〜『犬祭』2004出展作品〜
「アヌビスの裁き」 作)sleepdog

断じて犬を飼うべきではなかった。
子供の日に、娘の真理が黒い子犬が欲しいとせがむので、あまり気乗りせず店まで付いていくと、すでにそいつを真理は勝手に予約済みだった。なんだ、必要なのは財布だけじゃないか。
「三浦さん」
店員が私を呼んだ。私の財布にくっつくように真理も一緒にレジに並んだ。
黒い犬と言えばせいぜいラブ何とかしか知らなかったが、我が家にやって来たそいつは体が小さく、尻尾も小さく、線が細く、耳が上にぴんと尖がって、歩く度にひょこひょこ跳ねた。ミニチュア・ピンシャという種類だという。どこの国の犬かは真理も知らない。
妻と離婚して、真理と二人暮らしになって五年が経つ。言ってみればこいつが新しい家族の第一号だが、痩せ細って落ち着きがなくて、私にはどこか馴染めない部分があった。黒い毛に黒目というのも何となく苦手だ。それでも真理が好みなら私はそれでいい。
名前は真理が決めた。
「アヌビスにするね」
「ん? アヌビス――エジプトのやつか?」
「かっこいいでしょ? 神さまなのよ」
真理は得意げに胸を張る。そして、神様の名をもらったミニチュア・ピンシャはお行儀良くそこに立ち、尻尾をドジョウのようにぷるぷる振って、大きな目で私たちを見上げていた。
真理とアヌビスと三人でテレビの前で寛いで、「世界ふしぎ発見!」を見ていると、エジプトのミイラの謎を追う、という内容だった。あれから私も少しだけネットでエジプト神話の神アヌビスのことを調べ、真理に教えてやろうと思ったのだが、むしろ真理のほうが詳しくなっていた。小学校の図書館でエジプト神話の本を読んだらしい。
CMが開け、いよいよミステリーハンターの女性が格好ばかり視聴者を脅かし、遺跡の中へと入っていく。荘厳な内壁画と石棺を照らす濃い黄色のライトが目に焼き付いた直後、突然ミイラの干乾びた顔面が映し出された。真理は恐ろしげに息を飲み、私の膝に寄り添う。我が家のアヌビスも忙しなく真理の足許を跳ね回った。
神話のアヌビスは冥界神オシリスを敬い、その補佐役としてあらゆる人間の死期を熟知しているという。そしてミイラを冥界へ案内し、死者の心臓を真実の秤で真実の羽根と比べる。心臓が羽根より軽かった場合、咎人として心臓をアーマーンという魔獣に食べさせるのだ。
そんな話をテレビや真理から立て続けに聞いていると、我が家のアヌビスの視線が時々怖くなる。床をぴんぴん跳ねているやつに裁きなどを迫られたくないが、町で見る柴犬やチワワに比べると、得体の知れない気配が感じられるのは確かだ。けれども真理と仲が良いなら、やはり私はそれでよかった。
母親の姿を見ずに育ったせいだろうか、真理は一人になって人目がなくなると、何もかも面倒臭がってさぼる癖がつくようになった。学校からの連絡帳にもやはりそんなことが書いてある。
私が仕事で三日間出張した時も、夜遅くに帰宅するといきなりアヌビスが私の足に突撃してきた。鼻息が荒い。何やら欲求不満気味だ。私は自分の夕食用にコンビニで買った焼き鳥の盛り合わせを手に提げていた。これに反応したのか。
キッチンに行くと、アヌビスのご飯の皿が裏返っていた。洗ってもいない。お腹を空かせているのかとエサをやってみたら、あっという間に平らげた。そして、まだ足りないと言わんばかりに皿に前足を突っ込み、その足で床をベトベトに汚している。
私は真理を呼んだ。浮かない顔をして二階の自分の部屋から下りてきた。エサの空き缶を持ったままの私の姿を見て、真理は一層うつむいた。お帰りなさいの言葉もない。叱られると分かって黙り込んでいるようだ。
「留守の間ちゃんと世話したのか?」
「……した」
「嘘を言うな!」
一喝すると、真理はばつの悪い顔をして目を逸らした。
「面倒見るっていう約束で買ったんだぞ!」
「だって……、がっつくんだもん」
「当たり前だ。こいつも生きもんなんだ」と私はアヌビスの頭を撫でた。最近は私にもなつくようになり、だんだんこの黒い目が可愛らしく思えてきていた。
「とにかく、反省として今すぐアヌビスを風呂に入れなさい。分かった?」
返事がない。ふくれた面でこっちを睨んでいる。
「こらっ! あんまり言うこと聞かないと、お尻ひっぱたくぞ!」
真理の年齢では屈辱的なお仕置きだ。真理はキッと歯をむいて憎たらしい顔をした。
「やだぁ!」
――ピン!
アヌビスは二本足で立ち上がった。私はその瞬間を見逃した。しかし、アヌビスは間違いなく二本の足で直立している。気のせいか、一回りか二回りも体が大きくなったように見える。いや、錯覚か。
すると、アヌビスがその黒い目玉で私を睨んだ。まるで真理の不満とシンクロしたかのようだ。待て待て、お前をほったらかした娘だぞ。さっき腹を空かしたお前を面倒見てやったのは私じゃないか。仲良くやろうよ。
「シンリの間へ来い」
アヌビスが細い体を震わせ、地響きのような低い声でしゃべった。
私は度肝を抜かれた。この声は、真理にも聞こえたのか? ――と、よそ見をした瞬間にアヌビスは青年ほどの大きさに変わり、私の襟元を掴んで引っ張った。物凄い力だ。というか、こっちは全身にまったく力が入らない。何かにきつく巻かれたかのように、腕も足も体の芯に貼り付いて離れない。さらに、いつの間にか焼き鳥の入ったコンビニ袋がアヌビスの手に奪われていた。どうしていいのか見当もつかない。
巨大化したアヌビスは私の襟を引いて二階へと階段をずんずん上がっていく。私はなすがままに引き摺られ、階段の角で足の裏を散々痛めた。階段の下で真理が見ている。訳が分からないが、犬に連行される父親の姿はできることなら見せたくない。
「さあ、入れ。ここがシンリの間だ」
アヌビスは立ち止まり、犬の顔を私の真横に並べて低く唸った。それは本当に喉から出ている声だった。そのときエジプト神話の話が蘇り、ようやく「真理の間」というのが思い当たった。死者の心臓と真実の羽根を秤にかける部屋のことだ。
ドアに「真理」というネームプレートが掛かっている。
これは娘の部屋じゃないか。
可愛らしい桜色の絨毯の上に、私の体は放り投げられた。絨毯の摩擦で腕がじりじりと痺れる。そして、アヌビスは娘の机に飛び上り、漆黒の目玉を爛々と輝かせ、悠然と私を見下ろした。
「只今からお前の裁きを執り行う。最後まで心して見届けよ」
言い返そうにも声が出ない。なぜだ。だったらどうやってこの事態を止めればいい。
「ここに真実の秤がある」
そう言ってアヌビスが私の頭上に掲げたのは、娘のブラジャーだった。秤じゃないし、だいたいなぜそんなものが出るんだ。
「この秤に、死者の心臓と、真実の羽根を載せる」
裁判は私を置いて次々に進んでいく。アヌビスは私から奪ったコンビニの袋をあさり、タレの滴る肉片を取り出した。そして、右のカップには鶏のシンゾウを、左のカップには手羽先を載せる。アヌビスは悪鬼のような形相で舌なめずりをした。
「さあ、どっちに傾くかな?」
知るか――。
ブラジャー上の勝負は手羽先が勝ってしまった。アヌビス的には真実の羽根のほうだ。死者の心臓が軽いと判明すれば、咎人として心臓を魔獣アーマーンに食われてしまう――もし私が食われてしまったら、真理は独り置いてけぼりだ。どうか、それだけは、それだけは……。
「頼む!」
声が出た。私は自分で驚いた。
「何だ、お前の末路はもはや確定したぞ」
アヌビスは険しい表情を返した。
「ちょっと待ってくれ! 私は死んでない」
そうだ。神話ではミイラを冥界に連れて行き、そこで例の裁判をするんじゃなかったのか。生きている者は関係ないはずだ。
「いいや、ミイラだ。白を切るな。人前でそう名乗っておるだろうが」
違う、三浦だ。
「ミイラだ」
こじつけだ――……。
私はもはや完全に脱力した。どう言い返しても裁定の結果は覆せない気がする。だったらせめて最後に真理の顔を。ああ、さっきは口うるさく言ったけれど、本当はこの三日間寂しい思いをさせたことを最初に謝りたかったんだ。それがこんな羽目に――この不甲斐ない父親をどうか許してくれ。
すると、アヌビスは少し哀しげな目をしていた。
「現世との別れがそんなに辛いか」
「はい……」
私はうなだれた。必死の思いで出た声も、こんなに情けないのなら真理に届かぬよう消して欲しいくらいだ。アヌビスは同情するかと思ったが、静かに首を横に振った。
「無理だな」
神と言っても所詮は犬だ。任務に忠実なのは止む得ない。
「そうか……」
「いずれにせよ、オシリス様を侮辱したんだから仕方ないな」
私は咄嗟に顔を上げた。
「侮辱? そんなことしてないぞ!」
「まだ白を切る気か。さっき大声で言ったろう。オシリス様をひっぱたく、と。この立派な耳をして、あれを見逃すわけにはいかないからな」
それ、お尻だってば……。
真理の部屋がいっ時、最後の沈黙に包まれた。
「さて、この死者の心臓を――」
魔獣アーマーンなんてどこにもいないじゃないか。
「あーーーん」
アヌビスは自分で言いながら、鶏のシンゾウを一口で食べた。お前が食うのか。ついでに手羽先も食べた。だから、お前が食うのかよ。お前が魔獣か。
すると、仕事を終えたアヌビスはしゅるしゅると元の大きさに戻って、満足そうに机から飛び下り、私に一瞥をくれ、元気良く部屋を出て行った。後にはネギマを二本残すばかりだった。
「何だよ、これは食えないのかよ」
おわり
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