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| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |
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| 「ベルゼブブの子守歌」 |
ベルベルベルゼブブブバァー。
……。
ベルベルベルベルゼブブブブッ、バァ――。
琥珀色の繻子に包まれた赤ん坊が激しく泣き出し、声を聞きつけ、カーテンから小柄な女が飛び出した。
「あなた、やめてと言ったでしょ!」
女は小柄と言えど、それは相手が山のように大きいからだ。全身を黒い剛毛に覆われ、尾は太くうねり、牛のように逞しい四肢、指先には鉤爪が鋭く光る。頭に二本の角を持ち、ぎっしりと敷き詰められた複眼を不機嫌そうに差し向ける――彼こそは蝿の王ベルゼブブであった。
「あやし方がまずかったか」
「違う、何度言ったら分かるの。その羽よ!」
芽吹いた双葉のように雄々しく広がる王の羽は脈打ち震え、大きな音を立ていた。女の訴えに対し、ベルゼブブばかりでなく周りに従える異形の部下たちも顔を見合わせ戸惑いを顕わにしていた。
*
かつて魔王ルシファーに従い、天界と熾烈な戦争を繰り広げた日が懐かしい。ルシファーに全幅の信頼を置かれ、天使の射るいかなる矢をもってしても破れなかった巨大な羽こそが蝿の王の武勲を今に残している。
この戦争で功を収めたベルゼブブは、ルシファーから暗き湖のほとりに巨大な城を賜った。ルシファーは三千本もの稲妻で岩木を削り、ベルゼブブの巨躯に似合う素晴らしい城を一晩のうちに造り上げたのだ――
エリサが城のベッドで目を醒ました時、ロバの姿をしたイタメヤバロは彼女に向かってそう説明した。エリサは二十三歳の事務員だった。だが、仕事の帰り道、不意に空が粗く黒ずんだかと思うと、翌朝には見たことのない豪奢な部屋でローブにくるまれ横たわっていた。ロバが言うには、エリサの服は魔界との境を越えるときに燃え尽きてしまったらしい。お気に入りの髪留めも消え、栗色の髪がむき出しの肩に垂れ下がっていた。
「その服はあたいめが王の命でお選びしたものでありやがる。お気に召したか?」
イタメヤバロ(長いので城の者はヤバロと呼んでいる)はめちゃくちゃな人間言葉で尋ねた。二本足で立つロバを怪訝な目つきで睨む。その背後で山かと思った輪郭が動き、それが自分をさらって来た蝿の王であると知って、エリサは色を失った。
「居心地はどうだ? ここがお前の部屋だぞ。寝覚めの水でも飲むか」
王の言葉に従い、ヤバロは硝子の杯に暗い水をたっぷり入れて持って来た。エリサは沈鬱な瞳でそれを遮る。
「……要らないから。それより早く家に帰してください――」
すると、蝿の王は弱り顔を見せた。
「人間はこっち側から境界を越えて戻ることはできない。骨まで焼けて灰になる」
嘘みたいな言葉の連続に、エリサは思考をあきらめ、力なくうな垂れた。
「なんであたしを連れてきたの……?」
「人間の子供は可愛く笑う、まるで生きた宝石のようだと聞いたのだ。欲しくてたまらなくなった」
つまりは子供を産むまで帰れないのだ、エリサはそう直観した。
それから、吐き気も不安も悲嘆の涙も砂壷のように涸れ果てて、城の空気にようやく抵抗がなくなったくらいの十ヵ月目に、魔界で初の蝿と人間の子が産声を上げた。
赤ん坊は雄であった。出産前、エリサは畸形の子を産む悪夢に毎夜のごとく苛まれ、食事も睡眠もままならず、いっそ彼らと同類になりたいとさえ思った。しかし、両手両足をゴムみたいに伸び縮みさせる真新しい命を見ると、何か違う感傷が心の隅からこんこんと湧いてきたのだ。エリサが笑うと赤ん坊も声を上げた。羽や角はあるものの、外見は人間と近かったことも不安を少し和らげてくれた。
一方、十ヵ月という異様な長さに痺れを切らし、誕生を待ち侘びていたベルゼブブは、一度にたった一人しか産まれなかったことにひどく驚いた。だが、エリサにとってはそれで精一杯だった。
*
ベルベルベルゼブブブバァー。
繻子に包まれた我が子をベルゼブブは面白げに覗きこみ、鉤爪で傷つけぬよう慎重に抱き上げた。ズビビと大きな羽が震える。この機敏な羽はベルゼブブの脳神経と直結している。感情が刺激されると背中の羽が騒ぐのだ。父親の腕に抱かれた赤ん坊は凄まじい勢いで泣き続けていた。
「やれま、お元気な音を立ててらっしゃいますじゃが」
ロバ顔のヤバロが素っ頓狂な口調ではやし立てる。ベルゼブブは満足げに頷いた。
「なあ、エリサ。チビを庭へ連れ出してみていいか。もうそろそろ飛ぶだろ」
「飛びません! まだ生まれて一ヵ月です。お願い、無茶はやめて」
エリサはヒステリックな声を上げ、返してほしいと腕を伸ばした。
「ひと月も経ったんだぞ。ほら、このチビも元気に羽を鳴らしてるじゃないか」
「それは羽音じゃありません。泣き声です!」
「羽音じゃないのか?!」ズビビビ。
ヤバロたちが下がると、エリサはカーテンを開け、ベルゼブブを浴槽に導いた。湖から水を引き、病葉をたっぷり浸した癒しの湯。エリサはこの湯で王の背中を流すのが十ヵ月来の役目であった。浴室の湯気に二人きりの影が揺れる。
ベルゼブブの羽には幾千という天使の矢が遺した光の焦げ痕がある。普段は羽を震わし部下たちには見えない。だが、湯浴みで羽を止める間、王はエリサにだけそれを見せるのだ。熱い湯を杓子ですくい掛け、エリサは指で丁寧にその焦げ痕を撫でていく。戦争で大勢の部下たちを守り抜いた羽。自分を異界へ連れてきた猛々しい翼――。
「お前たちは、この羽音が嫌か」
不意にベルゼブブが背中で尋ねた。お前たちという表現がエリサの胸をちくりと刺す。
「ううん、あたしはもう……馴れたけど」
エリサはベルゼブブと二人きりだと言葉遣いも変わった。群雲がゆっくり動き、稲妻で切り抜かれた岩窓から赤い月の光が差し込む。
「俺はあの子に近寄らないほうがいいか」
「――同じ親に向かって子供から離れてなんて、あたしは死んでも言えないよ」
湯をすくうエリサの手が止まり、代わりに小さな溜め息が漏れた。
「あの子は半分ずつの血があるのよ。姿を見るだけなら平気なの。それはたぶんあなたの血。でも、羽の音を聞くとすごく怯えるの。たぶんそれは……」
「人の血か」
「……半分は王様の血。もう半分は弱虫の血なのよ」
「弱虫とはお前のことか」
エリサは何も答えず、広い背に黙々と湯を差し続けた。
その夜遅く、エリサが眠りに就こうとすると、北向きの窓から覗く城の塔に巨大な王の姿と一群の部下の集まりを見つけた。湖は波ひとつなく、城へと濃い霧を送ってくる。窓辺から目を凝らすと、仄白い気脈を引き裂くような恐ろしい咆哮が天に伸び、城を震わせた。
塔から大きな物体が転がり落ちて、湖面に没した。水音が飛沫の一粒まではっきりと聞こえる。そして時を待たず、歪んだ月を映す水面が艶めく緋色へ染まっていった。
エリサは慌てて踵を返し、赤ん坊を抱いて部屋を飛び出した。暗く長く入り組んだ廊下をこれほど厭だと思ったことはない。何事かと騒ぐ異形の者たちを掻き分けて、エリサは北の塔へと急いだ。腕の中で赤ん坊が泣きわめく。ローブの裾がはだけ、足の裏が傷んでも構うことなくひたすら走った。
塔の入口には有象無象の部下たちが不安げな様相で、固く閉ざされた門扉にへばりついていた。エリサの姿を見ると一斉に道を開け、じっと固唾を飲んだ。
「あなた、あなた!」
エリサは力一杯扉を叩いた。
「早まらないで! お願い、ここを開けて!」
しかし、その悲痛な叫びは外へ届かなかった。ごおおお……と強い風がうなるように、二度目の咆哮が起こった。すると、扉の内外でひしめく部下たちもまた呼応するように不気味な声を上げて嘆いた。やめて、やめて――そんなふうに責めないで! エリサは扉にしがみつき、息を切らしながら白い指で動かぬ錠前を必死に掻きむしった。爪の悲鳴が、赤ん坊の叫びと重なる。
「あたしは……だって……」
静けさの戻る扉の向こうへ届けとばかり、エリサは大声で夫を呼んだ。二度、三度と、その声が聴こえるまでずっと――
「エリサか。こっちへ来い」
その一声で門は開いた。
ベルゼブブは巨大な塔を背に鎮座していた。蜥蜴の血とベラドンナの根を擦り合わせた妙薬を背中に塗らせながら、ただ厳粛に落ち着いた眼差しで。天をも覆ったあの巨大な羽はもはや存在しなかった。蝿の王たる象徴は暗き湖の底へ沈んだのだ。
エリサは膝をつき、その場にしゃがみ、とめどなく泣いた。弱虫の血を恨み、自分の軽々しさを憎んだ。
「泣くな」ベルゼブブはまた弱り顔で小さな妻へ歩み寄る。「涙は相手に何かを伝えたくて流すのだろう。人間というのはそうだと聞いた。だが、いくら泣いても俺はそれがどんなものか分からないんだ」
王が黙ると、赤ん坊の声だけが暗い湖畔に遠くまで響き渡った。
「……なんだ、チビもまた泣いてるのか。俺の子なのに、お前も泣くのか」
ベルゼブブは妻の肩を撫で、ヤバロに命じ上着を掛けさせた。エリサは一人で立ち上がり、赤く腫らした目許をこすった。
「でも、羽まで――」
「羽など要らぬ。それよりもお前が抱いている姿が羨ましくて仕方ないんだ。どうだ、これでチビも泣くまい。エリサ、俺もお前みたいに寝顔のチビを抱けるだろうか」
エリサはその言葉に、息を殺し涙をこらえた。何度も何度も頷き返す。
「あたしは……寝顔を蹴られたことだってあるのに」
「誰にだ」
「ううん、もう昔の話――」
湖面を伝い塔を昇る夜風が、この城で静かに暮らせと囁きかける。エリサは我が子をきゅっと抱き締めた。母の血潮を伝えると、赤ん坊はすっと安らいだ。父親は窮屈そうに身を屈め、妻の手から赤ん坊を受け取った。
やがて部下たちが塔からすべて姿を消す間に、赤ん坊は父親の腕の中で赤い月夜に照らされて、すやすやと愛らしい眠りに落ちた。
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| (おわり)
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<あとがき>
本作品は、『第11回 Short Story FIGHT CLUB』(以下FC11)にて、銅賞をいただいた作品です。読んでくださった皆さま、投票してくださった皆さま、並びにFC編集部の皆さまには深くお礼申し上げます。
さて、作者評ですが、冒頭の“子守歌”と、ラストシーンの落差を楽しまれた方、違和感を覚えられた方、さまざまだと思います。異界の王の話と言えど、女を攫って子を孕ませて、静かに暮らせとは何事かと気が咎めた方もいらっしゃるように思います。
本作を書くにあたり、私の頭の底にあったのは、荒馬に乗った野蛮な騎士が村の娘を攫っていく西洋の宗教画でした。現代社会では受け入れがたいことですが、それもかつての歴史の一部分ではあります。もちろん、そうした作者の思惑を背負った王の羽を殺ぎ落とすことで、贖罪になるという意味ではありません。
しかし、ファンタジーは必ずしも日常の価値観に則した世界とは限りません。「蝿の王の住む城」という舞台にできる限りリアリティを出すため、現代社会の論理とある程度切り離し、完全な“異世界”として構築したいと考えました。そして、異なる価値観の世界にも子を慕う親の気持ちは相通ずる――今の世を見れば、まぶしすぎるくらいのヒューマニズムかもしれませんが、私が書きたかったのはその一点です。
今回、FC11の感想板で指摘いただいた部分を踏まえ、一部改稿をしました。暗き湖畔に立つ巨大な孤城。それを包む圧倒的な静寂と、ふたりの親がそれぞれの想いで拠り所にする赤ん坊の安らかな寝顔に、「静」というテーマを感じ取っていただけたら幸いです。

お読みくださいまして、誠にありがとうございました。
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