社の、大きくて立派なご拝殿が、脳裏に、はっきりと浮かんできたのです。

とても、意外でした。
心の中では、二度と行くことは無い、と、思っていたものですから、想定外のことで、ただただ、驚くばかりでした。
それでも、人智をはるかに超えた神霊の世界のことです。
私の考えや、日頃培ってきた常識が通じないことも、たくさんあるので、激しく動揺はしましたが、すぐさま、私の導神に真意を伺い、サニワを行った結果、
私の身の上から出現した神霊は、三輪山におわします男神様で、二億歳のお御霊であることが明らかになりました。
この男神様は、「おまえ、何ゆえあの日、何のすべを行うこと無く、御山を後にしたのだ!」と、怒り心頭でありました。
あの日、昨年の6月に詣でた際に、得体の知れぬ邪気に負けて、さっさと帰ってしまったことを、咎め、怒っておられるのです。

私は、すぐさまお詫びを申し上げて、この男神様の穢れを祓いまして、ご昇天いただきましたが、すぐさま正神之会導神界の神様に、今後のことで伺いを立て相談申し上げたところ、「再び三輪山に参ってみなさい」との神示がくだされました。

ちょうど上手い具合に、次の週には大阪祈祷所への出張が控えておりましたので、再度、二度目の三輪山詣でを果たそうと、決意をしたのです。

しかし実は、それでもこの時は、神様には申し訳ないのですが、次の二度目の参拝については、乗り気ではありませんでした。

なぜかと申しますと、最初の参拝の時に覚えた、御山の邪気の様子が、未だに心の重荷になっており、当時を思い出すだけでも、強い恐怖感が、ふつふつと蘇ってくるのです。
神様にそうは言われましても、「はい!参りましょう!」という、前向きな気持ちにはなれなかったのです。

しかし、神様とのお約束ですから、行かないわけにはまいりません。
ですから、観念して、三輪山に、再び参りますことといたしました。

ですが、そんな暗い気分が一転して、三輪山へのお参りが、とても楽しみに、心待ちになる一件が、あったのです。

それと申しますのも、その頃の私は、極度の背中と首、右腕の二の腕部分、左肩の強い痛み、右まぶたのケイレンと、連夜の「悪夢」に悩んでおりました。
それは、ある人の「生霊」(複数人に渡る)の憑依の影響でした。
生霊の正体は把握していたのですが、その生霊の抱える因縁が、あまりにも強く重いものですから、なかなか、芯から外すことができなくて、祓っても祓っても、繰り返し憑依しておりました。
それら生霊の憑依を、完全に、無くする方法を、兼ねてより思案しておりました。

そうしますと、これまでの様々な学びにより、どうもこれは、「仏魔」という「魔物」が、生霊の「思考性(生霊を出す為の負の感情、依頼心や依存心など)」を司っていて、相手の生霊を運んでくる、「運び屋」ではないかと、考えたのです。
この「仏魔」こそが、人の生霊を動かす「原動力」です。

また、私自身の心の奥底にも、「仏魔」が潜んでおり(怒りや悩み、不安、不満などの負の感情)、生霊を飛ばしてくる、相手の因縁に潜む「仏魔」と、私の抱える因縁に潜む「仏魔」が、陰で手を結んでいるから、生霊を、祓っても、祓っても、すぐに舞い戻ってくるのです。

「生霊」と「仏魔」に関する説明は、別項に譲りまして、
その、「仏魔祓い」の仏式の神術については、先に、導神より教えていただいておりました。


仏魔を鎮めてくださる仏様は、薬師如来日光菩薩月光菩薩大日如来、千手観音菩薩虚空蔵菩薩不動明王の仏様と、康平二十八部衆で、これはすでに実践済みでして、おかげさまで、この時は随分、体調も回復しておりました。

しかし、やはり、懸案の生霊は、ずいぶん影響力は薄まったとはいえ、まだ、我が身に憑依をしてきておりましたので、「仏魔」の完全な鎮め祓いについて、仏式に続き、まだ違った方法が、あるのではないかと、考えていたのです。

そんな折に、思いがけなく、「三輪山」に詣でるようになりまして、しかもそれは、私の意図しなかったところから、自己浄霊に至り、
その結果、三輪山の「二億歳の男神」様のご出現が、このタイミングでありましたのは、きっと、懸案事項の「仏魔鎮め祓い」について、教えられているのだと、確信を持ったのです。

即、サニワを行いましたところ、「三輪山の神に願えば仏魔を鎮められる由」とのご神示が下ったのです。

生霊には、これまで、さんざん苦しめられておりましたから、私の喜びは表現のしようのないものでして、いくら神様のご下命とはいえ、初回の苦い経験が頭から離れずに、ついつい渋っていた私の心が、一変して、三輪山詣でが、楽しみになりました。
現金なものです。

さて、いよいよ、三輪山詣での日(平成2743日)がやってきました。
この日は、折しも、朝から雨模様ではありましたが、激しく降ることなく、どこか、柔らかい感じのする、温かい雨でした。
ちょうど、桜の花の季節でしたので、三輪山へ向かう車の窓から、お花見ができました。

まずは、前回同様、三輪山の麓にあります「大神神社」の御本殿へ参りました。
雨も、シトシト降りしきっておりましたが、ありがたいことに、御本殿前まで参りますと、止んでくれました。

 

雨のお陰でしょうか、ご参拝者もまばらで、私には大変助かりました。
私の導きの神に、意識を集中して、ご意志を伺うことができました。
ご本殿でお参りを済ませ、そのまま、サニワを行いました。
すると、前回お参りした時と比べて、三輪山にはびこる「邪気」が、ずいぶん祓われているようでした。

続けて、サニワを行い、この後どうしたら良いか、をお尋ねしましたところ、「これより、西の方へ向かいなさい」との、ご神示が下りました。
言われるがまま、西の方角へ歩を進め、導かれるがまま参りますと、ふと、小さな祠が目に入りました。

ここで、サニワを行ないましたところ、「こちらの祠の横のご神木の前で御神事を行いなさい」とのご神示が下りました。


祠の真横に、杉の木があって、落雷でもあったからでしょうか、地上約23メートルほどのところで、切断してありました。

 

ご神木の前で、さらに詳しくお尋ねしますと、

「この神木は、朽ちて倒れたが、これより伸びる根は、この一帯の地中を、しっかりと包み込んで、この根より「神気」を放って、様々な邪気より、この大地を守っておられる

との神示が下りました。

 

このご神木宿りし神のご神名は、なんといわれるや?と、お尋ねすると、

「神名はなし、三輪山の門番の神である」

と、お伺いしました。

 

よって、三輪山の大地をお守りくださる門番の神に、まずはご挨拶申し上げまして、神々の穢れを清めるための「三種神器」の祝詞を、導き神のご指導により奏上いたしました。

 

※「三種神器の祝詞」とは、「清め・鎮め・祓い」の三種類の神事を行うことです。

清め・・・穢れた神霊を清める祝詞

鎮め・・・荒ぶる神を鎮める祝詞

祓い・・・邪気を祓う祝詞

導きの神であります「天宮媛大神・布都主大神」の神々よりご指導いただいたものです。

 


間も無くすると、私の導き神より、清めが完了した旨のお言葉をいただき、再び、ご神木に宿る、三輪山の門番の神にご挨拶申し上げまして、その場を後にいたしました。

ご本殿前まで戻ると、ふと、私の導き神より、お呼び掛けがありまして
三輪山の大神がお出ましである」とのこと。


「大神のご神名は、『あまのみわひめのおおかみ』である」

 

それで、ふーっと脳裏に広がった漢字が
天美倭媛大神』で、ありました。


サニワを施してみると、「それで間違いなし」
「また、「三輪山」にあらず「美倭山」ぞ、改めよ」との神示が下りました。


「では、この媛神様が、仏魔を祓い鎮める神や」
「その通り」

 

生霊の活力源である「仏魔」の祓いをお得意となさる神様が、いよいよ、ご出現なさったのです。


そう聞きまして、私は、舞い上がるようなうれしい気持ちと、また同時に、重責も感じられまして、身の引き締まる思いがいたしました。

さて、そうしますと、同行いただいた方から「この先に、狭井神社がありますよ」と、お聞きしましたので、導き神に、サニワを施してみると、
「参りなさい」との神示が下りました。

その足で、さっそく「狭井神社」へ、参ることにいたしました。

狭井神社に至るまでの参道は、とても緑豊かな道でありました。
吹く風も、若葉の香り豊かで、自然の持つ癒しの気に、心底から癒されます。


しかし、残念なことに、参道は、おびただしい数の「百鬼夜行」が、跋扈しておりました。
私が思いますに、こんなに気持ちの良い自然環境の中に、こんなにも多くの妖怪が住み付くということは、「邪気」が、三輪山を覆っているのは、間違いないでしょう。
しかも、この妖怪は、元は自然界に住む、恵みの「精霊」でありましたが、何者かが発した邪気を吸って、妖怪に変化したものと思われます。
ですから、この美倭山の、自然豊かで気持ち良く思える「気(エネルギー)」は、百鬼夜行が、総力を結集して作り上げたもので、「見せかけの気(エネルギー)」と、思えます。

それらの百鬼夜行は、巧みに自然界と重なり合っていて、最初は探し出すことが困難でした。
元々彼らは、夜暗くなってから、姿を現します。
昼間のうちは、生い茂った緑の中に、姿を消すのでしょう。
狭井神社に延びる道すがら、樹木や野草などの恵みによって、とても澄んだ空気感が漂って、大変気持ち良いところでしたが、一方で、なんとなく覚えた違和感の答えは、狭井神社のご神殿が見えてきたころで、判明しました。

 



その先には、神などおられぬぞ!帰れ帰れ!
と、激しく、まくし立てる声が、聞こえてきました。

ハッとして、振り返ると、おびただしい数の妖怪が、これまで通ってきた山道を、埋め尽くしているではありませんか。
サニワを行いますと、「百鬼夜行である」との神示が下りました。
この日は、折しも雨が降っており、すでに夕刻に近かったので、辺りも薄暗くなっていて、良いタイミングで、姿を見ることが出来たのでしょう。
百鬼夜行は、妖怪です。醜い姿をしております。
しかし、元は美しい姿の自然界の恵みを施す精霊でした。
なぜ、彼らは、「邪気」を吸って、「百鬼夜行」に変化(へんげ)したのでしょうか。


 

それは、私たち「人間」のせいです
かつて三輪山は、昔から、厳正な「禁足地」でした。何人(なんびと)も入ってはならぬ、聖なる山「霊峰」でありました。

では、なぜ、古代から延々と続いてきた「禁足地」の掟を、人は破ったのでしょうか。
誰が、何の目的で、霊山に登れるようにしたのでしょうか。

実は、これが、緑の精霊に、邪気を負わせて変化させた、理由なのです。
神様の御意志は、あくまで、「三輪山に人が足を入れてはならない」というものです。
人の手が入ることで、御山の全てに、邪気という穢れが生じるのです。

入山をなぜ認めたか。
おそらく、「熱心な信者の要望に応えた」という理由なのでしょうが、
霊的に解釈しますと、「ご利益信仰」という名の邪気が、許可する側に憑依して、入山を実現させた、ということです。

本当に「熱心な信者」であるならば、大変恐れ多くて、「御神体」とまでいわれる神山に、どうして登れるでしょうか。
神様のお身体を、ズカズカと踏んでいけるでしょうか。

私たちと神様の間とて、絶対に冒してはならぬ、ルール(決め事)が、あるのです。
それを古来の「神職」たちは、知っていたのです。

「大神神社」は、「日本最古の神社」と、言われていることを、みなさん、ご存知でしょうか。
であるならば、禁足地であった歴史は、千年以上も、あったはずです。

なぜ、禁足地として定められたか。
それに至った根本的な考えとは、三輪山の神への畏怖の念」でしょう。
三輪山の神様を、畏れ敬っていたからでしょう。
何代にも渡って「禁戒」とされてきた重大事について、古代の神官に、現在の神職は、何と申し開きするのでしょうか。

我々、信者の先頭に立って、三輪山の神を、古代の教えに沿って畏れ敬い奉る姿勢と、その心掛けを、率先して指導実践せねばならぬ、当の神社関係者が、
私利私欲に負けて、大昔から守られてきた、ルールを変えてしまった。
彼らこそ、神々を、実態のない、紙の上の神話物語でしか捉えていない、張本人ではないでしょうか。
表向きは、神様にお仕えしているように見せかけて、彼らこそが「神などいるわけない」「迷信だ」と、密かに考えている、張本人ではないか、と思います。

迷信ですか?
そんなことはありません。
神様は、明らかに、はっきりとした存在で、ふつふつと、生きておられます
この世の生物全てが、神様のおかげで、生きていけるのです。
こんなに、ありがたい神様を、熱心な信者は、なぜ、土足で踏むのでしょうか。
なぜ、神様を、神社関係者は、「土足で踏んで良いよ」と言うのでしょうか。

こういった事柄は、この世にたくさんあると思います。
神様のお心と、人間である私たちの心が、うまく合致していないのです。
この自然界の仕組みにあっては、たくさんの神々や精霊が、様々な働きを成しておられます。
故に、「八百万の神」と、言うのです。
自然界にある、様々なエネルギー体。
科学でも、説明がつく自然界のエネルギー。
このエネルギーは全て、「意思」を、持っているのです。
意思を持っているエネルギー体だから、「神」と呼ぶのです。
「迷信」などと思ってはいけません。

自然界にある、様々なエネルギー体は、もう何千年、何億年も前、人間がこの世に誕生する、はるか前から、存在しているのです。
三輪山も、自然の神々が住まう、素晴らしい御山なのです。
恵みの御山、冒してはならぬ御山、三輪山の神の「御神体」なのですよ。

入山を許可した人間と、それを求め促した人間と、「パワースポットブーム」とよばれる、「ご利益信仰」に乗じて、入山する人の「邪気」が、三輪山の精霊を、穢していくのです。
百鬼夜行を創り出したのは、他ならぬ、私たち人間です。

私たちは、「三輪山に登りたい」と、思った瞬間に、すでに、三輪山に「穢れの念」を及ぼしています。


なぜかと言いますと、「念体」というもの、私たちが考えているよりも、はるかに、強い力を持っています。
私たちは、念力で物体は動かせませんが、念を発することで、目に見えないエネルギーの形を変えたり、動かしたりすることは、造作もないことなのです。


見えないから、わからないのです。

私たちの発する、「邪な念」によって、自然界のエネルギーである「神様の形(姿)」が、異質なものに「変化」するのです。

神道ではこれを「穢れ(ケガレ)」と、呼ぶのです。

 

三輪山の神は、御山が御神体であり、御山が、神様そのものでありますが、神様の御意志は、奈良県の当地に鎮まって、大きな自然界の中の一部として、それこそ、重要なお役目に勤めておられます。


三輪山は、人間に、御神体に登拝してほしい…などと、一つも思っておられません。


しかし人間は、御神体に登ってみたい…と、考える。


その神と人の「思い(念)の違い」が、神様への「不敬」という、 悪いエネルギーを発生させて、それが「穢れ」となって、三輪山の神様に、影響を及ぼすのです。
そこで、最たる犠牲者とも言うべき、「精霊」が、三輪山に及ぼされた「邪気」を吸って、「百鬼夜行」と、なってしまったのです。

これは、パワースポットブームなどを、代表とした行いが流行る時代の、現代人の心情に潜む「邪気」が、「信仰」という名に置き換えられ、自己都合の自己満足で誤魔化された、悪しき行いなのです。
このように、私たちは、神様など「目に見えない存在(エネルギー)」を、自分の都合にあった、自分勝手な存在に置き換えて、誤解しているのです。

 

代表的な例が「神は全知全能である」という、思考です。
元々、神様が「全知全能」だという思考は、かつての日本人の宗教的思想であった「古神道」には無い思想です。

神は「全知全能」である…という思考は、西洋から伝わった「キリスト教」や、インドや中国から伝わった「仏教」など、哲学や倫理など、人の生きる道を説くための「精神論」を中心とした教えから、解釈され、広まったものです。

神は、この世の隅から隅まで知っていて、出来ないことなど一つも無くて、人間が困っている時は、何をさておいても無条件で飛んで来て、助けてくれる…


こんな風に考えている方も、結構多いのではないでしょうか。

これはもう、キリスト教と、仏教が、ごちゃまぜになっていて、整理がつかない状態です。

また、「この世に神や仏などない!」という言葉、よく聞く言葉ですが、人生の苦難苦境は、そうならなければならない「因縁」「因果応報」「魂の試練」という要素を含んでおりますから、苦しいことが起こった、悲しいことが起こったとしても、それは、神仏の「ご加護」の「枠の外」であるのです。

現代の人は、様々な情報に惑わされて、結局、神様を、自分勝手に捉え、自分に都合の良いように解釈させられています。

これはもう、信仰のあり方そのものが、根本的に間違っているのです。

 

テレビで「スピリチュアル」という言葉を流行らせた、有名な「タレント」さん、

パワースポットブームを仕掛けた「お笑い芸人さん」、

神様仏様を、いたずらに恐怖感を盛り立てて、面白おかしくして漫画にする「作家さん」、

悩んでいる人に、あっちの神社、こっちの神社に参拝を勧める「他力本願思考」の霊能者、

集団で、全国の神社を練り歩く「宗教団体」、

神社の境内で一日何時間も滞在する、不審な行動をとる「若者」、

生活困窮者に、賽銭箱に一万円札を投じさせる「心理カウンセラー」など、

一般の人達を、あからさまに「ご利益信仰」に走らせるような、人心を惑わす情報は、全て、間違っています。

 

ご利益信仰」の根っこは、人の「邪気」です。

人の発する「邪気」が、神社の神様に、穢れを負わせるのです。

これは、重大な「今世因縁」となって、後々災いをもたらせます。

以上のような、ご利益信仰でもって、「御神意」を無視した行いは、神様と、私たち人間の間に、ますます深い溝を作ってしまいます

私の導の神様「天宮媛大神」は、こう、おっしゃっておられます。

 

「人が、神々に願い事を申すのは、道理でしょう。

決して、悪いことではありません。

しかし、願いが叶うか叶わないかということ、

それは、日々日頃より、いかに正しく神々と向き合っているかに、掛かっています。

新年初詣と申して、晴れやかに着飾った出で立ちで、神前にお参りに来られますが、いくら神前で良い格好をしていらっしゃっても、日頃、どう生きているかが、重要です。
日頃は、ろくろく手を合わせることもないのに、神社でだけで綺麗に着飾って、作られた笑顔を振りまいても、道理はとおりませんよ。
まずは、心がけを改めなさい。

日頃の思いを改めなさい。
人々が、今世を生きていくのに必要な「神の恵み」に、まずは心を手向けるべきでしょう。
神は、遠いところにおわすのではありませんよ。
神社にばかり、ご鎮座なさるのではありませんよ。
家の神棚に、四六時中こもってなど、おられませんよ。
どこでも、いつでも、どんな時も、人のすぐ側におられます。
それが理解出来ず、ただ、神社にばかり参っても、神の力は、正しく動きません。
あなたたちは、目で、耳で、肌でだけで、捉えようとするから、わからないのです。
自身の心で、神のお姿を見て、神のお声を聞いて、神のお肌に触れるようにすることです。
自分の「心眼」を通して、神を観ずるのです。
心眼を開くためには、人が自分勝手に描いている、神の姿を、全て、帳消しにせねばなりません。
神から賜った心眼を、間違った思いで、曇らせてはいけないのです。
心眼を、清めなさい。
曇った心眼を、美しく清めて改めなさい。
心眼を納める神が、先日、お出ましになりましたね。
それが、全ての神々の、ご真意なのですよ。」

※心眼を納める神のお話しは別項でご説明します

日本人の霊性には、外国の宗教思想にはない、「神観能力」というものが、備わっています。
そもそも、神観能力というものは、日本人の誰にでも備わっているもので、自然界の意思を、内在しているもう一つの自分が、インスピレーションで、理解できる能力のことです。
その「内在しているもう一つの自分」を見つけ出し、役立てたいと思うならば、現代の「王道」と言われる、一般的常識を、全て、忘れることです。

常識にとらわれないで「新しきを知る努力」が、「神観」を整えるための、最低条件なのです。
また、その「王道」という、さも当たり前のように確立された「思想」には、「仏魔」という魔物が、あれこれと、実に巧みな手法を用いて、道徳観、倫理観というものを、隠れ蓑(かくれみの)にして、私たちの内心に、深く関わって、影響を及ぼしております。
仏魔について詳しくは、後ほど記述します。

 

 

さて、狭井神社では、ご本殿の裏手にありました、井戸のたもとで、更に、この地にお鎮まりの神様の御名前を、教えていただくことができました。

 

一、天静倉媛大神(あまのしずくらひめのおおかみ)

 

二、天滴媛大神(あまのしずくひめのおおかみ)

 

三、綾古大神(あやこのおおかみ)

 

前述の「天美倭媛大神」にお仕えなさる、三柱の女神です。

 

天美倭媛大神は、美倭山の上空にある天空の御社」に座しておられ、天静倉媛大神・天滴媛大神・綾古大神は、美倭山の大地に座しておられ、地下から沸きいずる水や、大地の緑豊かな自然を、古来から今日まで、育みおられた由。

 

それらの行いは、すでに、数億年からの仕組みでありまして、これらの神は、美倭山の土地が豊かであるとともに、日本国土の中央に座して、日本の大地がより豊かで、神々の栄える国土であるように、私たち人間の、気が遠くなるような、はるか昔から、美倭山にお鎮まりになっておられるそうです。

 

ですから、三輪山というお山の真の名称は「美倭山」という名でありまして、まさに、「美しい倭国(日本)」を表す名称には、重大な意味が宿っていたのです。

 

「倭国」という国は、「神代」と云われる時代のころの、かつての日本国の名称です。

アジア諸国と、日本の都を中心にして、日本国は「倭国」という名称でよばれておりました。

 

その時代に生きる人々は、神々との意思の疎通によって、ものごとの「吉凶」を占って、政治を運営しておりました。

しかし、それまでは神々の意思に添った政(まつりごと)を行っておりましたが、様々な欲望や思惑によって、人々は、私利私欲のとりこになり、次第に、「神々の意志に添わない政治」を執り行うようになりました。

 

神々の御霊を畏れ敬い、神々の意志に添って生きてきた日本人の、「神を正しく祭り成す精神」に、悪しき影響をもたらしましたのが「仏魔」という、外国で栄え誇った宗教の、「思想の根本」に潜む「魔物」であります。

 

外来宗教の影響は、それまで日本人が培ってきた「神を感ずる能力」を、がらりと変化させ、日本人独自の「神感能力」が大きく損なわれる結果となりました。

 

「美倭山」は、かつて日本人が、神々と交わって、神々の意思を受け取り、神々の意思をを中心とした、政治を行っていた頃の、「霊的中心地」でありまして、大変重要な土地でありました。

 

それが今日、かつての古代人が定めた「禁足地」の禁をやぶって、登山できるようにしましたのは、実は、「神国日本」「大倭(やまと)の国」を崩壊させて、神々に通じる、世界人類でも大変特殊な能力を持つ日本人、「大倭の民」の精神を、根絶やしにしてしまおう、という、悪しき意図を持った「霊的な集団」からの「攻撃」であったのです。

 

仏教をはじめ、儒教やキリスト教などの外来宗教は、人がどう生きるべきか・・・を説いた、人のあるべき「精神」を説き教える「哲学的思想」です。

その思想はすべてが、「言葉」が中心であり、言葉は「唯物主義」を導引します。

唯物主義が進むことによって、目に見えるもの、耳に聞こえてくるもの、肌や舌で感じるものだけが、「コミュニケーションの手段の「すべて」になってしましました。

 

かつての日本人の、目に見えないものへの「畏敬の念」が損なわれて、目に見えるものだけに心囚われず、常に「心を読み取る」という、日頃の営みがおろそかになって、日本人の、秀でた能力であった「インスピレーション能力」が消え失せて、長い時をかけ、現代人は、すっかり外来宗教の、外来思想に染まってしまいました。

かつての日本人の能力であった「神感能力」は、その外来思想に影響されて、目に見えるものだけを信じ、目に見えない「心」には、まったく思いを寄せようとしない「文化」が確立されて、結果的に、神々との心の交流が失せて、結果、一番大事な「大倭の心(やまとのこころ)」が、無くなってしまったのです。

 

「三輪山登拝」を強行しましたのも、「仏魔」という外来宗教に潜む魔物の、千年以上にも及ぶ、壮大な計画であった「日本人神感能力封じ作戦」が実を結び、すっかり、「神を感じる心」を忘れた日本人が放つ「邪気」によって、古来より息づく日本の神様が、外国の神様によって、「封印」されてしまったのです。

 

それこそが、日本という神国を、崩壊させようと企む、霊的集団の、長い時間をかけた、緻密な計画であったのです。

 

井戸からご出現くださった、三柱の女神さまは、前述の「百鬼夜行」の邪気によって、地下に封じられるも、冒頭でご説明しました「三種神器」の神事により、土地の邪気や穢れが拭われて、やっとご出座なさいました。

 

後日お尋ねしたところ、三柱の女神は「200年ぶりに人間と意志を交わした」と、おっしゃっておられたそうです。

ありがたい気持ちになりました。

これからも、心から、美倭山の神々様の「ご隆盛」を、祈願祈祷させていただきたいと、心に深く刻んだのでした。

 

美倭山参拝の翌日、正神之会大阪祈祷所にて、次の御神示を、正神之会の導き神「天宮媛大神」より、「祝詞」をくだされました。

 

 

アチメ オオオ オオオ オオオ

美倭山ニ 天美倭媛ノ命ヤ 静倉ヤ 滴垂セヤ 綾古帰ラム

みわやまに あまのみわひめのみことや しずくらや しずくたらせや あやこかえらむ

 


これは、古来より伝わる「鎮魂歌(たましずめのうた)」という、祝詞のくだりに、以上を追加して奏上しなさい、と、ご下命なさったものです。

また、古来から伝わっている、鎮魂歌の祝詞の内容も変更なさいまして、各種の神事にて、奏上するように、ご下命くだされました。

 

天宮媛大神によりますと、

「昔と今では、神々のご意志が大きく変わりました。

従って、変更をいたすものです」

と、おっしゃいました。

 

私は冒頭に、「三輪山の神様は「生霊」の原動力である「仏魔」を祓う神様です」と、申し上げました。

 

本当に、その通りでした。

私は、更に、この確実な神様の教え事に、改めて、恐れ入った次第です。

 

神様のおっしゃる通り、この日を境に、「生霊」の私への憑依が、ぴたりと無くなったのです。

これまで、あんなに苦慮しておりました、「生霊」(生霊のことを神様は邪霊(やれい)と言われます)の浄霊・除霊が、すんなりと、行われたのです。

 

 

かつて、50代のある女性が私に申されました。
神様の「おうち」が綺麗になって神様も、うれしいでしょうね~、

それで、たくさんの人がお参りに来てくれると、神様も喜ばれるでしょうね~

(遷宮で工事中の出雲大社境内にて)
この女性は、いわゆる、パワースポット、パワーグッズに目が無い人です。

私は、この女性に、以下のようなことを、申し上げておりました。

品物に心寄せても、その品物から、貴女を救ってくれるような、不可視の力は、期待できないよ。

だから、本当に救われたいと思うなら、一から「心の在り方」を学びなおして、ご自身の「因縁」を祓い清めるように、努力しましょう

そう、常々申し上げてご指導させていただいておりました。

そんな矢先で、この女性の、この言葉を聞いて、私は、愕然といたしました。

女性は、ご自身の辛い状況から逃れたいがために、ご神仏に救いを求めておられるのですが、その方法を、お金で求めておられました。

お金をかけて、パワーグッズなどの品物に依存する信仰の方法では、形式に心が囚われるだけで、肝心の「心を手向ける」ことが、なおざりになってしまいますから、そうなると、決して救われることはありません。

パワーグッズに頼ってしまう、ご自身のお考えを変えていただくように、いく日も、渾身を込めて、ご説明させていただきましたが、そんな果てに、このような言葉を発せられたものですから、私にとっては、とてもショックでした。

神様のおうち…
お金さえあれば、社殿なんて、なんぼでも建て替えられます。
では、里にひっそりと座する、古い社殿の神社には、まるで、「貧乏神」でもいるかのように聞こえますね。
また、参拝客が多ければ、様々な人々が、多様な邪気を持って、四六時中お参りに来ることになるわけです。


邪な念体が、大きな邪気の塊となって、神社の境内に落ちていることがあります。

流行っている神社、そうでない神社で、神様の優劣や格の上下を決めたりするのは、絶対によくありません。

見た目の立派さだけに目を囚われ、見た目の荘厳さに感動はしますが、その内心はどうなのか、見た目は整っているが、本心はどうなのか・・・を考える「思いやり」の精神がないのです。

いわゆる、パワーグッズをたくさん購入し、身の周りに置く行為は「簡単」な方法でありますが、「心」という、難しい、面倒なところには、目を向けようとしないのです。

見た目だけを美しく整えただけで、荘厳な気分になるのは、人間である以上仕方無いのですが、人間の側からの「見た目の感想」など、神様には、関係ありません。

しかし、見た目を美しく整えた、そのうえで、「信仰心」を深め整える行いもあります。

最初は見た目から入っても、「形」に囚われない考え方「水平思考」に至ることが、大事です。

 

 

何事にも、今の自分の境地から、一歩前に出て、自分を高めていきたい・・・という、前向きな心を持って、それを常日頃から心に置いて、それに取り組もうとする姿勢が、こ大事なのです。

そして、取り組んだことに対する「結果」を把握するために、きちんと自分の行動を省みることも大切なことです。

自分が、これまで歩んできた道に、正すべき考えや、正すべき行為がなかったか、を、客観的に捉えて、今後の人生に生かすのです。

 

パワーグッズに依存すること、宗教に依存すること、スピリチャル系の情報に依存することは、結果的に「自己満足」に陥ってしまう傾向があります。

誰だって、自分が可愛いのは、仕方のないことですが、それら宗教を含めた、スピリチャル系より得る情報を、日常より、自分の思考にたくさん詰め込んでしまうと、自分を慰めるだけの、自己満足にふけってしまって、苦手で、目を背けてしまいたい、現実の問題に取り組むことが、ついつい疎かになって、気づいた時には、目の前の問題が、更に大きくなっていて、取り返しのつかない状態になることも、数多くあります。

そしてあろうことか、それらの宗教やスピリチュアル系から得た情報に、家族や周りの人間が、認めてくれなかったり、従ってくれなかった場合、怒りを向けたり、悲しんだりして、自ら邪気を放ち、ますます「孤立」してしまうのです。

こうなると、せっかく、「幸せ」になりたい為に始めた宗教も、この日を境に「不幸」の一途をたどって行くのです。

まさに、本末転倒です。

 

 

正神之会にも、日頃から、老若男女、たくさんの方が、ご相談にお見えになります。

前述の、パワーグッズ好きな女性もそうでしたが、「家族のテーマ」が、重く、心の負担になっている「お母さん」は、とても多いように思われます。

特に、我が子に向けた悩みです。

お父さんは、一生懸命、仕事に精を出していて、家庭を顧みないで好き勝手やっていますので、日頃から、お子さんと向き合うのは、お母さんの仕事です。

子供の子育てについて、日頃から悩んでいるのは、お母さんです。

本当は夫が一番の理解者で在れば良いのですが、世の中のお父さんは「軟弱者」です。

 

仕事も家庭も、共に目を配ることができる、「万能な人」が、いなくなりました。

お母さんも、昔よく見かけた「肝っ玉母さん」という、強い志を持った女性を、見かけなくなりました。

意志を強く持って、あらゆる問題に立ち向かい、信条に添って取り組んでいく人が、この世の中に少なくなりました。

これは、霊的に言いますと「社会因縁」「国家因縁」というものが、霊的に、日本国民の心情に、大きな因縁として、影響しているのです。

「戦中戦後」の世代は、波乱万丈の人生であり、社会全体が唯物主義で、物やお金は大事に思うが、家庭や愛情は、お金や名誉の次に置かれ、疎かになりました。

結果、我が子に手向ける愛情が、十分では無い中で育てられたのは「団塊の世代」です。

 

団塊の世代は、親の愛情不足の幼少期にありながら、急激に変わりゆく、慌ただしい社会に置かれ、「私利私欲」が横行する世の中に育まれました。

交通網の整備で、交通事情がよくなると、転勤族が増えて、核家族化が一気にすすみ、若者が年配者を敬う環境がくずされて、結果、年配者は当時の若者から「弱者」とされて、疎んじられるようになりました。

 

私利私欲に埋もれる人が横行する世の中で、団塊の世代は、同年代に生きながら、成功をする人とそうでない人が顕著化し、「不平等感」「不安感・不満感」「貧富の差」を感じて、心貧しくなり、事件事故も多く世間をにぎわす世の中に在ります。

そして、国家が「ゆとり教育」を全ての子供に施行し、その結果、子供たちの心が、国家教育に支配されるようになります。

国が推し進める教育は、すべての子供を、同じ枠の中に詰め込んでしまう論理でした。

 

それによって、次第に子供たちは、息苦しい窮屈な感覚を覚えるようになります。

「学校崩壊」「家庭崩壊」「積み木崩し」などの言葉が流行りました。

食べ物も欧米化が進み、その結果、長身になって、身体は、一見たくましく見えるが、心は、思いやりの精神に欠けます。

人の性格の弱点や、劣っている点ばかりを注視し、弱者をからかって面白がるようになり、長点を評価する心が失われ、他人の個性を寛容する広い心が失せて、「いじめ」が横行する。

 

そんな「ゆとり世代」が、今や親になって、そのゆとり世代の産んだ子達が、この社会を支えようと、しているのです。

 

現代人は、解決できない案件を、裁判して司法に答えを求めるも、その専門家と言われる、やはり同じ世代に産まれ育った「心無くした役人」に、物事の善悪の判断を委ねますが、納得のいかない判決ばかりが報道され、ストレスがたまります。

常日頃から理由なく「イライラ」していて、どこか、「好戦的」な様子です。

学校や幼稚園などで、気に入らない学校の対応や、教師への不満や、父兄の言動に、常日頃から立腹しておりまして、子供の喧嘩にすら、親が介入して、自分の満足度を満たそうと、躍起になります。

 

そして、お互いの「腹の探り合い」を基本にした、信頼関係のない、見せかけだけの「いびつなコミュニケーション」が世の中の主流になり、家庭でも、職場でも学校でも、気を許せるような付き合いがなくなり、ますます、個人個人が「孤立」していきます。

一方で、そんな「孤立」の世の中が作り出した、スマホなどの「個人保有ツール」が、急速に拡がって、インターネット、ブログ、ツイッター、LineなどのITの事業が、世の中の経済をけん引するようになり、ますます、人間の「孤立化」に、拍車がかかりました。

結果、これまでの「コミュニケーション」の方法と、心の在り方が、すっかり様変わりしまして、他人との付き合い方から、家族同士の関わり合いも、すっかり変化して、結果的に、失われてはいけなかった「思いやり」の心が、無くなってしまいました。

 

 

しかし、「孤独」を強く感じるようになった分、ますます他人が自分を、どう見ているか、自分の評価が気になって仕方なくなってまいります。

常に、自分なりの、「相手の腹を探る方法」を得ようと、インターネットやメディアに、その答えを求めるのです。

 

世の中の若者は、SNSの「既読」がついても、返事が来ないことに「馬鹿にされた」と憤慨して、相手に、言葉の暴力や、制裁でもって、不平不満をぶつける。

楽をして、相手の思いを探ろうとする人が、悶々としている最中、この時代に生きる人たちの期待に応えるように、テレビなどで「メンタリスト」「スピリチュアル」などの「精神世界」を扱う番組や人物が、多く扱われるようになりました。

 

テレビで有名になると、その人物の書籍やブログに書いてある「精神論」を読み漁り、陶酔し、心の拠り所にしてしまって。それはまるで、形を変えた「教祖様」のようです。

テレビなどに出演する、それらの著名人の言うことは「絶対的」で、著名人が勧める品物などの「パワーグッズ」は、例え高額であっても購入し、著名人が勧める「パワースポット」などには、全国から、老若男女が、かけつけます。

 

あろうことか、金運を上げるためと称して、「欲望」という邪気がたっぷりと含まれた一万円札を、神社の賽銭箱に投げ入れさせる、新手の乱暴な心理カウンセラーなど、職業の呼び名は斬新でも、やっていることは「新興宗教の教祖様」の類であって、それは、悩める人の「人心掌握」を測り、結果的に、自分の発する「邪気」に自分自身の心が支配されて、ますます運気を下げていく、という流れに、至るわけです。

邪気まみれの一万円札を放り投げられて、さすがの神様も、困惑しておられるどころか、怒りをもっておられます。

 

こんな環境や社会情勢で、心が荒んで、結果的に社会全体がすっかり、真心や思いやりがなくなって、気弱になった結果、世の中で一番に頼りになるべきの一番大事な場所である「家庭・家族」が、反転して、自分の、一番大きな「悩み」に転じてしまう、「本末転倒」の世の中、状況になるのです。

 

 

続きを一生懸命書いてます。もうしばらくお待ちください。