日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



「恋するあかなめ」


 舌には、その人間の確かな意思が宿っている。
 どこを想像してもいいが、体の一部を「なめる」という行為は両者の信愛を知る秤だ。どちらかの一方的な愛情でなく、『両者』という点が非常に重要だ。俺は自分よりひと回りも年下の女の子からそいつを教わった。
 犬猫類は事情が別だろうから、俺たちのような『親密度で個体を区別している生命体』に限って考えてみれば、「なめる」行為には快感か不快かという両極端の感情しかない。中途半端なやさしさなど介在する余地はない。
 たとえば傷心の人を慰めようと思う時、普通の人は何をするか。たいてい言葉をかける。これは良い。だがこのとき、舌でなめるという選択はない。論外だ。俺たちはこのことを他人に細かく教わらなくてもちゃんと心得ている。
 お互い好きならば、舌は感情に従う。どちらか一方でも十分な愛情がなければ、舌は確実に拒絶される。つまり、それほど舌という部位は個人のアイデンティティの象徴であり、舌の果たす機能は内面的な感情によって動かされている。



 出会いは夜中のスポーツクラブだった。二月。十三日の金曜日。
 俺はサイクリングマシンでフロリダっぽい海岸線の映像の中を走り終え、ひどく汗をかいていた。頭にタオルをかぶせながらメーターを見て消費カロリーを確認する。一日の目標にはまだ足りない。一応、この後プールで水泳をする予定を入れてあった。
 俺の体重は百五キロもある。
 持田という姓は皮肉なもので、俺の腹は縁起の悪い鏡餅のようになっていた。この五年間肥満を放置してきたのは、ここがアメリカでないことと、深く信じていた恋愛が破綻した痛手で彼女を作るのに興味が失せたことが大きい。
 しかし、この正月に帰省した折、俺は完全に考えを改めた。正月はただでさえ憂鬱なのに、俺に肥満体質を遺伝させた母親が糖尿病で入院している情けない姿を目の前にして慄然とした。尿から糖が出るなんて、考えただけで腹が立つじゃないか。
 決断を先延ばしにしてはいけない。スポーツクラブは一番近いところですらマンションから車で十五分もの距離があった。だが、それを言い訳にするのは嫌だった。
 入会する前の晩、二十九歳という得体の知れない緊張と羞恥心から、いつもより酒が進んで、俺は実に愚直だと一人わびしく笑い転げた。けれども、スポーツクラブの受付は想像していたより明るく開放的で、俺は入会金を払っただけで一キロやせたような気分になっていた。ついでに競泳用パンツやスニーカー、リストバンド、スポーツタオルなど一式をマスターカードで購入し、「やせた俺。プライスレス」などとほざいて少し舞い上がっていた。
 入会して日が浅い俺はクラブでまだ知り合いもおらず、週三回のペースで孤独な夜を闘い続けていた。標準の体重まで落とすまでは、たとえ何ヵ月かかろうとも間食とお替わりを一切絶とうと誓いを立てた。その決心は今もまったく揺るぎない。
 このクラブは二十四時間営業で、夜間は仕事帰りの会社員やOLらしい人たちが多いが、終電の時間を過ぎると茶色い髪の若いやつらが増えてくる。ビジターでも五百円払えば翌朝六時まで何を使ってもいいし、ウェアやシューズもレンタルしているので、カラオケではなくこちらに来る連中も多い。
 フロリダの光を浴びて走る俺をじっと見ていた幼い彼女も、そういう中の一人だと思っていた。しかし、彼女の黒く美しい髪は、運動もせずただ隅っこでダンゴ虫みたいに固まってしゃべっている女の子らに比べると、まるで異質な光沢を帯びていた。こんな汗臭い場所にいないで、早く帰ってふかふかの可愛らしいベッドで眠る時間だろう。それとも友達か誰かをあそこで待っているのだろうか。
 タオルのすき間から彼女の顔を眺めていると、向こうも視線に気づいたらしく、壁から離れてこちらに歩いてきた。マシンが空くのを待っていたわけではない。両隣りのマシンとも俺の巨体を避けるようにして空いていた。
 足音を床に吸われながら、彼女は俺の目の前に来る。ぎこちないスポーツウェア。生白い肌。あどけない小さな顔に、薄く透き通ったくちびる。やわらかいまつ毛に縁取られた二つの瞳が見ているのは、間違いなく俺だ。
「あの……、そのタオル借りてもいいですか?」と彼女は言った。俺にだ。
「えっ、いや――使いかけだけど」
「だめですか?」
 別にだめではない。俺はおとなしくタオルを渡した。よく見ると、彼女は汗など全然かいていなかった。だからと言って、返してくれと言うほどのことじゃない。俺が黙って見ている間、彼女は品定めをするような真剣な目つきでタオルをよく確かめていた。タオルの何を? ――あえて言うなら、重さだ。俺にはそう見えた。
 そのうち、彼女はタオルにゆっくり顔をうずめ、汗の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。他人の汗だ。この子、頭は平気か?
 そして顔を押し付けたまま、
「うん、これ」
 と彼女は言った。
「……え、ああ」
 俺は何となく座りの悪い感じでそう返した。


 こんな夜中に、何となく話し相手が欲しかったのは俺も彼女も同じだった。藍沢稚由美。「ちゆみ」とは珍しい名前だ。
 自販機でヴァームを買って飲みながら、青いビニール皮の長イスに稚由美と並んで腰を下ろした。俺はこんな体型になってから久しく女の子とこんな距離で話していない気がする。緊張はしないが不安はあった。
 話している間、稚由美はずっと俺のタオルを大事そうに握り締め、時々手の中でぎゅっぎゅっとそいつを揉んだ。その度に黒髪が白い首筋をなめらかに波打つのがすごく愛らしい。
 稚由美のウェアはレンタルでなく持参のものだった。
「ここの会員?」
「違うよ」
 ビジターということか。しかし、夜遊びしている連中と同類には見えない。それは身勝手な考えかもしれないが、俺は一人っ子で妹などいないから余計にそう思いたいのだ。
「まだ帰らないの?」
「……帰れない」
「え?」
「大好きな人に裏切られて、捨てられたばかりなの」
 思いがけない言葉だった。
「家は?」
 ぽそり――稚由美の小さなくちびるが空回りをした。何と言ったか聞き取れず、もう少しそばに寄ろうとすると、消え入りそうな声が俺の膝の上にこぼれ落ちた。
「追い出された」
「え、じゃあ、家ないの?」
 稚由美はうなずいた。慰めの言葉を探している合間に、すっと冷たい手が伸びてきて、汗ばんだ俺の腕をつまんだ。腕の肉を無邪気に揉みはじめる。それから俺がいろいろ話しかける間もずっとそれをしていた。俺の“もち肌”がよほど気に入ったのだろう。何の気なしに「やわらかい?」と聞いてみると、
んふふ、と初めて可愛い笑顔をのぞかせた。
「――うち来るか?」
「うん。行く」
 稚由美はためらいなく答え、腕に寄り添い、ぺろりと肌をなめて返した。俺はちょっと面食らったが、小さな舌先はまさしく女の子の温度だった。

 俺は後の予定をすべて切り上げ、ロッカールームで着替えをしようと廊下に出た。稚由美も連れて来た。受付のところで待ち合わせをしても良かったが、ちょっとの時間でも一緒に並んで歩きたかったのだ。俺は自分で馬鹿だと思うし、正直それでもいい。
 しかし、俺はまだ恋人的な感情を持っていなかった。稚由美の、久しぶりに会った兄貴か、あるいは年上の従兄弟みたいな感覚――言葉にしてみればそんなものに近い。俺は家を追い出された女の子を紳士的に面倒見ている。稚由美が望むようならどこに連れて行ってあげてもいいし、もちろん何もしなくてもいい。どうも俺の性欲は、この五年間のうちに食欲に食われてしまったらしい。稚由美の横顔を見て、そんな余念が頭をかすめた。
 ロッカールームは男女別フロアになっている。エレベーターはなかなか下りて来ない。間を埋めようと俺は稚由美のほうに振り向いた。
「おなかとか減ってる?」
 稚由美の顔を見ると、そんな気配がしたのだ。
「ううん。要らない」
 そう言って、稚由美はきゅっと唇をとがらせた。
「ねぇ、なめてあげる」
「え――どういう意味?」
 稚由美の目はまっすぐ俺に向いていた。
「体なめてあげる」
 この脂肪だらけのたるんだ体を? 俺は一瞬、稚由美の真意を疑った。あるいは職業か性癖か神経か元彼か――どれも近いが、どれも違う。根本的に俺が問うのは信愛の情だ。『体をなめる』だなんて……。
「いま?」
「うん。あそこのトイレに入って」
 稚由美は廊下の端にあるトイレを指差した。男性用と女性用が並んでいる。「どっち?」思わず聞いた俺は馬鹿だ。
「人がいないほう」
 稚由美は清潔な笑顔で平然と答えた。くすくす笑うな。照れ臭いのはこっちのほうだ。
 ふと落ち着いて考えれば、これは稚由美の好意かもしれない。誘う女っぽいものをたまに映画で観かけるが、今の稚由美の目はそれとは全然違う。からかっているような雰囲気ではない。
 しかし――後でお金を要求されるのだろうか。女の子を買った経験など俺は一度もない。このまま行けば、紳士的に接しようと心に決めた俺の純情は、三万円かそこらで消し飛ばされてしまうのだろうか。俺は少し胡乱な気持ちになりかけて、もう一度稚由美の目を見た。しかし、目は人間の意思を伝える本当に確かなものなのだろうか。自信がない。
「大丈夫、お金ほしいなんて言わないよ」
 見透かされたかのような言葉。
「ねっ、早く」
 稚由美がせかすので、まさか人が来ているのか思ったが、廊下に人影はなかった。代わりに上階からエレベーターが迫ってくる。どんどん数字が減る。もうすぐ鉄のドアが開くだろう。乗るならどっちだ!
 俺の頭は瞬間的に沸き上がり、咄嗟に稚由美の手を引いて女性用トイレに放りこんだ。「ひゃっ!」稚由美の悲鳴が俺の背中をぐいと押す。
「誰かいる?」
 俺はドア越しに尋ねた。馬鹿だ。何のつもりだ、これは。
「いないよ」
 稚由美は明るくはずむような声で返した。そして二十九歳の冬、俺は大人になって初めて女性用トイレのドアをくぐった。

 男性用と全然匂いが違うと思っていたのは俺の単なる先入観だった。それともここがスポーツクラブの中だからか。誰もいない清潔感あふれる空間はかえって不安を掻き立てた。
 ――いや、違う。誰もいないわけじゃない。トレーニングルームにはまだ利用客がたくさんいる。入口のドアを見やり、今にも誰かの影が差すんじゃないかと怯え、俺はいい年をして足が震えそうになった。稚由美の姿をしっかりと目の中に留める。この子の意志が大きな頼りなのだ。
 俺は一番奥の個室に入り、稚由美の体を引っ張りこんだ。狭い。俺は改めて自分の体型を思い知らされ、普段の何十倍も強く恨んだ。運動の汗とは別の、もっと脂臭い汗が噴き出すような息苦しさが襲ってくる。俺は必死になって上着を脱いだ。ズボンは……まだどうしていいかわからない。
 そこでまた稚由美と目が合った。ほほを赤らめ、切ないくらい可愛い顔をしている。
「暴れないでね」
 稚由美はウェアを着たまま静かに鼻を寄せる。熱い息が一瞬当たったかと思うと、ぬるりという感触が左胸の肌を滑った。肉の厚みで鈍化した体でも肌の感度は変わらないのか。後ろめたさと切迫感に押しつぶされそうな孤独の喉から、グヒッと男の声が漏れた。まるで死刑台に括り付けられた豚だ。
「お願い。声出さないように我慢して」
 稚由美は俺の脇腹を軽くたたいて注意した。
 俺の声が廊下に漏れたらまずい。ちょうど稚由美の手で遊んでいたタオルを奪って、その端を自分の口の中に詰めこんだ。ドラマやビデオで見たような場面。しかし立場はまったく違う。タオルはこんなに毛羽立つものなのか。汗の匂いが鼻腔に蒸し蒸しと上がってくる。自戒と哀しみに顔がゆがむ。何をそこまで従順に、こんなことをやっているのか。理由など問うだけ空しい。
 稚由美の舌の愛撫は、胸板に始まり、左肩へ這い上がって、首筋をねっとりと昇った。驚いたことに稚由美は俺の顔も丁寧になめてくれた。顔も全身のうちに入るのか。なぜ意外に思ったのかわからない。脳信号が交錯する間に、稚由美の舌は俺の左のほほから、ひたい、まぶた、鼻、あご、そして右のほほへと抜けていく。不思議と耳は両方ともなめずに通り過ぎた。そして、右の首筋から背中へと回りこむ。壁と肉との隙間に稚由美が頭をぐりぐり潜りこませてくるので、俺は慌てて体勢を変えようと思った。
 狭い個室の中、巨体を裏返そうと腕を伸ばして突っ張った。ところがドアの立て付けが悪く、ガタンと大きな音を立ててガリガリと揺れた。稚由美の舌がショックで一旦停まる。さらに悪いことは重なった。
 ……、キュッ、キュッ。
 音は廊下からやって来た。スニーカーの靴底が床にこすれる音。
 誰かがドアを開け入ってきた。女性のため息。彼女は立ち止まった。
 ジッパーを開く甲高い音が鳴り響く。
 いくら待っても個室には入ってこない。俺は怪訝な顔をして、ゆっくり背中のほうへと振り返った。稚由美の前髪は乱れていた。すると、稚由美は悠々とした表情で俺を見上げ、くちびるを動かして答えた。
 化粧直し、と言った気がした。
 女性がトイレを出て行ってから、稚由美はまた同じリズムで全身なめを再開した。俺のほうも何かきっかけだったかはっきりしないが、その舌を自然と受け容れる心境に変わっていた。怯える心の檻は泡と溶け、無防備の体にひたすら麻酔が流れこむようだった。舌から伝わる稚由美の体温が心地よくてたまらない。
 本当に言葉通り、稚由美は丹念に全身をなめてくれていた。砂漠の長旅で絶望的に渇いた仔猫の群れに襲われているような感じだ。水分は俺の体液しかない。そう言えば何年も前に不気味な推理小説の中で、砂漠の楼閣に閉じこめらた二人の人間の話を読んだ。渇きで死にかけた男が相棒を殺し、その血液をなめるのだ。まさにそれだ。俺の緩慢な年月はひとつの小さな舌に切り裂かれ、懇情の肉塊に塗り替えられようとしている。
 やがて、俺は体から剥げ落ちていく残滓を慰めるように、おとなしくズボンを下ろした。稚由美の舌は何も言わず、背中から腰にやさしく流れていく。太ももの外側は他の場所より刺激が弱く、俺はわずかに冷静さを取り戻した。
「飽きないの?」と聞いた。――それだけだった。どうしようもない愚問に対し、稚由美は恥ずかしそうに小さく肩を震わせた。
 最後、稚由美は足の指十本まで熱心になめてくれたが、勃起したペニスはなめなかった。セックスもしなかった。ただ純粋に稚由美は全身をなめ、俺は恍惚に浸った。そこまでで個室の宴は終わったのだ。稚由美はすごく満足げに立ち上がり、裸の俺に寄りかかった。
 ……わかっている。もちろん稚由美が尽くしてくれた好意に対して不満はない。正直よくわからないのだ。あまりにも唐突で、本当に好意かどうかも不確かで。ただ少し、遠足で一人駐車場に取り残されたような生ぬるい虚無感があった。

 稚由美が先にトイレを出て、廊下に人がいるか確認した。
 少し間を置いて、「いいよ」と言うささやき声がドア越しに届いた。十代同士ならともかく三十前の男がする遊びではない。俺は慎重に女性用トイレから顔を出した。するとそこに、稚由美の小さな体と、美しい黒髪と、真剣な横顔があった。俺の全身を這い回ったあの舌の感触は本物だったのだろうかと疑いたくなる。
 俺は思わず横から稚由美を抱き締めた。すんっと鼻を鳴らす細い声が漏れた。この体はあの舌と同じ温度に思えた。
 エレベーターは最上階からするすると下がってくる。時計を見ると、夜中の二時半を回っていた。いわゆる丑三時――妖怪が動き出すころだ。こんな時間から来る人も結構いる。俺は稚由美の腰にそっと手を回し、エレベーターを励ますような気分で階数表示ランプが移動するのをじっと眺めていた。
「あっ」
 稚由美がふいに声を上げた。俺とは違う場所を見ている。
「どうしたの?」
 何気なく尋ねると、稚由美は肩をすくめ声を潜めた。
「さっき、そこに赤いやつがいたの」
 指差す方向を確かめる。トイレの先に、ほの暗い階段があった。非常口の緑のランプが目に付いた。だが人影はない。
「赤いやつ?」
「うん。でも、スッて隠れちゃった」
「え、ちょっと待って……」
 階段に誰かいたのだろうか。『隠れた』という言い方が妙に引っかかる。上の階はプールがあり、下の階は男性用のロッカールームだ。運動のために階段を使う人もいるだろうが、普通に歩いていただけなら稚由美が悲鳴を上げることはない。それに、赤い色――そこが妙に具体的なのも気になる。今日トレーニングルームで赤いウェアを着た人を見た記憶はなかった。
 俺は不審に思い、稚由美をかばうようにして柱の陰に身を隠した。ちょうどそのとき背後でエレベーターの音が鳴り響き、ドアが開いた。中には誰も乗っていなかった。
「乗らないの?」
 と小声で稚由美が聞いてくる。俺は声を出さないよう指で合図した。そしてエレベーターを一回やり過ごした。空の箱がビルの中を静かに下りていく。
 赤いやつがまだ階段に潜んでいるなら、俺たちは今のに乗ったと思うはずだ。もし俺たちを追いかけるつもりなら何か行動を起こすに違いない。正直考えすぎだと腹では思いつつ、俺は頼りがいのある兄貴像を思い描き、ちょっとした冒険っぽいこの緊張感に強く惹かれていた。いつも通り俺一人だったら普通に乗って帰っていただろう。しかし俺は今、砂漠の楼閣内で繰り広げられる真夜中の興奮の延長線上にいるのだ。俺の肉体の尊厳を脅かした小さな姫も一緒だ。ここで逃げる気など起こるわけがない。
 けれども俺の予想に反し、物音ひとつない時間がいたずらに過ぎた。それが長いのか短いのか判断がつかない。エレベーターは一階で停止した。稚由美は言われた通りに、俺の腕の中でじっと息を殺している。
 俺はタオルで顔や首の汗をぬぐった。トレーニング中に散々汗を吸い、挙句自分のよだれまで吸って、すっかりくたくたになっていた。けれども、こんなものだっていざとなれば武器になる。
 実際、何ヵ月か前に電車に乗っていた時、痴漢の現行犯を捕まえて駅員に突き出した勇敢なおやじを目撃した。首に巻いたタオルで痴漢の男の両手をきりりと巻き上げ、男をホームに這いつくばらせたのだ。あれは本当に壮快だった。あの場にいた全員が胸の空く思いで満たされた。
 今回の赤いやつも気持ち悪さで言えば痴漢にまったく引けをとらない。早く現れろ。俺がこの場でその正体を看破してやる。
 すると、階段とは反対側から、トレーニングルームのドアが開く音がした。人とマシンが織り交ざる騒がしい音がわっと廊下に広がった。振り向くと、俺よりずっと若い男たち三人がスポーツドリンクを回し飲みしながら歩いて来た。「風俗の子とやった」とか「病気がうつる」とか下品な話題で騒いでいる。幸い自分たちの会話に夢中で、俺と稚由美が寄り添う姿はまったく目に留まっていないようだ。
 しかし、連中はいずれここに来る。きっと俺たちを飢えた目で見るだろう。俺はさすがに張りこみごっこを諦めて、柱の陰から出ようとした。そのとき。
 カッカッカッ……。
 硬く冷たい足音だった。階段だ――。
 そして俺の目に、人型をした真っ赤な後ろ姿が確かに映った。頭から背中にかけて同じ赤色でひとつながりになっている。あれは何者だろうか。やつはちょうど階段を下りて行く途中だった。
「あっ」と悲鳴を上げて、稚由美は体を震わせた。俺と同じものを見たようだ。すかさず「あれか?」と聞くと、目を薄氷のように強ばらせてうなずいた。間違いない。
 俺は廊下の真ん中に躍り出て、階段に向かって走り出した。稚由美を置いていこうと思い腕を解いたが、稚由美は俺の服をつかんで必死について来た。走りにくい。ただでさえ余分な肉が何十キロも付いているのに。だが、戻れと大きな声を出すわけにもいかない。それに、エレベーター前に残して、向こうから来る不埒な三人組に稚由美がからまれるのも避けたい。俺は心を決め、再び稚由美の手を取り、階段めがけて懸命に走った。突然響いた大きな足音のせいで後ろの三人組がざわめいたが、振り向く余裕はなかった。
 階段の中ほどにいた赤い影は、俺たちの走る足音を聞いたと見え、早足で駆け下りて行った。顔が見られるかと期待をしたが、残念ながらこっちを振り返らなかった。そして、赤い影は踊り場を曲がって一旦視界から消えた。
 負けるものか。
 俺はもっとやせていたころ、十年前は大学の駅伝選手だった。チームも強かったし、俺自身も将来を期待されていた。しかし、監督が自分の教え子に手を出して、その事が明るみになり解雇される憂き目に遭った。手を出したと言うのは正確でない。ストーカー行為だ。表ざたになるまで半年間も続けていたらしい。被害に合っていた女の子が重度のうつ病で入院する騒ぎになり、“お見舞い”をしようとした監督は、病院内で不審者として警備員に捕まった。報せを聞いて一発殴りたいと思ったとき、もう留置所の中だった。
 それから急遽監督が変わったが、箱根の大会には調整がまったく間に合わなかった。あれ以降チームの志気はどん底まで落ちこんで、有能な高校生の進学希望者も逃げ、翌年予選敗退という結果に全員が辛酸をなめた。俺はあの恨みをまだ忘れていない。正月を迎える度に、より暗い部分に深く浸透していくのだ。
 それにしても、あの『赤いやつ』は何を狙っているのか。稚由美なのか、違うのか。それはまだはっきりしない。明確なのはただひとつ、俺たちが走り出した瞬間やつは逃げたということだ。普通の利用者ではない。とにかく、稚由美、俺のそばから離れるな。声には出さず、汗ばんだ手を強く握り締めた。

 階段の幅は案外広くて助かった。下からトトトトッとやつの走る靴音が響いてくる。まだ手の届く距離にいると俺は確信した。やがて、やつの靴音の高さとリズムが変わった。廊下のほうに走って行くようだ。
 その直後、階下でドスンと激しくぶつかる音がした。
「おいっ、気をつけろ! 走るんじゃねぇよ!」
 俺と稚由美は急いで踊り場を折り返し、網膜に焼きついた人型の赤い影を追った。振り子のように大外にはみ出しながらも全速力で駆け下りて、最後の二段をすっ飛ばし、いよいよ廊下へ降り立った。稚由美は息を切らせながらもちゃんとついて来ている。俺の足が遅くなったのかと考えると少し胸が痛んだ。
 この先には男性用のロッカールームがある。そこで赤い服を脱ぐ気だろう。やはりやつは男か。俺はふつふつと怒りが湧いてきた。男ばかりのフロアで稚由美を連れて走っていたら怪しまれるが、そんな些細な体裁を気にしている場合ではない。俺は稚由美の腕をぐいっと引っ張り、再び勢いよく足を前へと踏み出した。
 廊下の角を曲がると、視界が一気にまっすぐ開けた。長く伸びた廊下には、四人の男性の姿があった。年齢はさまざま、立っている場所もまちまちだが、四人とも普通に歩いている。赤いウェアは一人もいない。俺は一番近くにいた初老の男性に声をかけた。
「すいません、さっき赤い服の男が来ましたよね?」
「えっ?」初老の男性は顔を曇らせた。
「さっきぶつかったでしょ」
「私じゃないよ」
 そもそも声がまったく違った。この人じゃないとわかると、俺はさらに廊下を突っ走った。二番目に近くにいた中年の男性は俺たちの姿を見て、「走ったら危ないよ」と先に注意をして来た。俺は慌てて足を止めた。
「あの、赤い服の男が来ませんでした?」
「ん、何のこと?」
 よく聞くと、やはり声が違う――。男性に頭を下げて、その場を離れた。振り返ると、稚由美が髪を振り乱して今にも膝から崩れそうになっていた。
「ねぇ、何で追いかけるの?」
 それは意外な言葉だった。思い返せば、稚由美は二度「あっ」と声を上げただけだ。狙われてるとか、捕まえなきゃ、というのはすべて俺の頭の中で構成されたものだ。けれどもこれは、すでに俺の尊厳を取り戻す冒険と化していた。稚由美に被害意識がなくても、俺にはやつを追いつめる理由があるのだ。言葉で伝えるのが難しく、わかってほしいという思いが先に来た。
「あやしい匂いがするんだ」
「え、そうなの……?」
 俺は構わず前を向いた。三人目は廊下のはるか遠くに立っている。足音で感じた距離から考えて、あそこまで一気に行ってぶつかるなんて絶対不可能だ。エレベーターは一階で止まったままだ。じゃあ、やつは……。
「あっ!」
 俺は完全に事態を飲みこみ、鋭く舌打ちをした。
「稚由美」俺はもう呼び捨てにしていた。「ごめん、赤いやつに逃げられた。
くそっ、騙されるなんて!」
「静かにしなさい」
 さっき注意された中年男性の声だった。俺はきちんと頭を下げて、彼から見えない場所に移った。
 呼吸を整えつつ、廊下の長イスに二人並んで身を沈めた。俺は赤い影に対する激しいいらだちを必死で抑えこみながら、稚由美に向かい小声で話した。
「さっきの怒鳴り声は、やつが自分で言ったんだ。あのぶつかった音だって、体を壁に当てたような感じがする」
「じゃあ、どこへ行ったの?」稚由美も俺に合わせて小声で言った。
「たぶん階段で下りたんだと思う。一旦廊下に出たふりをして、すぐに戻って、靴を脱いで下りたんじゃないかな」
「え、靴を?」
「あの怒鳴り声と靴音に騙されて、俺たちは廊下のほうに来ちゃったんだ。やつはもう相当下まで行ってると思う」
「うん……」
 稚由美は表情を曇らせ、はっきりしない返事をした。
「どうしたの?」
「あの声が、もし赤い人のだったら、何となく知ってる感じがして――」
「え、誰?」俺は思わず身を乗り出した。
「ううん。やっぱり自信がない」と稚由美は顔を伏せて黙った。
 ストーカーの半分以上は知り合いだと言われる。赤いやつの正体が何者か、後ろ姿だけでは確かめようがない。いずれにせよ、やつが姿を消したことは間違いない。陰湿で気持ちの悪いやつだ。ここまで巻き込まれた以上、なおさら俺は稚由美のそばにいてやらなければいけない。
「こういうことって前からあった?」
 稚由美は目を伏せ、怯えるように首を横に振った。その様子を見て、膨れ上がった俺の虚妄は一気に砕け散り、眠るように静かになった。稚由美への尋問を止めて、そっと時計を見る。三時前だ。こんな遅い時間に走り回って体にこたえたのだろう。俺はうつむく稚由美のほほをやさしく撫でた。
「ごめんね。もう、おとなしく家に帰ろう」
 そう言うと、稚由美は顔を上げゆっくりうなずいた。俺は笑顔に戻った。そして立ち上がろうとすると、稚由美は不安が胸に走ったのか、俺の腕をぐいっとつかみ止めた。汗でじっとり濡れた俺の肌に、稚由美は潤んだくちびるを当てた。そして、何やら期待のこもった上目遣いで俺を見上げた。
「もうその話は止めよ。それよりね、もう一回」
「ん?」
「体なめてあげる」
 俺と稚由美はその階にある男性トイレの一室に入った。
 今度は誰の邪魔も入らなかった。俺は稚由美を受け止める体勢や呼吸を多少学習したおかげで、一回目よりテンポよく全身を稚由美の舌にさらした。
 無論セックスはなかった。こういう遊びなんだ、と俺はようやく事情を飲みこんだのだ。最初に俺を捕らえたあの虚無感が、むしろ清浄な親近感へと転化したような気さえしていた。

 二人とも着替えを済まし、俺は駐車場から車を出して、稚由美を乗せて自分の家に向かった。築三年のワンルーム。当然あのマンションで二人暮らしは禁止されているが、オーナーは伊豆の邸宅から一歩も出ないと聞くし、管理会社もほとんど様子を見に来ない。エントランスの電球が切れても交換されるのは一ヵ月後だ。何の問題もない。
 車の中はずっと静寂が続いていた。聞きたいことは山ほどあったが、何かを言いかける度に、あのとき廊下で答えを拒絶した稚由美の様子が鮮烈に頭に浮かんだ。
 先にしゃべったのは稚由美のほうだった。
「コンビニ寄っていい?」
 少し先に青い看板を見つけ、車を横に滑らせた。
 俺はよく走って小腹が空いていたので、おでんの大根とコンニャクと烏龍茶を買った。玉子やさつま揚げは当分の間全面禁止だ。店員が眠そうな顔でもたもた勘定をしている間、レジの中に並んだDVDのタイトルを何気なく眺めていた。その中に『ゲゲゲの鬼太郎』があった。俺はねずみ男と目が合った。
 店の外で待っていると、稚由美は箱のお菓子とアミノ酸飲料を買って来た。安らいだ笑顔を見ると、疲れが体に落ちてくる。稚由美のためにドアを開け、俺は運転席に戻った。
「稚由美ちゃん、『あかなめ』って知ってる?」
 前置きもなくそう聞いた。呼び捨てにした勢いは今はもうない。
「なにそれ?」
 稚由美はペットボトルのふたを開けた。
「妖怪なんだけどな、まあ、悪いやつじゃない」
「うん」
「風呂場が汚れていると、人が寝静まった夜中にどっかから入りこんで、風呂場のあかをなめるらしいんだ」
「……なんか気持ち悪い」
「ああ、ほんとに気持ち悪いやつだよ。何を考えるかわからない」
 確か『あかなめ』は鬼太郎のアニメでは赤い色だったような記憶がある。階段を下りる赤い服の人影が脳裏に蘇った。燃えるような色をしながら、冷たく湿った物陰に潜む――。やつは俺たちをまんまと巻いた時、あの下の踊り場の裏側で舌を出して嘲笑っていたのだろうか。もちろん本当はさっさと下りて行ったのだろうが、俺は赤い影の浮かべる粘着質の視線をどうしても想像せずにはいられなかった。

 交差点で赤信号をにらんでいると、稚由美が隣りでごそごそと袋から箱を取り出し、俺の前にそれを差し出した。ん、自分が食べるんじゃないのか。赤くラッピングされた箱。何のお礼のつもりだろう。俺は『あかなめ』を取り逃がしたのに。
「今日バレンタインだから、買って来ちゃった」
 その笑顔が二十九の男を涙に誘う。今すぐ抱き締めたいくらいに。
「あ、ごめん、ダイエット中……?」
「いや――これだけは特別」
 俺はすぐに袋を破り、中身を取り出した。トリュフがたくさん並んでいる。濃厚なチョコレートの香りが胸をくすぐった。一粒つまんでみると、久しぶりに味わう甘みに心がじんわり満たされた。何だろう、これは。俺はどうしようもなく泣きそうになってきた。
 稚由美は横で、俺の顔を楽しそうに眺めている。
「ねぇ、もらっていい?」
 俺はうなずき、箱ごと稚由美の手に載せた。ちょうど信号が変わりそうだったのだ。膝の上にあると運転しにくい。稚由美は一瞬驚いたような顔をしたが、俺がすぐに左手で二粒目をつまむと、うれしそうに自分も一粒口にほおばった。
 前方が青信号になった。アクセルを踏んだ拍子に、稚由美の舌の感触が体の芯に戻ってきた。理由を知りたい。会ったばかりの男の体をなめるなんて簡単な気持ちでは絶対できない。口の中で、二個目のトリュフが砕けて溶けた。
「あのさ、なんで俺の体をなめる――って言ったの?」
 ひどい質問の仕方だ。しかし、うまい聞き方なんてあっただろうか。「なめるの好き?」などと聞けば、俺が本当に知りたい部分と大きくずれてしまう気がする。……俺は何をこうも真剣に言葉を選んでいるのか、自分でもうまく説明できない。それでも稚由美のことが知りたいのだ。
 稚由美は戸惑うと思っていたが、大人の予想に反してあっさり答えた。
「体をなめてるんじゃなくて、汗をなめてるの」
「汗?」
「タオル借りたとき、汗の塩味がすごく気に入って」
 確かに稚由美はあのとき『しょっぱい』と言った。しかし日本全国で甘いものを食ってる日に、男の汗の塩味が気に入ったとは変わった子だ。
「ああ、だから――」
 俺はその先を言いよどんだ。だから、耳とペニスをなめなかったのか。そうか、どっちも汗をかかない。
「どうして汗をなめるの?」俺は何気なく聞いた。
「うつ病に効くらしいの」
「え?」
 俺は顔をしかめる。運転中だから迂闊に横は振り向けない。いま稚由美はどんな表情をしているのだろうか。それは本気で言ってるのか? 迷っているうちに、稚由美はどんどん先を話し始めた。
「小さい時から、うつの気があったの。それでね、去年学校で長い間嫌な目にあって、症状が重くなりそうになっちゃって」
「うん……」曖昧な相槌しか返せない。
「でも、神経科なんか行ったら、おかしくなった子だとまわりに思われるでしょ。それが怖くてお兄ちゃんに相談したら、汗の成分にある何とか酸がうつ病に効くってこっそり教えてくれたの」
 ――驚いた。そんなのはまったくのデタラメだ。
 俺は大学で保健科学を必修課目で取っていた。汗の成分のほとんどは水、あとは微妙の塩分と乳酸くらい。乳酸は筋肉疲労によって出る老廃物だ。仮にとんでもない勘違いでそれを乳酸菌と混同していたとしても、汗なんかなめるよりヤクルトを飲めば済む話だ。とにかく、汗にはうつ病に効く成分など一切入っていない。
 稚由美の兄は本気でそれを教えたのだろうか。いや――もし、すべてきちんとわかっていて、あえて嘘をついたのなら、その目的を想像するだけで寒気がする。おかしい。どう考えてもおかしい。相手は実の妹だぞ。
「稚由美ちゃん、汗の成分って調べた? 本とかネットとかで」
「ううん。お兄ちゃんが言ってたから」
 やはり稚由美は無条件に信用している。汗をなめることで、うつの症状が軽くなると思いこんでいる。たくさんなめればいっぱい効くと、そんなふうにまで思っているのか?
 呪いだ。――兄妹の情ではない、作為だ。
 この子の舌に宿った悪意だ。
 俺はすさまじく失望した。今夜、俺に舞い降りたすべての冒険と抱擁が汚されたような気分だ。なぜだ。なぜ、このトリュフの濃厚な甘みが、口の中で、ぬめぬめとした臭い『あか』へと変わっていくんだ。もういい、考えるな。これ以上『あか』を探すな。
「わかった」
 しかし、もしここで俺が嘘だと言ったら、稚由美は俺のもとを去って行くだろうか。案外それは現実になるかもしれない。稚由美は俺の汗をきっと薬だと思っている。しかも、普通の人より大量に流れ出し、味まで気に入ったという薬――。
 俺は稚由美に対し、汗をなめなくていい人生を教えてあげるべきか。
 あるいは、稚由美と一緒に過ごす時間を守るのか。
 ……決められない。あと一晩ゆっくり二人で過ごしてから考えたい。
 いや、待て。デタラメだと知っていて体をなめさせたら俺もやつと同罪じゃないか。じゃあ、やっぱり稚由美を失うのか。わからない。物事の根底が『あか』にくすんで汚れているような気がする。くそっ、冗談じゃない。俺までねとねとした呪いに取りこまれそうになっているじゃないか。
 そう言えば、稚由美の親はどうなったんだ。何も知らないのか。家を追い出されたとか言っていたのは覚えている。
「あとさ、家のことなんだけど、どうして追い出されたの?」
「お兄ちゃんに彼女ができたから」
 稚由美の口ぶりには棘があった。
「え?」
「実家から離れて、こっちでお兄ちゃんと二人で暮らしてたの」
 つまり、家というのは実家でなく『兄の家』だったのか。妹を追い出したのは都合が悪くなったから? それまでやつは妹に対して何をさせていたんだ。
 ――大好きな人に裏切られて、捨てられたばかりなの。
 稚由美がはじめに口にした言葉。……嘘だ。俺はこの子に全身をなめられたんだぞ。この子がなめたのは単なる汗かもしれないが、俺はあの舌に尊厳を揺るがされたのだ。あのとき俺の体から剥がれ落ちたものは大きかった。
 元凶はわかった。いまさら俺は誰を恨む気持ちはない。ただ、もう少し確かめたい。
「お兄ちゃんの写真って持ってる?」
「あるよ」
 稚由美はバッグに小さなアルバムを入れていた。白い指が差した男は、稚由美より二、三歳上だろうか、やさしい雰囲気の男だった。小太りなのがどうも気になる。アルバムをひと通り見るとだいたい二人で撮った写真が多い。前もって兄と知らされていなければ、どう見たって彼氏だ。
 最後のほうに入っていた数枚の中で、彼は赤いパーカーを着ていた。間違いない、こいつだ。
「この服ね、稚由美がプレゼントしたの」
 と横から稚由美が付け足した。可愛らしい舌先をのぞかせる。
 俺は沈痛な思いで顔を上げ、トリュフを一粒口に運んだ。甘い。――苦しいほど甘い。
「ちなみに、お兄さんてバイク持ってる?」
「うん。ホンダのカブ」
「ありがとう」
 サイドミラーには、少し離れてピッタリ併走する一台のカブがずっと映っていた。こんな寒い時間に俺たちを追って――ヘルメットと黒いジャンパーのすき間から飛び出たパーカーのフードが風になびいて赤い舌のようにぶるぶると震えていた。
 追うなら本気で追って来い。俺には言いたいことが山ほどある。
 人間の舌は、思いを伝えるためにあるんだ。
 俺はココアパウダーにまみれた指をかじるようになめ、ハンドルを固く握り締めた。

(おわり)




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