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| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |

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| 「アルテミシアの聖櫃」 |
布と毛が撫で合い、擦る擦るという音が耳穴を衝く。
夏風に賑わう葉影を解かして降り注ぐ真昼の残興が視界から消えていた。
生気のない灰色の天井。灰色の壁。
舞阪理沙は顔を歪めた。
裸だった。見慣れた乳房が無為に遊び、硬い空気に晒されている。
慌てて体を動かすと、背中に激しい痛みが噴き出した。腰から崩れ落ち、コンクリートの真ん中に横面を強打する。手首は後ろに攫われて手錠が架かっている。足首も手錠で繋がれていて、膝頭からは血が滲む。
「もう安心ですよ」
後ろから知らない男の声がした。振り返ろうとしても首の筋が拒絶する。理沙の喉から泥のような呻きが漏れた。
すると、男は「大丈夫ですか?」と冷静に声を掛けてきた。
理沙は訳も解らず首を振り、頬が床に擦れて傷んだ。昂揚して激しく咳き込むと、男は近くに寄り、理沙の胸の下に腕を回した。知らない男の腕が、剥き出しの鋭敏な肌を這う――唐突のあまり理沙は悲鳴を上げた。
天地が廻る。一面灰色の四角い部屋。とにかく物がない。木製の画架とキャンバスが一組、そして椅子が一脚。理沙が寝ている間この男は何をしていたのか想像し難い。
それにしても、どこで何がどうなったのか。車に乗っていた友達は――、路上で絡んできた若い男達は――すべてが消えていた。
男は理沙をきちんと座らせ、目の前に腰を屈めた。理沙はこのとき初めて相手の顔を見た。やはりまったく知らない男だった。眉毛が濃く、厚ぼったい唇、団子鼻の周りに大きなホクロが三つ。理沙よりはずっと上の年格好。襟のしおれた灰色のポロシャツ。
「申し遅れました、私は三船と言います」
男は粗野どころか、丁重で冷静だった。理沙は裸で両手を縛られ殆んど身動きができない。この男はなぜただ見ているだけなのか。まさかこの男がやったとも思えない。
「これを外してください!」
理沙は痛む体を揺すって叫んだが、三船は唇をつんと尖らせた。
「うん、まあ、その前に少し聞いていただかないと」
「早く外してください! お願いします!」
すると三船は眉根を寄せ、悲しい顔をした。
「すいません。鍵を持ってないんです」
「せめて服を……」
「申し訳ないけど、暫らくそのままでいてください」
いったい何が起きたのか、理沙の傷想は暗い泥濘の渕から湧き出すように戻りつつある。山間の県道を、友達三人を乗せて車を運転していて、ガードレールにこすったような感じがして、気になって車を下りてチェックしていた。そこに突然後ろから若い男達が詰め寄ってきて――だが、そこまでが限界だった。
「貴女、もう少しで殺されるところでしたよ」
三船は丁寧にそう告げた。
「なんで……」
「なんで? ああいう連中は本気で手を掛けますから。まして貴女は」
理沙は三船の言葉を遮った。
「えっ、なら、あいつらは……?」
「ああ、もちろん捲きましたよ。今頃、まだ必死で貴女を探してるでしょうね。警察も出てるんじゃないかな」
三船は平然と物を言い続けた。理沙は恐怖を通り越して半ば茫然としていた。無理に体を動かさなければそれほど痛みもない。ただ口の中に生温い血の脈圧が拡がっていた。理沙は我慢できず、相手に顔を背けて真っ赤な唾を床に吐いた。
しかし理沙はとりあえず相手が恩人と分かり、ほんの少し甘えが生まれた。
「あの、私、家に帰りたいんです」
「ええ……でも、私は貴女の家を知らないし、その格好じゃあ」
理沙はこうしている間もずっと素肌を三船に晒している。あの連中に何をされたか分からないこの体。三船はなぜこうも悠々と喋り続けるのか。
「ご迷惑ついでにお願いします。警察を呼んでもらえませか」
「いや――しかし、この場所がばれたら彼らに捕まるかもしれませんよ」
突然組みかかって来た無数の手が蘇る。逃げる腕を掴まれ、おい、こっちへ来いと乱暴に引っ張られた。振り解こうと抵抗した時、男の一人に顔を叩かれて唇が切れた。
しかし、ああいう連中はいつまでも執拗に一人を追うだろうか。あまり根拠はないが、理沙はそう思えなかった。
「とにかく呼んでください。その時は警察に保護してもらいます」
「はあ……なるほど。ただ、電話線引いてないんです。ここは」
「えっ。あの、何とかなりませんか?」
理沙は携帯電話で――と手許を探したが、バッグが見当たらなかった。車に置いたままになっている。三船が通りかかった時の様子が理沙の脳裏で生々しく像を結んだ。
溜め息がこぼれる。それを追うように三船は淡々と続けた。
「それに警察を呼びに行くわけにも行きません。私は――指名手配中ですから」
呼吸がひとつ跳んだ。
喉元で苦慮する理沙に対し、三船は真っ正直な優しい視線を合わせてくる。
「とにかく、ここにいれば安全です。その代わり暫らく絵のモデルをやっていただきます。絵が完成するまで貴女は帰れません。――意味は分かりますね?」
無機質な画架とキャンバスが視界の隅に触る。
「はっ? ちょっと意味が……。いつ完成するんですか?」
「それは私にも分かりません。私だって捕らわれの身ですから」
理沙は相手の言葉が徐々に理解できなくなっていた。芸術の虜とでも言っているつもりだろうか。
「ちょっと、本気で言ってるの?」
「アトリエの法律は、すべて画家の手にあります」
「いやっ、帰してよ! ねぇ、ここから出して!」
三船は困ったという顔をした。黒い眉毛が蟲のように蠕動する。
「だから、私自身は法の執行人ですから――」
すると言葉の途中で、突然部屋の照明が落ちた。理沙は悲鳴を上げ、怯えて横様に突っ伏した。泥を塗り固めたような粗いコンクリートの表面に全身の水分が奪われるような感触が襲う。部屋は完全な暗闇でなく、輪郭が分かる程度の小さな灯りが残っていた。
三船は目を細め、唸りながらに腰を上げた。
「やれ、もうガス欠ですか……。さっきは無抵抗だったからなぁ」
頭上から覆い被さる三船の黒い影。充血した眼球の白さが、裸の理沙を睨み下ろしている。
「さて。できる限り抵抗してくださいね。それが貴女のためですから」
闇に並ぶ歯は、あくまで穏やかな口調で最後にそう言った。
三船は理沙の腕を掴んだ。じとりと熱い手の平。
理沙は咄嗟に身を固め必死で這い回ろうとしたが、逃げられる範囲など赤ん坊ほども許されない。理沙は強烈な力で引き戻され、椅子の脚に側頭部を打った。網膜に黒い火花が舞い散る。
その隙に毛の生えた腕が腰に回り込み、膏汗の匂いが鼻先に迫った。
理沙は激しくむせ返し、唾液混じりの咳が空しく宙に弾けた。理性の限界を叫ぶ距離を越え、密着してくる三船の体。引き剥がそうと肩をよじって必死に反復する。団子蟲のように頭を屈めて、何とか押し返せないものか。
しかし荒れ狂う波風のように圧倒的な力が幾重に押し寄せ、剥き出しの臨界点を撃ち破った。三船の堅い意志が侵入してくる。朧ろな闇の中心で、全身を引き裂かれんばかりに理沙の絶叫が轟いた。
やがて理沙の意識は、灰色の四角い海の狭間に再び墜落した。
◇ ◇
男は一心不乱に絵筆を動かしている。薄暗がりに画架や椅子が無数に居並ぶ教室に二人きり。
「先生、人は芸術のために死にますか」
キャンバス越しに少女は問う。
「ダリの妻ガラは、夫と出逢った最初に『私を殺して』と言ったという」
男は筆を緩めた。
「しかし私は死の憧憬より、生に対する執着こそ最も上質なパッションではないかと思う。つまり、揺るぎない理性への信奉が肉体の干渉に屈しようとする瞬間の煌めきだ」
少女は何も答えない。
「アルテミシア、君は理性的だ――。私の前で、余分な物を纏うのはもう止めなさい」
「はい」
「君は、まだ私を疑うかい」
「いえ」
「猜疑心の強い女を犯すのは、どんな気分だと思う?」
「――解りません」
「穴から土竜を引き摺り出して、手掴みで捻り潰すようなものだよ」
男の筆は、再び絵の具を手荒く掬った。
「先生、土竜は芸術のために死ぬのですか」
少女の目は怯えていた。
「違う。それでも生き続けるのだ」
◇ ◇
擦る擦ると筆の走る微かな音――
幻聴か真実か、理沙の耳にはそれを判別する余地など残っていない。半解凍のように脱力し麻痺した裸体。切れた唇の端が脈打ち続けている。凝固した粘着質の塊は理不尽な鉄の味がした。
部屋が明るい。灯りが元に戻っている。
三船は椅子から立ち上がり部屋の隅へ歩いて行った。よれたズボンのポケットから鍵を取り出し、壁と同じ灰色のドアを開けた。三船の肩越しに薄暗い部屋が見える。三船は後ろを確かめずそのまま戸の陰に消えた。
理沙がこの隙にキャンバスを覗こうと足掻いていると、三船は早々と戻ってきた。ドアを閉ざす冷たい鍵の音。手には二枚の茶色いプレートを持っている。
「さ、食事です。起きてください」
理沙は、起きろと言われなくても起きた。床に伏していること自体が屈辱の延長なのだ。それにしても食事が喉を通るはずがない。目の前にいる男に蹂躙されたのだ。何の施しのつもりか。帰す考えは毛頭ないらしい。言いたいことは山ほどあったが理沙は胸の中に隠した。
三船はプレートを理沙の前に置いた。中身を見て息を飲む。コンビーフとミックスベジタブルと水。たったそれだけだった。理沙は悔しさのあまり、背中に磔られた拳を固く握り締めた。三船の手許を見ると、それもまったく同じ中身だった。これを食事と呼ぶ神経。腐っている。何がアトリエの法律だ。ネジが切れている。
ネジの切れた男は椅子に座って食べ始めたようだ。キャンバスを間に挟み、相手の様子が分からない。黙々と野菜の粒を噛み潰す湿った音だけが耳に触れる。
改めて見ると、ミックスベジタブルから一応湯気が出ていた。向こうの部屋に電子レンジでもあるのだろう。冷静に考えれば、これを食べるには手錠を外してもらわなければ無理だ。気を取り直し、理沙はできる限り棘のない口調で三船に尋ねた。
「……すいません、これを外してもらえませんか?」
三船はキャンバスの陰から団子鼻を覗かせた。
「えっ。だから、私は鍵を持ってないんです」
「いや、でも」
「本当です。鍵はオーナーが持ってますから」
「オーナー? だれ?」
理沙はつい荒っぽい口調が出た。三船は気に留めるふうもなくただ首を振る。
「知りません。この家の持ち主です」
「どこにいるんですか?」
すると三船は手を伸ばし、壁を指差した。
「あの壁の向こうです」
それはドアのある面の隣りだった。この一面だけ小さな穴が目線の高さに等間隔で横一列に並んでいる。最初は模様のように感じたが、小さな突起のようだ。
「壁に細いパイプが埋め込まれてます」
訊くより先に三船は答えた。
「パイプ?」
「ええ。オーナーはあの穴からこっちの様子を見ているんです」
理沙は思わずその壁に近付こうとした。しかし手錠が発作的に神経質な金鳴り声を上げ、理沙が自力で知ろうとする行動の限度を通告された。
「オーナーの姿は、私も見たことがありません」
三船は水を一口含む。さて喋るぞ、という意思表示のつもりだろうか。
「画家は、オーナーですよ」
と三船は最初に断った。壁の向こうの部屋で大作を描いている途中であると。しかし、オーナーは過去の大きなショックにより、自分の体内でパッションを生み出せなくなった。それで、人間の中に渦巻くリビドーが繰り広げられるライブを目の前で観て、それを自分のパッションに転化する。そういう特殊な体質に変容したのだ――と。
理沙は、三船の口から取り澄ましたような片仮名が出る度に嫌悪感がこみ上げた。
「じゃあ、あなたは……私の監視役なの」
「いえ。絵を描く男の役です」
「私は」
「絵を描く男に、強姦される女性の役です」
画家はオーナーだ、と三船は最初に言った。三船に女を強姦させるのは、そこに自分自身を映しているのか。他人の汗と悲鳴を吸って描く絵の、何が大作だ。
狂ってる。暴漢達から逃げられたところで、終焉の見えない灰色の穴に堕ちた。帰りたい、帰りたい。ただもう普通のリズムで、静かにベッドで眠りたい。
不意に、忘れていた弱い気持ちが噴き出して、みるみると膨らみ破裂しそうに迫った。惨めに裸を晒している恥辱の思いが体の芯に戻ってきた。もう一人壁の穴の向こうでこの姿を凝視していると知ると尚更不安定になった。
「それはオーナーが描き終わるまで続くんですか。私はつまり……その絵のための犠牲者ですか」
「ええ。――私も犠牲者です」
その言葉を二度と繰り返すな。理沙はきつく下唇を噛み締めた。血は止まっていた。
「教えてください。私はどうしてここに連れて来られたんですか?」
「どうして……ハウですか? ホワイですか?」
その返し方が癇に障る。
「理由はさっきの話で大体想像できます。ここへ連れて来たのはあなたなんですか?」
「あ、フウですか。いえ、私じゃありません。多分オーナー自身でしょう。私はここから出られないので分かりません」
「……もういいです」
理沙はこれ以上三船と何を話しても無駄だと思った。いくら気持ちを動かそうとも、三船自身はここから出る理由がないのだ。指名手配中と言っていた。要するに三船にとってここは隠れ家なのだ。同じ犠牲者だと言っても、あの男は結局進んで協力している。たかが一枚の絵が何だ。はっきり逃げられないと言ったらどうなのか。
目の前に置かれた茶色いプレートに目を落とす。突然ひとつ、屈辱的な疑問が頭に降って来た。
「あの、トイレはどこですればいいんですか?」
答えが怖い。この部屋では、理沙は三船の答えを受け入れざるを得ない。
「トイレですか? あのドアを開けて、廊下の左隅にありますよ」
三船は指で差しながら説明した。理沙は悲しい気持ちでそれを静かに見つめていた。そして体をねじり、手錠の音を相手に聞こえるように鳴らす。
「私は……動けません」
「うん。だから、その時は私に言ってください。連れて行きますよ」
分かって言っている口振りだ。悪魔め。
三船は訊きもしないのに、そこは風呂も兼用だと付け加えた。理沙はユニットバスを想像したが、訊いてみるとトイレの蛇口から出る水で体を拭くだけだと言う。理沙は耳を塞ぎたい思いに駆られたが、結局手が届かないのだ。
それから、理沙は暫らく赤い顔で俯いて黙っていた。言い出すべきか、しかし羞恥に耐えられるか、何としても我慢するか。だが生理現象は抑えようがない。それは最初から分かっている。
「トイレに――」
「はあ」
三船はただ返事をしただけだった。
「お願いします」
理沙は自ら発した言葉を呪った。こんなことを他人に乞うなど、保育園で卒業したことだ。重たい息が漏れる。三船は横に立ち、理沙の体を抱えて引き起こした。乱暴なようで、扱いは意外と手早く丁寧なのだ。そして二人三脚のようにドアへと進んだ。
廊下は想像よりずっと短かった。三船は廊下と言うが理沙にはそう思えない。左へ三歩行けば便器があり、右へ十歩も行けば壁に突き当たる。その下をそっと確かめると、足許に鼠でも出入りするような四角い穴があり、蓋が被さっていた。
「あの、あれが……」
「そうです。食事と私の着替えはあそこから届きます」
「私の服は」
「それはオーナーが判断することです。このままで我慢してください」
理沙は鼠の穴から目を背け、便器に腰を下ろした。便座の蓋は三船が気を遣って上げてくれた。もう一度願いを込めて、三船の目を見る。
「手錠を外してください」
「だから私は」「だったら、オーナーに頼んでください!」
無理だ、と三船は答えた。語尾が違って理沙は驚いた。
「どうして?」
「手錠はどうしても必要らしいんです。オーナーのイマジネーションでは」
駄目だ、何も通じない――。三船は気を遣って背中を向けた。
そして理沙は、強姦されるよりずっと最悪の時間を味わった。この調子で延々続けば、いつかこっちのネジも切れてしまう。切れたらどうなるんだろう、と想像すると理沙は激しい動揺を覚えた。
用を済ますと、理沙は再び三船に支えられて部屋に戻った。灰色のドアを開けると、部屋の灯りが減っていた。咄嗟に三船の形相が一変する。
「あっ、しまった!」
三船は構わず理沙の体を引っ張って、画架を置く場所めがけて駆け出した。足がもつれ、手錠の狂騒する音が頭の中身を撹拌する。
「えっ、嘘! ちょっ、嘘でしょ? 痛い痛い!」
部屋の灯りが落ちたら――。
「いいから、さっさと来い!」
三船は語気を荒げ、渾身の力で床に引き倒した。転がった肌が床に擦れて焼けるように痺れる。明らかに人格が違う。理沙の羞恥のすべてを見届けた眼光が、灰色の闇に厳然と浮かび上がる。
「いや、いやだっ!」
「おお、そうだ抵抗してくれ!」
悪意か、善意か――。
一瞬理沙の脳裏に、三船の真意を問う迷いがよぎった。しかし押し寄せる三船の肉体は現実の物体そのもので、理沙の理性の壁を再び粉砕した。
◇ ◇
失神しなかったので、部屋の明るさが戻る間をぼんやり滲む頭で見上げていた。
三船は椅子に腰掛けて頭の裏で腕を組んでいる。スイッチか何かをいじるような様子もなかった。やはり部屋の外からオーナーが調節しているのだろうか。
理沙は仰向けに寝転がったまま、捨てたいくらい無為な時間をただ過ごした。この間にオーナーの筆が進んでいるのだろうか。下らない考えだが、このアトリエの法律で物事を解釈するようになってきているのが少し腹立たしかった。
起きる気力が一向に湧かない。寝転がった姿勢ではモデルにならないと言って起こされるかと思っていたが、三船は微動だにしなかった。モデルなんて意味のない詭弁ということだ。しかし、その結論を得ても前進する力は欠片もない。
理沙は何時間か振りに、うっすらと笑った。
冷たい涙が溢れ、くしゃくしゃの耳たぶに、ぽたぽたとこぼれ落ちた。
そして、二度目の食事もコンビーフとミックスベジタブルと水だった。灰色の世界の中で唯一まともらしい色彩を放つ粒子。しかし理沙は一切口を付けなかった。手錠が外れない以上、どういう格好でこれを食べるか想像すると心底から吐き気がした。三船に頼んで口に運んでもらう姿も許せなかった。
「食べないの?」と三船はキャンバス越しに無神経な言葉を投げてよこす。蹂躙されたのと同じ場所で誰が食事できるか。しかし余計な言葉は噛み潰し、「私は要らないから食べてください」と返すと、三船は普通に受け答えて「私はもう十分」と言った。
帰りたい。
他の友達の顔が浮かんだ。今頃何をしているだろうか。昼なのか夜なのか、せめてそれだけ知りたくて理沙は室内を見渡したが、どこにも時計が見当たらなかった。
「ねぇ、今の時間を教えて」
「分かりません」即答だった。
「そう」
それから理沙はふと、三船は帰りたいと絶対に思わないのだろうか、と考えた。指名手配中と言っても範囲は広い。殺人から窃盗まである。
「あなたは、ここに来るまで何をしてたの?」
んっ、と三船は鼻を鳴らした。そしてキャンバスから離れ、理沙のそばまで近寄って来た。喋りたいらしい。退屈したんですか、と無神経な言葉を掛けてきたが、理沙はそれには何も返さず、みっともない体を何とか起こそうとした。頼みもしないのに、三船は手を貸してくる。
「運転手ですよ」
「え……オーナーの?」
「とんでもない。だから、オーナーとは面識がありません」
確かに、それは何度も聞いた。
「バスの運転手です」
「市営の……?」
「いえ、介護施設の送迎バスです」
意外だった。しかし言われてみると、不自由な人間の体の扱いに手慣れている感じがある。不自由な――理沙は手足に食らい付いた手錠を憎らしく思った。三船の顔を改めて見る。指名手配になるほどの重大事をする人間には見えない。通行人でも轢き逃げしたのだろうか。すると三船は見透かしたように続けた。
「私は車に乗ってない時でしたが、人間を三人死なせたんです」
「えっ、三人も……」
死なせた。また引っ掛かる言い方だ。
「ええ。強盗を追いかけて、路上で捕まえて思い切り殴ったんです。正義漢ぶって」
三船は余計な一言が多い。
「そうしたら強盗はよろけて、近くにいた女性二人を巻き込んで車道に倒れたんです。そこを車がバアッと」
三船は身振り手振りを使って示した。理沙には、その自由に動く両手が疎ましい。
「車が……」
エンジン音が理沙の耳に蘇る。
「大型トラックです。すっ飛ばして、三人を路上に戻しました」
人間が三人飛んだ。カラスのように異質な黒い影が宙を舞い折り重なって、網膜にしぶとく留まった。
「でも、あなたが轢いた訳じゃないでしょ? 何で指名手配なんかに……」
「逃げたからです。過失致死か殺人か、私は専門家じゃないので分かりません。ただ過失なら過失割合というやつをトラックの運転手と分け合わないといけません」
理沙は、過失割合を三ヶ月前に教習所で教わった憶えがあった。
「運転手は……?」
「知りません。私は逃げたんですから、その後のことなんて」
「でも、強盗だって悪いんじゃないの?」
三船は首を振った。平坦な面持ちに険しさが差し、神妙な声の響きに変わった。
「人が死んだら誰かが罪を負うんです。貴女、この言葉が分かりますか?」
「ええ、それは……。誰の言葉です?」
「うん? 誰のって――私ですよ。今言ったでしょ」
眠れない。
全身の疲労が眠りを妨げている。朦朧とする意識が休みたいと叫び続ける。一方で、一筋の理性が逃げろ、考えろと詰め寄る。理沙は空腹も忘れて長く煩悶していた。
強盗を捕まえて殴った、正義漢ぶって――と、このあたりの三船の言葉がどうも耳について離れない。暴漢を倒してここに連れて来たのはオーナーでなく三船かもしれない。そんな考えが湧き、なかなかそれを捨てられずにいた。
本当に人がいるのだろうか、あの壁の向こうに。オーナーの主張はすべて三船の口から語られる。オーナーとは、三船が自分自身の言動を正当化するために生み出した幻想ではないだろうか。
だとすれば、強姦という行為自体が三船の過去のリプレイなのかもしれない。
例えば、車の事故の話は作り事で、本当は強姦事件を起こして指名手配され、この場所を隠れ家にして隠棲生活を続けている。強盗を捕まえて殴ったというのは、何時間か前の救出劇の置き換えかもしれない――と、ここで理沙の思考が止まった。
あれは何時間前だろうか。
確かめようにも、この部屋に時計がない。
すると、理沙は麻酔銃で撃たれたかのように半身をひねり、食事の載った茶色いプレートを探した。ない。いつの間にか三船が片付けたようだ。
野菜から出る湯気。オーナーが別の場所で温めて、廊下の配給口に置く。時計のない部屋にいて、なぜ三船はすぐにそれを持って来られたのか。合図の音がすれば理沙にも聞こえるはずだ。このタイミングは決して偶然ではない。
三船が自分で温めて来たのだ。
理沙は唇を噛んだ。もし目の前にいるのが立法者本人ならば、説得することもできるかもしれない。確証はないが、何かしなければ二度とこの牢獄から出られない気がした。
「ねぇ、あなたはいつまでここにいるつもり?」
しかし三船は何も答えなかった。問い掛けが届いていないのかと思い、理沙はもう一度同じように尋ねた。
「私は時効を待ってるんです」
理沙は、相手がしつこくオーナーの意志を盾にすると予想していたが、意外にも三船本人の意志が返って来た。これまでと少し様子が違う。三船の過去を揺り起こしたのが尾を引いているのかと、理沙は慎重に構えた。
「それ本気で言ってるの? そんなに罪が怖い?」
「私は法廷に上がりたくない。誰も救われない。悲劇が待っているだけだ」
アルテミシアと微かに呟いた。
理沙は初めて耳にする片仮名が理解できず受け流した。それよりも時効や法廷という現実的な言葉を拾えば、歪んだアトリエの外へ意識を追い出せる感触を掴んだ。理沙は一気に立場を変え、語気を強めて返す。
「あなたは逃げたから。でも、私は違う」
暴行を受ければ被害者だ。理沙は正直なところ、証言台に立つくらい何も恐くなかった。三船は分厚い両手で鼻頭を覆った。
「違う――のだろうか。いや……そう、貴女は強い。そして理性的だ」
三船の視線が落ち着かない。どれほど揺れているのか外郭からは掴めない。しかし理沙の覚悟は決まっていた。キャンバスの陰に、悲劇を避けたい一念で人間が築き上げた泥の幻影が霞む。
「もう解ったの。全部あなたの芝居でしょ。いもしないオーナーを語って自分を正当化してるだけ。そうでしょ?」
理沙はひと息に畳み掛けた。三船の呼気が一瞬止む。
「いいえ、すべて本当のことですよ。ここは帰れない人間が集まる聖域なんです」
理沙は執拗に三船が繰り返す、帰れない人間という意図が理解できなかった。理沙は攫われて来たも同然で、ここにいるのも強要に過ぎない。ここは帰りたいと願う者にとって非道な牢獄だと訴え続けてきた。しかし三船は一方的に安全だ聖域だと跳ね返す。どこか話が噛み合っていない気味悪さが理沙を生温い靄に巻く。
「だったら、オーナーは過去に何をしたの?」
弟子の女性をアトリエで強姦した、と三船は答えた。その女性は理性を失って自殺し、家族が訴訟を起こした。この時、オーナーは法の裁きが悲劇しか生み出さないことを直観した。だから、この場所の創造へ辿り着いた――と。三船は穴のある壁面を終始見据えながら、預言者のごとく朗々とした声調で説いた。
「何でも知ってるね。自分のことだから?」
理沙は居住まいを正した。膝の痛みは癒えていた。
「貴女が迷い込むまで、オーナーと二人きり、本当に長い対話をしました……」
まだ穴の空いた壁を讃えている。
「だから、そいつの横暴な行為に協力するわけ?」
「貴女にも帰れない理由があるでしょ」
満たされない欲望を重ねて塗りたくった絵など、完成を見届ける義理はない。理沙は三船の語る歪んだ憂さ晴らしに対して憎しみを募らせた。
「それで縛り付けたわけね? あなたはどうあっても、私は意地でも帰る」
「縛り付ける? だから鍵は――」
お決まりの言葉が繰り返される間隙を衝いて、理沙は兎のように飛びかかった。手足は繋がったままに、体を丸ごと投げ出した。壁に見惚れていた三船の図太い肉体を薙ぎ倒して椅子から転げ落ちる。浮き上がった三船の足が画架を蹴り、その勢いでキャンバスが愚鈍な音を立てて床を打った。
理沙は初めてキャンバスの中身を見た。家と少女と木と太陽と――子供の描いたような稚拙な落書き。まだ色すら塗っていない、ただの鉛筆画。
その時キャンバスと一緒に、小さな四角い時計が落ちた。理沙は言葉を失った。
時間が「分からない」という三船の回答がそもそもの嘘だった。理沙が組み立ててきた抵抗の一端が脆くも瓦解していく。
理沙は三船に馬乗りになりながら、心を砕いて叫び続けた。
「鍵を出して! 手錠を外して! 私は帰りたいの!」
そして、部屋が暗くなった。
理沙は穴のある壁のほうを見た。この向こう側に、情動の嗄れ果てた人物が筆を握って待っている。これからも清心を切り崩してこの欲望の穴に注ぎ込むという役務を思うと、理沙は頭の天辺まで無力感が撞き上がった。
三船は起き上がり、理沙の裸体を面倒臭そうに押し退ける。
「帰る――か。そうか、それが貴女の決意か。貴女は現実世界に戻ったら、そこで法の裁きを受け入れるんだね」
「さっきから何を言ってるの?」
「……自覚がないのかい? 貴女は暴漢の仲間の一人を殺したんだよ」
もう、いい加減ネジが切れそうだ。真意を掘れば掘るほど陰惨な宣告を受け続け、頭が追いつかない。
理沙は襲われた時の記憶の断片を辿った。体中の傷跡を考えても、抵抗をした手触りはある。あの中の一人を突き飛ばして車道に、あるいは林の中に、そういうことがあったかは分からない。しかし。
「待ってよ。私が抵抗して――もし何かあったんだとしても、それは正当防衛でしょ!」
三船は理沙の肩を掴んだ。煮えるほど熱い手の平が。
「違う。襲われる前だよ。車で轢いたんだ」
あの時の衝撃。
「だから、彼らは貴女に詰め寄って来た」
――こっちへ来い。
「外では警察が、貴女の行方を捜してるんだよ」
理沙はこの穴倉へ引っ張り込まれた理由を識った。欲望に積み上げられた最悪の善意。しかし、それを受け入れる意志など理沙には微塵もない。
とにかく現実に帰りたい。たとえ現実に断罪されて傷を背負ったとしても、それは現実で時間をかけて癒される。額縁の中の癒しなど実体なき華燭だ。より深い泥の底へ引き摺り込まれるだけに過ぎない。
そして、詰め寄って来る三船の視線。その目を見て、理沙は渇く喉を痛めて笑った。
「あなた、見てたんだ」
「見てましたよ。だから貴女を」「そうじゃなくて。外に出れるんじゃない」
理沙は仰向けに転がった。疲労の波が堰を切って流れ込み、三船に対する一抹の祈りを支えてきたすべてが押し潰されて泡と弾けた。
「嘘吐き……」
灯りを奪われた四角い世界に二人きり。
理沙は三船の顔をもう直視できなかった。たとえ捻じ曲がった平行線の理屈でも、三船は必ず誠実な態度で答えてきた。しかし取り繕うような嘘の混ざった瞬間に、理沙が懸命にすがりつく一筋の理性は拠り所を閉ざされた。
「猜疑心の強い女を犯すのは、どんな気分だと思う?」
三船の声が闇に漂う。ただもう、知らないと答える以外なかった。
「オーナーは繰り返し私にそう訊いてきた。私はその問いに答えられなかった。私はそれを味わう機会を心待ちにしてた。だから、もう暫らく付き合ってくれないか?」
理沙は涙が止まらなかった。
「……死んだほうがましだわ」
「違う。それでも生き続けるんだ」
壁の向こうから低い鼓動が聴こえた気がした。
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| (おわり)
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